自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))
「人間に特有な能力の一つは、自分をある状況において対象とみなすだけでなく、ある一定種類の存在としての持続的な概念化と自らのアイデンティティを自らの内面にもちつづけうる力である。
自己言及活動(self-referential behavior)を行うことができるという人間の能力は、相互作用に新たな次元を付け加えるが、この能力は人間の感情装置を抜きにしては成り立たない。
確かに、一定水準の新皮質の発達が自己の中程度の期間にわたる記憶保持にとっての基本であるが、しかし自己認知は古生的な皮質下辺縁系の過程に起因する感情標識と感情価によってのみ可能である。
感情を抜きにして人間はワーキング・メモリー内にわずか数秒間しか自己イメージを維持できず、あるいはより安定し、一貫したアイデンティティを保持できないことが認識できると、われわれはヒト科の感情能力と自己に関わる能力とが互いに他者を情報源として利用するように紡ぎあわされていることを知ることになる。
自己を評価するために、より多くの感情が利用できるようになると、行動反応を組織するための自己の重要性がますます拡張することになった。
そして自己が相互作用にとって基本的であるほど、感情の精巧化は自己に媒介された対人関係によってますます制約されていった。
感情の精巧化が社会性の低い類人猿の集団連帯を増加するための基盤であったとすれば、こうした感情は自己意識的な個人をめざす必要があったはずである。
いっそう感情的に適応した動物にあって、道徳記号、肯定的ならびに否定的裁可の使用、協同的交換、および意思決定に向けて感情を動員し、また経路づけることは、感情価によって自分自身と他者をみつめ、評価できる能力なくして起きるはずはない。
社会統制と、こうした統制によって可能になる調整は、個人による自己制御によってもっともよく達成される。こうした個人は自分を対象とみなし、また道徳記号と他者の期待に応答する自己評価を介して一つづきの行動について意思決定を行う。
自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第5章 どのような種類の感情動物であるか、pp.190-192、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))