思考とは表現する行為そのもの
思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
(a)「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。
(b)声にも出さず、内語もしないで、「明日は多分雨だろう」と考えることができるか。
(c)少なくとも、考えること抜きで話すことはできないだろうか。もちろんできる。
(d)掛算 7 × 5 = 35 を言うと共に、それを考える。
(e)今度は、考えることなしに言ってみる。
だが少なくとも、考えること抜きで話すことはできはすまいか。もちろんできる―――しかし、君が考えることなく話す場合、どんな種類のことを君はしているのかよくみてみ給え。まっさきに注目してほしいのは、「話し且つその中味を意味する」と呼びたい過程と、考えなしに話すと呼びたい過程とを区別するものは必ずしも、《話している時点で》起きることではない、ということである。この二つを区別するものが、話しの以前と以後に起きることである場合も十分にありうる。
私が今慎重に、考えることなしに話すことをやってみるとしよう―――実際私はどういうことをするだろう。例えば、或る本から一つの文を読み上げる、だが自動的に読もうとする、すなわち、他の場合なら読むことで生まれてくるイメージや感情と一緒にその文を読まないように極力つとめる。その一つの方法は、朗読している間何か他のことに注意を集中する、例えば、朗読の間皮膚を強くつねることであろう。―――次のように言おう。考えることなしに文を話すとは、話にスイッチを入れ、話に伴うものごとの方のスイッチを切ることである。では、考えてほしい。その文を言うことなしに考えることはこのスイッチを逆にすることであろうか(前には切ったスイッチを入れ、入れたものを切る)、と。つまり、その文を言うことなしに考えるとは、今度は単に、言葉に伴ったものごとの方を留めて言葉の方を取り除くことか、と。或る文の思想をその文なしで考えようと実際に試みて、そしてこれが現に起きることかどうかをみてみ給え。
要約してみよう。「考える」「意味する」「願う」等のような言葉の使い方を吟味するならば、この吟味を経過することによって、思想を表現する行為とは別に何か奇妙な媒体の中にしまいこまれた奇妙な思考作用を探し求めたい誘惑から解放される。また、もはや既成の表現形式には妨げられることなく、思考の経験とは単に言表の経験である場合も《ありうるし》、言表の経験プラスそれに伴う他の経験からなっている場合もあることを認めることができる。(また次の場合を検討するのも有益である。掛算が文の一部である場合。例えば、掛算 7 × 5 = 35 を言うと共にそれを考える、今度は考えることなしに言ってみる、これらがどういったものであるか考えて見給え。)語の文法を吟味することで、偏りのない眼で事実を見ることを妨げていたその表現の固定化したしきたりが弱められる。我々の探究はこの偏りを取り去ろうとしてきたのである。この偏りが、我々の言語に埋めこまれている或る挿し画に事実の方が合わねば《ならぬ》という考えを強いるのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.84-86、大森荘蔵)
ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ] |