仮説モデルとしての社会的存在
制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択された側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。第0次近似モデルとして、完全に合理的な個人の集合モデルを構築し、これからの乖離で現実社会の評価をする等の手法もあり得る。(カール・ポパー(1902-1994))
()仮説モデルとしての社会的存在
制度や団体などの社会的存在は、個々人の抽象的関係の中のある選択さ れた側面を解釈するために構成された抽象的なモデルである。
()第0次近似モデル
人間は、ある程度は合理的に振る舞うものである。それゆえ、人間の行為や 相互の交流について比較的単純なモデルを構築し、そのモデルを近似として用いることは可能である。例として、関係するすべての個人が完全に合理性 を備えていると仮定し、モデル化する。そして、実際の人々の行動は、この第0次近似モデルからの乖離として評価する。
「ここで、複雑性の問題(第4節参照)について、ごく簡単に付け加えておこう。個々の具 体的な社会状況が、その複雑性ゆえに分析困難であることに疑いの余地はない。しかし同じことは個々の具体的な物理的状況についても言えるのである。 社会的状況は物理学的状況よりも複雑だという先入観は広く見られるが、そこには二つの由 来があるように思える。一つは、私たちが比較すべきでないものを比較しがちだということ、 つまり、片方は具体的な社会状況であるのに、それに対するのは人為的に隔離された実験的物 理状況だということである(後者と比較するのならば、人為的に隔離された社会状況、たとえ ば刑務所や、実験的な共同体のほうがいいだろう)。もう一つは、社会的状況の記述は関係す る万人の精神的状況を、そしておそらくは身体的状況をも含んでいなければならない(場合に よってはそこに還元されるべきである)という古くからの信念である。 しかしこの信念は正当化されない。個々の化学反応の記述が、関係するすべての元素の原子 の状態や原子内部の状態の記述を含んでいなければならないという要請は(化学が物理学に還 元可能だとしても)実行不可能なものだが、右の信念はその要請よりもさらに正当化されな い。この信念はまた、制度や団体などの社会的存在が、個々人の抽象的関係の中のある選択さ れた側面を解釈するために構成された抽象的なモデルではなく、人間の群衆のような具体的な 自然的存在であるという、一般に流布しているものの見方の痕跡を示している。 しかし実際、社会科学が物理学より複雑でないというだけでなく、個々の社会状況は一般に 個々の物理的状況ほど複雑でないと考えてしかるべき十分な理由がある。すべてとは言わない までも大半の社会状況では、《合理性》という要素がある。もちろん人間がまったく合理的に 振る舞う(すなわち、どのような目的があるにせよ、あらゆる入手可能な情報をその目的の達 成のために最適な使い方ができる場合にするように振る舞う)ということがほとんどないこと は明らかだが、それでも、ある程度は合理的に振る舞うものである。それゆえ、人間の行為や 相互の交流について比較的単純なモデルを構築し、そのモデルを近似として用いることは可能 なのである。 実は、この最後の点が、自然科学と社会科学の大きな相違――それもおそらく《方法上の最も 重要な相違》――を示しているように私には思える。というのは、実験の実施に伴う特定の難点 (第24節末尾を参照)や、定量的方法を適用する際の難点(後の記述を参照)といったほかの 重要な相違点は、質的な違いではなく程度の違いだからである。 私が可能であると示唆しているのは、論理的構築または合理的構築の方法と言えるもの、す なわち「ゼロ方法」を社会科学に適用することである。 私の言う「ゼロ方法」とは、次のようなものである。関係するすべての個人が完全に合理性 を備えていると仮定し(またおそらく完全な情報を持つことも仮定し)、そのモデル的行動を ある種の座標原点(座標ゼロの点)として、そこからの実際の人々の行動の乖離を評価する。 例を挙げるなら、実際の行動(たとえば伝統的な先入観などの影響のもとにある)と、経済学 の方程式で記述されるような「純粋な選択論理」に基づいて期待されるモデル的行動とを比較 するのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,29 方法の単一性,pp.226-230,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))
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