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2022年5月21日土曜日

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的発言の事例による説明

「私はAをする意図を完全に固めている」と「私はAをすることを約束する」とは、自らの発言権限の根拠を保証し、他者に対して自己に義務を課す点で、異なる行為である。同様に「SはPであると完全に確信している」と「私はSがPであることを知っている」も異なる行為である。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))


(a)「私はAをする」
 (i)それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。
 (ii)そうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるが、故意に欺いていることにはならない。
(b)「私はAをする意図を固めている」
(c)「私はAをする意図を完全に固めている」

(d)「約束します(I promise)」 
 (i)単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うことによって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになる。
 (ii)私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利がある。
 (iii)私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになる。
 (iv)もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利があり、それに基づいて自分でも別の約束をすることができる。
 (v)あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならない。

(e)「SはPである」
 (i)信じていないのに言うならば、嘘をついていることになる。
 (ii)信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはならない。
(f)「SはPであると信じている」
(g)「SはPであると確信している」
(h)「SはPであると完全に確信している」
 (i)私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできる。

(i)「私は知っているのです(I know)」
 (i)「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。 
 (ii)私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではなく、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味しない。 
 (iii)誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではあるが、自分もまた知っていると言う権利が生ずる。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能である。
 (iv)あなたがあることを知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態を取る。

 


 「もし私が信じてもいないにもかかわらず「SはPである」と言うならば、私は嘘をついていることになります。もし私が信じてはいるものの確信してはいないのにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなるかもしれませんが、厳密には嘘をついたことにはなりません。もし私が「私はAをする」と言いつつ、それができるという期待を少しも持たず、そうする意図をまったく持っていないならば、私は故意に欺いていることになります。もし私がそうしようという意図を完全にはかためておらずにそう言うならば、私は人を誤らせるような語り方をしていることにはなりますが、先ほどと同じ仕方で故意に欺いていることにはなりません。  さてしかし、私が「約束します(I promise)」と言う場合には、新たな一歩が踏み出されることになります。私は、単に自分の意図を公言したのみにとどまるのではなく、この定型表現を使うこと(この儀式を遂行すること)によって、ある新たな仕方において他者に対する義務を自分に課し、自分の信望を賭けたことになるのです。同様に、「私は知っているのです(I know)」と言うこともまた、新たな一歩を踏み出すことであります。しかしそれは、「私は、信じることや確信することと同一の評価次元に属してはいるが、単に完全に確信することにさえも優ると評価される、特にきわだった認知上の偉業を達成した」と言うということでは《ありません》。なぜなら、この評価次元の上には完全に確信することに優るものなど何も《存在し》ないからです。それはちょうど、約束することが、期待することや意図することと同じ評価次元に属してはいるが、単に完全に意図を固めていることにさえも優るような何事かであるのではなく、しかもその理由がこの評価次元の上には完全に意図することに優るものなど何も《存在》しないからであるというのとまったく同様です。「知っている」と言う時、私は《自分の名誉にかけて相手に請け合っている》のであり、「SはPである」と《言う権限を私の名で授与している》のです。  私が「私は確信している」としか言っていない場合には、間違っていることが判明したとしても、「私は知っている」と言った場合と同じ仕方で他人から非難される謂われはありません。私が確信するのは私の側の事柄であり、あなたはそれを受け入れることも、受け入れないままでいることもできます。もし私が鋭敏で注意深い人間であると思うならば、それを受け入れればよいのであって、それはあなたの責任で決める事柄です。しかし、私が知っている場合には、それは「私の側の事柄」ではありませんし、私が「私は知っている」と言う時も、私はあなたがそれを受け入れることも受け入れないままでいることもできるということを意味してはいません(もちろん、あなたは実際には受け入れることも受け入れないでいることも《できはする》のですが)。同様にして、自分が完全にそうする意図を固めていると私が言うとき、私がそういう意図をもつことは私の側の事柄であり、あなたは、あなたが私の決意と運勢をどう評価するかに応じて、自分の行動を私の言葉に基づけるかどうかを決定することでしょう。しかし私が約束すると言った場合には、あなたには自分の行動を私の言葉に基づける権利があります(あなたがそうすることを選ぶかどうかは別の問題です)。私が「私は知っている」とか「私は約束する」とかと言った場合には、それを受け入れることを拒むならば、あなたは特殊な仕方で私を侮辱することになります。われわれは皆「知っている」と言うことと「《絶対の》確信がある」と言うこととの間にさえもきわめて大きな相異を《感じとります》。それは、「約束する」と言うことと「堅固かつ決定的な意図を固めている」と言うこととの間にある相異と似ています。もし誰かが私にAをすることを約束するならば、私はその約束をあてにする権利がありますし、それに基づいて自分でも別の約束をすることができます。またそれゆえ、誰かが「私は知っている」と私に言った場合にも、私には、人づてにではありますが自分もまた知っていると言う権利が生じます。「私は知っている」と言う権利は、他の権限が分与可能であるのと同じ仕方で分与可能です。だからこそ、私が軽々しくそう言ったりすれば、《あなたを》トラブルに巻き込んだことの責任を取らなければならなくなることもありうるのです。  あなたが《あること》を知っていると言った場合、それに対するもっとも直接的な疑問提起は、「知ることのできる立場にいるのか(あるいは、いたのか)」を問うという形態をとります。すなわち、あなたは単にあなた自身がそのことを確信しているということのみではなく、そのことがあなたの知識の及ぶ範囲にあるということを示すことを引き受けなければならないのです。同様の形態の疑問提起は約束の場合にもあります。完全に意図を固めているということだけでは十分ではありません。あなたは「自分が約束できる立場にある」ということ、すなわち、そのことがあなたの力の及ぶ範囲にあるということをも示すことを引き受けなければならないのです。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『オースティン哲学論文集』,4 他人の心,pp.146-148,勁草書房(1991),山田友幸,坂本百大(監訳))
(索引:)

オースティン哲学論文集 (双書プロブレーマタ)











(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Propositions of great philosophers) 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)