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2020年4月5日日曜日

31.観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。(カール・ポパー(1902-1994))

理論は実証できない

【観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。(カール・ポパー(1902-1994))】

(3.2)~(3.3)追記。

(3)理論は実証できない
 真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
 参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
  (a)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
  (b)理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
 (3.2)観察は知識の源泉ではないのか?
  観察が「知識の源泉」であると主張する知識論は、誤りである。また、論理的思考、知的直観、知的想像力なども、重要なものではあるが、理論が真であることを約束してくれるわけではない。
  (a)知識は、無《タブラ・ラサ》から始めることはできない。観察から始めることもできない。
  (b)ある観察や偶然の発見によって知識が進歩することは、時として可能ではある。
  (c)一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって既存の理論を修正できるかどうかにかかっている。
 (3.3)確実な知識の源泉はあるのか?
  (a)知識が事実であることを約束するような「知識の源泉」は、ない。
  (b)観察、論理的思考、知的直観、知的想像力は、未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を創造する際の助けになり、重要なものである。しかし、真理であることを約束してくれるわけではない。それどころか、誤りへと導いてしまうかもしれない。実際、私たちの理論のほとんど大部分は、誤りである。
 (3.4)理論は人間精神の一つの自由な創造物である
  概念の世界は「先験的必然」でもなければ、論理的方法によって経験から導出し得るものでもなく、人間精神の一つの自由な創造物である。しかし、概念体系の妥当性の唯一の理由は、事実と経験による検証である。(アルベルト・アインシュタイン(1879-1955))
 (3.5)理論は人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している


 「さて、ここでこれまで論じてきたことを、8つのテーゼのかたちにまとめてみましょう。

1. 知識の源泉などありません。どんな源泉でも、どんな提案でもよいのです。けれども、いかなる源泉、提案も批判的検討の対象になります。歴史的な問いを扱っているのでないかぎり、われわれの情報の源泉をたどるよりも、むしろ主張された事実そのものを検討すべきです。

2. 科学論の問いは、本来、起源とはなんの関係もありません。われわれが問うのは、むしろ、ある主張が真であるかどうか――すなわち、それが事実と一致しているかどうかということです。

 そのような批判的な真理の探究の途中では、可能なかぎりのあらゆる議論が利用されます。もっとも重要な方法のひとつは、われわれ自身の理論に批判的に対峙し、とくに理論と観察のあいだの矛盾を探すことです。

3. 伝統は――生まれつきの知識は別にして――はるかに重要な知識の源泉です。

4. われわれの知識のかなりの部分が伝統に基づいているという事実は、伝統に反対すること、つまり反伝統主義の立場にはなんら意味がないことを示しています。

しかし、だからといって、これを伝統主義を支持する根拠と見なしてはなりません。なぜなら、われわれに伝えられてきた知識(そして生まれつきの知識)のどんなに小さな部分も不死身ではなく、批判的に探究され、場合によっては、くつがえされるかもしれないからです。

しかしそれにもかかわらず、伝統なしには知識は不可能でしょう。

5. 知識は無――《タブラ・ラサ》――から始めることはできませんが、かといって観察から出発できるわけでもありません。

われわれの知識は既存の知識を修正し、訂正することによって進歩します。たしかに、ある観察や偶然の発見によって進歩することは、時として可能ですが、一般的には、ある観察や発見の影響範囲は、それによって《既存の》理論を修正できるかどうかにかかっています。

6. 観察も理性も、なんら権威ではありません。ほかの――知的直感や知的想像力などのような――源泉も重要ではありますが、同じく信頼に足るものではありません。それらはものごとをかなり明らかにしてくれるかもしれませんが、しかしわれわれを誤りへと導いてしまうかもしれないのです。

それでも、これらはわれわれの理論の主たる源泉であり、そのようなものとしてかけがえのないものです。しかも、われわれの理論のほとんど大部分は、誤りなのです。

観察と論理的思考、そして知的直感と想像力の重要な機能は、未知の領域に踏み込むために必要な大胆な理論を批判的に検討する際の助けとなるという点にあります。

7. 明晰さには、それ自体知的な価値があります。厳密さや精密さは、そうではありません。絶対的精密性など到達不可能です。問題状況が要求している以上の厳密さを目指すのは、意味のないことです。」(中略)

8. ある問題の解決は、新たな未解決の問題を生み出します。この新たな問題は、もとの問題が難しければ難しいほど、また解決の試みが大胆であればあるほど、それだけいっそう興味深いものになります。

世界のいろいろなものごとについて経験すればするほど、そしてわれわれの知識が深まれば深まるほど、《自分たちがなにを知らないのか》ということについての、つまり自分たちの無知についての知識がよりいっそう明確になり、はっきりと描き出されるのです。

われわれの無知の主たる源泉は、無知が必然的に際限のないものであるのに対して、われわれの知識には限界があるというところにあります。」

(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第1部 知識について,第3章 いわゆる知の源泉について,pp.91-93,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:理論は実証できない,知識論,論理的思考,知的直観,想像力)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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