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2022年2月12日土曜日

芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。まさに今、創造する。人生の目的も、また然り。それは行動である。今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することであると思われた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由な創造としての芸術

芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。まさに今、創造する。人生の目的も、また然り。それは行動である。今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することであると思われた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




「芸術家が芸術作品の創造に取り組んでいる時、彼は――俗説はその逆の見方であるが――何か あらかじめ存在しているモデルからいわば転写するのではない。画家が描く前、あるいは構想 する前に、画はどこにあったのか。作曲家が構想する前に、シムフォニーはどこにあったの か。歌手が歌う前の歌はどこにあったのか。このような問いは無意味である。それは、「私が 散歩する前の散歩道はどこにあったのか」、「私の生きる前の私の生はどこにあったのか」と 問うのと似ている。生とはそれを生きることであり、散歩とはそれを散歩すること、歌は私が 作曲、あるいは歌う時に、私の作曲し歌うものである。私の行動とは別の何ものかではない。 創造とは、何かすでに与えられている固定的で永遠のプラトン的パターンを写そうとする行為 ではない。写すのは職人だけのすること、芸術家は創造するのである。  これが自由な創造としての芸術の理論である。私はそれが真理であるかどうかには関心がな い。関心があるのは、この何か発見するのではなく発明するものとしての目標ないし理想とい う観念が西欧思想の支配的範疇となったという事実である。これは人生の目的についてのある 捉え方を前提にしている。そこでの人生の目的は、独立に客観的に存在するものではない。あ たかも埋められた財宝のように、発見されるかどうかはともかく、それ自体として存在し、人 間が探し求めることのできるようなものではない。それは行動――行動としての形、質、方向、 目的を持った――である。何か作られたものではなく、すること、あるいは作ることそのもので ある。それは、行為をしている行為人、発明者、政治生活に入り込み、それを転換させていっ た。それは、政治行動は既存の公的基準で測定されるという古い理想にとって代わった。公的 基準は宇宙の客観的構成要素の一つであり、具眼の士、賢者や専門家ならはっきりと看取でき るし、むしろ彼らは賢者、専門家と呼ばれていたのである。しかし、今や人の目的はいかなる 代価を払っても自分の内なる個人的なヴィジョンを実現することである。このようなヴィジョ ンが他人にどのような影響を与えるかは、彼の関心事ではない。彼は自分の内なる光に忠実で なければならない。彼の知っていること、彼の知る必要のあることはそれだけ、それがすべて である。芸術家は自分の職業をもっと強く意識しているというにすぎない。哲学者、教育者、 政治家も強く意識している。しかしその意識は、すべての人にあるものである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ヨーロッパの統一とその変転』,IV,収録書籍名 『理想の追求 バーリン選集4』,pp.218-220,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),松 本礼二(訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)