思想
【思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】(再掲)(3.1)~(3.5)追記
意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。
時刻1 思想1⇒意志1
│ │
↓ ↓
時刻2 思想2⇒意志2
(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
(3.1)思想が私の念頭に浮ぶ。意識にとって、あらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をする。
(3.1.1)一群の感情、欲求、反感によって取りまかれている。
(3.1.2)一群の他の思想によって取りまかれている。
(3.2)一切の思考には、ある多数の諸人格が関与しているように見える。
(3.2.1)多義的な思想を純化し、それが何を意味しているのかが問われる。
(3.2.2)それが何を意味してもよいのかが問われる。
(3.2.3)それは正しいのか、それとも正しくないのかが問われる。
(3.2.4)他の諸思想の助けを求め、その思想と比較される。
(3.3)かくして、思想は解釈が試みられ、限定され、確定されて一義的となる。
(3.4)これら一切が、急速に、しかも急ぎの感情なしでなされる。このとき私は確かに、事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。
(3.5)あらゆる感情に関しても事情は同様である。
(3.5.1)内蔵の窮状、血圧、交感神経の病的な諸状態、不確実な不快感、苦痛が刺激剤となる。
(3.5.2)私たちは、何らかの心的・道徳的な説明を探し求め、それを解釈する。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。
時刻1 衝動11⇔衝動12
│ ↓↑ ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
↓↑ ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
衝動23⇔衝動24
「思想は、それが発生するさいの形態においては、それがついに一義的となるまで、解釈を、より正確には、或る任意の制限や限定を必要とする一つの多義的な記号である。
思想が私の念頭に浮ぶ―――どこから? 何によって? このことを私は知らない。
思想は、私の意志から独立的に、通常、一群の感情、欲求、反感によって、また一群の他の思想によって取りまかれ曖昧にされて発生し、かなりしばしば「意欲」あるいは「感情」の働きとほとんど区別されえない。
ひとは思想をこうした一群のもののうちから引き出し、それを純化し、それをひとり立ちさせて、いかにそれがそこに立っているか、いかにそれが歩むかを、見るのだが、これら一切はすばらしく急速に、それなのにまったく急ぎの感情なしでなされるのだ。
《何者が》これら一切をなすのか―――私はそれを知らず、そのさい私はたしかに、こうした事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。
次いでひとはその思想を裁く、ひとはこう問うのだ、「何をこの思想は意味するのか? 何をそれは意味してもよいのか? それは正しいのか、それとも正しくないのか?」と―――ひとは他の諸思想の助けを求め、その思想を比較する。
思考は、このように、ほとんど一種の公正な処置ないしは審理たるの実を示すのであり、そこには、裁く者、相手方がおり、そのうえ証人訊問さえもあるのであって、この証人訊問には私はいささか傾聴する必要がある―――もちろんただ《いささか》にすぎない。
私はたいていのことを聞き落とすように見える。
―――あらゆる思想は最初には多義的にぼんやりと発生し、それ自体としては解釈の試みや任意の確定のための誘因としてしか発生しないということ、一切の思考には或る多数の諸人格が関与しているように見えるということ―――、
これはそうやすやすとは観察できないことであって、私たちは、根本においては、これとは逆の訓練を、つまり、思考のさいに思考のことを思考しないという訓練を受けている。
思想の起原は隠されたままである。思想が或るずっと包括的な状態の徴候にすぎないということの蓋然性は、大きいのだ。
まさしく《この思想が》発生して他の思想が発生しないということ、この思想、多かれ少なかれまさしくこれだけの明るさをもって、ときとしては確実かつ高びしゃに、ときとしては弱々しく支えを必要として、総じてつねに刺激的に、物問いたげに発生するということ
―――つまり意識にとってあらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をするのだが―――、
こうした一切のことのうちに私たちの総体的状態の幾分かが記号というかたちで表現されているのだ。
―――あらゆる感情に関しても事情は同様であって、感情はそれ自体として何かを意味するのではない。
感情は、それが発生するとき、私たちによってまず解釈されるのであり、そしてしばしば《なんと奇妙に》解釈されることか!
私たちにはほとんど「無意識的な」、内蔵の窮状のことを、下腹部における血圧の緊張のことを、交感神経の病的な諸状態のことを、まあ考えてみるがよい―――、かくて私たちが共通感官によってはそれについてほとんど一抹の意識をももっていないものが、なんと多くあることか!
―――解剖学に精通している者だけが、そうした不確実な不快感のさいに、諸原因の正しい種類や《部位》を推量する。
しかし、その他のすべての者たちは、それゆえ、人間が存在するかぎり、総じてほとんどすべての人間たちは、そうしたたぐいの苦痛のさいに、なんらの身体的な説明をも探し求めないで、なんらかの心的・道徳的な説明を探し求め、そして身体の事実上の不調に或る《偽りの根拠づけ》をなすりつけるのだが、これは、彼らが、彼らのもろもろの不快適な経験や危惧の圏内で、このようにぐあいがよくないことのなんらかの根拠を取り出してくることによってなのだ。
拷問にかけられるとほとんどあらゆるひとがおのれに罪のあることを告白する。
その身体的な原因がわからない苦痛のさいには、そういう苦痛の拷問にかけられた者は、この者がおのれか他人たちかに《罪のあることを認める》までずっと、しかもそのようにきびしく審問的にみずから尋問する、
―――これは、たとえば、不合理な生活法に付き物のおのれの不機嫌を、習慣上道徳的に、つまりおのれ自身の良心の呵責と解釈した清教徒が行なったのと、同様のことだ。―――」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一九八、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.119-121、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思想,感情)
(出典:wikipedia)
「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
きみたちの精神ときみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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