合理性の観念をめぐって
西洋の知的伝統として、創造的だが混沌をはらんだ衝動、欲望、感情を制御するのが理性とされてきた。ヒュー ムは、合理性は規範や価値とは区別され、理性は目的・価値の手段と明確に述べた。官僚制は手段である。目的は何か。市場は事実なのか。ある価値が合理性を僭称しているのではないか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))
「西洋の知的伝統の傾向として、人間の理性の力は、なによりもまず、わたしたちの低劣な 衝動を制約する方法とみなされてきた。この想定はすでにプラトンやアリストテレスのうちに みいだしうるが、魂についての古典理論がキリスト教やイスラームに応用されたとき、きわ だって強化された。そう、わたしたちはだれも創造性と想像力の力能を有しているのとおなじ く、動物じみた欲動と感情を抱えている。しかし、これらの衝動は[総じて]究極的には混沌 としたものであり反社会的なものである。個人においてであろうが政治的共同体においてであ ろうが、理性とは、わたしたちの低劣な本性を、それがカオスや相互破壊にいたりつくすこと のないようたえずチェックし、その潜在的に暴力的なエネルギーを抑圧し、水路づけし、封じ 込めるものである。それはモラルの力なのである。政治的共同体とか合理的秩序の場を意味す る、ポリス polis[都市国家]という言葉が、たとえば、「礼儀正しさ(politeness)」 や「警察(polis)」とおなじ語源を共有しているのは、このためである。その結果、また、 この伝統にはつねにある感覚が潜伏することになった。わたしたちの創造性にかかわるもろも ろの力能には、少なくともどこかしら、悪魔的ななにかがあるにちがいない、と。 ここまで述べてきたような、官僚制ポピュリズムの登場は、このような合理性の観念の――あ たらしい理念への――完全な反転である。そのあたらしい理念については、デヴィッド・ヒュー ムによる要約がもっともよく知られている。「理性は感情の奴隷であり、奴隷でのみなければ ならない」。この観点からすれば、合理性はモラリティとはなんの関係もない。それは純粋に 技術的事象である。道具であり、機会であり、それ自身は合理的に評価することはできな諸目 標を、最大に効果的に達成する方法を推論する手段なのである。理性は、わたしたちになにを 望むべきかを指示することはできない。それが指示することができるのは、ただ、わたしたち の望むものを獲得する最良の方法のみである。 どちらの見方にせよ、理性はいずれにしても、創造性、欲望、ないし感情の外部にある。か たや、そうした感情を制約するように作用し、かたや、促進するように働く、という点で異な るわけだ。 この論理をもっとも遠くまでつきつめたのが、経済学というあたらしい学問分野であるとい えよう。しかしその論理の根は、市場のみならず、少なくともそれと同程度には、官僚制にあ る(そして想起しなければならないのは、ほとんどの経済学者があれこれの大規模な官僚組織 のお雇いであるということであり、これまでもつねにそうであったことである)、手段と目的 のあいだ、事実と価値のあいだに厳密な区別をつけることができるという発想そのものが、官 僚制的心性の産物なのである。というのも、官僚制とは、ことをなす手段を、それがなんのた めになされたのかということから完全に切り離されたものとして扱う、最初のそしてただひと つの社会的制度だからである。このようにして、官僚制は事実上、長期にわたって、世界人口 の少なくとも大多数の日常意識に埋め込まれてきたのだ。 しかし同時に、合理性についてのもっと古い考え方が、完全に消え去ったわけではない。反 対に、この二つの考え方は、ほとんど完全に矛盾するにもかかわらず――たえず摩擦を起こしつつではあるものの――共存している。その結果、わたしたちの合理性についての観念そのものが 奇妙にも一貫性を欠いたものとなったのである。この言葉の意味がいったいどのようなものと 想定されているのか、まったくもってあきらかではない。ときにそれは手段である。ときにそ れは目的である。ときにそれはモラリティとはなんの関係もない。ときにそれは正しいこと、 善であることの本質そのものである。ときにそれは問題解決の方法である。そきにそれは、す べてのありうる問題への解決そのものである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,3 規則のユートピア、あ るいは、つまるところ、なぜわたしたちは官僚制を愛しているのか,pp.232-233,以文社 (2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))