2018年4月6日金曜日

不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。しかし、偽なる善への愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまう。(ルネ・デカルト(1596-1650))

偽りの喜びや愛

【不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。しかし、偽なる善への愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまう。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 誤りに陥る偶然を避けえないこの人生の諸状況においては、かりに、不十分な根拠にもとづく場合であっても、喜びや愛は、悲しみや憎しみよりも望ましい。偽である喜びが、真なる理由にもとづく悲しみより、よい場合さえある。しかし、偽なる善への正しくない愛は、害をなしうるものへ、わたしたちを結びつけてしまい、わたしたちを卑しめ、貶めるからである。
 「なおまた、憎しみと悲しみは、真なる認識から生じたときでさえ、精神によって斥けられねばならないのだから、ましてや偽なる意見からきている場合はなおさらだ。しかし、愛と喜びとが、同じように誤った根拠にもとづいている場合には、それが善いか否か、と疑いうるし、愛と喜びが、それ自体において精神にとって何であるかを、他と切り離して考慮するならば、次のように言えると思われる。喜びは、それがより善い根拠にもとづく場合よりは不安定であり、愛も利点が少ないが、それでもやはり、同じく不十分な根拠にもとづく悲しみや憎しみよりも望ましい、と。したがって、誤りに陥る偶然を避けえない人生の諸状況においては、悪に向かっている情念よりは、善に向かう情念に傾くほうが、たとえ単に悪を避けるためであっても、いつの場合もはるかによい。さらに、偽である喜びが、真なる理由にもとづく悲しみよりもよい場合さえ、しばしばある。しかし、同じことを、憎しみとの対比において、愛についても言うことはできない。なぜなら、憎しみが正しいとき、それはただ、避けるべき悪を含んでいるものからわたしたちを遠ざけるだけなのに対して、正しくない愛は、害をなしうるもの、あるいは少なくともそれほど重要視する価値のないものへ、わたしたちを結びつけてしまい、わたしたちを卑しめ、貶めるからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四二、pp.120-121、[谷川多佳子・2008])
(索引:不確かな善への愛、偽なる善への愛)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも不可欠である。なぜなら、害を斥けるほうが、より完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悲しみと憎しみ

【悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも不可欠である。なぜなら、害を斥けるほうが、より完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 情念の効用は、身体の保存や、身体をいっそう完全にするのに役立ちうる行動にむけて、精神を促し同意と協力を与えることにある。この意味で、悲しみと憎しみは、喜びと愛よりも、不可欠である。なぜなら、害となり破壊するかもしれないものを斥けるほうが、なくても生きていけるなんらかの完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。
 「それらの情念は、自然の設定によって、すべて身体に関係し、精神が身体と結合されている限りにおいてのみ、精神に与えられる。したがって、情念の自然的な効用は、身体の保存に役立ちうる行動、なんらかのしかたで身体をいっそう完全にするのに役立ちうる行動にむけて、精神を促し同意と協力を与えることだ。」(中略)「悲しみは、ある意味で第一であり、喜びよりも不可欠である。そして憎しみは愛よりも不可欠である。なぜなら、害となり破壊するかもしれないものを斥けるほうが、なくても生きていけるなんらかの完全性を加えてくれるものを獲得するよりも、いっそう重要だからだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一三七、pp.114-116、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念の効用、喜び、愛、悲しみ、憎しみ)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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悪への憎しみは、真の認識に基づくときでも、やはり必ず有害である。なぜなら、この場合でも善への愛より行為することがつねに可能であるし、人における悪は善と結合しているからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悪への憎しみ

【悪への憎しみは、真の認識に基づくときでも、やはり必ず有害である。なぜなら、この場合でも善への愛より行為することがつねに可能であるし、人における悪は善と結合しているからだ。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 憎しみは、どんなに小さくてもやはり必ず有害である。それは、悪への憎しみに促されたいかなる行為も、善への愛に促されてより良くなされることが、つねに可能であるからだ。少なくとも、その善と悪が十分に認識されている場合はそうである。また、悪から遠ざける憎しみは、同じく、その悪が結合している善からもわたしたちを遠ざけることになるからである。
 「これと反対に、憎しみは、どんなに小さくてもやはり必ず有害だ。そして悲しみをともなわないことはけっしてない。憎しみは小さすぎることはありえない、とわたしは言うが、それは、わたしたちが悪への憎しみに促されていかなる行為をしようと、その行為は、悪の反対である善への愛に促されてより良くなされることが、つねに可能であるからだ。少なくとも、その善と悪が十分に認識されている場合はそうである。」(中略)「また、憎しみが悲しみをともなわないことはけっしてない、ともわたしが言うのは次の理由による。悪は、ある欠如にすぎないから、それの帰属する実在的主体なしには理解されえない。しかも、実在的なるものが存在するとすれば、必ずみずからのうちになんらかの善さを備えている。その結果、わたしたちをなんらかの悪から遠ざける憎しみは、同じく、その悪が結合している善からもわたしたちを遠ざけることになる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四〇、pp.118-119、[谷川多佳子・2008])
(索引:悪への憎しみ)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真理を知ることによる悲しみ

【自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 もし、喜び自体が最高の善ならば、たとえ自分に欠けている善があったとしても、それは是認されるだろう。しかし、思慮を重ねたあげく、自分に欠けている真理を知ることが、悲しみをもたらし不利益であったとしても、それを知らないことよりもより大きな完全性である。
 「私はときどき自ら疑問に思うことがあります。すなわち、自ら所有する善と所有しない善の正しい価値を知るためにさらに思慮と知識とを重ねたあげく、さらに悲しくなるよりも、現在所有する善が実際よりもより大きく、より価値があると想像し、自分に欠けている善を知らず、あるいはそれに心を留めもせずに楽しく満足している方が、よいのかどうかと。もし私が最高善は喜びであると考えるなら、どんな犠牲を払っても、自分を喜ばせるように努めるべきであることを疑わないでしょうし、不快を酒で紛らし、あるいはタバコで和らげる粗野な人たちを私は是認するでしょう。しかし私は、徳の実践に存する、あるいは(同じことですが)われわれの自由意志が獲得できるあらゆる善の所有に存する最高善と、その獲得から生じてくる精神の満足とを区別しています。それゆえ、それが不利益であっても真理を知ることは、それを知らないことよりもより大きな完全性であることを考えて、私は楽しさがより少なくても、より多くの認識をもつ方がよいと認めます。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年一〇月六日、pp.140-141、[山田弘明・2001])
(索引:思慮、真理、喜び、悲しみ)

デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)



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(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年4月5日木曜日

善への愛と悪への憎しみが、真の認識にもとづくとき、愛は憎しみよりも比較にならないほど善い。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の認識

【善への愛と悪への憎しみが、真の認識にもとづくとき、愛は憎しみよりも比較にならないほど善い。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「精神に関しては、まず認識から、愛と憎しみが生じ、これらが喜びと悲しみに先行する。ただし、喜びと悲しみがそれぞれ認識の種として本来の認識の機能をはたしている場合は別だ。そして、この認識が真であるとき、つまりその認識がわたしたちを愛するようにさせるものが真に善く、憎むようにさせるものが真に悪いとき、愛は憎しみよりも比較にならないほど善いのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一三九、p.117、[谷川多佳子・2008])
(索引:善への愛、悪への憎しみ)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
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ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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善・悪、美・醜には真・偽の区別があり、経験と理性を用いて認識することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真か偽か?

【善・悪、美・醜には真・偽の区別があり、経験と理性を用いて認識することができる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 身体に有害なものでも喜びさえ与えるものがあるし、不快なものでも身体に有用なものがある。そのうえに、情念はほぼいつも、その表象する善も悪も、実際よりはるかに大きく重要に見せる。したがって情念は、善を求め悪を避けるよう、適切さをこえた熱意と関心をもってわたしたちを促す。だからこそわたしたちは、経験と理性を用いて、善を悪から区別し、善と悪の正しい価値を認識しなければならない。

 「だがそれでも、情念の効用はいつでも善いとはかぎらない。

身体に有害な多くのもので、初めにいかなる悲しみも起さず、喜びさえ与えるものがあるし、また他には、最初は不快であっても身体に有用なものがあるからだ。

そのうえに、情念はほぼいつも、その表象する善も悪も、実際よりはるかに大きく重要に見せる。

したがって情念は、善を求め悪を避けるよう、適切さをこえた熱意と関心をもってわたしたちを促すのである。

動物がよく餌にひっかかり、小さな悪を避けようとして大きな悪に飛びこんでしまうのをわたしたちは見ているが、それと同様だ。

だからこそわたしたちは、経験と理性を用いて、善を悪から区別し、善と悪の正しい価値を認識しなければならない。それは、善と悪をとりちがえないため、そして何ごとにも行き過ぎないためである。」

(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一三八、p.116、[谷川多佳子・2008])
(索引:真なる善、真なる悪、偽なる善、偽なる悪)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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わたしたち自身の未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

欲望

【わたしたち自身の未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望)
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じせれるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望)
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望)
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望)
 「善と悪のこの同じ考察から、他のすべての情念が生まれる。だが、それらを順序だてるため、わたしは時間を区別する。そして、情念が、現在や過去よりもなおいっそう、未来へわたしたちを向かわせることに注目して、欲望から始める。というのも、次のいずれの場合も、この情念がつねに未来に向かっているのは明白だから―――まだ手に入れていない善を得ようと欲したり、今後起こりうる悪を避けようと欲したりする場合ばかりか、ただ、善の保存、悪の不在を願うだけの場合にも、そうである。これらは、欲望という情念の及びうるすべてである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五七、p.55、[谷川多佳子・2008])
(索引:欲望)

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 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
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(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年4月3日火曜日

倦怠、いやけ、心残り、爽快(ルネ・デカルト(1596-1650))

倦怠、いやけ、心残り、爽快

【倦怠、いやけ、心残り、爽快(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「また時に、善も持続すれば、倦怠やいやけを生じさせる。これに対し、悪も持続すれば、悲しみを軽減する。最後に、過ぎ去った善からは心残りが生じ、それは悲しみの一種である。そして過ぎ去った悪からは爽快が生じ、これは喜びの一種である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六七、p.59、[谷川多佳子・2008])
(索引:倦怠、いやけ、心残り、爽快)

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他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:喜び、うらやみ、笑いと嘲り、憐れみ(ルネ・デカルト(1596-1650))

羨み、嘲り、憐れみ

【他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況による〈善〉と〈悪〉の感受:喜び、うらやみ、笑いと嘲り、憐れみ(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 他の人たちの現在の状況や未来に生じる状況が「喜び」や「うらやみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。この〈善〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「喜び」または「うらやみ」を感じる。
 また、「笑いと嘲り」や「憐れみ」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。この〈悪〉が、その人たちにふさわしいか、ふさわしくないかに応じて、「笑いと嘲り」または「憐れみ」を感じる。
 「その善悪が他の人たちに属するものとして示されると、わたしたちは、その人たちが善悪にふさわしいと思うか、ふさわしくないと思うか、である。ふさわしいとする場合、わたしたちのうちに引き起こされる情念は、喜びにほかならない。ものごとが起こるべくして起こるのを見るのが、わたしたちにとって何らかの善であるからだ。ただ、善から生じる喜びはまじめであるが、悪から生じる喜びは、笑いと嘲りをともなうという違いがある。だが、その人たちがふさわしくないとわたしたちが思う場合、善はうらやみを引き起こし、悪は憐れみを引き起こす。いずれも悲しみの一種である。なお注目すべきは、現在の善ないし悪に関係するこれらの情念が、しばしば未来の善悪にも関係をもちうることだ。これらの善悪が未来に生じるという考えが、これらを現在のものとして表示する限りにおいてである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六二、pp.57-58、[谷川多佳子・2008])
(索引:喜び、嘲り、うらやみ、憐れみ)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))

誇りと恥

【誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。また仮に、真の善・悪でなくとも、世間の人たちの非難、賞賛は十分に考慮すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 誇りは希望によって徳へ促し、恥は不安によって徳へ促す。この際、真に非難または賞賛に値することについて判断力が必要なことは言うまでもないが、仮に、世間の人たちの判断が誤っていても、少なくとも外面については彼らに従うべきことが多い。
 「さて誇りと恥は、前者は希望、後者は不安によって、わたしたちを徳に促す点で同じ効用をもっている。ただ必要であるのは、真に非難または賞賛に値することについて判断力を育てることであり、それは、よくあるように、善行を恥じたり、悪徳を誇ったりしないためである。しかし、かつてキュニコス派の人たちがしたように、この二つの情念をまったく捨て去ってしまうのはよくない。というのも、世間の人たちがひどく誤った判断をしても、わたしたちは彼らなしに生きることはできないし、彼らに重視されるのはわたしたちにとって大事だから、わたしたちの行ないの外面については、自分の考えよりも彼らの考えに従うべきことが多い。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 二〇六、p.175、[谷川多佳子・2008])
(索引:誇り、恥、非難、賞賛)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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