政治的、物理的制裁の力
経済力が一切の悪の根源にあるという考えは真実ではない。経済力は、政治的、物理的な力に全面的に依存している。国家の能動的な干渉、物理的制裁に裏づけられた法による財産の保護のみが、富を権力の潜在的源泉にするのである。(カール・ポパー(1902-1994))
(a)政治的、物理的制裁の力
経済力は、政治的ならびに物理的力に全面的に依 存している。国家の能動的な干渉、物理的制裁に裏づけられた法による財産の保護のみが、富を権力 の潜在的源泉にするのである。
(b)経済力
「国家内での経済力は、究極的には法や世論から引き出されたものであるにせよ、たやすくある種の独立性を獲得する。それは 賄賂によって法律に影響を与えうるし、宣伝によって世論に影響を与えることもできる。それ は政治家に自らの自由と抵触するような義務を負わせることができる。それは財政危機を惹き 起こすと脅迫することができる。しかし経済的力がなしうることには、はっきりした一定の 限界が存在する」(ラッセル)
(c)法体系を道具とした政策
ひとたび、物理的制裁力に支えられた形式的自由を達成してしまうならば、 我々は法体系を強力な道具とて、あらゆる政策を実施できる。あらゆる形態の票の買収の統制、選挙運動の経費の制限、世論に影響を与えることもできるし、政治的諸問題に更にずっと厳格な道徳的慣例を強いることもできる。
「以上の考察は、経済力が物理的あるいは国家権力よりもいっそう基本的であるという独断 的な学説を論破するに十分なものであろう。しかし、これとは異なった考察もある。様々な著 作家たち(中でもバートランド・ラッセルやウォルター・リップマン)が正しく強調したのだ が、国家の能動的な干渉――物理的制裁に裏づけられた法による財産の保護――のみが、富を権力 の潜在的源泉にするのである。なぜなら、この干渉が存在しないならば、人はみるまにその富 を失ってしまうであろうからである。それゆえ経済力は政治的ならびに物理的力に全面的に依 存している。ラッセルは、富のこうした依存性、さらには時としてその頼りなさを説明するよ うな歴史上の事例を挙げている。「国家内での経済力は」と彼はこう書いている、「究極的に は法や世論から引き出されたものであるにせよ、たやすくある種の独立性を獲得する。それは 賄賂によって法律に影響を与えうるし、宣伝によって世論に影響を与えることもできる。それ は政治家に自らの自由と抵触するような義務を負わせることができる。それは財政危機を惹き 起こすと脅迫することができる。《しかし経済的力がなしうることには、はっきりした一定の 限界が存在する》。シーザーは、彼の成功以外には返済のあてはないと見た債権者たちに助け られて権力をえた。だが彼は成功してしまうと、債権者たちを公然と無視してしまうほど強力 になった。チャールズ5世は皇帝の地位を買い取るに必要な金をフッガー家から借りたが、皇 帝になってしまうとフッガー家の人々を無視したから、彼らは貸したものを失った」。 経済力が一切の悪の根源にあるという独断は破棄されねばならない。その代わりに、《如何 なる》形態にせよ、無拘束の権力のもつ一切の脅威が洞察されねばならない。金そのものが特 に危険であるのではない。金が危険なものとなるのは、それが直取引で、あるいは生きるため に自分自身を売らざるをえない経済上の弱者を奴隷とすることで、権力を買うことができる時 のみである。 われわれは、こうした問題では、いわばマルクス以上に唯物論的な観点から考察せねばなら ない。われわれは、物理力と物理的搾取の統制が依然として中心的な政治問題であることを自 覚する必要がある。この統制を確立するために、われわれは「単なる形式的自由」を確立せね ばならない。ひとたびこれが達成され、政治権力の統制のためのその使用方法が学ばれるなら ば、一切がわれわれのもとに属するのである。もはやわれわれは、誰か或る人を咎める必要も なければ、舞台裏の邪悪な経済的悪魔に悲鳴をあげる必要もない。なぜなら民主主義の下で は、われわれは悪魔を制御する鍵を握っているからである。われわれは悪魔を飼い馴らすこと ができる。われわれはこれを自覚すべきであり、鍵を用いるべきである。われわれは、経済力 を民主的に統制する諸制度ならびに経済的搾取からわれわれを保護する諸制度を確立せねばな らない。 マルクス主義者たちは、直接的に、或るいは宣伝手段の買収を通じて間接的に、票を買収す る可能性について多くのことを語ってきた。しかし、詳細に考察すると、ここに上述で分析し た権力政治状況の好例があることがわかる。ひとたび、形式的自由を達成してしまうならば、 われわれはあらゆる形態の票の買収を統制することができる。選挙運動の経費を制限する法律 が存在するし、この種のもっと厳格な法律を導入するか否かは一にかかってわれわれ次第であ る。法体系を強力な道具とし、それ自身を守らせることができる。付け加えるに、われわれは 世論に影響を与えることができるし、政治的諸問題に更にずっと厳格な道徳的慣例を強いるこ ともできる。以上のことはすべてわれわれがなしうることである。しかし、われわれはまず第 一に、この種の社会工学がわれわれの課題であること、この課題はわれわれの力の及ぶ範囲内 にあること、経済上の地震が奇蹟の如く新しい経済的世界を産み出すから、われわれは古い政治的外套を取り払い、それを露わにするだけでよいであろう、と期待してはならないというこ と、これらのことを自覚しなければならないのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第17章 法体系と社会体制,第5節,pp.120-121,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))
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