ページ

2024年4月8日月曜日

17. 神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「《宗教的な》人間とは、単独者として、唯一者として、孤立者として神の前に歩んでゆく者だというようなことが語られている。

なぜなら彼は、この世界の義務と負い目になおも服しているような《倫理的》(sittlich)な人間の段階をも通りこえてしまっているからである、と。

倫理的な人間はまだ、行為者としての自分の行為にたいする責任という重荷を明らかに背負っているが、それは彼が存在と当為のあいだの緊張によって全く規定されているからで、だから彼はこの両者のあいだの埋められぬ深淵のなかへグロテスクにも絶望的な犠牲心から、自分の心の切れはしを次々に投げいれる、……

《宗教的な人間》はしかし、そうした緊張を脱して、世界と神とのあいだの緊張のなかへふみこんでいる、というわけである。」(中略)  

「だがこれは、神が世界を仮象たるために、そして人間を酩酊者たるために創造したと思い誤っているものである。

たしかに神の顔前に歩みよる者は、犠牲や負い目を通りこえてはいる、――しかしそれは、彼が世界から遠ざかったからではなくて、彼が世界に真に近づいたからである。

われわれが世界に義務と負い目を感ずるのは、世界が疎遠なものである限りにおいてであって、親密なものである世界にはわれわれは、ただ愛によってのぞむのだ。

神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。そのとき世界と神とのあいだにはもはや緊張は存在せず、ただ《唯一》の現実だけが存在するのだ。

といっても、このとき人間は責任から解除されているわけではない。ただ彼は、限定された、おのれの効果を気がかりに追跡するような責任がもたらす苦痛を、無限なる責任というものの振動力と取り替え、またそれを、感取し得ぬ世界現象全体にたいする愛にみちた責任の力と取り替え、神の顔前において世界のなかへ深く引きいれられるということと取り替えてしまったのである。

たしかに彼は、倫理的判断なるものを永遠に廃棄してしまったのだ。

このとき彼にとって《悪しき人間》とは、より深くそのひとにたいする責任が彼に託されているところの人間、よりいっそう愛を受けることを必要としているところの人間にほかならない。

だが、彼は彼の自発性の深みにおいて、正しき行為への決断を死にいたるまでなし続けねばならないであろう。正しき行為にたいする、ゆとりのあるたえず新たな決断を。

ここでは行為は無意味なのではない。それは求められ、使命としてあたえられ、役立てられ、創造のわざにその一部分としてつらなっている。だが、こうした行為はもはや世界にたいする義務として課されているのではなく、世界との触れあいから、あたかも無為であるかのように生じてくるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.143-146、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話