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2022年1月22日土曜日

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

自ら創造したもの

《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作るのだから、人間は自分たち の歴史は理解できる。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)














「(2)《もの》を作りまた創造する人は、単なる《もの》の観察者にはできぬような具合 に、その《もの》を理解し得る。人間はある意味で人間自身の歴史を作る(ただし、この種の 作りかたがどのようなものかは完全には明らかにされていないが)のだから、人間は自分たち の歴史は理解できるが、外部の自然の世界は、人間が作ったものではなく、単に観察し解釈し ているにすぎぬものである以上、人間自身の経験や活動を解し得るようには、人間には理解し得ぬものである。ただ神のみが、自然を作られたがゆえに、自然の世界を完全に、一から十ま で、理解し得るのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))

人間本性の可変性

人間の本性は、静止的、不可変なものではない。様々な変化を通じても同一不変たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ言えない。人間自身の努力は、不断に人間の 世界と、人間自身とを変化させてゆく。 (ジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744))



ジャンバッティスタ・ヴィーコ
(1668-1744)





















 「では、その時間の浸蝕を退けた考えとは何か、と問われるであろう。ヴィーコの場合につ いては、わたくしの眼に最も刮目すべきところと思われるものを、7つの命題の形で要約させ て頂こう。  (1)人間の本性は、永らくそう思われてきたように、静止的、不可変なものではない、いや 外力によって変えられたことがなかったとさえいえない。さまざまな変化を通じても同一不変 たり続けるような中心の核や精髄を含んでいるとさえ云えない。自分をとりまく世界を理解 し、それを自らの物理的・精神的要求に適合させようとする人間自身の努力は、不断に人間の 世界と人間自身とを変化させてゆく。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヴィーコとヘルダー』,序説,p.13,みすず書房 (1981),小池銈(訳))


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想であるとする思想がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

客観的な価値は存在するのか

課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む。将来の課題は予知できない。人間の目的は創造されるのであって発見されるのではない。人は、自由への恐れから、客観的な道徳的原理や客観的権威を求めるが、それは幻想である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)課題の解決は人々を変え、新たな課題を生む
 ある時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしている人々および解決案が適用される人々をともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問題が創り出されることになる。
(2)将来の課題は予知できない
 歴史的地平によって制約された人 間が、将来の人々の課題や諸問題を予知をすることはできず、まして分析や解決などはできない。
(3)目的は創造されるのであって発見されるのではない
 行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「何をなすべき か」という問いに対する答えは、発見されることはできない。(主観主義、非合理主義、ロマン主義)
 (a)解答は行動にある
  その問いがそもそも事実に関する問いではなく、解答が、命題あるいは定式、客観的な善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係を発見することにはなくて、行動のうちにある。
 (b)意志、信仰、創造の行為
  発見されるのではなくて発明しかされえない何ものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ。

(4)客観的な価値論への批判
 (a)自由への恐怖
  客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖、ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖に由来する。
 (b)道徳的原理、客観的権威、形而上学的宇宙論
  この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの、永遠の真正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれる。


「もう一方の側には、なんらかのかたちの原罪とか、人間の完成の不可能性を信じるひとた ち、それゆえ、いちばん根本的な人間の諸問題に対する最終的な解決の経験的達成の可能性に は懐疑的な傾向のひとたちがいる。そのなかには、懐疑論者、相対主義者がおり、また、ある 時代または文化の問題を解決しようとする努力そのものが、当の努力をしているひとびとおよ び解決案が適用されるひとびとをともに変えてしまい、それによって新しい人間、新しい諸問 題が創り出されることになるのだから、その性格をかれらの歴史的地平によって制約された人 間が今日予知することはできず、まして分析や解決などはできないと信ずるひとたちも入る。 さらにまたこれには、多くの党派の主観主義者や非合理主義者も、とりわけロマン主義的な思 想家たちが属する。かれらは、行為の目的は発見されるのではなく、芸術の仕事と同じように 個々人、または文化、または国民によって創造されるものなのであって、「なにをなすべき か」という問いに対する答えは発見されることはできない。それは、答えを発見することがわ れわれの能力を超えているからではなく、その問いがそもそも事実に関する問いではなく、発 見されるかどうかはともかく、解答が、現にあるなにものか――命題あるいは定式、客観的な 善、原理、客観的あるいは主観的な価値体系、心と心でないなにものかとの関係――を発見する ことにはなくて、行動のうちにある。つまり、発見されるのではなくて発明しかされえないな にものかのうちに、あらかじめ存在する規則や法則、事実などには従属しない意志あるいは信 仰あるいは創造の行為のうちにあるからだ、と考える。さらにここは、ロマン主義の20世紀に おける継承者である実存主義者たちも加わる。かれらは、行動に対する個人の自由な関与、あ るいは自由に選択する発動者によって決定される生活様式というものを信じ、そうした選択は 客観的基準を考慮に入れないと考える。というのは、客観的基準などというものは幻想の一形 態ないし「虚偽意識」の一形態であるとされ、そうしたこしらえごとを信ずるのは、心理学的 には自由の恐怖――ひとり放り出され、自分だけの工夫にまかされることへの恐怖――に由来する とされるからである。この恐怖によって、道徳的あるいは知的な規則とか原理とかの永遠の真 正性を保証する客観的権威を要求する諸体系、またはまがいものの神学的ないし形而上学的宇 宙論の無批判的容認へと導かれるのだというのである。それからまた、運命論者や神秘主義 者、ならびに偶然が歴史を支配すると信ずるひとびとや他の非合理主義者なども、これに近い ところにいるばかりでなく、非決定論者とか、不変的法則にしたがう固定的な人間本性を発見 することができるかどうかに疑問を抱く困惑せる合理主義者なども、これに近いわけである。とくに、人間の将来の必要なりその充足なりは予示しうるという命題は、新しい行動の道をた えずきり拓いてゆくという前提――これはわれわれが人間というときに意味されているものの定 義そのもののなかに入っている前提である――によって必然的に意志とか、選択とか、努力と か、目的とかの概念を含んでくるところの人間本性観には適合しないと考えるひとびとは、そ うである。これは、現代のマルクス主義者がとっている立場であるが、かれらはその学説のよ り粗野な通俗版に対して、自分たち自身の前提や原理の内包するものを理解するにいたったの である。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,III,pp.475-477,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

信念と価値の問題

信念や価値の問題もまた理性の対象である。我々は何を信じているのか、信じている理由はなにか、その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。人間と社会、政治を、動機と理由による正当化と説明を求める理性的な好奇心が存在する限 り、政治理論が展開される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)信念や価値の問題もまた理性の対象である
 事実において我々の信念を因果的に決定しているものが何であれ、以下のことを知ろうと欲しないのは、我々の理性能力を理由なく放棄することである。
 (a)我々は何を信じているのか。
 (b)信じている理由はなにか。
 (c)その信念が形而上学的に含意するものはなにか。
 (d)その信念は、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか。
 (e)その信念は、どのような価値と真理との規準を含んでいるか。
 (f)その信念が、真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか。

(2)目的と理由による正当化を求めること
 理性的な好奇心、すなわち単に因果関係、函数的相関関係、統計的蓋然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ちが存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう。

(3)新しい予言不可能な未来 への展開
 新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、それらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。



「われわれは、たいていは制御できない、そしておそらくはわれわれの知識をも超えた環境 によって、非理性的に信じているものを信ずるように条件づけられているのであろう。しか し、事実においてわれわれの信念を因果的に決定しているものがなんであれ、われわれがなに を信ずるか、その理由はなにか、そうした信念が形而上学的に含意するものはなにか、他のタ イプの信念といかなる関連をもつか、それはどのような価値と真理との規準を含んでいるか、 またそれを真理であり妥当性をもつと考えるのにどんな理由があるか、といったことを知ろう と欲しないのは、われわれの論究する理性能力を理由なく放棄する――自然科学と哲学的研究の 混同に基づいて――ことであろう。理性的であるとは、ひとが考えることができ、また理解しう る理由によって行動することができる、しかもその理由はたんに、「イデオロギー」を生み出 す隠れた諸原因の産物として理解されるのではなく、その犠牲によってはどうあっても変えられない、という信念に基づく。理性的な好奇心――たんに因果関係、函数的相関関係、統計的蓋 然性などによるのみではなく、動機と理由による正当化と説明を求める気持ち――が存在する限 り、政治理論が完全にこの地上から消え失せることはないであろう、たとえ社会学、哲学的分 析、社会心理学、政治科学、経済学、法律学、意味論、等々の多くの競争相手がその空想的領 域を放逐し去ったと主張するにしても。  歴史上はじめて文字通り全人類が、まさにそれこそこの政治理論という研究部門の唯一の存 在理由であり、またつねにそうであったところの論点によって、烈しく対立させられている時 代に、政治理論がかくも日陰的生存を強いられているかに見えることは、まことに奇妙なパラ ドックスである。しかし、これで万事が終わるとは信じられない。新マルクス主義、新トマス 主義、国家主義、歴史主義、実存主義、反エッセンシャリスト的自由主義、社会主義、また自 然権・自然法学説の経験的用語への移しかえ、経済学からのモデルおよび関連技術の政治的行 動への巧みな適用による諸発見、これらの諸観念の行動における衝突・結合・影響、等々、そ れらは大きな一伝統の死を指示するのではなく、いずれかといえば、新しい予言不可能な未来 への展開をこそ示唆するものであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由論』,IX,pp.511-512,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の特質

過去の政治学説は、社会状況が課す問題、目標、価値観に基づく人間と社会の理論であり、人間や環境が根本的に変わらず現に今日ある通りのものである間は、現実の諸条件が人間のどの側面を際立たせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「その二、三の実例としては、カール・ポッパー教授のプラトンの政治理論に対する攻撃、 アーヴィング・バビットのルソーに対する痛烈な論難、シモーヌ・ヴェーユの旧約聖書の道徳 に対する烈しい嫌悪、今日しばしば行われている18世紀の実証主義ないし政治理論にける「科 学主義」に対する非難・攻撃、などを挙げることができよう。古典的な構成体のあるものは相 互に衝突し合うものであるけれども、それぞれが恒久的な人間の諸属性に関する生き生きとし たヴィジョンに基づき、各世代のある探究者たちの心を満たしうるものであるかぎり、いかに時間的・空間的環境が異なろうとも、プラトンやアリストテレスのつくったモデル、またユダ ヤ教、キリスト教、カント的自由主義、ロマン主義、歴史主義、等のモデルは、みな生きなが らえて、今日もさまざまな形で相争うているのである。  人間や環境が根本的な変化をとげるとか、われわれの人間観に革命的変化をもたらすような 新しい経験的知識が獲得されるとかしたならば、そのときにはきっと、これらのモデルのある ものは関連性を失い、エジプト人やインカ人の倫理や形而上学のように忘れ去れることであろ う。だが、人間が現に今日ある通りのものである間は、論争は、これらのヴィジョンなりそれ と同様の他のヴィジョンなりによって設定された用語でつづけられてゆくであろう。そしてそ のそれぞれは、現実の諸条件が人間のどの側面を際だたせるかに応じて、優勢になったり劣勢 になったりするであろう。ただひとつ確実なことは、哲学的問題とはなんであり、それは経験 的あるいは形式的問題とどのようにちがうか(もっともこの相違は必ずしも明確なものでなく てもよいので、重なり合ったり、あるいは境界線上にある問題は多々ある)を理解している、 また少なくとも感知しているひとびとにとってのほかは、その解答――いまここでの場合には西 洋の主要な政治学説――は、知的幻想、超然たる哲学的思弁、現実の行為ないし事件にたいして 関わりのない知的構成物と思われることであろう。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.507-508,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間観を支持する諸価値

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



参考:意図と解釈


「われわれが人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー(およびそれに対応する概念) ――社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真 理、幻想、等々(以上はまったくアット・ランダムに挙げただけだが)の観念――は、帰納の問 題でも、仮説の問題でもない。あるひとを人間として考えること、そのこと自体によって、こ れらすべての観念が働かされることになる。したがって、あるひとが人間であると言っておき ながら、そのひとに選択とか真理の観念とかがなんの意味ももたないというのは、奇妙であろ う。それは、たんに言葉の上だけの定義(それならば意のままに変えられる)としてではな く、われわれがものを考える仕方、また(ありのままの事実として)われわれが考えざるをえ ないその仕方に本質的なものとして、「人間」というときに意味しているものと衝突すること になろう。  これにはまた、それによって人間が定義される価値(とりわけ政治的価値)も保持されてい るであろう。だから、もしわたくしがあるひとについて、かれは親切だとか、残酷だとか、か れは真理を愛するとか、真理には無関心だとか言うならば、そのひとはいずれの場合にもやは り人間的ではあるのである。ところが、もしわたくしが、そのひとにとっては石をけとばすこ とも家族を殺すことも、いずれも倦怠ないし無為への反対であるがゆえに、文字通りなんの差 別もないようなひとを見出したとしたら、わたくしは首尾一貫した相対主義者のように、たん にわたくし自身ないし大多数のひとびとのそれとはちがった道徳がかれにあるからだと考えた り、われわれは肝心な点で意見がくいちがっていると言ったりしないで、かれは精神異常であ り、非人間的であると言おうとするであろう。自分はナポレオンだと考えるひとが気違いであると同様に、かれは気違いであると見なしたいと思う。つまり、それは、わたくしがそのよう な存在を完全に人間であるとは考えないということである。この種の事例によって、普遍的な ――ないしはほとんど普遍的な――諸価値を認知する能力が、「人間」、「合理的」、「正気 の」、「自然的」等々の基本的概念の分析には入りこんでくることが明らかにされるように思 われる。それらの概念はふつう価値評価にかかわるものでなく、記述的な概念だと考えられて おり、古いア・プリオリな自然法学説における真理の核心を今日経験的用語に翻訳する試みの 根底におかれているものである。記述的陳述と価値の陳述との間のまったく論理的な差別に対 する忠実な経験論者たちの確信をゆるがせ、ヒュームに由来するこの有名な区別に疑問を投じ たのは、新アリストテレス主義者やウィットゲンシュタインの後期学説の信奉者たちによるこ のような考察なのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.500-501,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学の成立条件

政治哲学は、諸目的がたがいに衝突しあうような世界においてのみ、それは原理的に可能である。なぜなら、諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、手段についての議論は、技術的なもの、つまり科学的・経験的な性格のものとなるからである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)諸価値が対立せず一つの目標しか存在しなければ、政治哲学は不要となる
 ただ一つの目標によって支配されている社会においては、目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。


「ところで、このことは、少なくともひとつ重要な問題が含まれている。もしも「いかなる 世界において政治哲学――それを存立せしめるような議論や論議――は原理的に可能であるか」と いうカント的な問題が提起されるならば、「諸目的がたがいに衝突しあうような世界において のみ、それは原理的に可能である」というのがそれに対する答えでなければならない。ただひ とつの目標によって支配されている社会においては、原理的にはこの目的に到達する最上の手 段についての議論だけしかありえないはずであり、そうした手段についての議論は技術的なも の、つまり科学的・経験的な性格のものである。それは経験と観察とによって確定され、その 他の方法を用いても原因や相関関係を発見することができる。それは、少なくとも原理的に は、実証科学に還元されうるものである。そのような社会にあっては、政治的目的とか価値と かについての深刻な問題は生じえないので、ただ目標に達するためのもっとも効果的な道はな にかという経験的な問題しかないわけである。」(中略)「以上のようなわけで、伝統的な意 味における政治哲学、すなわち、たんに諸概念の明瞭化ということだけではなく、前提とか暗 黙裡の想定とかの批判的検討、先後の順序や究極目的などの究明にたずさわる研究が可能であ るような唯一の社会は、あるひとつの目的が全体には受けいれられていない社会であるという ことになる。ただひとつの目的が全体に受けいれられないことの理由はさまざまありうるであ ろう。単一の目的がじゅうぶんなだけ多数のひとびとによって受けいれられなかったとか、他 の諸価値がいつかひとびとの理性なり感情なりを引きつけないという保証は、原理的には、あ りえないゆえに、あるひとつの目的を究極的と見なすわけにはゆかないからとか、いかなる終 局的な単独目的も発見しえない――ひとが多くのちがった目的を追求しうるものである限り、そ のうちのひとつ、あるいは一部が、そのひとたちお互いにとって終局的な単独目的の意味をも つことはないからとか、その他。これらの目的のうちのあるものは公共的ないし政治的な目的 であるかもしれない。それらのすべてが、原理的にも、相互に矛盾なく両立するものでなけれ ばならぬと考えるべき理由はない。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.467-469,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論と価値観の問題

伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。これらは、規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とし、様々な見解が主張される。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)政治理論は規範の正当化にかかわるため人間観、社会観、価値観を基礎とする
「どうして人は服従するのか」という問題は経験的心理学、人類学、社会学の問題である。これに対して、「どうして人は、だれか他の人に服従しなければならないのか」という問題は、権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めている。

(b)基礎となる価値観が異なると諸概念も根本的に異なる
 (i)いくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がない。
 (ii)諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、または何なのか、等々に関しては大きな見解の相違がある。
 (iii)価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。
 (iv)権利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろう。



「伝統的な政治理論の核心をなす諸問題のなかには、たとえば、平等の性質に関する問題、 権利、法、権威、規則などに関する問題がある。われわれはこれらの概念を分析する必要があ り、またこれらの表現がわれわれの言語においてどのように機能するか、あるいはそれらがい かなるかたちの行為を命令し、禁止するか、またそれはどうしてか、あるいはそれらはどのよ うな価値体系ないし世界観に適合するか、またそれはどのようにしてか、といったことを追求 してゆく。おそらくあらゆる政治的問題のうちでもっとも基本的な問題は、「どうしてひと は、だれか他のひとに服従しなければならないのか」という問題であるが、この問いをわれわ れが発するとき、われわれが問うているのは「どうしてひとは服従するのか」という問題――こ れは経験的心理学、人類学、社会学が答えることができよう――ではないし、また「だれがだれ に服従するのか、いつまたどこで、それはいかなる原因によって決定されるか」という問題―― これもまたほぼ右の諸学の分野から引き出される証拠によっておそらく答えられるだろう――で もないのである。どうしてひとが服従しなければならないのかと問うときには、われわれは、 権威とか主権とか自由とかの観念における規範的なるものの説明、また政治的議論におけるそ れらの観念の妥当性の正当化を求めているわけなのだ。その名において命令が発せられ、ひと が強制され、戦争が行われ、新しい社会がつくられ、古い社会が破壊される、そういう言葉が ある。その言語表現は、今日のわれわれの生活において他のいかなるものにも劣らぬ大きな役 割を演じている。こうした問題が一見哲学的であるのは、そこに含まれているいくつかの概念 の意味について広汎な意見の一致がないという事実によるのである。それらの分野における行 動の真の理由はなんであるのか、どうしたら適切な諸命題が確立されうる、さらにはもっとも らしいものにされうるのか、それらの諸問題を決定する公認の権威はだれなのか、またはなん なのか、等々に関しては大きな見解の相違があり、したがって、真の公共的批判と転覆との境 界線、あるいは自由と抑圧との区別、等々についてもなんら意見の一致は見られない。こうい う問題に対して相容れることのない解答がさまざまな学派なり思想家なりによって提出されつ づけている限り、この分野における一科学――経験的にせよ形式的にせよ――の確立の見通しは、 前途ほど遠しの感がある。実際、価値概念の分析に関する意見の不一致は、時としてさらに根 本的な差異から生じてきていることは明らかであるように思われる。というのは、たとえば権 利とか正義とか自由とかいう観念は、有神論者と無神論者とではまるきりちがったものになる だろうし、機械論的決定論者とクリスト教信者、ヘーゲル主義者と経験論者、ロマン主義的非 合理主義者とマルクス主義者、等々でも根本的にちがうものになるであろうからである。さら にまた、これらの差異が、少なくも一見したところでは、論理的であるか経験的であるかとい うのではなく、ふつうは、いかんともしがたく哲学的なものとして類別される――そしてそれが 正当である――ようなものであったということも、同じく明らかなことのように思われる。」 

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,II,pp.466-467,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治理論の理解

過去の政治理論を理解するには、その理論を支えている基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題を、想像的洞察力によって解明する必要がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)基礎概念、範例、モデル、人間観、問題・課題
 想像的洞察力によって、以下を理解しなければ、政治理論を理解できない。
 (a)意識的あるいは無意識的に諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を理解すること。
 (b)いかなる人間観が織り込まれているか理解すること。あるいは、特定の要素が人間観から欠如しているかを理解すること。
 (c)人間の思想や行動を理解することは、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだ。
 (i)これらの諸問題が、古くから今日まで広く認められ た問題なら、その支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、理解することができるだろう。
 (ii)政治理論ではよくあるように、そうでない場合には、人間観、モデルの理解が必要となる。
 (iii)今日では廃棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。

(2)道徳理論、社会理論、政治理論
 個人の問題だけに局限すれば道徳理論、集団の問題に限定すれば社会理論、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定すれば政治理論である。

(3)例として国家とは何か
 (i)国家は我々の罪のためにのみ与えられたものだ。
 (ii)国家は我々が大人 になり自由になってそれなしで済ませるようになるために通過しなければならない学校のようなものだ。
 (iii)国家は一箇の芸術作品だ。
 (iv)功利的に考案された装置だ。
 (v)自然法の具体的現実化である。
 (vi)支配階級の委員会である。
 (vii)自己展開する人類の精神の最高の段階である。
 (viii)ひとつの犯罪的な愚行である。
 (ix)国家は神聖なものだ。

「意識的あるいは無意識的にそれら諸種の見解を支配しているモデル、範例、概念構成を検 討し、そこに含まれているさまざまな概念やカテゴリーを、たとえばその内的首尾一貫性とか 説明能力といった点について比較するならば、そこでやっていることは心理学でも、社会学で も、論理学でも、認識論でもなく、われわれが個人の問題だけに局限するか、あるいは集団の 問題に限定するか、あるいは政治的と分類される特別の人間配置の諸類型の問題に限定する か、またはそれら全部を同時に取り扱うかによって、道徳理論、あるいは社会理論、あるいは 政治理論、または同時にその全部であるわけである。いかに多くの綿密な経験的観察や大胆で 実り豊かな仮説を以てしても、国家を神聖な制度だとするひとびとがなにを見ているのか、か れらの言葉がなにを意味し、現実とどのように関係するのかを説明してはくれないだろう。ま た、国家はわれわれの罪のためにのみ与えられたのだというひとたち、国家はわれわれが大人 になり自由になって、それなしですませるようになるために通過しなければならない学校のよ うなものだというひとたち、あるいは国家は一箇の芸術作品だといい、いやそれは功利的に考 案された装置だといい、また自然法の具体的現実化であるといい、さらに支配階級の委員会で ある、自己展開する人類の精神の最高の段階である、ひとつの犯罪的な愚行である、等々というひとたちが、いったいそれでなにを考えているのかを説明してはくれないであろう。もしわ れわれが、これらの政治的見解のうちにいかなる人間観(あるいはその欠如)が織り込まれて いるか、またそれぞれにおいて支配的なモデルはなんであるかということを理解する(ふつう 小説家たちが論理学者たちよりも高度にもっているような想像的洞察力によって)のでなけれ ば、われわれは自分たちの社会、いやおよそいかなる人間社会をも理解することはないであろ う。またストア派やトマス主義者たちを支配していた、あるいは今日のヨーロッパのキリスト 教的民主主義者たちを支配している理性観や自然観、またアジア・アフリカにおける国家的・ マルクス主義的運動を前進させつつある、あるいはやがて前進せしめるであろうところの神聖 なる戦いの核心にあるまるきりちがったイメージ、また西洋の自由主義的・民主主義的妥協に 生命を吹きこんでいるこれまたちがったイメージ、そのいずれをも理解することはないであろ う。  人間の思想や行動を理解することは、大部分、人間がどんな問題、難問題と取り組んでいる かを理解することだとは、今日ではもう言うまでもないような陳腐な言である。経験的であれ 形式的であれ、これらの諸問題が、今日まで用いられているほどに、古くから、広く認められ た、安定した現実のモデルによって考えられているならば、われわれはその支配的なカテゴ リーにはっきりと言及しなくとも、その問題、難点、解決の試みを理解することができる。と いうのは、これらのカテゴリーはわれわれおよび過去の諸文化に共通のものであって、表面に 出しゃばってこず、いわば見えないところにひそんでいるからである。そうでない場合(そし てこれが政治についてとくに当てはまるのだが)、モデルはおとなしく引っ込んでいない。そ れを構成するいくつかの概念はもはやなじみのものではないからである。しかし、今日では廃 棄され、すたれてしまったモデルに支配されていたひとびとの精神状態にわが身を置いてみる だけの想像力と知識がなければ、それを中心にしていた思想と行動とはわれわれには不分明な ままにとどまるだろう。この困難な操作を行わないことが、多くの思想史の特色となってお り、思想史を表面的な文献的訓練か、あるいは奇妙な、時としてはほとんど理解しがたい誤謬 や混乱の死せるカタログか、のいずれかにしてしまっているのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.503-505,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)