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2022年2月6日日曜日

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自らの選択、評価、判断

公衆の感情、集団や人の価値観に屈服したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力の責任ではない。そのような影響力は抵抗しがたいと考え、自らの行動を選択できないものだと考えるのは、他者からの非難や自己非難を回避しようしているだけではないのか。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)理解すべき自己は存在するのか
 人が自らを理解すれば、たとえそれが自由の充分条件ではないとしても、その時はじめて自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということを前提としている。

(2)理解するのでなく自ら選択するのではないのか
 (a)選択が自己を創造する
  理解すべき自己があるということ自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。
 (b)選択回避は責任回避
  選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。
 (c)社会的圧力は絶対的ではない
  自由に対する障害である社会的圧力などの存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人に、利用できない手段ではない。
 (d)影響があるにしても自らの選択である
  他人の圧力、同調行動への教師や友人や両親の圧力、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動による影響も、もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだ。

(3)選択しないことも一つの選択
 選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。

(4)私の選択、評価、判断である
「事実」は決して自ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏見、感情にしたがって、私は語る。




「しかしこの見解については、もっと根本的な批判があり、それを考察しておかねばならな い。人が自らを理解すれば(たとえそれが自由の充分条件ではないとしても)、その時はじめ て自由であるということは、われわれには理解すべき自己があるということ――人間の本性と呼 ぶに相応しい構造があり、それはあるがままの事実として存在し、法則に従い、自然的研究の 対象であるということを、前提としている。このこと自体が、特にいく人かの実存主義哲学者 によって疑問に付された。通常、安直に考えられているよりははるかに多くのことが、人間の 選択によって決定されているというのが、彼らの主張である。選択は責任を意味しており、い く人かの人間はほとんどいつも、また大抵の人間は時々、この重い負担を回避したいと思うか ら、言い訳とアリバイを探し求めるという傾向がある。そのため人は、自然や社会の避けがた い法則の作用――例えば、無意識の精神の働き、不変の心理的反射作用、社会進化の法則の働き など――にあまりにも多くのことを帰着させがちである。この流派に属する批判者たち(彼らは ヘーゲルとマルクス、キェルケゴールの双方に多くを負っている)は、自由にたいするいくつ かの悪名高い障害――例えばJ・S・ミルが大いに論じた社会的圧力など――は、客観的な勢力で はないという。つまりその存在と効力は、人間の意志や活動から独立のものでなく、あるいは 孤立した個々人には利用できない手段――個人の欲するがままに起こすことができない革命や急進的改革によってのみ変革できるといった性質のものではないと、いうのである。ここで論じ られているのは、それと正反対のことである。私は他人の圧力を受けているわけではない、ま た同調行動をとるよう学校の教師や友人や両親の圧力を受けているわけでもない、さらには私 には如何ともしようのないやり方で、聖職者や同僚や批評家や社会集団ないし階級の言動に よって影響されているわけでもない。もし私がそのような影響を受けたとすれば、それは私が 影響を受けることを選んだからだと、いうのである。私が《せむし》、ユダヤ人、ニグロなど として嘲笑され、侮辱されたとしよう。あるいは裏切り者という疑いをかけられていると感じ て、気落ちしているとしよう。しかしそれは、私を支配している他人の見解や態度、つまりそ のような人々の《せむし》、人種、叛逆についての意見と評価を、私が承認することを選んだ からにすぎないのである。私は常にそれを無視し、あるいはそれに抵抗することができる。そ のような意見、基準、見方をせせら笑うことができる。そしてその時、私は自由である。まさ しくこれが、異なった前提の上に建てられているとはいえ、ストアの賢人ゼノンの肖像を描い た人々が抱いていた理論である。私が公衆の感情、あるいはあれこれの集団や人の価値に屈服 したとすれば、その責任は私にあるのであって、外的な力――人的であれ非人格的なものであれ 外的な力の責任ではない。私としては、そのような影響力は抵抗しがたいと考え、私の行動を しきりにそのせいにしたがるであろうが、しかしそれは非難あるいは自己非難を避けようとし ているからにすぎない。このような批判者によれば、私の行動、私の性質、私の人格は神秘的 な実体、何らかの仮説的な一般的(因果的)諸命題の型の中の一要素ではなく、選択ないし選 択しないという型のおける一つの主体である。選択しないということもそれ自体が、行動的な 主体として自らを主張するのではなく、ことを成り行きにまかせるという一種の選択を表して いる。私が自己に批判的で事実を直視するならば、自分が責任を他に転嫁しているのだという ことを発見するであろう。このことは、理論の領域にも実務の領域にもともに当てはまる。例 えば私が歴史家であるとすれば、歴史上重要な要因についての私の見解はさまざまな個人や階 級の評判を高めたり低めたりしたいという私の願望に深く影響されているかもしれない。それ は私の側の自由な評価の行為であると、論じられるであろう。私がいったんこのことを意識す るようになると、私は私の意志にしたがって選び判断できるようになる。「事実」は決して自 ら語りはしない。私、選択し評価し判断する私だけが語ることができる。私自身の甘美な意志 によって、私が自由に見て検討し、承認ないし拒否することができる原理、規則、理想、偏 見、感情にしたがって、私は語る。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.260-262,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)