大きな悪を避けるための手段として悪
善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。手段と目的のあいだの因果関係が成り立ち、それが合理的であると仮定すると、企図された手段の悪と、これらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪のうちの軽い方を選ぶという問題になる。(カール・ポパー(1902-1994))
「だが、想定された因果連関が成り立つ、換言すれば手段と目的について語ることが適切で あるような状況が存在する、と仮定しよう。その場合、われわれはもう二つの問い、(b)と (c)を区別しなければならない。 (b)因果関係が成り立ち、またわれわれがそれを確信することが合理的であると仮定する と、問題は主として二つの悪――企図された手段の悪とこれらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪――のうちの軽い方を選ぶという問題になる。換言すれば、目的のうちの最善の 要素がそれ自体として悪い手段を正当化するのではないが、一層悪い結果を避けようとする試 み、それ自体としては悪い結果を生み出す行為を正当化するかもしれない(われわれは大抵、 ある人の生命を救うためにその人の手足を切断することが正しいことを疑わない)。 これとの関連では、われわれが実際には当該の諸悪を評価することができない、ということ が非常に重要になるかもしれない。例えばあるマルクス主義者たちは、暴力的社会革命に含ま れる苦悩は彼らが「資本主義」と呼ぶものに内在する慢性の悪に含まれるものよりもはるかに 少ないと信じている。だがこの革命がより良い事態へ導くと仮定してさえも――彼らはどうして ある状態での苦悩と他の状態での苦悩を評価することができるのだろうか。ここでまた事実問 題が生じるのであり、事実的知識を過大評価しないことがまたしてもわれわれの義務なのであ る。その上、企図された手段が結局状況を改善することを容認したとして――われわれは他の手 段がもっとましな結果をもっと少ない代価で達成しないものかどうか、確かめたのであろう か。 だが同じ例はもう一つの非常に重要な問いを引き起こす。再び「資本主義」下の苦悩の総和 が、もしそれが数世代の間続いた場合には内乱の苦悩を上回ると仮定しても――われわれは後の 諸世代のためにある世代に苦しむように宣告することができるのであろうか(自分自身を他の 人々のために犠牲にすることと他の人々――ないし自分自身《および》他の人々――をそのような 目的のために犠牲にすることの間には大きな相違がある)。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),pp.322-323,未来社(1980),内田詔夫(訳),小 河原誠(訳))
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