ページ

2022年2月15日火曜日

4.資金は、学問にも大きな影響を及す。シンクタンクは、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れる。政治家たちは、経済学の研究とは、人々に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で認めるようになった。こうして、真の政治的討議が困難となる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

買収された学問

資金は、学問にも大きな影響を及す。シンクタンクは、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れる。政治家たちは、経済学の研究とは、人々に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で認めるようになった。こうして、真の政治的討議が困難となる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)学問へのお資金の影響
 学問は決して客観的なものではなかった。研究の方向性はつねに政府機関、あるいは裕福な慈善家からの資金提供によって決められてきた。
(b)想定された政治的立場を正当化するためのシンクタンク
 1970年代のシンクタンクの出現に端を発して、とりわけ経済学の研究において、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れるのが当 たり前になった。
(c)経済学は政策に都合の良い理念の正当化手段
 80年代に事態はさらに進み、政治家たちは、経済学の研究とは、人々に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で進んで認めるようになった。 
(d)その事例
 例として「経済を活性化させるため」にキャピタルゲイン税を切り下げることが、主張される。トリクルダウン式の経済政策がうまく機能しないことが実証的に示されても、びくともしない。すでに政策は決められている。経済学者は、すでに決定されたことを実行させるべく、科学的に聞こえる理屈をひねり 出すために存在している。事実、彼らはそれで稼いでいるのである。
(e)真の政治的討議が困難となる
 驚くべきことに経済学者のスポンサーたちは、政策に都合の良い理念の正当化のために資金提供することを積極的に認めるようになってきている。このような知的権力がつくり上げられたことで、真の政治討議をすることが徐々に困難になっていった。



「学問も同じだ。学問は決して客観的なものではなかった。

研究の方向性はつねに政府機 関、あるいは裕福な慈善家(追究課題や達成・成果について、控えめにいってもかなり独特な 考え方をする)からの資金提供によって決められてきた。

だが、1970年代のシンクタンクの出 現に端を発して、こうしたしばりがとりわけ経済学の研究方針に最も強い影響を及ぼすなか で、あらかじめ想定された政治的立場をただ単に正当化するためだけに人を雇い入れるのが当 たり前になってしまった。

80年代に事態はさらに進み、政治家たちは、経済学の研究とは人々 に信じさせたいことを正当化するための方法であると、公の場で進んで認めるようになった。 

僕はロナルド・レーガン政権下でのテレビで次のようなやり取りを目にして驚いたことを今で も覚えている。

 政府高官 :われわれの最優先課題は、経済を活性化させるためにキャピタルゲイン税を切り下げることだ。

 インタビュアー :しかしどのようにして、この種の「トリクルダウン」式の経済政策がうまく機能しないと論証する近年の数多くの経済研究に答えるのですか。これは富裕層によるさらなる雇用創出にはつながらないのではないでしょうか。

 高官 :ええ、確かにそうです。減税の経済的恩恵の真意はまだ十分には理解されてはいません。

 言い換えれば、経済学は最善の政策を決めはしないということだ。すでに政策は決められて いる。経済学者は、すでに決定されたことを実行させるべく、科学的に聞こえる理屈をひねり 出すために存在している。事実、かれらはそれで稼いでいるのである。シンクタンクに雇われ ている経済学者についていえば文字通りそれが仕事である。

これもまたこの問われていること が、驚くべきことにかれらのスポンサーたちがそのことを積極的に《認める》ようになってき ている。 

 このような知的権力がつくり上げられたことで、真の政治討議をすることが徐々に困難に なっていった。というのも、異なる立場にある者は、まったく異なる現実を生きているからで ある。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.144-146,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






3.議員に影響力を行使しようとして金銭を渡すことが賄賂なら、選挙キャンペーンの資金調達とロビー活動の組み合わせは、実質的には贈収賄である。この事実への言及を避ける狡猾な方法は、金銭の受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場を変えたと証明できるとき「本当の」贈収賄であると決めることだ。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

贈収賄を合法化する狡猾な方法

議員に影響力を行使しようとして金銭を渡すことが賄賂なら、選挙キャンペーンの資金調達とロビー活動の組み合わせは、実質的には贈収賄である。この事実への言及を避ける狡猾な方法は、金銭の受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場を変えたと証明できるとき「本当の」贈収賄であると決めることだ。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)実質的な贈収賄
 今では、賄賂を要求することには「資金調達」、贈収賄そのものには「ロビー活動」という新たな名称がつけられている。自分の選挙キャンペーンの資金調達を銀行に依存している政治家が、銀行のロビイストに対し、銀行を「規制」することになる法律を作成あるいは執筆することすら認めているのであ れば、銀行が政治家に特定の便宜を図るよう依頼する必要などほぼないのである。
(b)「本当の」贈収賄
 カネの受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場を変えたと証明できない限り、それは「贈収賄」ではないとする政治学者たちのお馴染みのセ リフに留意しておきたいと思う。このロジックでは、もし政治家がある法案に賛成票を投じようという気になり、カネを受け取り、後に自身の気が変わり反対票を投じる場合が贈収賄にな るのだ。
(c)贈収賄とはされない行為
 もし政治家が初めから、ある法案に対する自分の見解を、見返りとしてカネを くれる人間の目線でつくりあげる、あるいは資金提供者のロビイストたちに法案を書いてもら う場合には、贈収賄とはみなされない。
(d)対価を支払って影響力を行使することが悪でないとする考え
 何かを やらせるためにカネを払うことはそれ自体は悪ではないなどと、カネで影響力を行使することを大筋で認めれば、市民の一般生活の道徳はまったく異なった様相を呈しはじめる。



「だがやはり、アメリカ最大のタブーは、自らの腐敗について語ることである。

かつて、議 員に影響力を行使しようとしてカネを渡すことが「賄賂」とみなされ、違法とされた時代が あった。

それはカネを詰めたカバンを運び、特別な依頼――土地区画法の変更、建築契約の決 定、犯罪事件の起訴取り下げ等々――をする裏稼業が蔓延したからだ。

今では、賄賂を要求することには「資金調達」、贈収賄そのものには「ロビー活動」という新たな名称がつけられてい る。

自分の選挙キャンペーンの資金調達を銀行に依存している政治家が、銀行のロビイストに 対し、銀行を「規制」することになる法律を作成あるいは執筆することすら認めているのであ れば、銀行が政治家に特定の便宜を図るよう依頼する必要などほぼないのである。

この点にお いて、贈収賄はわれわれの政府のシステムのまさに土台になってしまっている。

この事実への 言及を避けるために、さまざまなレトリカルな策が弄される――〔したがって〕最も重要なの は、ある特定の行為(たとえば具体的には土地区画法を変更してもらう見返りにカネを差し出 すこと)を非合法のままにしておくことで、本当の「贈収賄」とは、政治的便宜を図るのと引 き換えに《別の》何らかの方法でカネを受け取ることだ、と主張するできるようにすることで ある。

ここで、こうしたカネの受け取りによって政治家が、法案の何らかの部分について立場 を変えたと証明できない限り、それは「贈収賄」ではないとする政治学者たちのお馴染みのセ リフに留意しておきたいと思う。

このロジックでは、もし政治家がある法案に賛成票を投じよ うという気になり、カネを受け取り、後に自身の気が変わり反対票を投じる場合が贈収賄にな るのだ。しかしもし政治家が初めから、ある法案に対する自分の見解を、見返りとしてカネを くれる人間の目線でつくりあげる、あるいは資金提供者のロビイストたちに法案を書いてもら う場合には、贈収賄とはみなされない。

このような区別が本来の目的に対して意味をなさない のはいうまでもない。

だが、ワシントンの平均的な上院議員や下院議員が再選を望むならば、 就任時から週におよそ1万ドルは調達しなければならないという事実は依然としてある。かれ らが調達するカネのほとんどは、1%の最富裕層からのものだ。

その結果、選出された議員 は、在任中のおよそ3割の時間を賄賂の要求に費やしている。  

こうしたことの一切はこれまでにも指摘され、論じられてきたこと――たとえ適切に名指され ないというタブーがあるにしても――である。

だが、あまり指摘されてこなかったのは、何かを やらせるためにカネを払うこと――従業員だけではなく、名誉も権力も最も持っている者も含め たあらゆる人に対して――はそれ自体は悪ではないなどと、カネで支配(影響力)を行使するこ とを大筋で認めれば、市民の一般生活の道徳はまったく異なった様相を呈しはじめることであ る。

誰かが都合のよい地位を得るために公務員に賄賂を渡していいならば、学者、科学者、 ジャーナリスト、そして警察はどうなるだろうか。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.142-144,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2.人間観、社会観、政治理念には、数多くの矛盾する理念がある。しかし金融、政治エリートたちは、資本主義の理念に疑問を抱くことが不可能な世界を創出するために、経済的人間と自由市場の理念の常識化に多大な時間と精力を注いできた。従って、真の革命は、人々の常識を揺さぶるようなものでなければ、前進は不可能である。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

疑問を抱くことが不可能な世界の革命

人間観、社会観、政治理念には、数多くの矛盾する理念がある。しかし金融、政治エリートたちは、資本主義の理念に疑問を抱くことが不可能な世界を創出するために、経済的人間と自由市場の理念の常識化に多大な時間と精力を注いできた。従って、真の革命は、人々の常識を揺さぶるようなものでなければ、前進は不可能である。 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)人間観、社会観、政治理念
 政治とは何か、もしくは政治とはどのようなものであるべきか、社会とは何か、人々の基本的なあり方とは何か、そし て人々が世界から求められているのは何かといった、きわめて原理的な想定がある。
 (a)ここには絶対的な合意はない。多くの人々は、これらの問いをめぐる数多くの矛盾する考え方を抱いて いる。
(2)経済的存在としての人間と自由市場のイデオロギー
 人は基本的に経済的な存在である。すなわち民主主義とは市場であり、自由とは市場に参入する権利のことであり、消費者がますます豊かになることが、国 家的成功の尺度である。
 (a)それは常識であるという説得
 アメリカのメディアは、アメリカ人が既存の政治システムの諸条件を受け入れるよう説得するよりも、あらゆる人がそうしていると説得するようになってい る。
 (b)資本主義の理念に疑問を抱くことが不可能な世界の創出
  この国を動かしている金融エリート、政治エリートたちはこのイデオロギー的ゲームにすべてを賭けている。かれらは、実際に存続可能 な資本主義の形式を創出することよりも、資本主義という理念に疑問を抱くことをほぼ不可能 にする世界を創出することに多大な時間と精力を注いできた。
 


「真の革命の目的は、政治的・経済的関係の単なる再配置ではない。

真の革命は、つねに 人々の常識的水準に働きかけるものでなければならない。

アメリカではこれ以外のいかなる方 法でも前進は不可能であった。

説明しよう。  これまで論じてきたように、アメリカのメディアは、アメリカ人が既存の政治システムの諸 条件を受け入れるよう説得するよりも、あらゆる人がそうしていると説得するようになってい る。

ただこのことは特定のレベルにのみ当てはまる。より深層には、政治とは何か、もしくは政治とはどのようなものであるべきか、社会とは何か、人々の基本的なあり方とは何か、そし て人々が世界から求められているのは何かといった、きわめて原理的な想定がある。

ここには 絶対的な合意はない。多くの人々は、これらの問いをめぐる数多くの矛盾する考え方を抱いて いる。

それでもやはり重心は明確にある。深く埋め込まれた数多くの想定がある。 

 事実、世界の多くで、アメリカは政治的生活についてのある哲学の本拠地だといわれてい る。その哲学とは、何よりも人は基本的に経済的な存在であること、すなわち民主主義とは市 場であり、自由とは市場に参入する権利のことであり、消費者がますます豊かになることが国 家的成功の尺度であるというものである。

世界の大半でこれは「新自由主義」として知られて おり、数多くある哲学のなかのひとつとみなされ、その評価については国民的議論になってい る。

アメリカではこの単語はまったく使われない。われわれはこれらの事柄についてはただ 「自由」「自由市場」「自由貿易」「自由企業」「アメリカ的な生活」といったプロパガンダ 用語を通してしか語ることができない。

このような発想を冷笑はできるし、実際アメリカ人も そうすることはある。だがその基底にあるものに挑むためには、アメリカ人であることの意味 を根本から問い直さなければならない。

それは、必然的に革命的なプロジェクトたらざるをえ ない。そしてそれは同時にきわめて難しいことだ。

この国を動かしている金融エリート、政治 エリートたちはこのイデオロギー的ゲームにすべてを賭けている。かれらは、実際に存続可能 な資本主義の形式を創出することよりも、資本主義という理念に疑問を抱くことをほぼ不可能 にする世界を創出することに多大な時間と精力を注いできた。

その結果、われわれの帝国と経 済システムが窒息しよろめき、周囲のあらゆるものが崩壊する兆しが見えても、われわれの多 くは茫然としたまま、なにか別の可能性が存在することに思い至らなくなってしまったのであ る。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.137-138,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






1.ジョージ・オーウェルがずっと昔に指摘したように、腐敗した 政治システムのもとにいると、人は物事を適切に名指すことができなくなる。婉曲表現と隠語が公的な議論のあらゆる面にはびこっている。帝国と名指すことができない帝国、貢ぎ物と名指すことができない貢ぎ物、賄賂と名指すことができない賄賂、買収工作。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

適切に名指すことのできないこと

ジョージ・オーウェルがずっと昔に指摘したように、腐敗した 政治システムのもとにいると、人は物事を適切に名指すことができなくなる。婉曲表現と隠語が公的な議論のあらゆる面にはびこっている。帝国と名指すことができない帝国、貢ぎ物と名指すことができない貢ぎ物、賄賂と名指すことができない賄賂、買収工作。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「問6 なぜアメリカでは、政治におけるカネの役割に挑戦することが本質的な革命的行動 になるのか。

買収工作の背後にある原理とは、カネは権力であり権力は本質的にすべてである、というも のだ。

それは、われわれの文化全体を覆う考え方である。

ある哲学者が述べるように、賄賂は 存在論的な原理になってしまい、われわれの基本的な現実感覚を規定している。

したがってこ れに挑戦するということはすべてに挑戦することになる。  

僕はここで「賄賂」という言葉をかなり意識的に使っている――改めていうが、われわれが使 う言葉はきわめて重要なのだ。

ジョージ・オーウェルがずっと昔に指摘したように、腐敗した 政治システムのもとにいると、それを指示する人は物事を適切に名指すことができなくなるの である。この基準からすれば、現代アメリカはただならぬ腐敗状況にある。

われわれは帝国と 名指すことができない帝国を維持していて、それは、貢ぎ物と名指すことができない貢ぎ物を 搾り取り、われわれがまったく名指せない経済イデオロギー(新自由主義)で正当化している のだ。

婉曲表現と隠語が公的な議論のあらゆる面にはびこっている。

これは「巻き添え被害」 (軍隊は巨大な官僚組織であり、そのため曖昧な業界用語を使っていると予想される)のよう な軍事用語の場合、右派のみならず左派にも同様にあてはなる。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.139-140,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)