法に従う義務
(a)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従うべきか。(b)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従うべきか。(c)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従うべきか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
(1)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従う
(a)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。
(b)彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。
(b)彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。
(c)もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。
(2)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従う
(a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。
(b)裁判所のごとき有権的な機関が、制度的決定を下せば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。
(3)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従う
(3)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従う
(a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。
(b)もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。
「私が問おうというのは、一市民として彼がとるべき適切な道は何か、換言すれば、我々が 「ルールを守ってきちんと行動し」ていると考えるのはどんなことかである。それは決定的な 問いである。何となれば、もし彼が自己の意見からみて、我々が彼はそうするべきだと考える ままに行動しているのだとすれば、彼を処罰しないことは不公正ではありえないからである。 大部分の市民がそれについて容易に一致するような明白な答えは存在しないし、そのこと自 体意味深長である。しかしながら、もし我々が自らの法的な諸制度及び慣行を探究すれば、我々は、若干の関連する根本的な原理及び政策を発見するであろう。私は上の問いに対して三 つのありうべき回答を提示し、次いでこれらのうちどれが我々の慣行及び期待に最も良く適合 するかを示すよう努めるつもりである。私が考慮したい三つの可能性は次の通りである。 (1)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。そして、もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。 (2)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。しかし、彼が自己自身の判断に 従ってよいのは、裁判所のごとき有権的な機関が、彼または他の誰かに関わる事案において彼と違った決定を下さない限りにおいてのみである。ひとたび制度的決定が下されたならば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。(理論上 は、この第二の可能性については更に多くの場合分けができる。我々は、事案が控訴されない 場合には、司法制度内の最下級審を含む、いかなる裁判所の反対の決定によっても個人の選択 が封じられることになるということができよう。あるいは、我々は、何らか特別の裁判所ない し機関の決定を要求することができよう。私は、その最もリベラルな形態におけるこの第二の 可能性、すなわち個人は、当該争点に関して判断する権限をもった最上級審、徴兵制の事案で あれば合衆国最高裁の反対の決定があるまでは、適切に自己の判断に従いうる、ということに ついてのちに論じるつもりである。) (3)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、 その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。何となれば、我々の法制度 の確固とした一部である先例の法理は、裁判所の判決が法を「変更する」ことを許容する効果 をもつからである。たとえば、一定の形態の所得に関しては納税義務はないと信ずる一納税者 がいるとしよう。もし最高裁が反対の決定をするとすれば、彼は、租税に関する問題につき最 高裁判決に大きなウエイトを与える慣行を考慮に入れ、最高裁の判決はそれ自体状況を決定づ けたのであり、法は今や彼に税の支払いを要求している、と結論すべきである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.281-282,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
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