ページ

2022年1月22日土曜日

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間観を支持する諸価値

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



参考:意図と解釈


「われわれが人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー(およびそれに対応する概念) ――社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真 理、幻想、等々(以上はまったくアット・ランダムに挙げただけだが)の観念――は、帰納の問 題でも、仮説の問題でもない。あるひとを人間として考えること、そのこと自体によって、こ れらすべての観念が働かされることになる。したがって、あるひとが人間であると言っておき ながら、そのひとに選択とか真理の観念とかがなんの意味ももたないというのは、奇妙であろ う。それは、たんに言葉の上だけの定義(それならば意のままに変えられる)としてではな く、われわれがものを考える仕方、また(ありのままの事実として)われわれが考えざるをえ ないその仕方に本質的なものとして、「人間」というときに意味しているものと衝突すること になろう。  これにはまた、それによって人間が定義される価値(とりわけ政治的価値)も保持されてい るであろう。だから、もしわたくしがあるひとについて、かれは親切だとか、残酷だとか、か れは真理を愛するとか、真理には無関心だとか言うならば、そのひとはいずれの場合にもやは り人間的ではあるのである。ところが、もしわたくしが、そのひとにとっては石をけとばすこ とも家族を殺すことも、いずれも倦怠ないし無為への反対であるがゆえに、文字通りなんの差 別もないようなひとを見出したとしたら、わたくしは首尾一貫した相対主義者のように、たん にわたくし自身ないし大多数のひとびとのそれとはちがった道徳がかれにあるからだと考えた り、われわれは肝心な点で意見がくいちがっていると言ったりしないで、かれは精神異常であ り、非人間的であると言おうとするであろう。自分はナポレオンだと考えるひとが気違いであると同様に、かれは気違いであると見なしたいと思う。つまり、それは、わたくしがそのよう な存在を完全に人間であるとは考えないということである。この種の事例によって、普遍的な ――ないしはほとんど普遍的な――諸価値を認知する能力が、「人間」、「合理的」、「正気 の」、「自然的」等々の基本的概念の分析には入りこんでくることが明らかにされるように思 われる。それらの概念はふつう価値評価にかかわるものでなく、記述的な概念だと考えられて おり、古いア・プリオリな自然法学説における真理の核心を今日経験的用語に翻訳する試みの 根底におかれているものである。記述的陳述と価値の陳述との間のまったく論理的な差別に対 する忠実な経験論者たちの確信をゆるがせ、ヒュームに由来するこの有名な区別に疑問を投じ たのは、新アリストテレス主義者やウィットゲンシュタインの後期学説の信奉者たちによるこ のような考察なのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.500-501,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)