2021年12月30日木曜日

(a)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従うべきか。(b)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従うべきか。(c)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従うべきか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法に従う義務

(a)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従うべきか。(b)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従うべきか。(c)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従うべきか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



 (1)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従う
 (a)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。
 (b)彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。
 (c)もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。  


 (2)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従う
 (a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。
 (b)裁判所のごとき有権的な機関が、制度的決定を下せば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。

(3)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従う
 (a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。
 (b)もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。


「私が問おうというのは、一市民として彼がとるべき適切な道は何か、換言すれば、我々が 「ルールを守ってきちんと行動し」ていると考えるのはどんなことかである。それは決定的な 問いである。何となれば、もし彼が自己の意見からみて、我々が彼はそうするべきだと考える ままに行動しているのだとすれば、彼を処罰しないことは不公正ではありえないからである。  大部分の市民がそれについて容易に一致するような明白な答えは存在しないし、そのこと自 体意味深長である。しかしながら、もし我々が自らの法的な諸制度及び慣行を探究すれば、我々は、若干の関連する根本的な原理及び政策を発見するであろう。私は上の問いに対して三 つのありうべき回答を提示し、次いでこれらのうちどれが我々の慣行及び期待に最も良く適合 するかを示すよう努めるつもりである。私が考慮したい三つの可能性は次の通りである。  (1)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。そして、もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。  (2)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。しかし、彼が自己自身の判断に 従ってよいのは、裁判所のごとき有権的な機関が、彼または他の誰かに関わる事案において彼と違った決定を下さない限りにおいてのみである。ひとたび制度的決定が下されたならば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。(理論上 は、この第二の可能性については更に多くの場合分けができる。我々は、事案が控訴されない 場合には、司法制度内の最下級審を含む、いかなる裁判所の反対の決定によっても個人の選択 が封じられることになるということができよう。あるいは、我々は、何らか特別の裁判所ない し機関の決定を要求することができよう。私は、その最もリベラルな形態におけるこの第二の 可能性、すなわち個人は、当該争点に関して判断する権限をもった最上級審、徴兵制の事案で あれば合衆国最高裁の反対の決定があるまでは、適切に自己の判断に従いうる、ということに ついてのちに論じるつもりである。)  (3)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、 その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。何となれば、我々の法制度 の確固とした一部である先例の法理は、裁判所の判決が法を「変更する」ことを許容する効果 をもつからである。たとえば、一定の形態の所得に関しては納税義務はないと信ずる一納税者 がいるとしよう。もし最高裁が反対の決定をするとすれば、彼は、租税に関する問題につき最 高裁判決に大きなウエイトを与える慣行を考慮に入れ、最高裁の判決はそれ自体状況を決定づ けたのであり、法は今や彼に税の支払いを要求している、と結論すべきである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.281-282,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

権利と人間の尊敬、政治的平等

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)人間の尊厳
 人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反する。
(b)政治的平等
 政治社会の弱者も、その社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を、公権力から受ける資格がある。その結果、ある者が決定の自由を有している場合には、公益に対する影響がどうであれ、すべての者に同じ自由が認められねばならない。
(c)例として、表現の自由
 表現の自由が基本的権利であると主張される場合、これが有意味な主張となるのは、人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格などの人格的価値を保護する目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。


「権利を深刻に受けとめるべきであると公言し、権利が尊重されていることを理由としてア メリカの統治機構を称賛する者は、その重要な目的が何であるかについてある種の感覚を有し ていなければならない。彼は、少なくとも二つの重要な理念のいずれか一方、または両者を受 け容れなければならない。第一の理念は、人間の尊厳という漠然としてはいるが力強い理念で あり、これはカントを連想させるが、異なった学派の哲学者達によって擁護されている。この 理念によれば、人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反するものとされる。  第二の理念は、政治的平等という人口に膾炙した理念である。これは政治社会の弱者も、そ の社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を公権力から受ける資格があること を前提とし、その結果ある者が、公益に対する影響がどうであれ、決定の自由を有している場 合には、すべての者に同じ自由が認められねばならないとされる。私は、これらの理念をここ で擁護したり、詳細に論じるつもりはないが、市民が権利を有していると主張する者は、これ らの理念にきわめて近い考え方を受け容れなければならない、という点だけを主張しておきた い。  人は表現の自由のように強い意味での基本的権利を公権力に対し有する、と主張される場 合、これが有意味な主張となるのは人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格その他同様の 重みをもつ人格的価値を保護するために当の権利が必要である場合であり、そうでない場合に は権利を有するという主張は意味のないものとなる。  そこで、もし権利が意味あるものであるならば、比較的重要な権利の侵害はきわめて重大な ことになるにちがいない。それは人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。権利の制度は、このような扱いが重大な不正義であり、そ れを防止するためには社会政策ないし効率上更に増加コストが必要であるにしても、このよう なコストを支払う価値があるという確信に基づいている。しかしこの場合、権利を拡張するこ とが権利を侵害することと同じ程度に重大である、と考えることは誤りであろう。公権力が個 人に有利な形で誤りを犯す場合には、社会的効率のために本来支払うべきものより若干多くの ものを支払うだけのことである。すなわち公権力としては支出すべきことが既に決定されてい た当の金額に若干プラスしたものを支払うだけのことである。しかし、もし公権力が個人に不 利な形で誤りを犯す場合には、個人に対し侮辱を与えることになり、したがって公権力はそれ を回避するために自らの計算に基づいて多額の経費を費やす必要があるのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,3 議論の余地ある権 利,木鐸社(2003),pp.264-265,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月29日水曜日

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政府に対抗する権利

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)政府に対抗する権利
 政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。
(b)競合可能な権利は他者個人の権利のみ
 社会の一般的利益は、政府に対抗する権利に対抗できない。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。



「政府に対抗する権利が認められていても、もし政府が自らの意思を実現しようとする民主 主義的多数派の権利を引き合いにだして、前者の権利を否定しうることになれば、この権利は 危険にさらされることになるだろう。政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正 と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。もしこの場合、社会は一般的利益を生みだすものであればいかなることをも行なう権利があり、また社会の多数派がそのような生活を望むのであれば、いか なる生活環境をも維持する権利があると我々が考え、しかもこの権利を正当事由にして、これと衝突する個々人の政府に対抗する権利を無視しうると考えるのであれば、これは我々が後者 の権利を撤廃したことを意味するのである。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。この際、 使用されるべき規準は次のようになる。すなわち、ある行為に対する個人の権利と比較衡量さ れ、この行為からの保護を要求するような競合的権利を他者が有しうるのは、次のような場 合、つまり当の他者が個人として有する一定の権限に基づいて政府の保護を要求することがで き、しかも同胞市民の大多数がこの要求に参加するか否かに関係なく彼がこの保護を要求しう る場合である。  この規準によれば、国家に存在するあらゆる法の強制を要求する権利を誰もが有している、 と考えるのは正しくない。たとえば、ある種の刑法規定が未だ制定されていなかったとき、特 定の個人がこの規定の制定を要求する権利を有していたのであれば、彼にはこの種の刑法規定 の強制のみを要求する権利が認められることになる。人身攻撃を禁止する法規定などは、この タイプの規定に属するだろう。身体の弱い社会の成員――暴力行為に対して警察の保護を必 要とする人々――が単なる少数派であっても、彼らに当該保護を受ける権利を認めることは依然 として可能と思われる。しかしこれに対して、公共の場所で一定の静けさを要求する法規や国 外での戦争を是認し財政援助を与える法規は、個人の権利に基づくものとは考えられない。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,2 諸権利と法に違反 する権利,木鐸社(2003),pp.258-258,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月28日火曜日

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

各道徳・正義理論の違い

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(3.5.3)目標に基礎をおく理論
(3.5.3.1)全体主義的理論
 (a)特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。
 (b)同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。

(3.5.3.2)功利主義的理論
 (a)政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考える。
(3.5.3.3)完成主義的(perfectionist)理論(アリストテレス)
 個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請におく。


(3.5.4)義務に基礎を置く理論
 (a)個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。
 (b)社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいは、もし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。
 (c)たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。

(3.5.5)権利に基礎 を置く理論
 (a)個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。
 (b)他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。








「これらのタイプの各々に属する諸理論は、ごく一般的な特定の性格を共有することにな る。これらのタイプ間の相違を明確にするには、たとえば各々のタイプが個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較するとよい。目標に基礎を置く理論は、特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。これはファシズムのようにある政治組織の利益を基本的なものとみなし、特定の目 標に基礎を置く全体主義的理論について明らかにあてはまるであろう。またこれは様々な形態 の功利主義についてもあてはまる。というのも功利主義は、政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総 量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考えるからである。更にこれは、アリストテレスにみられるような完成主義的(perfectionist)理論、つまり個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請に置く理論についてもあてはまる。  他方、権利や義務に基礎を置く理論は、個人を中心に据え、個人の決定や行為を根本的なも のと考える。しかし、これら二つのタイプの理論は、個人を異なった視点から捉えている。義務に基礎を置く理論は、個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。これとは対照的に、権利に基礎 を置く理論は個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。両者 のタイプの理論はともに、私的利益の考慮なしに個々人が個別的状況において従うべき道徳的 ルールや行為規範の観念を使用する点では同じである。しかし義務に基礎を置く理論は、社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいはもし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。他方、権利に基礎を置く理論は、他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。  それ故我々は、異なったタイプの理論はそれぞれ異なった形而上学的ないし政治的な気質と 結合しており、更にある種の国民経済においては、これらのタイプの理論のうちどれかが支配 的となる、と予想していいだろう。たとえば目標に基礎を置く理論は同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,B 契約,木鐸社 (2003),pp.226-228,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))


権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳・正義の構成的モデル

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (d)矛盾した直感を超える原理の探究
 矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。
 (e)経験と理性、議論を超えたもの
 倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (c)道徳と正義の理論は、経験と理性による議論の対象である
 正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。
 (d)道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象
 このモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。すなわち、直感も常に正しいわけではなく、社会状況と歴史によって理解されるべき対象である。
 (e)正義の本質は首尾一貫性
 このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。
 (f)矛盾する見解の放棄
 このモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これは更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。
 (g)信念ではなく原理
 我々が、信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求する。

「公務担当者がこのような状況に置かれたとき、二つのモデルは彼に対し異なった指示を与 える。  まず自然的モデルは、矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。このモデルによる と、上記の公務担当者の立場は、明確な観察データを得たものの、たとえば太陽系の起源を整 合的に説明するようなかたちでこれらのデータを未だ調和させることのできない天文学者に似 ている。この天文学者はデータを調和させるような説明が未だかつて発見されておらず、また 将来発見される見込みが全くなくとも、このような説明が必ず実在するという信念の下に観察 データを受け容れ利用し続けるのである。  自然的モデルがこのような方法を支持するのは、道徳的直感を観察データに類似のものとみ なすことを勧めるような一定の哲学的立場を当のモデル自体が前提としているからである。こ の前提に立てば、倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。もし直感的な観 察が正しい観察であれば、倫理的世界に実在する事態が現に観察されたごとき事態である理由 を我々は必ず説明しうるはずであり、これは、物理的世界に実在する事態が現に観察されたご とき事態である理由を我々が説明しうるはずであるのと同様である。  しかし、これに対して構成的モデルは、調和原理が必ず実在するという信念の下に表面的な 矛盾を解決していこうとする態度を認めない。逆にこのモデルは次のことを要求する。すなわ ち、正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。このモデルは、我々が信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求するのである。す なわちこのモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要 求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。上記のような状況に置かれた公務担当 者がこのモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これ は更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.212-214,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

自然的モデルと構成的モデル

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5) 憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系の類型
(a)確実と思われる道徳的直感
 我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。
(b)道徳的直感は真理か主観的な好みか
 いかに確実と思われても、真実かどうかは、わからないのではないか。二つの考え方がある。
 (i)直感は真理である
 様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接的知覚である。
 (ii)直感は主観的な好みである
 信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。

(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (a)理論は何らかの実在の記述である
 正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。
 (b)道徳的直感は真理をつかむ
 これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。
 (c)倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続である。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (a)理論は人間の創造物である
 構成的モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。
 (b)道徳理論は特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試み
 人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、と考える。


「我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。たと えばこのような仕方で我々は奴隷制を不正と信じ、あるいは通常の訴訟形態を公正なものと考 えるのである。  ある哲学者によれば、これら様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接 的知覚とされ、他の哲学者の見解ではこの信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観 的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。しかしいずれにせよ、正義につき自問し他者と議論するとき、我々 はロールズの均衡化の技術が示唆するのとほぼ同様の仕方で――我々が「直感」とか「確信」とか呼ぶ――これら我々になじみ深い信念を使用するのである。つまり我々は正義に関する一般理 論を我々自身の直感と照合することにより検討し、我々と意見を異にする相手方に対しては、 彼らの直感自体が彼ら自身の理論を紛糾させていることを示し、相手の立場を論駁しようと試 みるのである。  さて、道徳理論と道徳的直感の関連について一定の哲学的見解を提示することにより、上記 の過程を我々が正当化しようとする場合を想定しよう。均衡化の技術は、道徳の「整合」理論 とでも呼びうるものを前提としている。しかし整合性を定義し、整合性が要請される理由を説 明しうるモデルとしては二つの一般的なモデルが存在し、我々はこれら二つのどちらかを選択 しなければならない。そして、どちらを選択するかは我々の道徳哲学にとり結果的に重要な意 義をもつことになる。そこでまず、私は二つのモデルを述べ、その後で均衡化の技術が一方の モデルでは意味をもつが、他のモデルでは無意味であることを論証したいと思う。  第一のモデルを「自然的」モデルと呼ぶことにしよう。このモデルは、一定の哲学的立場を 前提としており、これは次のように要約しうる。すなわちロールズの二つの原理に示されてい るような正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。物理 学的な観察が基本的物理法則の存在や性格の手懸りとなるように、これらの直感はより抽象的 で基本的な道徳原理の性格や存在への手懸りとなる。倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続なのであり、これはちょう ど、自然史家が発見された骨の諸断片から、動物全体の骨組を再構成するのと同様である。  第二のモデルはこれとは全く異なる。このモデルは、正義の直感を独立した諸原理の存在の 手懸りとみるのではなく、むしろ、たまたま同時に見つかった骨の集塊にぴったり合う動物を 彫刻家が彫刻しようとする場合のように、直感を構成されるべき一般理論の規約に基づく特徴 とみなすのである。この「構成的」モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。このモデルは、骨に適合するように構成された動物 が、現実に存在するとは考えない。しかし、このモデルにはこれとは別の、ある意味ではより 複雑な前提が含まれている。すなわち人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれ ら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、という前提である。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.210-211,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月27日月曜日

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

国家に対抗する諸権利

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「バーク及び彼の現代における追従者達が論じているように、おそらく社会というものは、 決して急進的な改革によってではなく、漸進的な変化によってのみそれに最適の諸制度をうみ 出すであろう。しかし国家に対抗する諸権利は、もしそれらが承認されるならば、そう具合よ く社会に適合しないかもしれない諸制度を甘んじて受け容れるよう社会に要求する主張なので ある。権利の主張の中枢は、私が用いている非神話化された権利分析に基づいてさえ、個人に は社会全体の利益を犠牲にしても多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 もちろん多数派が快適であるためには少数派に若干の便宜を図ることが必要となろう。しか し、それは秩序維持に必要な範囲においてのみである。したがって、それは便宜といっても通 常は少数派の諸権利の承認には及ばないものである。  実際、権利が原理に対する訴えによってではなく歴史の一過程によって立証されうると示唆 することは、権利とは何かについて混乱に陥っているか、あるいはそのことについて何ら現実 的な関心を抱いていないかのいずれかであることを示すものである。権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.191,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

多数派に対抗する諸権利に関する決定

いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「私は、立法府及び他の民主的機関が、よりよい決定をなしうる能力をもつかどうかは別に して、憲法的決定を行う何らか特別の資格を有する、という第二の論証から検討を始めよう。 いかなる争点も少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正であるから、このような 資格の性質は明白である、と言う者がいるかもしれない。しかし、しばしば指摘されてきた通 り、そのように言うことは、多数派に対抗する諸権利に関する決定は公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない、という事実を無視している。立憲主義――個人的諸権利を保護するために 多数派が制約されなければならないという理論――は、すぐれた政治理論かもしれないし、そう でないかもしれない。しかし、合衆国はその理論を採択したのであり、多数派にそれ自身の利 益に関する事項の判断を委ねることは、首尾一貫せず不当だと思われる。したがって公正の諸 原理は、民主制からの論証を擁護するのではなく、それに反対することになると思われる。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.185,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の懐疑主義的理論

司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.3.2.2)道徳的懐疑主義による司法的自制
 ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味である。
 例としてラーニド・ハンド裁判官の主張
 (i)道徳的諸権利に関する主張が、話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。
 (ii)もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、道徳的諸権利によって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。
 (iii)何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。 


(5.3.2.3)功利主義的懐疑による司法的自制
 我々がある行為を正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼすインパクトである。
(5.3.2.4)全体主義的懐疑による司法的自制
 この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。


「この種の国家に対する権利の可能性そのものに反論したいと思う懐疑主義者にとって、そ の論証は困難なものとなるであろう。私の考えでは、彼は次の三つの一般的立場の一つに依拠 しなければならない。  (a)彼は、ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味であると主張 する、より徹底した道徳的懐疑主義を表明することができよう。もしいかなる行為も道徳的に 誤りでないとすれば、ノース・キャロライナ州政府は、学童に白黒共学のためのバス通学をさ せることを拒んでも誤っているはずがないのである。  (b)彼は、ある断固たる形態の功利主義をとることもできよう。それは、我々がある行為を 正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼす インパクトであると考える。この理論の下では、たとえ強制バス通学が社会を全体として益す ることはないにせよ、それは道徳的に要求されうる、と言うことは首尾一貫しないことになる であろう。  (c)彼は、何らかの形態の全体主義理論を受け容れることもできよう。この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。  これら三つの根拠のいずれであれ、これを受け容れることのできる政治家はアメリカにはほ とんどいないであろう。」(中略)  「しかしながら、私は、何人もの実際上懐疑主義の根拠に基づいて司法的自制を支持する論 証を行わないであろう、と示唆したのではない。それどころか、最もよく知られた自制論者の 幾人かは、彼らの論証を全面的に懐疑主義的根拠の上に打ちたててきたのである。たとえば 1957年には、偉大な裁判官であるラーニド・ハンドがハーヴァード大学においてオリヴァ・ ウェンデル・ホウムズ講義を行なった。ハンドはサンタヤナに学び、ホウムズに師事した。そ して道徳における懐疑主義は彼の唯一の宗教であった。彼は司法的自制論を説き、最高裁が 「ブラウン」事件において公立学校の人種隔離を違法と宣言したのは不当であると述べた。彼 の語ったところによれば、道徳的諸権利に関する主張が話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、このような主張をなすことによって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。  民主制に対するこの単純な訴えは、もし懐疑主義的前提が受け容れられれば、成功を収め る。もちろん、もし人々が多数派に対していかなる権利も有しないとすれば、またもし政治的 決定が単に、誰の選好が優先すべきかという問題だとすれば、まさに民主制は、その決定を裁 判所より民主的な諸機関に委ねる――たとえこれらの諸機関が裁判官達自身の嫌悪する選択を行 う場合でもそうする――十分な理由を提供することになるでああろう。しかし、もし司法的自制 が懐疑主義ではなく敬譲に基づくのであれば、司法的自制を支持するためには、非常に異なっ た――はるかにより脆弱な――民主制からの論証が必要とされるのである。次に私はこの点を明ら かにしようと思う。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.181-182,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の理論

仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.2.1)司法的自制の政治的懐疑主義の理論
 (a)司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利を有することを前提としている。
 (b)何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。
 (c)ところが、個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  

(5.3.2.2)司法的自制の司法的敬譲理論
 (a)実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有する。
 (b)しかし道徳的諸権利の性格と強さには議論の余地が ある。
 (c)従って、裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う。


「もしニクスンが法理論をもつとすれば、それは決定的に何らかの司法的自制の理論に依拠 すると思われるかもしれない。しかしながら、ここで我々は、二つの形態の司法的自制の間の 区別に注意しなければならない。というのは、司法的自制の政策には二つの相異なる、そして 実際上両立しがたい根拠が存在するからである。  第一は、政治的「懐疑主義」の理論であって、それは次のように記述することができよう。 司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利――たとえば、公教育の平等性や警察による公正な取り扱いに対 する道徳的権利――を有することを前提としている。何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。懐疑主義的理論は、積極主義をその根元において攻撃する。それ は、実際上個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない、と論ずる。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  自制の綱領のいま一つの根拠は、司法的「敬譲」の理論である。懐疑主義的理論と違ってこ の理論は、実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有することを前提とする。しかしそれは、これらの権利の性格と強さには議論の余地が あることを指摘し、かつ裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う、と論ずる。  これは一つの重要な区別である。たとえ憲法の文献が何ら明確にそのような区別をしていな いとしても、そうである。懐疑主義的理論と敬譲の理論は、それらが前提する正当化の種類 において、また、それらを奉ずると公言する人々が抱くより一般的な道徳理論に対してそれら の理論が有する含蓄において、劇的に異なる。これらの理論は非常に異なっており、したがっ て大多数のアメリカの政治家達が一貫して受け容れることができるのは、第一の懐疑主義的理 論ではなく、第二の敬譲の理論である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.179-180,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法積極主義と司法的自制

議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.1)司法積極主義 (judicial activism)の綱領
 裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ、 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。
(5.3.2)司法的自制(judicial restraint)の綱領
 たとえ他の統治部門の諸決定が、広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ。ただし、決定があまりにも 政治道徳に反しており、どのような解釈に基づいても憲法条項に違背するような場合は別である。

「更に、ひとたび問題がこの観点から語られるならば、我々は、「厳格解釈」の通念から生 じる混乱に陥ることなく、これらの競合する政策的主張を評価することができる。これらの目 的のために、私はいまや難解な、あるいは議論の余地ある憲法上の争点を裁判所はいかに決定 すべきかという問題に関する二つの非常に一般的な哲学を比較対照したいと思う。私はこれら 二つの哲学を、法学上の文献においてそれらに与えられている名前――「司法積極主義」 (judicial activism)と「司法的自制」(judicial restraint)の綱領――で呼ぶつも りである。もっとも、これらの名前が幾つかの点で誤解を招きやすいものであることは、やが て明らかになるであろうが。  司法積極主義の綱領は、私が言及した類いの競合する諸理由の存在にもかかわらず、裁判所 は、いわゆる漠然とした憲法条項の指示を、私が記述した精神において受け容れるべきだ、と 主張する。裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。(これは、司法積極主義の綱領をその最も強 い形態において表現するものである。実際にはこの綱領の支持者達は一般的に、若干の点にお いてその綱領を弱めているが、さしあたり私はこれらの点を無視しようと思う。)  これに反して司法的自制の綱領は、たとえ他の統治部門の諸決定が広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ、と主張する。ただし、これらの決定があまりにも 政治道徳に反しており、したがっていかなるもっともらしい解釈に基づいても当該条項に違背 するといわざるをえない場合、あるいは、ことによると反対の趣旨の判決が明瞭な先例によっ て要求されている場合は別である。(これもまた、司法的自制の綱領を純然たる形態において 表現したものである。この政策を信奉する者は、種々の点においてそれを緩和している。)」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.178-178,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月26日日曜日

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法律家の判断

憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系は、法律家によって異なり、個別の制度的倫理の判断に影響を及ぼす。難解な問題において、社会的に認められている判断を採用することは妥当な正当化ではなく、法律家は自ら判断すべきである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


自らが属する社会の制度的倫理を、どのように明らかにするのか。
(i)まず、当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従う方法がある。すなわち社会的に存在しているルールである。
 (a)批判:存在するかどうかが事実問題だとしても、それをどうやって知るのか。
 (b)批判:それが知られたとしても、なぜ、それが採用されなくてはならないのか。
(ii)次に、自己自身の判断に従う方法がある。
 (a)批判:仮説的に、個人の能力を超えるような法的、社会的、倫理的な洞察力を有する法学者なら、判断可能かもしれないが、現実的な裁判官の判断に関する理論としては、不適切ではないのか。


「我々が次のようにいうと仮定してみよう。ハーキュリーズは彼の属する社会の制度的倫理を明らかにするに際し、自己自身の判断に従うべきではなく、制度的倫理が何であるかに関し て当該社会の大多数の成員が抱いている判断に従わなければならない、と。この忠告に対して は二つの明白な反論が考えられる。第一に、ハーキュリーズは、何が大多数の成員の支持を受 けた判断であるかをどのようにして認識することができるのか、この点が明らかでない。通常 人が堕胎を承認せず、あるいは堕胎を犯罪とする立法を支持しているからといって、彼らが自 己の政治的立場を反省し、合衆国憲法により前提され、首尾一貫して適用されてきた尊厳の概 念により自己の立場が支持されるか否かを十分に考察してきたとは必ずしも言えないだろう。 それはある種の弁証法的な技術を要する非常に複雑な問題であり、この技術は、通常人が自己 の立場を自覚的に防禦する際には明らかに認められるものの、自覚的な反省なしに投票におい て示される彼の政治的選択がこの種の吟味を経てきたものであると、当然にみなされてよいこ とにはならない。  しかし、人間の尊厳は堕胎の権利を要請しないと通常人が判断したことにハーキュリーズが 納得したとしても、ハーキュリーズがなぜその争点に関し通常人の意見を決定的なものとして 受け容れなければならないか、という疑問が残る。ハーキュリーズが通常人は誤っていると考 えた場合、すなわち社会の概念が要請する内容に関して通常人の哲学的見解が誤っている、と 彼が考えた場合を想定してみよう。もしハーバートがその立場にあったとすれば、彼が通常人 の判断に従うことには十分な理由があるだろ。ハーバートは次のように考える。すなわち実定 法上の法準則が漠然としていたり、不確定な場合には、訴訟当事者はそもそも制度的権利を有 することはなく、それ故自分が到達した判決は一個の新たな立法である、と考えるだろう。彼 がどのような判決を下しても、当事者が現実に権利として有するものを彼が自らの手で奪うよ うなことはなく、したがって彼が立法行為をするときは自己を多数派の代理人とみなすべきで あるという論証は、少なくとも一応適切な論証と思われる。しかしながらハーキュリーズとし ては、この問題に関してかかる見解をとることはできない。彼は、自分が決定しなければなら ない問題が当事者の制度的権利に関する問題であることを了解している。彼が通常人の見解に ならって判決を下しても、もしこれが誤った判決である場合には、彼は当事者から彼らが権利 として有するものを奪うことになる、ということを了解している。ハーキュリーズもハーバー トも、通常の容易な法的問題を一般公衆の意見に付託するようなことはしないであろう。しか し、ハーキュリーズは、容易な事案においてのみならず難解な事案においても当事者は権利を 有していると考え、それ故、難解な事案の場合にも一般公衆の意見に付託することはしないで あろう。  もちろん、難解な事案における当事者の権利に関して裁判官の下す判決が、正しくない場合 があるだろう。そこで、最後のあがきとばかりに、この事実を盾にとり反論が試みられるかも しれない。この反論は、ハーキュリーズの用いるテクニックが、仮説上偉大な倫理的洞察力を 有するハーキュリーズ自身にとっては適切なものであることを「議論上は」認めながらも、同 じテクニックがそのような洞察力を有していない裁判官に対しても一般的に適切であることを 否定するであろう。しかしながら、我々としてはこのチャレンジを評価する際に、他に採りう る道を注意深く考慮に入れなければならない。裁判官が法的権利について過誤を犯した場合、 その過誤が原告に有利に作用したか被告に有利に作用したかを問わず、それ自体、これは不正 義の問題となる。上記の反論は、裁判官も誤りを免れず、いずれにせよしばしば意見を異にす るが故に、彼らが過誤を犯すことを指摘するのであるが、言うまでもなく我々も社会的批評家 として、過誤が犯されうることは承知している。ただ我々は、いつ過誤が犯されたかを知るこ とができない。我々もハーキュリーズではないからである。それ故我々としては、異なった役 割を担いうる人々それぞれがもつ相対的な能力を判断し、このような判断に基づいて、全体的 に過誤の数の減少が期待されるような、判決のテクニックを採り入れなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.163-164,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会倫理

社会倫理とは、法や社会の諸制度を前提とする政治的倫理を意味する。諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。このため、ある種の問題につき、社会一般の倫理との衝突が起こることを認めねば ならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「もちろん、ハーキュリーズの技術は、しばしばある種の問題につき、社会一般の倫理に反する判決を要求することもあるだろう。たとえば過去の憲法判例の正当化のどれをとっても、 堕胎支持の判決を要求する程度に十分強力な自由主義原理が常に含まれており、判決の正当化 でこの原理を含まないようなものが全く存在しない場合を考えてみよう。このハーキュリーズ は、社会一般の倫理感がどれほど強く堕胎を非難していようと、堕胎支持の判決を下さなけれ ばならない。この場合、彼は社会の倫理的信念を排除して、彼自身の信念を強要しているわけ ではない。彼はむしろ社会の倫理が当該争点につき矛盾していると判断するのである。つま り裁判官により解釈された憲法規定の正当化として提示されるべき憲法倫理自体が、堕胎とい う一定の争点につき社会が抱くある特定の判断を拒否しているのである。この種の衝突は、個 人道徳の内部ではよく起こることである。そこで、もし我々が政治理論において社会倫理とい う概念を使用しようとするならば、この社会倫理内部にも同様の衝突が起こることを認めねば ならない。もちろん、この種の衝突がいかに解決されるべきかについては疑いの余地がない。 諸個人は彼らの制度が依拠する諸原理が首尾一貫して執行されることを要求する権利をもつ。 この制度的権利は、社会の憲法倫理により明確に示されており、それ故、ある見解がどれほど 広く受け容れられていようと、これが憲法倫理と一致しないかぎり、ハーキュリーズはこの見 解に対抗し、上記の制度的権利を擁護しなければならない。  これら仮説的に示された諸事例から明らかなごとく、ハーバートに対し意図された反論は、 ハーキュリーズへの反論としては的はずれなものとなる。ハーキュリーズの裁判理論のどの部 分をとっても、彼自身の政治的信念と、彼が社会全体の政治的信念と考えるものとの間の選択 が問題にされることはない。むしろ逆に、彼の理論は社会倫理についての含まれた一定の観念を法的問 題にとって決定的に重要なものとして、特定化するのである。すなわちこの観念によれば、社 会倫理とは、法や社会の諸制度が前提とする政治的倫理を意味する。もちろん彼は、この倫理 的原理の内実を把握するためには彼自身の判断に依拠しなければならない。しかし、この種の 依拠は、既に区別された第二のタイプの不可避的な依拠であり、彼は何らかの段階で不可避的 に自己の判断に依拠せざるを得ないのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,6 政治的反論,木鐸 社(2003),pp.158-159,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

過誤の理論

憲法、制定法、あらゆる先例を整合 的に正当化し得る原理の体系に含まれる過誤の理論は、制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴える論証、あるいは法律家自らの論証による。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.4.3.3)過誤とすることの正当性
 しかし、自らの理論と両立不可能な制度史のいかなる部分をも、自由に過誤 と解してよいわけではない。
(a)当該理論が、いかなる過誤をも認めない理論よりも、強い正当化であることを示すこと。
(b)当該理論が、他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、強い正当化であることを示すこと。
(c) 制度史による論証、法曹界の成員達の何らかの法的感覚
 制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、かつての決定を生み出す可能性のないことを示す。
(d)自らの論証による
 政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることとは関係なく、それ自体不正であることを示す。


「以上のことはかなり明快である。しかしハーキュリーズは過誤の理論の第二の論点につい てはもっと苦労しなければならない。彼は先例の一般的慣行に彼が結びつけた正当化によっ て、制定法及びコモン・ロー上の判決全体のために、原理体系の形をとった一層詳細な正当化 を組み立てるように要請される。しかし正当化されるべきものの一部を過誤とか名づけるような 正当化は、一見したところでは、そのようなことを行わない正当化よりも弱いものと思われ る。したがって彼の過誤の理論の第二部では、それにもかかわらず、いかなる過誤をも認め ず、あるいは他の一組の過誤を認める別の正当化よりも、当の正当化の方が強い正当化である ことが示されねばならない。この証明は理論構成に関する単純な規則を単に演繹することでは ありえない。しかしハーキュリーズが、先例と公正との間に以前確立された関係を念頭に置く ならば、この関係は彼の過誤の理論に対し二つの指針を示唆するであろう。第一に、公正は、単なる歴史としての制度史ではなく、未来へと存続するものとして政府が提示した政治的プロ グラムとしての制度史に関わる。つまりそれは先例のもつ未来向きの意味を捉えているので あって、過去向きの意味を捉えているのではない。もし制定法であれ判決であれ、以前に下さ れた何らかの決定が、今や法曹その他関連分野の広範囲の人々により遺憾の念をもってみられ ていることをハーキュリーズが発見するならば、まさにこの事実によって当該決定は欠陥のあ るものとして他から識別されるのである。第二に彼は、首尾一貫性を要求するような公正の論 証のみが、一般的には公権力、そして特殊的には裁判官が応えねばならない唯一可能な構成の 論証ではない、ということを思いださなければならない。もし彼が首尾一貫性の論証とは全く 別に、特定の制定法あるいは判決が社会自体の公正観念からみて不正なるが故にこれを間違っ たものと信ずるならば、この信念の故に当の決定は、欠陥のあるものとして十分識別されうる のである。もちろん彼は、正当化全体の垂直的構造を顧慮しながら上記の指針を適用しなけれ ばならず、それ故低いレヴェルの決定は高いレヴェルの決定に比べ、より欠陥ありとされやす いことになる。
 したがってハーキュリーズは過誤の理論の第二部において、少なくとも二つの格率を適用す ることになるだろう。もし彼が、制度史による論証や法曹界の成員達の何らかの法的感覚に訴 えることによって、立法府や裁判所がある法的決定を採用する際にかつては十分な説得力をも ちえた特定の原理が、今ではもはやほとんど効力を持たず、そのような決定を生み出す可能性 のないことを示すことができるならば、当の原理を支持する公正の論証は根拠を失うことにな る。もし彼が政治的倫理の論証によって、そのような原理はそれが広く認められていることと は関係なく、それ自体不正であることを示しうるならば、当の原理を支持する公正の論証は覆 されたことになる。ハーキュリーズはこれらの区別が他の裁判官の実務においても広く認めら れていることを見出し、満足するであろう。彼の職務の法理論上の重要性は、難解な事案に関 して彼が今や創造した理論の新奇さに存するのではなく、それがまさに広く受け容れられてい る点に存するのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモ ン・ロー,木鐸社(2003),pp.153-154,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]





ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月24日金曜日

ハーバート・ハート (1907-1992)の命題集


ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集

ハーバート・ハート
(1907-1992)








第1部 在る法と在るべき法
第2部 目的と手段による説明の予備考察
第3部 様々な法の概念&自然法とは何か
第4部 社会的ルールとは何か
第5部 在るべき法の源泉としての道徳
第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで
第7部 半影の問題



第1部 在る法と在るべき法
《目次》
(1)在る法
(2)在るべき法
(3)在る法と在るべき法の区別
(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
(3.2)法秩序の権威の特徴
(3.2.1)在る法の遵守
(3.2.2)在る法の自由な批判
(3.3)道徳的悪法の問題
(3.3.1)道徳的二律背反
(3.3.2)事例
(3.4)悪法と抵抗の問題
(3.4.1)悪法
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
(4)在るべき法の根拠
(4.1)人間が感知、選択したもの
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
(4.1.2)直感により感知される諸原則
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
(4.2.2)啓示によって与えられる命題
(4.2.3)公平の原理

(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
(4.3.2)少数の違反者の存在
(4.4)在る法と在るべき法の区別
(4.4.1)在る法
(4.4.2)道徳的な原則


第2部 目的と手段による説明の予備考察

(1)考察するための事例
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
(2.1.1)生存するという目的
(2.1.2)生存以外の諸目的
(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
(2.2.2)良い、悪い
(2.2.3)必要と機能


第3部 様々な法の概念&自然法とは何か

(1)定義による法の概念
(2)実証主義
(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(4)原因と結果による説明
(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
(5.3)限られた利他主義
(5.4)限られた資源
(5.5)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.1)事実とルールの明白性
(5.5.2)多数者による自発的な服従
(5.5.3)ルールを守る諸動機
(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.5)制裁の必要性


第4部 社会的ルールとは何か
《目次》
(1)習慣
(2)社会的ルール
(2.1)ルールの存在は事実の問題
(2.2)外的視点
(2.3)内的視点
(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
(2.5)感情
(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
(3.1)「せざるを得ない」
(3.2)「責務を負っている」
(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
(4.1)概要
(4.2)外的視点
(4.3)内的視点
(4.4)心理的経験


第5部 在るべき法の源泉としての道徳

(1)一般の行動規則
(1.1)ルールの諸属性
(2)道徳的な原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
(2.3)重要性
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
(2.3.4)事例
(2.4)意図的な変更を受けないこと
(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
(2.5.1)身体的・精神的能力
(2.5.2)行為基準の自明性
(2.5.3)自己コントロール可能性
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
(2.5.5)考察するための事例
(2.6)道徳的圧力の形態
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益
(3)正義の原則
(4)法:実際に在る法
(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 


第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで


(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
(2.1)犯しやすい誤り
(3)社会的統制の手段
(3.1) 責務の第1次的ルール
(3.2)2種類の人びと
(3.3)社会の存続条件
(4)第1次的ルールと第2次的ルール
(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(4.2)第2次的ルール
(5) 第1次的ルールのみの欠陥
(5.1)ルールの不確定性
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
(5.3)ルールの静的な性質
(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
(5.5)ルールの非効率性
(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール

(6)主権的立法権
(6.1)主権的立法権は絶対なのか
(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
(7.3)第1次的ルールとしての国際法


第7部 半影の問題

《目次》

(0)半影の問題 
(1)何らかの「べき」観点の必要性
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
(1.2)批判の基準の存在
(1.3)基準は、どのようなものか
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
(3.4)日常言語における事例
(4)難解な事例における決定の本質
(4.1)法の不完全性
(4.2)法の中核の存在
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(4.4)選択肢の非一意性
(4.4.1)選択肢の非一意性
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である

(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論
(5.2)先例からルールを発見する方法




────────────────────

第1部 在る法と在るべき法

《目次》
(1)在る法
(2)在るべき法
(3)在る法と在るべき法の区別
(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
(3.2)法秩序の権威の特徴
(3.2.1)在る法の遵守
(3.2.2)在る法の自由な批判
(3.3)道徳的悪法の問題
(3.3.1)道徳的二律背反
(3.3.2)事例
(3.4)悪法と抵抗の問題
(3.4.1)悪法
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
(4)在るべき法の根拠
(4.1)人間が感知、選択したもの
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
(4.1.2)直感により感知される諸原則
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
(4.2.2)啓示によって与えられる命題
(4.2.3)公平の原理

(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
(4.3.2)少数の違反者の存在
(4.4)在る法と在るべき法の区別
(4.4.1)在る法
(4.4.2)道徳的な原則

(1)在る法
 法が存在しているか存在していないかが問題である。好きか嫌いか、是認するか否認するか にかかわらず、現実に存在していれば、それは法である。
(2)在るべき法
例えば、
(a)道徳の根本的な原則が要求する命令
(b)あるいは、その命令の「指標」である「功利」
(c)あるいは、社会集団によって現実に受け入れられている道徳
(3)在る法と在るべき法の区別
 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤り である。
参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要 である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批 判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))





参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りで ある。(ジョン・オースティン(1790-1859))













(3.1)在る法を遵守し、在るべき法の観点から批判する
 法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する こと」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしま う。
(3.2)法秩序の権威の特徴
 在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要であ る。
(3.2.1)在る法の遵守
 各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険があ る。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明する だけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
(3.2.2)在る法の自由な批判
 存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなく なる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法 に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。

(3.3)道徳的悪法の問題
 在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な批判的分析に必要で ある。
参照: 困難な、道徳の二律背反的な状況を、あるがままに認識し対処すること。明快に語る手段がた くさんあるとき、「道徳的批判」で表現しないこと。それは、分析を混濁させ議論を混乱させ てしまう。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(3.3.1)道徳的二律背反
 道徳の歴史から学ぶものがあるとすれば、それは、道徳的二律背反を処理するには、そ れを隠さないということである。困難と戦うときと同様に、二つの悪のうちましな方を選ばざ るを得ない状況に至った際には、状況をあるがままに自覚して対処しなければならない。
(a)困難な状況、道徳的二律背反的な状況を、議論の余地のある「道徳的批判」で表現 してはならない。それは、膨大な哲学的問題を呼び起こしてしまう。明快に語る手段がたくさ んあるときには、明快に語ること。
(b)「すべての不調和は、知られざる調和なり」「すべての部分悪は、普遍的善なり」 は、誤りであろう。私たちが賞賛する諸価値が、互いに衝突し合ったり、犠牲にされたりせず 統合され得るというのは、ロマンティックな楽観であろう。
(3.3.2)事例
 例として、言語道断なほど不道徳的な行為をした人がいたとする。しかし、当時それは 適法とされた行為に基づいていたとしよう。
(a)当時その行為を適法とした制定法が、醜悪な法であり「法たり得ない」ゆえに、そ の人の不道徳的な行為の故に、その人を罰する。これは、正しいだろうか。
(b)いかに言語道断だとは言え、当時違法ではなかったので、その人を罰しない。これ は、正しいだろうか。
(c)罰しないことは、悪だと思われる。一方、罰することは、事後的な法を導入して罰 することになり、別の非常に重要な道徳原則を犠牲にすることになる。それでも、その人を罰 するとしたら、どのような理由によって、正当化できるのか。当時の制定法が、醜悪な法であ り「法たり得ない」としてしまうことは、問題の本質を覆い隠してしまう。

(3.4)悪法と抵抗の問題
 法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得な い時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、在る法と在るべき法の区別が 必要である。
(3.4.1)悪法
「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止さ れているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。 そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷 は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して 私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3.4.2)抵抗と不服従の道徳的義務
 もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをや める道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム (1748-1832))
(3.4.3)在る法の成立要件としての道徳性
 人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法 も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタ フ・ラートブルフ(1878-1949))















(4)在るべき法の根拠
 在るべき法の根拠:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則 か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示による か、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.1)人間が感知、選択したもの
 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らか の根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明) は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられ た。
(4.1.1)感情や態度などの主観的選好
 ある哲学は、価値言明が感覚や感情や態度などの主観的選好の表現であると考えた。
(4.1.2)直感により感知される諸原則
 ある哲学は、価値言明というものは、ある個別具体的なケースが、行為の一般的な原則 や方針の下に包摂されることを示すものであると考えた。そして、この一般的な原則や方針 は、人間に対して何かしら一種の普遍的な命令として直感されるようなものとして理解され た。
(4.1.3)意志の命令、感情や態度などが与える目的
 ある哲学は、価値言明というものが、ある特定の目的を促進するものであると理解す る。そして、私たちは、その目的のために何が適切な手段であるかを合理的に議論したり発見 したりできる。しかし、目指される目的自体は、意志の命令あるいは感情や選好や態度の表現 であるとされる。
(4.1.4)議論と検討と反省が可能かどうか
 存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省 が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものに ついての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧な まま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとし て、理解できるようになる。
(4.2)何らかの普遍的な根拠がある
 人間の感覚や感情、態度の主観的選好は何に由来するのか。何かしら命令的なものとして 与えられる一般的な原則や方針は、何に由来するのか。目指されるものとして感知される目的 は、何に由来するのか。
(4.2.1)実証可能な功利に関する命題
 道徳原則は、功利に関する実証可能な命題である。(ジェレミ・ベンサム(1748- 1832))













(a) 法に服従する責務に関する純粋に功利主義的な理論
 (i)この理論は、法に服従する義務を、幸福を促進する責務の特殊事 例にすぎないものと見なす。
 (ii)この理論は、悪法に対する不服従は、も しも不服従の結果が服従の結果よりも功利主義的に見て一層ましであるならばそれは正当化され る、という当然の帰結を伴っている。不服従の害悪には、法体系の権威を弱めることを通じて他の人びとに加えられるどのような害 悪をも含む。

(4.2.2)啓示によって与えられる命題
 究極的な道徳原則は、啓示によって、またその指標としての功利を通して知ることがで きる。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(4.2.3)公平の原理


(b) 社会の成員として負う義務
 法に服従する責務とは、 市民が同じ社会の一員としての相互的関係によって自分自身の社会の成員に対し特別に負って いると考えられる責務であって、たんに、危害、損害、苦痛を与えてはならないという人びと一般に対する責務の一例として理解されるものではない、
(c)公平の原理
 多数の人び とが、他の方法では得られない諸利益を獲得するために一定のルールによって自分たちの自由 に制約を加える時、他の人びとによるそのルールへの服従から利益を得た人びとは、今度は自分 たちがそのルールに服従する責務を負う。



(4.3)事実として存在している特定の社会的ルール
 規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在する か否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断 される。
(4.3.1)社会的ルールの存在が感情を生じさせる
 注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではな く、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるという ことである。
(4.3.2)少数の違反者の存在
 また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在する ことは何ら矛盾したことではない。
参照:特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求 を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社 会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
参照:「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルー ルからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視 点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907- 1992))

(4.4)在る法と在るべき法の区別
 それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観 的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、ま た区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4.4.1)在る法
 ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを 示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、 なお法であり続ける。
(4.4.2)道徳的な原則
 法であるべき全ての道徳的資格を備えていなが ら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批 判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート (1907-1992))





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第2部 目的と手段による説明の予備考察

(1)考察するための事例
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
(2.1.1)生存するという目的
(2.1.2)生存以外の諸目的
(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
(2.2.2)良い、悪い
(2.2.3)必要と機能


(1)考察するための事例
(a)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
(b)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
(c)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
(d)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
(e)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
(i)目的と機能
 時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。

(ii)目的は人間が導入した
(f)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
(g)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
 人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言 葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の 諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(i)目的と機能
 成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良 い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための 「機能」として説明することもできる。
(ii)目的は人間が導入した。
(iii)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
 人間が、説明したらのために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している 諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味に おいて、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
(h)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
(i)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。

(i)目的と機能
 人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身 体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
(ii)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
 人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則 に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間 であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。
(2)目的と手段による説明
(2.1)目的
 法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。こ の目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸 目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.1.1)生存するという目的
(a)事実
 たいていの人間は、通常生き続けることを望むという事実がある。しかし、これは単 なる偶然的な事実であると反論することができる。
(b)仮定としての目的
 人間の法や道徳、すなわち人間が共同していかに生きるべきかを解明するためには、 生存することを目的として仮定して理論を構築する。なぜなら、「ここでの問題は生き続ける ための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである」。
(2.1.2)生存以外の諸目的
 生存すること以外の目的、人間にとっての善、人間にとっての特定の良き生き方といっ たものには、様々な意見があり、意見の深い不一致も存在する。
(a)人間が作った、単なる慣習である規則や目的。
 個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなもの がたくさん見られる。
(b)人によって異なる特定の目的。

(2.2)目的を実現する手段
(2.2.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
 生存という目的を阻害するか、促進するか。生存することが、他の諸目的とは異なる特 別な地位にあることは、生存することが、世界や人間相互のことを記述するのに用いる、思考 や言語の構造全体に反映されていることから実証できる。
(2.2.2)良い、悪い
 生存以外の目的に対しても、目的に役立つかどうかで良い、悪いと語ることができる。
(2.2.3)必要と機能
 生存という目的のために「必要」なもの。例えば、食物や休息。目的を実現するための 「機能」による説明が可能である。例えば、血液を循環させるのが心臓の機能である。これ は、単なる因果的説明とは異なる。




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第3部 様々な法の概念&自然法とは何か

(1)定義による法の概念
(2)実証主義
(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(4)原因と結果による説明
(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
(5.3)限られた利他主義
(5.4)限られた資源
(5.5)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.1)事実とルールの明白性
(5.5.2)多数者による自発的な服従
(5.5.3)ルールを守る諸動機
(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
(5.5.5)制裁の必要性

(1)定義による法の概念
(a)例えば、法体系は制裁の規定を備えていなければならないとするもの。
(2)実証主義
 法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に 関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳 の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)法は、事実として存在するルールであり、いかなる内容でも持つことができる。
(b)たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは、単に一つの事実にすぎない。

(3)目的と手段による説明
(3.1)自然法の基礎づけ
 人間に関する単純で自明な諸事実から導出可能な法の諸特性(自然法の基礎づけ)
 人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。こ れは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因 果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)生存する目的を前提として仮定する。
(b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
(c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
 その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、その ルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない 他の人にも、強制して服従させようとする。
(3.2)自然権批判(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

 

(4)原因と結果による因果的説明
(a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経 済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係 として解明する。
(b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しよ うとする。
(c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものであ る。

(5)人間に関する自然的事実
(5.1)人間の傷つきやすさ
 人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいとい う事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要 請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきや すいという事実が存在する。
(b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなけ ればならない。

(5.2)人間の諸能力のおおよその平等性
 人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実 が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請され る。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間の諸能力の差異
 人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互 いに異なる。
(b)人間の諸能力のおおよその平等性
 それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほ ど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的 にその優位性を失う。
(c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
 人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分 やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多く のものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであ ろう。
(d)相互の自制と妥協の体系
 法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明 らかになる。
(e)違反者の存在
 そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約 を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
(f)国際法の特異な性質
 強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間 のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強 制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
(f.1)国家間に巨大な不均衡が存在する場合、制裁はうまく機能しない。
(f.2)このような場合、秩序の維持は、実質的に相互自制に基づいている。
(f.3)その結果、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られて いた。
(f.3)弱い国は強国に精一杯の条件を付けて服従し、その保護の下で安全を保障すると いうのが、唯一可能な体系であろう。
(f.4)その結果、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる、多くのあい争う 力の中心が出てくることになろう。

(5.3)限られた利他主義
 人間の利他主義が限定的で断続的なものだという事実が、相互自制の体系を要請する。また同 時に人間には、仲間の生存や幸福に関心を持つ傾向性があるという事実が、相互自制の体系を 可能なものとする。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)人間は、天使ではない。
 人間の利他主義は、目下のところ限られたものであって、断続的なものであるから、攻 撃したいという傾向は、もし統制されなかった場合、ときには社会生活に致命的な打撃を与え るほどのものとなることもある。
(b)人間は、悪魔ではない。
 人間は非常に利己的で、仲間の生存や幸福に関心を持つのは、何か下心があるからだと いうのは、誤った見解である。
(c)相互自制の体系の必要性と可能性
 以上の事実から、相互自制の体系は、必要であるとともに、可能でもあることが示され る。相互自制の体系は、天使には不要で、悪魔には不可能である。

(5.4)限られた資源
 生存のための資源が限られているという事実が、何らかの財産制度を要請し、分業の必要性 が、譲渡、交換、売買のルールを要請し、協力に不可欠な他人の行動の予測可能性を得るため に、約束を守るルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)限られた資源
 人間が食物や衣服や住居を必要とするのに、それらが手近に無尽蔵にあるのではなく乏 しいので、人間労働によって栽培したり自然から獲得したり、あるいは建設しなければならな い。
(b)財産制度
 以上の事実から、何か最小限の形態の財産制度、およびそれを尊重するように求める特 別な種類のルールが不可欠となる。
(c)分業の必要性
 人間は、十分な供給を得るために、分業を発展させなくてはならなくなる。
(d)譲渡、交換、売買のルール
 以上の事実から、自分の生産物を譲渡、交換、売買することを可能にするルールが必要 となる。
(e)他人の行動の予測可能性の必要性
 分業が不可避であり、また協力がたえず必要となる。そのためには、他人の将来の行動 に対して最小限の形態の信頼を持つため、また協力に必要な予測可能性を確保する必要があ る。
(f)約束を守るというルール
 以上の事実から、約束することが責務の源であるというルールが作られる。この工夫に より、個人は、一定の定められた方法で行動しなかった場合に、口頭あるいは書面の約束に よって、自らを非難あるいは罰の下におくことが可能となるのである。

(5.5)限られた理解力と意思の強さ
 事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸 動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事 実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(5.5.1)事実とルールの明白性
 以下の事実は単純であり、ルールを守ることによる利益も明白である。
(a)人間の傷つきやすさと、殺人や暴力の行使の制限
(b)人間の諸能力のおおよその平等性と、相互の自制の必要性
(c)限られた利他主義と、相互の自制の必要性と可能性
(d)限られた資源と、財産制度、譲渡、交換、売買、約束のルールの必要性

(5.5.2)多数者による自発的な服従
 大抵の人は、理解することができ、ルールに従うため、自分自身の目前の利益を犠牲に することもできる。

(5.5.3)ルールを守る諸動機
(a)他人の幸福を私心なく考慮して従う者。
(b)ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想 を見い出す者。
(c)得るところが大きいという慎重な計算から従う者。

(5.5.4)限られた理解力と意思の強さ
 しかし、ルールに従う諸動機の様々であり、全ての人が、善良であり、ルールを守る強 い意思を持ち、守ることによる長期的な利益を理解しているとは限らない。
(a)ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろう。
(b)調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者は負けてしまうだろう。

(5.5.5)制裁の必要性
 体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者がいる場合、自発的に服従し ようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない保障として、制裁が必要となる。な ぜなら、服従することが不利になる危険をおかすことになってしまうからである。

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第4部 社会的ルールとは何か
《目次》
(1)習慣
(2)社会的ルール
(2.1)ルールの存在は事実の問題
(2.2)外的視点
(2.3)内的視点
(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
(2.5)感情
(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
(3.1)「せざるを得ない」
(3.2)「責務を負っている」
(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
(4.1)概要
(4.2)外的視点
(4.3)内的視点
(4.4)心理的経験




(1)習慣
 ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返され る。

(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。
 人が、あるルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更され えないものとしてこれを受けいれているとは、どのようなことか。
参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け 容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な 言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(2.1)ルールの存在は事実の問題
 ルールが存在するかどうかは、ある状況における行為の仕方、心理的な思考過程に関す る、ある事実が存在するかどうかの問題であり、証拠によって裏付けられるようなものであ る。

(2.2)外的視点
(a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況におい ては、特定の行動が繰り返される。
(b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
(c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。
 なぜ、その行為が正しいのかと理由が求められ たとき、そのルールが参照される。また、行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当 化される。
(c)批判的態度
 基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十 分な理由として受け容れられている。
(d)反省的態度
 批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
(e)一致への要求
 逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられてい る。
(f)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
(f.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
(f.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろ う。
(f.3)恥、自責の念、罪の意識という個人の感情の働きに、任されている場合もあるだ ろう。
(f.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もある だろう。
(g)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
 批判、是認、要求を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例え ば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っ ている」。

(2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
 社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能な ルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識的、直感的な、行為自体が示すルールもあり 得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)ルールについて、行為者が意識的に考慮すること、またルールの容認を表明すること とは、必ずしもルールの存在の要件ではない。
(b)状況に応じた無意識的、直感的な行為が、あるルールの存在を示している場合もあり 得るだろう。
(c)別のルールに動かされている人が、見せかけやごまかしで、あるルールの容認を表明 する場合もあり得るだろう。
(d)事実として存在し、また同時に明確な基準として意識されているルールに、一致しよ うとする真の努力によって、行為が導かれている場合もあり得るだろう。
(e)一般的でしかも仮定的な用語で記述され得るルールも存在するし、記述するのが難し いルールも存在し得るだろう。

(2.5)感情
(a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験す る。
(b)社会的ルールと感情との関係
 感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、 ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受 け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。


(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
 「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。そ れは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する 事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.1)「せざるを得ない」
(a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
(b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避 けるためそうしたということを意味する。
(c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合 や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないことも あろう。

(3.2)「責務を負っている」
(a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
(b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
(c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促す ことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。

(3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
 社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語 る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
(a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持 つ。
(b)ルールが存在することを拒否する。
(c)この人々は、ルールに「服従」している。
(d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含ま れている必要がない。
(e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
(3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
(a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
(b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。

(3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
 論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を 負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責 務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(a)人間の歴史の痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員のいくらかの 者に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要は ないということを十分に示している。
(b)公機関
 法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関 の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱 は義務からの違反として、批判される。
(c)一般の私人
 これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに 「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

(3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
 単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは 例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自 制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハー バート・ハート(1907-1992))
(a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社 会。
 (i)体系が公正であり、服従を要求される全ての人々の非常に重要な要求を満たして いるならば、このような社会が実現し、その社会は安定しているだろう。
 (ii)このような社会で、強制的な制裁が加えられるのは、ルールの保護を受けている のに、利己的にルールを破る例外的な人びとに対してだけであろう。
(b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠 殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
 (i)支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用 できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能 であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられ るかもしれない。
 (ii)このような社会で圧迫される人々にとっては、この体系には忠誠を命じるものは 何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。

(4)「すべきである」と「責務を負っている」の違い
 「すべきである」と「責務を負っている」は、共に社会的ルールの存在を前提とするが、ルー ルの重要さ、逸脱の重大さ、社会的圧力の強さの点で本質的に異なる。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(4.1)概要
 エチケットや正しい話し方のルールは、「すべきである」社会的ルールである。しかし、 「責務を負っている」社会的ルールには、さらに追加の特性が必要である。
社会的圧力の種類によって、「道徳的責務」や「法」の始原的形態を分類、区別したくなる かもしれない。しかし、同一の社会的ルールの背後には、異なるタイプの社会的圧力が並存す ることもあるだろう。より重要な分類は、「すべきである」と「責務を負っている」の区別な のである。

(4.2)外的視点
(a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況におい ては、特定の行動が繰り返される。
(b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
(c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。

(4.3)内的視点
(a)行動様式に関する共通の基準が存在する。
(a.1)「すべきである」に比べ、「責務を負っている」は、ルールに従うことが重要な ことであり、一般に強く求められている。
(b)批判的態度:基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十 分な理由として受け容れられている。
(b.1)「責務を負っている」社会的ルールは、社会生活そのものを維持し、その社会に おいて非常に重んじられているものを維持するのに、必要なルールであると思われている。例 えば、
(i)暴力の自由な行使を制限するルール
(ii)社会集団の中である一定の役割や役目を果たす人が、何をなすべきかを定めてい るルール
(iii)正直であること、誠実であること、約束を守ることを求めるルール
(b.2)「責務を負っている」社会的ルールは、人々の互いに衝突する利害に関わる。
(i)責務は、他人に利益を与える。
(ii)責務を負っている人は、自己が望んでいることを自制し、利益を犠牲にする側面 がある。
参照:「責務を負っている」ルールは、社会生活の維持や、 社会にとって非常に重要なものの維持に必要だと考えられており、また人々の互いに衝突する 利害に関わる点で、「すべきである」ルールは異なる。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
(c)反省的態度:批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
(d)逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられてい る。
(e)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
「責務を負っている」ルールは、逸脱は重大なことであり、一般的に社会的圧力は大き い。
(e.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
(e.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろ う。
(e.3)個人の、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きに、任されている場合もある だろう。
(e.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もある だろう。
(f)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
 批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例え ば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っ ている」。

(4.4)心理的経験
(a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験す る。
(b)社会的ルールと心理的経験の関係




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第5部 在るべき法の源泉としての道徳

(1)一般の行動規則
(1.1)ルールの諸属性
(2)道徳的な原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
(2.3)重要性
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
(2.3.4)事例
(2.4)意図的な変更を受けないこと
(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
(2.5.1)身体的・精神的能力
(2.5.2)行為基準の自明性
(2.5.3)自己コントロール可能性
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
(2.5.5)考察するための事例
(2.6)道徳的圧力の形態
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益
(3)正義の原則
(4)法:実際に在る法
(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 


(1)一般の行動規則
 個人の行動に関する一定のルールや原則

(1.1)ルールの諸属性
 一般のルールが持つ諸属性:(a)重要性、(b)意図的な変 更を受けるか否か、(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件、(d)社会的圧力の形態、(e) ルールが適用される集団の範囲。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(a)重要性
(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
(a.2)社会的圧力の大きさの程度
 (i)例えば、違反に対して当然なすべき「正しい」ことを主張し、それを思い出させ る。
 (ii)例えば、違反に対して厳しい非難や侮辱、関連団体からの除名を伴う。
(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
 (i)集団の安全や存続、集団の健康のために必要なルール。
 (ii)ときには、誤った迷信や無知から生じた信念が反映されたルール。
 (iii)ルールは、社会ごとに異なるであろうし、一つの社会においても時代とともに変 わるであろう。

(b)意図的な変更を受けるか否か
 (i)例えば、合意や意図的な選択に由来するものではなく、意図的には変更できない。 
 (ii)例えば、合意によって拘束力が生じ、自主的な脱退を許す。
 (iii)法的ルールは、承認、裁判、変更のルールを含む。

(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件
(c.1)自明なルールか、理解を要するルールか
 (i)例えば、判断する能力があれば、誰でも「正しい」行為が分かると見なされるよう な、社会において広範に容認されている慣習的なルール。正常な大人なら誰でも行ない得る、 単純な差し控えか、活動である。
 (ii)例えば、理解していなければ遵守できないような、多くの人々に共有されているわ けではない、理想的なルール。特別な熟練や知性を必要とする。
(c.2)故意または不注意が犯罪とされるか、結果責任か
 (i)自己をコントロールして正しい行為をすることが可能だったにもかかわらず、違反 したことによって犯罪とされるようなルール。すなわち、善良な意思、正しい意図または動機 があれば、違反とはされないようなルール。
 (ii)自己をコントロール可能だったか否かにかかわらず、違反した行為の結果から犯罪 だとされるようなルール。

(d)社会的圧力の形態
 (i)例えば、ルールに対する尊敬、罪の意識、自責の念によって維持されるルール。
 (ii)例えば、刑罰の威嚇によって主として維持されるルール。
 (iii)例えば、違反は厳しい非難を招く。しかしルールを守ることは、例外的な誠実さ、 忍耐、特別な誘惑への抵抗により特徴づけられるとき以外、称賛されることはない。

(e)ルールが適用される集団の範囲
 (i)例えば、社会集団一般に適用されるルール。
 (ii)例えば、社会階層のような一定の特質によって区分される、特別な下位集団に適用さ れるルール。
 (iii)例えば、特定の目的のため結成された集団に適用されるルール。

(f)ルールが適用される行為の範囲
 (i)例えば、集団生活の中で絶え間なく起こる状況において、行われるべきこと、行われ るべきでないことを定める、一般的なルール。
 (ii)例えば、特殊な種類の行為におけるルール。

(2)道徳的な原則
 個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
(2.1)在るべき法の源泉としての道徳
 在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則 も、在る法を批判する根拠の一つである。
(2.2)道徳的な原則の4つの特徴
参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴が ある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道 徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.3)重要性
 道徳的な原則は、(1)基準が遵守されない場合の影響が大 きいため、(2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求され、また(3)遵守のための 社会的圧力が大きい。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(2.3.1)基準が遵守されない場合の影響力が大きい
大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。
(2.3.2)個人的利益の犠牲の程度が大きくとも遵守が要求される
大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。 
小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
(2.3.3)遵守のための社会的圧力が大きい
大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え 込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
小さい:大きな圧力は加えられない。
(2.3.4)事例
 発展した法体系をもつ全ての社会において、法的ルールでないにもかかわらず、法的 ルールと多くの類似点をもつ、最高の重要性を与えられているルールが存在する。それが、道徳的責務 である。
道徳的責務の例。
(i)暴力の自由な使用の禁止
(ii)有体物の破壊、あるいはそれを他人から奪うことを禁止するルール
(iii)他人とかかわる際に、一定の形態の誠実さと正直さを要求するルール
(iv)他人と特別な関係に入ることによって受ける特別な責務。例えば、約束を守ると か、利益を受けたらそのお返しをする責務。ある役割を持った地位にあることによって生じる 義務。

(2.4)意図的な変更を受けないこと
 一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴が ある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。 しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート (1907-1992))
(a)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
(a.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、 道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異 なるという性質のものではない。
(b)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生 成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによって それを失う。
 道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な 変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消 滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート (1907-1992))
(b.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相 容れない法と道徳が併存する場合もある。
(b.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更し たり、高めたりすることもある。
(b.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅 することもある。
(b.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統 を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
(c)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様で ある。
(d)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。

(2.5)道徳的犯罪の自発的な性格
 できる限りの注意と自己コントロールによって、正し い行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異 なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.5.1)身体的・精神的能力
 道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
(2.5.2)行為基準の自明性
 何が正しい行動なのかを知っている。
(a)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか? 
(b)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法 的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。 
(2.5.3)自己コントロール可能性
 できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができ る。
(a)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をして も、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、 「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
(b)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわ ち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身 体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
(2.5.4)故意または過失による基準からの逸脱
 判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能で あるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。この場合、道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
(2.5.5)考察するための事例
(a)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
(b)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
(c)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
(d)不注意や過失による殺人
(e)故意の殺人
(2.6)道徳的圧力の形態
 ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑 罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反 者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.6.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
 判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能で あるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする場合、それは「悪」で あり行為者が責任を負わなければならない。例えば、「それでは嘘になるだろう」とか、「そ れでは約束を破ることになるだろう」など。
参照:できる限りの注意と自己コントロールによって、正し い行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異 なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ ハート(1907-1992))
(2.6.2)違反者自身による罰(良心の感情)
 仮に、違反に対する敵対的な社会的反作用、刑罰による威嚇、遵守することによる個人 的利益がなかった場合であっても、違反することによって恥辱の感情、罪の意識、自責の念が 生じる。
(2.6.3)敵対的な社会的反作用
 軽蔑、社会関係の断絶、社会からの追放などの例。
(2.6.4)刑罰による不愉快な結果による威嚇
(2.6.5)個人的利益

(3)正義の原則
 個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部 である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法

(5)道徳的な原則と在る法との相互作用 



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第6部 法の発展、第1次的ルールから国際法まで


(1)世界についての最も自明な真理
(2)人間の性質に関する最も自明な真理
(2.1)犯しやすい誤り
(3)社会的統制の手段
(3.1) 責務の第1次的ルール
(3.2)2種類の人びと
(3.3)社会の存続条件
(4)第1次的ルールと第2次的ルール
(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(4.2)第2次的ルール
(5) 第1次的ルールのみの欠陥
(5.1)ルールの不確定性
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
(5.3)ルールの静的な性質
(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
(5.5)ルールの非効率性
(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール

(6)主権的立法権
(6.1)主権的立法権は絶対なのか
(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
(7.3)第1次的ルールとしての国際法



 人間が互いに接近して共存する場合に犯しやすい誤り
(a)暴力の勝手な行使
(b)盗み
(c)欺罔
(3)社会的統制の手段
 集団がとる一般的態度だけが、唯一の社会的統制の手段となっているような社会の特徴
(3.1) 責務の第1次的ルール
 責務の第1次的ルールは、人間が犯しやすい誤りを抑制する何らかのルールを含む。
(a)暴力の勝手な行使の制限
(b)盗みの制限
(c)欺罔の制限
(3.2)2種類の人びと
 ルールを受け入れ内的視点から見られたルールによって生活する人々と、社会的圧力 の恐れによって従う以外はルールを拒否する人々との間に緊張が見出される。
(3.3)社会の存続条件
 非常に緩やかに組織されている社会が存続し得るには、次の条件が必要である。
(a)社会が、おおよそ同じような肉体的強さをもつ人々から構成されていること。
(b)ルールを受け入れる人々が多数であり、ルールを拒否する人々が恐れる程度の社 会的圧力を維持できること。
(c)次のような、密接に結びつけられた小さな集団の場合。
 (i)血縁によるきずな
 (ii)共通の心情、信念のきずな


(4)第1次的ルールと第2次的ルール

 社会的ルールには、義務を要求する第1次的ルールと、ある行為や発話によって第1次的ルール を創設したり変動させたりする第2次的ルールがある。(ハーバート・ハート(1907- 1992))


(4.1)第1次的ルール(基本的ルール)
(a)ルールは、義務を課する。人々はある行為を為したり、差し控えることを要求され る。
(b)ルールは、物理的動きや変化を含む行動に関係する。
(4.2)第2次的ルール
(a)人々がある事を行なったり述べることによって、第1次的タイプの新しいルールを導 入し、古いルールを廃棄、あるいは修正したり、様々なやり方でその範囲を決定したり、それ らの作用を統制することができるように定める。
(b)ルールは、公的または私的な権能を付与する。
(c)物理的動きや変化だけでなく、義務や責務の創設や変動のきっかけとなる作用を用意 する。
(d)行為遂行的言語
 言葉は、世界の記述のために用いられるだけでなく、社会的な慣行の存在を背景として、責務を創造したり、権利を移転したり、一般的に法的状況を変化させることもできる。法律行為の一般的性質は、言語の遂行的用法として理解できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))



(5) 第1次的ルールのみの欠陥
 それ以外では、第1次的ルールのみからなる単純な社会統制の形態では、次の欠陥が現れ る。

 第1次的ルールは次の欠陥を持つ:(a)不確定性:何がルールかが不確定、(b)静的である:意識 的にルールを変更できない、また権利や義務の変更を扱えない、(c)非効率性:ルール違反の判 定や、違反の処罰が非効率的である。(ハーバート・ハート(1907-1992))。

(5.1)ルールの不確定性
(a)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルー ルなのかを確認する標識がない。
(b)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
(5.2)補われる第2次的ルール:承認のルール
 第1次的ルールがある特徴を持つが故に、集団のルールであると確定する第2次的ルールが承認 のルールである。例として、特別な団体による制定、長い間の慣習、司法的決定の蓄積、権威 ある文書への記載等。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 第1次的ルールが持つある特徴を明確にし、そのルールが特定の特徴を持てば、集団の ルールであることが決定的、肯定的に確定されるようなルールを、人々が受け入れている。
(a)文書や記念碑(法体系の観念の萌芽)
(a.1)存在しているルールが、権威的な目録や原典に記載されたり、公の記念碑に刻 まれる。
(a.2)そして、ルールの存在に関する疑いを処理するのに、その文書や記念碑が、権 威のあるものとして、人々に受け入れられるようになる。
(b)ルールの持つ諸特徴(法的妥当性の観念の萌芽)
(b.1)特別な団体によって制定されたルール(制定法)
(b.2)長い間の慣習として行なわれてきたルール(慣習)
(b.3)過去、司法的決定よって蓄積されてきたルール(先例)
(b.4)ルールの間に起こりうる衝突に対して、どれが優越性を持つかというルール


(5.3)ルールの静的な性質
(a)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
(i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
(ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
(iii)その行為が、義務的なものとなる。

(b)ルールの衰退の過程が存在する。
(i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
(ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
(iii)その行為が、顧みられなくなる。

(c)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、 変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。

(d)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選 択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用 も、第1次的ルールの範囲には入っていない。

(5.4)補われる第2次的ルール:変更のルール
 新しい第1次的ルールを導入、廃止、変更するルール を定める第2次的ルールが、変更のルールである。遺言、契約、財産権の移転など、個人によ る制限的立法権能も、この変更のルールに基づく。(ハーバート・ハート(1907-1992)) 
 新しい第1次的ルールを導入したり、古いルールを排除する権能を、ある個人または団 体に与えるというルールを、人々が受け入れている。このルールは、権能の範囲と手続を含 む。
(a)変更のルールが存在するときは、変更を成立させる諸条件と手続は、変更された ルールを確定させる条件になっているので、承認のルールにもなっている。
(a.1)例えば、制定法のみがルールを制定・変更できるとするルール
(a.2)例えば、統治する君主のみがルールを制定・変更できるとするルール
(b)個人による制限的立法権能の行使も、変更のルールである。すなわち、第1次的ルー ルに基づいて持っていた最初の地位を、変更する権能を個人に与えるルールである。
(b.1)「約束」という道徳的な制度の基礎となっているのが、この権能付与のルール である。
(b.2)例として、遺言、契約、財産権の移転など。

(5.5)ルールの非効率性
(a)ルールが侵害されたかどうかの争いはいつも起こり、絶え間なく続く。法の歴史 によれば、ルール違反の事実を権威的に決定する公機関の欠如は、最も重大な欠陥であり、他 の欠陥より早く矯正される。
(b)ルール違反に対する処罰が、影響を受けた関係人達や集団一般に放置されてい る。
(c)違反者を捕え罰する、集団の非組織的な作用に費やされる時間が浪費される。 
(d)自力救済から起こる、くすぶりつづける復讐の連鎖が続く。

(5.6)補われる第2次的ルール:裁判のルール
 個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、特定の 個人に与えるという第2次的ルールが、裁判のルールである。他の公機関による刑罰の適用を 命じる排他的権能も含まれる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 個々の場合に第1次的ルールが破られたかどうかを、権威的に決定する司法的権能を、 特定の個人に与えるというルールを、人々が受け入れている。また、違反の事実を確認した場 合、他の公機関による刑罰の適用を命じる排他的権能も含む。
(a)裁判官、裁判所、管轄権、判決といった概念を定めている。
(b)裁判のルールが存在するときは、裁判所の決定は何がルールであるかについての権 威的な決定であるので、承認のルールにもなっている。
(c)社会的圧力の集中化、すなわち、私人による物理的処罰や暴力による自力救済の行 為を部分的に禁じるとともに、刑罰の適用を命じる排他的権能を定める。





(6)主権的立法権
 主権的立法権の本質は、最高の承認のルールの存在である。最高の概念を、無制限と取り違え てはならず、無制限な主権的立法権の存在を前提とする理論は、誤りである。(ハーバー ト・ハート(1907-1992))


(6.1)主権的立法権は絶対なのか

(1)法的妥当性の基準、法源が「最高」であるとは、
(a)ある承認のルール:最高の承認のルール、究極のルール
(b)別の承認のルール
(a)の基準に照らして確認されたルールが、他の諸基準(b)に照らして確認されたルールと 衝突するとしても、依然その体系のルールとして承認される。逆に、(a)以外の諸基準に照ら して確認されたルールは、(a)の基準に照らして確認されたルールと衝突すれば、承認されな い。
(2)「最高」と「無制限」は混同されやすいが、別の概念である。
(2.1)憲法の条項のなかに、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、その最高性が 直ちに無制限な立法権を意味するものではない。
(2.2)憲法が、法の妥当性に関する最高の基準を含んでいても、特定の条項を改正権の範囲 外におくことによって、明示的に、立法権限を制限している場合もある。
(2.3)従って、「すべての法体系は、法的に無制限な主権的立法権の存在を前提としてい る」という理論は、誤りである。


(6.2)問題: 究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか

(1)法的妥当性についての内的陳述
「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
(2)事実についての外的陳述
「あるルールが表現されている法体系は、裁判所や公機関や私人によって用いられている究 極の承認のルールによって、承認されている。」

究極の承認のルール
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3)では、究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか
(3.1)承認のルールの妥当性は証明不能であり、ひとつの仮説なのか?

 ?
 ↓
究極の承認のルール......仮説
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3.2)価値についての陳述なのか?
「あるルールが表現されている法体系の承認のルールは優れたものであって、それに基づく 体系は支持するに値する。」

究極の承認のルール.....価値についての陳述
 ↓
特定の法体系の妥当性

(3.3)解答:法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示してい る。
 法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルール の存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基 礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であ るとして単に容認されている。

(i)究極の承認のルールの適用......事実
(ii)裁判所を含む一般的な諸活動での
  │容認・使用......事実として確証可能
  ↓
 特定の法体系の妥当性

(3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題であ る。
 ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習 慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そ のものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハー ト(1907-1992))

(a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、 複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
(b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答 えができないような状況も存在し得る。

(3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
(a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
(b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
(c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
(d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。


(7)国際法 
(7.1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。 
(7.2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。 なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課し た責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバー ト・ハート(1907-1992))
(2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
(2.2)論理的に首尾一貫していない。
(a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
(b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣 言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫す る。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
(c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条 約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじ めから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したもの ではなく、矛盾している。

(2.3)国際法の事実にあっていない。
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。 体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明の みが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907- 1992))
(a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的 な究明のみが明らかにし得る。
(b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりす る。
(c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域におい て、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するとい うのは、事実に反することが分かる。

(7.3)第1次的ルールとしての国際法


────────────────────
第7部 半影の問題

《目次》

(0)半影の問題 
(1)何らかの「べき」観点の必要性
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
(1.2)批判の基準の存在
(1.3)基準は、どのようなものか
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
(3.4)日常言語における事例
(4)難解な事例における決定の本質
(4.1)法の不完全性
(4.2)法の中核の存在
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(4.4)選択肢の非一意性
(4.4.1)選択肢の非一意性
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である

(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論
(5.2)先例からルールを発見する方法



(1)何らかの「べき」観点の存在
┌──┘
│┌法──────┐
││                          │(4.1)法の不完全性
││法の中核          │(4.2)法の中核の存在
││想定された範例│(4.3)事実認識の不完全性/予知不可能性
││ 事実、目的 │(4.3)上記に起因する目的の不確定性
│└─────┬─┘
└─────┐│
    ↓↓
新たな事件、問題の解決、目的の明確化
┌────┐   ┌────┐             ┌────┐
│目的1 │   │目的2 │              │目的n │
│解決策1││解決策2│・・│解決策n│
└────┘   └────┘              └────┘
(4.4)選択肢の非一意性
(4.5)決定は強制されず、一つの選択である




(0)半影の問題 
 問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定す る責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにする のは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))

(0.1)法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれている。
(0.1.1)特定の種類の行為が、ルールによって規制されるべきだという意志を表明するには、 ルールの中で使用する言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例 を持っていなければならない。
(0.1.2)それにもかかわらず、言葉が明らかに適用できるとも適用できないとも言えないよう な議論の余地を持ったケースという半影の部分が存在する。
(0.2)半影の部分は、論理的演繹の問題ではなく、誰かが決定しなければならない。言葉が当面 のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に 対する責任とともに、誰かが負わなければならない。
(0.3)このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものより は良いものになるのであろうか。

 半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)それに もかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必 要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))


(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきも の」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
(1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
 在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
(1.2)批判の基準の存在
「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
 たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核 は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分 確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような 限界があることを示している。
(b)司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルール は、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、 存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(i)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
(ii)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言え ない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破る ことができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違 いである。
(iii)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀であ る。
(iv)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象 として、しかも悪として扱われる。

(c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしてい る。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定 しているのである。

(1.3)基準は、どのようなものか
(a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、 ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われ る。
(b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
(c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないよ うなものである。理由は、以下の通りである。
 半影的問題における司法的決定を導く法以外の 「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾し ないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハー バート・ハート(1907-1992))
(i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、その ルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて 行なわれる。
(ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
(d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選 択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
(e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
 (i)選択肢を考慮するさいの不偏性中立性
 (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
 (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとす る関心
(f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに 法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏 性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。 (ハーバート・ハート(1907-1992))

(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りで ある。(ジョン・オースティン(1790-1859))
参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要 である。さもなければ、(a)法秩序の権威の正しい理解を欠いて、悪法を無視するアナーキス トか、(b)在る法の批判的分析を許さない反動家になるだろう。(ジェレミ・ベンサム (1748-1832))

(3)難解な事例の解決は、在る法の自然な精密化、明確化である
(3.1)難解な事例の解決は、既に存在している法の発見である
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在 する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすれば その中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。

(3.2)難解な事例の解決は、新たな法の創造ではない
 難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在 るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然 な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))




(a)持続的同一的な目的の明確化とルールの自然な精密化
 ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すな わち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。 それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化する ようなものである。
(b)在る法を超えた新たな法を創造することではない
 このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在 るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」と見なすことは、少なくと も「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。

(3.3)最高裁判所の決定の最終性は無謬性とは異なる
 最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る 法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化から逸脱していると思われる場合がある。す なわち、決定の最終性は無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(3.4)日常言語における事例
(a)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言う のかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
(b)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いた かったことだ。」というようなケースがある。
(c)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現 するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を 「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであ ろう。

(4)難解な事例における決定の本質
 半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の 中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、 一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以 下の諸事実を考慮することが重要である。
(4.1)法の不完全性
 法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
(4.2)法の中核の存在
 法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不 完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
(4.3)事実認識の不完全性・予知不可能性と目的の不確定性
 法の不完全性は、事実に関する相対的な無知と予知不可能性、目的に関する相対的な不確定性 に基づくものであり、避け得ないものである。想定し得なかった新たな事例、問題の解決とと もに、法は精度を上げていく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.3.1)人間の不完全性と選択の必要性
 むしろ「完全な」法は、理想としてさえ抱くべきでない。なぜならば、私たちは神では なくて人間だから、このような「選択の必要性」を負わされているのである。
(4.3.2)事実に関する相対的な無知と予知不可能性
 この世界の事実について、あらゆる結合のすべての可能性を知り得ないことと、将来生 じるかもしれないあらゆる可能な複合的状況を予知し得ないこと。
(4.3.3)目的に関する相対的な不確定性
(a)存在している法は、ある範囲内にある明瞭な事例を想定して、実現すべき目的を定 めている。
(b)まったく想定していなかった事件、問題が起こったとき、私たちは問題となってい る論点にはじめて直面する。その新たな問題を解決することで、当初の目的も、より確定した ものにされていく。
(4.4)選択肢の非一意性
 選択肢の非一意性と選択の必要性の認識は、以下の目的にとって重要である。(a)想定され得 なかった事実の構造の解明、(b)用語の新たな解釈、より正確な概念の解明、(c)新たな問題 の解決と目的の明確化。(ハーバート・ハート(1907-1992))

(4.4.1)選択肢の非一意性
 在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得る のだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っている のではないだろうか。
(4.4.2)形式主義、概念主義の誤り
 ルールの意味を凍結して、選択の必要性を認識しないことは、形式主義、概念主義、法 律家の「概念の天国」の誤りに導かれる。
(a)事実に関する不完全な認識と、予知不可能性から不可避的に生じてくる全く想定し ていなかった事件、問題に関して、未知の構造を解明しようとする努力がなされず、既存の枠 組みへのあてはめが行われる。
(b)一般的用語が、一つのルールに関するすべての適用においてだけでなく、その法体 系中のいかなるルールに用いられるときでも、同一の意味を与えられる。その結果、様々な事 件で問題となっている論点の違いに照らして、その用語を解釈しようとするような努力が行わ れない。
(c)新たな事実の構造の中で解明されるべき概念が固定され、新たな問題の解決の中で 明確にされるべき目的が固定されることで、概念の一部が不正確になり、もたらされる社会的 結果の評価が不十分なものになる。

(4.5)決定は強制されず、一つの選択である
 存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するもので はないのではないか。従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないの ではないか。



(5)先例から一般的原理を抽出すること
(5.1)記述的理論と指図的理論

 科学における仮説的推理に類似している司法過程の 解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技 術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ ハート(1907-1992))

(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張
 これは、心理学の経験的一般命題ないし法則である。すなわち、裁判官が実際にその決定に到達している仕方である。
(2)従われるべき思考過程についての提言
 司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。裁判官が決定を正当化する際に考慮する諸基準に関わっている。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において、どのような論理が用いられているかどうかという問題である。
(3)司法的決定が評価されるべき基準
 これは、決定の評価ないし正当化に関係している。



(5.2)先例からルールを発見する方法
 先例が関わるある事実の言明と、あるルールとから、先例の決定が導出可能であるような一般 的ルールを発見できたとしても、同様に導出可能なルールは一意には決まらない。あるルール の選択には、別の諸基準が必要となる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(a)関連のある先例から、一般的ルールを発見して定式化する。
(b)その一般的ルールが、その先例によって正当化されるための必要条件は、その事件の事 実の言明と、抽出された一般的ルールとから、先例における決定が導き出されることである。

《説明図》
先例が関わる         ある一般的
ある事実の言明       ルール
│                ┌──────┘
↓                 ↓
先例の決定a

(2)一般的ルールは、一意には決まらない
(a)一般的に、ある先例の決定を導く一般的ルールは、他にも無数に存在している。その一 般的ルールが唯一のものとして選択されるためには、その選択を制約する別の諸基準が存在す るはずである。
(b)一般的ルールを正当化する諸基準とは何だろうか。
 (i)ある理論は、その事件にとって重要なものとして扱われるべき諸事実の選択基準が、 そのような諸基準だと考える。
 (ii)他の理論によれば、その先例を検討する後の裁判所が、論理上可能な諸ルールのなか から通常の道徳的、社会的諸要因を比較考量した後で選択するであろうルールである。

《説明図》
どの事実が         通常の道徳的、社会的
重要か                 諸要因を比較考量
 ↓                           ↓
先例が関わる     ある一般的
ある事実の  言明 ルールn n=1,2,3...
 │      ┌──────┘
 │      │
 ↓        ↓
先例の決定a


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