内なる砦への退却は自由ではない
外部的な要因は、自分では思い通りに支配できないというのは事実である。しかし、自分を傷つける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。この世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないが、我々は現実を受け入れて進むのが、より自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
「禁欲的な自己否定は誠実さや精神力の一源泉ではあるかもしれないが、どうしてこれが自 由の拡大と呼ばれうるのかは理解しがたい。
もしわたくしが室内に退却し、一切の出口・入口 の鍵をかけてしまうことで敵から免れたとした場合、その敵にわたくしが捕らえられてしまっ た場合よりはたしかにより自由であるだろう。
しかし、わたくしがその敵を打ち負かし、捕虜 にした場合よりも自由であるだろうか。
もしもそのやり方をもっと進めて、自分をあまりに狭 い場所に押しこめてしまうとしたら、わたくしは窒息して死んでしまうであろう。
自分を傷つ ける可能性のあるものをすべてとり除いてゆくという過程の論理的な到達点は、自殺である。
わたくしが自然的世界に生存するかぎり、完全ということは決してありえないのだ。
この意味 における全面的な解放は(ショーペンハウアーが正しく認めていたように)ただ死によっての み与えられるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然 性』),3 内なる砦への退却,p.40,みすず書房(1966),生松敬三(訳))