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2022年2月24日木曜日

17.政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

効率性や合理性、技術的有効性とは

政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「グローバル・ジャスティス運動が教えてくれるひとつのことがらは、政治は究極的には価 値にかかわるものであること、とはいえ、巨大な官僚制システムを構成する人びとがその価値 が本当にはなんなのかを認めることはほとんどない、ということである。

このことは、現代の カーネギーたちにもあてはまる。ふつう、かれらは――20世紀の変わり目の泥棒男爵とおなじよ うに――、みずからの行動を効率性や「合理性」のもとに正当化するだろう。しかし、実際に は、こうした言葉はつねに、故意にあいまいにされている、あるいは無意味なものにされてい ることがわかる。

「合理的」人間とは、基本的な論理の結合をなすことができ、現実を錯乱し ていない仕方で評価できるような人間を指す。いいかえれば、イカれていない人間のことであ る。みずからの政治を合理性に基礎づけると宣言する者は、みな――そしてこれは右翼にも左翼 にもあてはまるのだが――じぶんに同意しない人間は正気ではないと宣言しているのであり、こ れはひとが取りうるもっとも傲慢なポジションである。

さもなくば、かられは、「合理性」を 「技術的有効性」とおなじ意味で用いることで、じぶんたちが《いかにして》物事に取り組ん でいるのかのみを語る。というのも、じぶんたちが究極的に取り組んでいるのは《なにか》に ついて語ることを望まないからである。

このようなやり口にかけて、新古典派経済学は悪名高 い。

国政選挙に投票するのは「不合理」である(個人の投票者が見込みうる利益よりも、その 努力の方が高くつくがゆえに)と、経済学者が証明しようと試みるとき、かららがこのような 物言いをするのは、「市民的参加や政治的理念、共通善それ自体には価値をおかない者、か つ、公共の事業を個人的利得の観点からしか考えない者にとってのみ不合理である」とはいい たくないためである。

投票を通してみずからの政治的理想を促進させるべく最良の方法を合理 的に計算する、といったことが不可能である、とみなす理由はまったく存在しない。

しかし、 くだんの経済学者たちの想定によるならば、このような道筋をとる者はだれしもイカれている ということになるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.52-53,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)