善い目的は悪い手段を正当化するか
善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題である。すなわち、一層確実な結果である悪い手段にもかかわらず、期待された目的に通じているのかどうか。自分の因果理論に対する懐疑的な態度は、最も重要な道徳的義務の一つである。 (カール・ポパー(1902-1994))
「善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題が生じるのは、病人の心を平静にす るために彼にうそをつくべきか、また人々を幸福にするために彼らを無知のままにしておくべ きか、また平和と美の世界を建設するために長くて血なまぐさい内乱を開始すべきかというよ うな場合からであるように思われる。 これらすべての場合において、企図されている行為は、善であると見なされている二次的な 結果(「目的」と呼ばれる)を引き起こすために悪であると見なされている一層直接的な結果 (「手段」と呼ばれる)をまず引き起こすことである。 私はこのような場合すべてにおいて、三つの異なった種類の問題が生じると思う。 (a)われわれは手段が実際に期待された目的に通じるということをどこまで想定する資格が あるか。手段は一層直接的な結果なのだから、それらは大抵の場合企図された行為の一層確実 な結果であろうし、またもっと間接的である目的は確実性が一層少ないであろう。 ここで提起されている問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題であ る。それは、事実問題として、手段と目的の間にあると想定された因果連関が当てにできるも のかどうかという問題である。そこで、もし想定された因果連関が成り立たない場合には、そ れは手段と目的という場合ではなかったのであり、それゆえ実際はこの標題で考えるべきでは なかったのだと言うこともできよう。 これは真実であるかもしれない。だが実際上、ここで考慮されている論点はおそらく最も重 要な道徳的問題を含んでいる。というのは、その問題(企図された手段は企図された目的を引 き起こすかどうかという)は事実的な問題であるけれども、《この問題に対するわれわれの態 度は幾つかの最も根本的な道徳的問題》――われわれはこのような場合に、そうした因果連関が 成り立つという確信に依存すべきかどうかという問題、また換言すれば、われわれは独断的に 因果理論に依存すべきか、それとも、とくにわれわれの行為の直接の結果がそれ自体悪である と見なされる場合には、因果理論に対して懐疑的な態度を採るべきかという問題――《を引き起 こすからである》。 この問題はおそらくわれわれの挙げた三つの例のうちの初めのものの場合にはあまり重要で はないが、他の二つの場合には重要である。ある人々は、これら二つの場合において、想定さ れた因果連関が成り立つことは非常に確実なことだと感じるかもしれない。だがその連関は非 常に間接的なものであるかもしれない。また彼らの信念の情緒的な確実性でさえも、それ自 体、彼らの疑いを阻止しようとする試みの結果であるかもしれない(換言すれば、問題は狂信 者とソクラテスの意味での合理主義者――自分の知的限界を知ろうとする者――の間の問題であ る)。「手段」の悪が大きいものであればあるほど、問題は一層重要になる。それはともか く、自分の因果理論に対する懐疑の態度を採るように自己教育することは、疑いもなく最も重 要な道徳的義務の一つである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),pp.321-322,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
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