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2021年12月9日木曜日

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。中間的な結果が悪くても最終結果が良ければいいというのは、錯覚である。最終結果とは何か。そこで何かが終わるのか。中間結果も最終結果も、全てかけがえのない現実である。我々が比較対照しなければならないのは、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と、別の行為の進路の全結果である。(カール・ポパー(1902-1994))

ある行為の全結果の比較

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。中間的な結果が悪くても最終結果が良ければいいというのは、錯覚である。最終結果とは何か。そこで何かが終わるのか。中間結果も最終結果も、全てかけがえのない現実である。我々が比較対照しなければならないのは、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と、別の行為の進路の全結果である。(カール・ポパー(1902-1994))



「(c)第三の重要な点は、最終結果としてのいわゆる「目的」が中間的な結果である「手 段」よりも重要だと考えてはならないということである。「終わり良ければすべて良し」とい うことわざに示唆されているこの考えは、極めて誤解を招きやすいものである。第一に、いわ ゆる「目的 end」はとても事柄の終局 end とは言えない。第二に、目的が成就してしまえば 手段がいわば免責されるのではない。例えば、戦争での勝利のために使われた新しい強力な武 器のような「悪い」手段は、この「目的」が達成された後に、新しい困難を創造するかもしれ ない。換言すれば、あるものをある目的への手段として記述することが正当でありうるとして も、それは非常にしばしば手段以上のものである。それは当該の目的とは別の他の諸結果を生 む。そこでわれわれが比較対照しなければならないのは、(過去ないし現在の)手段と(未来 の)目的ではなく、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と別の行為の進路のそれとであ る。これらの結果は中間的な諸結果を含む時期にもわたるし、また企図された「目的」は考慮 すべき最後のものではないであろう。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),p.323,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))
カール・ポパー
(1902-1994)