レイプ、拷問、殺人テスト
ある政府、社会運動、ゲリラ軍、その他の組織的グループを非難もしくは支持に値するかを判断しようとするときに、まずこう質問する。彼らは、レイプ、拷問、殺人といった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか。人権侵害という言葉が事態を曖昧にする場合がある。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))
「「人権侵害」という言葉について考えてみよう。表面的にはこの言葉が何かを覆い隠し ていそうには見えない。
では、正気の人間が人権侵害を支持するだろうか。誰も支持しないの は明らかだ。
だが、不同意にも程度があって、この場合でいうと、たいてい人権侵害といわれ る事態を別の言葉で考えてみればその違いが明らかになる。 以下の文章を比較してみよう。
・「私は、自分たちの生死がかかった戦略命令を遂行するためなら、人権侵害を行う政権に対応し、場合によっては支持することすら必要であると考えている」
・「私は、自分たちの生死がかかった戦略命令を遂行するためなら、レイプ、拷問、殺人を行う政権に対応し、場合によっては支持することすら必要であると考えている」
この二番目の事例は確実に受け入れられない。これを耳にしたら、誰もが「この戦略命令は 本当に死活的なものなのか」、あるいは「そもそも戦略命令とは何か」と問いたくなるだろ う。
ここには、「権利」という言葉についてのかすかな据わりの悪さが込められている。
ほと んど「資格」に近く、まるで怒れる拷問の犠牲者たちが、自分たちの処遇に不満を言い、何か を要求しているかのようである。
僕としては、この「レイプ、拷問、殺人」テストと呼ぶものがとても有効なことがわかっ た。これはごく簡単なものだ。
ある政府であれ、社会運動であれ、ゲリラ軍であれ、あるいは 他の組織的グループであれ、何らかの政治的実体が出現し、それを非難もしくは支持に値する かを判断しようとするときに、まずこう質問するのだ。「かれらは、レイプ、拷問、殺人と いった行為に関与しているか、もしくは関与することを他の人間に命令しているか」。
これは 自明の問いのようにも思えるが、でもこうした問いは驚くほど稀にしか発せられない――問われ たとしても、せいぜいのところ恣意的にしかなされないのだ。
あるいは、このような問いを立 ててみると、世界政治の多くの問題について一般に広く受け入れられている見解がただちに覆 されることに気づいて、驚くだろう。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.140-141,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))
デヴィッド・グレーバー (1961-2020) |