未来のための哲学講座 命題集 Propositions of great philosophers
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命題集(記事一覧)
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2017年12月28日木曜日
意志のすべてが精神の能動、あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動とよべる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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精神の能動と受動 【意志のすべてが精神の能動、あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動とよべる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 「わたしたちのうちには、わたしたちの思考以外に、精神に帰すべきものは何も残らない。その思考には主として二種がある。第一は...
精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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能動と受動 【精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 「また、わたしは次のことに注目する。精神が結合している身体以上に、わたしたちの精神に対して直接に作用する主体があるとは認められない。したがって...
新たに生起することすべては、それが生じる主体に関しては「受動」とよばれ、それを生じさせる主体に関しては「能動」とよばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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新たに生起すること 【新たに生起することすべては、それが生じる主体に関しては「受動」とよばれ、それを生じさせる主体に関しては「能動」とよばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 「新たに生起することすべては、一般に哲学者たちによって、それが生じる主体に関して...
心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))
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心身問題 【心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】...
心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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心身問題 【心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 「これら三種類の概念の間には次...
私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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存在そのもの 【私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 仮に、完全な物体の観念が得ら...
私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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私以外のものの存在 【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因で...
いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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蜜蝋の例 【いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 いま眼の前にある、この蜜蝋の知覚が、一層多くの原因によって明瞭になり、一層多...
この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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蜜蝋の例 【この蜜蝋は、いったい何か。これは確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。対象として特定し、言葉で捉えられたものには、すでに不完全で不分明なものが混入している。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 いま眼の前にある、...
2017年12月26日火曜日
およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
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無意識とは何か? 【およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】 意識に現わ...
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