労働は他者を助ける限りにおいて善
価値があるとされる労働規律への服従は、人間を駄目にする。では、労働の道徳性とは本当のところ何なのか。これに対する答えは明快だ。労働は他者を助ける限りにおいて善なのである。ここから新たな可能性が開かれる。経済などではなく、相互的創造プロジェクトとしての労働。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))
(a)監視、管理等の労働規律への服従
監視、管理や野心的な自営業者の自制心ですら、労働規律への服従は人をより良く
はしな い。それは人をダメにするうえで最もいい方法なのだ。規律を課されることは不幸であり、せ いぜい、時たまやむを得ないことがある程度である。
(b)労働は他者を助ける限りにおいて善
労働の道徳性とは本当のところ何なのか。これに対する答えは明快だ。労働は他者を助ける限りにおいて善なのである。
(c)技術的発展によって監視、管理等の労働規律の廃止へ
技術的発展がさらなる消費財の生産や労働の統制に向かうのではなく、監視、管理等の労働規律への服従を要するような形態の全面的な廃止に向かうことが可能となる。
(d)労働は経済ではなく相互的創造プロジェクト
労働の基本形態が、生産ラインや小麦畑、製鉄場、オフィスの一区画で働くようなあり方をやめ、代わりにケア労働や援助労働、母親や教師や介護士のようなあり方になると、どうなるだろうか。労働は、経済などではなく、相互的創造のプロジェクトに資するものになるだろう。
「研究2 労働とは何か?
労働規律(監視、管理、野心的な自営業者の自制心ですら)への服従は人をよりよくはしな い。それは人をダメにするうえで最もいい方法なのだ。
規律を課されることは不幸であり、せ いぜいときたまやむをえないことがある程度である。
いつの日か、われわれがこんな労働自体 が不道徳だと拒否したとき初めて、労働の道徳性とは本当のところ何なのかを問うことができ る。これに対する答えは明快だ。
労働は他者を助ける限りにおいて善なのである。
生産性至上 主義の廃棄が労働のあり方を改めて想像することを可能にしてくれるのであり、何よりも、技 術的発展がさらなる消費財の生産や労働の統制に向かうのではなく、労働のこうした形態の全 面的な廃止に向かうからだ。
こうして残るのは人間的な労働だけになり、僕がこれまで論じたような最初にOWSを始動さ せるとき中心となった労働、つまりケア労働や援助労働のような形態をとる。
労働の基本形態 が生産ラインや小麦畑、製鉄場、さらにはオフィスの一区画で働くようなあり方をやめ、かわ りに母親や教師、子どもや介護士のようなあり方になると、どうなるだろうか。
本当に人間ら しいビジネスは「経済」(この概念は300年前には存在すらしていなかった)と称されるもの ではなく、誰もがこれまでもつねにやってきたような相互的創造のプロジェクトに資するもの だという結論に至るだろう。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.333-334,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))
デヴィッド・グレーバー (1961-2020) |