言語と文化、社会、経済、政治構造
言語形式が人びとの精神に至る鍵であり、様々な社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵である。ある特定の言い回し、ある言語の用法と構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、有機的な連関を持っている。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
「アガメムノンもヤペテも(彼らは「神々の」時代に属している)、それぞれ娘を犠牲に献 げたのは、誓いの言葉を発すること自体が、自然の因果と等しい力を持ち、言葉は、まさにそ れが口から出たことによって現状を直接に変更した(また変更せずにはおかぬ行為と認められ た)が故である。ヴィーコの考えでは、言葉がこのように機能し得る社会は、言葉がただ叙述 し、説明し、表現し、祈り、命令し、若干の言葉遊びを行うなどの用途にしか使えない社会と は、全く異なった具合に、見、感じ、考え、行動するに違いない。 この説が――その他のヴィーコ独特の仮説のどれにしても――正しいかどうかはさして重要では ない。重要なのは、それらによって彼の成し遂げたところである。彼の発生論による語原説や 言語学は、大部分明らかに誤っていたり、ナイーヴであり、また奇想天外である。しかし、言 語形式が言葉を使う人びとの精神に至る鍵であり、さまざまな社会の精神的・社会的・文化的 な全生活への鍵であるという、含みの多い革命的真理を把握したのは、わたしの知る限り、 ヴィーコが最初であったことも同様に明らかである。ある特定の言い回し、ある言語の用法と 構造とが、特定のタイプの政治・社会構造、宗教、法律、経済生活、道徳、神学、軍事組織 等々に、必然的、「有機的」な連関を持っていることを、彼はそれまでの誰よりも、(1世紀 半前の)偉大なヴァルラやその弟子たちよりも、遥かに明らかに看取したのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,ジャン・バッティスタ・ ヴィーコの哲学上の諸観念,第1部 全般にわたる理論,5,pp.119-120,みすず書房(1981),小 池銈(訳))
アイザイア・バーリン (1909-1997) |