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2021年12月8日水曜日

合理的な行為は一定の目標を持つ。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、この目的に適うようにその手段を決定する。それゆえ我々が合理的に行為したいと思うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。これは正しいのか。何が問題になるのか。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア的態度

合理的な行為は一定の目標を持つ。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、この目的に適うようにその手段を決定する。それゆえ我々が合理的に行為したいと思うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。これは正しいのか。何が問題になるのか。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)ユートピア的態度
(i)合理的な行為はどれも、一定の目標をもつ はずである。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、またこの目的に適うようにその手段 を決定する程度において合理的なものとなる。
(ii)それゆえ、われわれが合理的に行為したいと思 うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。そして、真実の究極の目的を決定す るに当たっては注意深くなければならない。以上 の原則を政治活動の領域に適用すれば、何らかの実践活動をする前に、われわれの究極の政治 目標、すなわち理想国家を決定しなければならない、という要求となる。

(b)ピースミール工学
(i)この方法を採用する政治家は、社会の青写真を心にもっていてもよいしもっていなくて もよい。
(ii)完全というものは仮に達成可能だとしても はるかに遠いものであり、人類の各世代、それゆえ現在の世代もまたある要求をもっている。
(iii)社会の最大で最も緊急な悪を探してそれと闘うという方法を採用する。

「ユートピア的態度は次のように記述できよう。合理的な行為はどれも、一定の目標をもつ はずである。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、またこの目的に適うようにその手段 を決定する程度において合理的なものとなる。それゆえ、われわれが合理的に行為したいと思 うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。そして、真実のないし究極の目的を決定す るに当たっては注意深くなければならない。それは、中間的ないし部分的な目的、すなわち現 実には究極目的のための手段ないし一段階にすぎないもの、から明白に区別しなければならな い。もしこの区別を無視すれば、これらの部分的目的が究極目的を促進しそうかどうかとの問 いも無視することになり、それゆえ合理的に行為できないことになってしまうのである。以上 の原則を政治活動の領域に適用すれば、何らかの実践活動をする前に、われわれの究極の政治 目標、すなわち理想国家を決定しなければならない、という要求となる。この究極目標が少な くとも大ざっぱな輪郭においてだけでも決定され、われわれの目指す社会の青写真のようなも のを所持するに至ったときにはじめて、その実現のための最善の方法や手段の考察を開始し、 実践活動のための計画を作成しはじめることができるのである。これは合理的と呼ぶことので きるどんな実践的政治活動にとっても必要な準備であり、とりわけ社会工学にとっては必要な 準備である。  以上が、簡単に言って、私がユートピア工学と呼ぶものの方法論的態度である。それは説得 力があり、魅力的である。事実、歴史信仰的偏見に感化されないか、またはそれに反発する 人々をもすべて惹きつけているのは、まさにこの種の方法論的態度なのである。このために、 その態度は一層危険であり、その批判が一層肝要になる。  ユートピア工学の詳細な批判に立ち入る前に、社会工学へ向うもう一つの態度、すなわちピースミール工学の態度を概観しておきたい。この態度は私が方法論的に健全だと思う態度で ある。この方法を採用する政治家は、社会の青写真を心にもっていてもよいしもっていなくて もよい。人類がいつの日か理想国を実現し、地上に幸福と完全とを達成するという希望をもっ ていてもよいしもっていなくてもよい。だが彼は、完全というものは仮に達成可能だとしても はるかに遠いものであり、人類の各世代、それゆえ現在の世代もまたある要求をもっているこ とに気付くであろう。人を幸福にするような制度的手段は存在しないのだから、その要求はお そらく幸福にして欲しいという要求であるよりも、不幸が避けられる場合には不幸にしないで 欲しいという要求であろう。彼らは、自分が苦しんでいる場合には可能な限りの援助が与えら れることを要求するのである。それゆえピースミール工学者は、社会の最大の究極的善を探し てその獲得のために闘うよりも、社会の最大で最も緊急な悪を探してそれと闘うという方法を 採用するであろう。この違いは単に言葉上の違いなどというものではない。事実、極めて重要 な違いである。それは、人間の運命を改善するための合理的方法と、本気でやった場合には容 易に人類の苦悩を耐え難いほどに増大させかねない方法との違いである。それは、いつでも適 用可能な方法と、その唱導が容易に諸条件がもっと好転する日まで行動を絶えず延期する手段 になりかねない方法との違いである。それはまた、これまでいつでもどこでも(後に見るよう にロシアをも含めて)本当に成功を収めていた唯一の事態改善方法と、それが試みられたと ころでは理性の代わりに暴力の使用に至るだけであったか、さもなければ方法そのものの放 棄、少なくとももとの青写真の放棄に至ったような方法との違いでもある。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,pp.157-158,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))

カール・ポパー
(1902-1994)