2018年1月21日日曜日

認識に関係させて考察するのは、事実上存在するものとしてのそれらについて語るとは、異なった仕方でなすべきである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

事実上存在するもの

【認識に関係させて考察するのは、事実上存在するものとしてのそれらについて語るとは、異なった仕方でなすべきである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「そこで第一に、われわれはいう、一々の事物をわれらの認識に関係させて考察するのは、事実上存在するものとしてのそれらについて語るとは、異なった仕方でなすべきである、と。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.79、[野田又夫・1974])

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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いかにしてあるものが他のものから認識せられるか(ルネ・デカルト(1596-1650))

認識

【いかにしてあるものが他のものから認識せられるか(ルネ・デカルト(1596-1650))】
認識するわれわれ
認識さるべき物自身
 おのずからしてわれらに明らかであるもの
  2.私は存在する
   人間精神が何であるか。
  3.私でないものが、存在する
  4.精神と身体
   身体は何であるか。
   身体は精神によっていかに形成されるか。
  5.私(精神)のなかに見出されるもの
 いかにしてあるものが他のものから認識せられるか
   単純なる事物の概念
   単純なる事物の概念から複合せられた概念
 各々の物からいかなる事柄が演繹されるか
 「今や第二の点に移り、単純なる事物の概念(notio)を、それから複合せられた概念より分ち、そして両者のいずれに虚偽が存在しうるかを見てそれを避け、どの概念が確実に認識されるかを見てただそれのみに携わるため、ここでも前と同様、恐らくすべての人の承認するとは限らぬであろう若干の事柄を、仮定せねばならない。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.78、[野田又夫・1974])

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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おのずからしてわれらに明らかであるもの(ルネ・デカルト(1596-1650))

自ずからして明らかなもの

【おのずからしてわれらに明らかであるもの(ルネ・デカルト(1596-1650))】
認識するわれわれ
認識さるべき物自身
 おのずからしてわれらに明らかであるもの
  2.私は存在する
   人間精神が何であるか。
  3.私でないものが、存在する
  4.精神と身体
   身体は何であるか。
   身体は精神によっていかに形成されるか。
  5.私(精神)のなかに見出されるもの
   この複合物(人間)全体において、事物を認識するに役立つ能力はいったい何である。
   それらの一々はいかなる働きをするか。
   5.1 意志のすべてが精神の能動である。
   5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
   5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
   5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である。
   5.2.1 身体を原因とする知覚
   5.2.1.1 外部感覚
   5.2.1.2 共通感覚
   5.2.1.3 想像力、記憶
   5.2.1.4 自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
   5.2.1.5 身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
   5.2.1.6 精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想
      (広い意味では、情念の一種)
   5.2.2 精神を原因とする知覚
   5.2.2.1 意志についての知覚
   5.2.2.2 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚
   5.2.3 精神だけに関係づけられる知覚(情念)
   (身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を、原因とする。)
 いかにして或るものが他のものから認識せられるか
 各々の物からいかなる事柄が演繹されるか
 「さて第一の点を考察するに当って、ここに私は、人間精神が何であるか、身体は何であるか、後者は前者によっていかに形成(informari)されるか、この複合物(人間)全体において、事物を認識するに役立つ能力はいったい何であるか、それらの一々はいかなる働きをするか、を説明できればしたいのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.72、[野田又夫・1974])
(索引:おのずからしてわれらに明らかであるもの)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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認識するわれわれ、認識さるべき物自身(ルネ・デカルト(1596-1650))

認識するもの、されるもの

【認識するわれわれ、認識さるべき物自身(ルネ・デカルト(1596-1650))】
認識するわれわれ
 5.1 意志のすべてが精神の能動である。
 5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
 5.1.1.1 「見る」とか「触れる」等の認知とは、認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。
 5.1.1.2 記憶の「想起」とは、認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。
 5.1.1.3 「想像する」とか「表象する」こととは、認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
  (例)存在しない何かを想像する。
 5.1.1.4 「理解する」こと(純粋悟性)とは、認識力が、独りで働くこと。
  (例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
  (例)観念を表現する物自体(モデル)
  (例)捨象、抽象
  (例)物のある省略された形(記号)
  (例)問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。
 5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
認識さるべき物自身
 おのずからしてわれらに明らかであるもの
 いかにしてあるものが他のものから認識せられるか
 各々の物からいかなる事柄が演繹されるか
 「事物の認識について考察すべきことはただ二つある。すなわち認識するわれわれと、認識さるべき物自身と。われわれの中には、このために用いうるただ四つの能力がある。すなわち悟性、想像力、感覚、記憶、そして悟性のみが真理を覚知しうるのであるけれども、しかし悟性は想像力感覚及び記憶から助力を受けねばならない。これはわれらの有するどの能力をも閑却するようなことにならぬためである。物については、三つを吟味すれば足りる。すなわち第一に、おのずからしてわれらに明らかであるもの、第二にはいかにして或るものが他のものから認識せられるか、第三には各々の物からいかなる事柄が演繹されるか。しかして、この枚挙は完全で、人間の力の及びうる何ものをも看過していない、と私は思う。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、p.71、[野田又夫・1974])
(索引:認識するわれわれ、認識さるべき物自身)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月20日土曜日

人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合している。だから、もしこの自然がいまとは異なった仕方で創造されていたとしたら、我々の本性もまた、それら創造された事物を理解し得るようなものに創られていたことであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

自然との合一

【人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合している。だから、もしこの自然がいまとは異なった仕方で創造されていたとしたら、我々の本性もまた、それら創造された事物を理解し得るようなものに創られていたことであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】
 「さていま次のように問う人があるかもしれない。もし神が事物を別様に決裁し、現に真であるところのことを偽であるようにしたとすれば、我々はそれでもなおそれを最も真なものとして認めるであろうかどうか、と。[これに対して私は答える]、もし神が我々に与えた本性をそのまま我々に残して置いたとすれば確かにそうなるであろう。しかし、そうした場合でも、神は、もしその気になりさえしたら、神から別様に定められた事物の本性と法則を理解し得るような本性を我々に与える――かつて与えた如く――ことができたであろう。否、もし我々が神の誠実ということを念頭に置く限り、神は必ずそうした本性を与えたに違いない、と。この同じことはまた、我々が先に述べたこと、即ち所産的自然の全体はただ一つの有であるということからも明らかである。というのは、このことからして、人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合していねばならぬことになる。従ってさらに神の決裁の単純性ということと併せて考えれば、次の帰結にならざるを得ない、即ち、もし神が事物を異なった仕方で創造したとしたら、神は同時にまた我々の本性をも、神の創造した通りに事物を理解し得るような風に創っていたであろう、と。」
(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『デカルトの哲学原理』形而上学的思想第二部 第九章、p.217、[畠中尚志・1959])
(索引:誠実な神、所産的自然、人間の本性)

デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫)




(出典:wikipedia
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
 「だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。」(中略)「次に、出来るだけ多くの人々が、出来るだけ容易に且つ確実にこの目的へ到達するのに都合よいような社会を形成しなければならない。なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。また健康はこの目的に至るのに大切な手段だから、全医学が整備されなければならない。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に、生活における多くの時間と便宜を得させてくれるから、機械学を決してなおざりにしてはならない。」(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(12)(13)(14)(15)、pp.17-19、岩波文庫(1968)、畠中尚志(訳))

バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)
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「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

欺瞞者である神

【「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】
 「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。なぜなら、我々が自ら論証に導かれて到達した結論に導かれながら、同時にそれがまた否定されることになるかもしれないなら、いかなる認識にも到達し得ないからだ。
 「我々がいかなるものについても確実であり得ないのは、我々が神の存在を知らない限りにおいてでなく(なぜなら、このことについては今問題になっていないから)、ただ我々が神について明瞭判然たる観念を持たない限りにおいてのみである、と。」では、神について明瞭判然たる観念とは、どのようなものか。
 仮に、神が欺瞞者であるとしてみよう。このとき、「例えば三角形の本性に注意した場合、我々はその三角の和が二直角に等しいと結論せざるを得ないけれども、しかし我々が我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということになれば、同じ結論はなされ得ないからである。」すなわち、我々はその三角の和が二直角に等しいということに導かれながら、同時にそれがまた否定されることになるかもしれない。「しかし我々は『それだから我々はどんなものの認識にも到達し得ない。』ということはこれを否定する。」ゆえに、神が欺瞞者であると考えることはできない。つまり、「全問題の核心は係って次の点にのみ存するからである。それは即ち、神が欺瞞者であると考えることも欺瞞者でないと考えることも等しく容易であるなどということがないように我々を決定する神の観念、そうした神の観念を我々は形成し得るということである。」
(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『デカルトの哲学原理』デカルトの哲学原理第一部、pp.30-33、[畠中尚志・1959])
(索引:欺瞞者である神)

デカルトの哲学原理―附 形而上学的思想 (岩波文庫)




(出典:wikipedia
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
 「だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。」(中略)「次に、出来るだけ多くの人々が、出来るだけ容易に且つ確実にこの目的へ到達するのに都合よいような社会を形成しなければならない。なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。また健康はこの目的に至るのに大切な手段だから、全医学が整備されなければならない。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に、生活における多くの時間と便宜を得させてくれるから、機械学を決してなおざりにしてはならない。」(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(12)(13)(14)(15)、pp.17-19、岩波文庫(1968)、畠中尚志(訳))

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2018年1月19日金曜日

3.人間は、原因から結果を生ぜしめる自然の法則を知り、欲する結果のための原因を配置する。そして、あとは自然が自らのうちで成しとげる。このようにして、人間の知識と力とはひとつに合一する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

知は力なり

【人間は、原因から結果を生ぜしめる自然の法則を知り、欲する結果のための原因を配置する。そして、あとは自然が自らのうちで成しとげる。このようにして、人間の知識と力とはひとつに合一する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 「人間の知識と力とはひとつに合一する、原因を知らなくては結果を生ぜしめないから。というのは自然とは、これに従うことによらなくては征服されないからである。そして〔知的な〕考察において原因にあたるものは、〔実地の〕作業ではルールにあたる。」
 「実地の〔作業の〕ためには、人間は自然の物体を合わせたり離したりする以外には何も為し得ない、あとは自然が自らのうちで成しとげるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、三、四、p.70、[桂寿一・1978])
(索引:知は力なり、原因、結果、自然)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)




フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
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2018年1月18日木曜日

2.野心の3つの種類:(1)自己の力を伸ばす、(2)祖国の力を伸ばす、(3)人類の力を伸ばす。より健全で高貴なのは(3)だ。そして、力の伸長に肝要なのは、自然はこれに従うこと(知識)なくしては、命令されない(技術)ということだ。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

野心の3つの種類

【野心の3つの種類:(1)自己の力を伸ばす、(2)祖国の力を伸ばす、(3)人類の力を伸ばす。より健全で高貴なのは(3)だ。そして、力の伸長に肝要なのは、自然はこれに従うこと(知識)なくしては、命令されない(技術)ということだ。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
野心の三つの種類
(1) 自己の力を伸ばそうと欲すること。
(2) 祖国の勢力と支配を人類の間で伸長すること。
(3) 人類の全世界への力と支配とを、革新し伸長すること。
(3)は他のものに比べて、より健全でもあればより高貴でもある。そして、人間の事物への支配は、ただ技術と知識のうちにある。なぜなら自然は、これに従うことなくしては、命令されないからである。

 「人々の野心の三つの種類、いわば程度を区別することも、不適当ではないだろう。第一は、自分の祖国において、自己の力を伸ばそうと欲する人々のそれであって、この類の野心は通俗的で、また変性している。第二は、祖国の勢力と支配とを、人類の間に伸長することに努める人々のそれであって、これは前のより品格はあるが、しかし劣らず欲望に動かされている。

 ところがもしも人が、人類そのものがもつ全世界への力と支配とを、革新し伸長することに努めるとしたならば、疑いもなくその野心こそ(かりにもそう呼んでいいとしたら)は、残余のものに比べて、より健全でもあればより高貴でもある。しかるに人間の事物への支配は、ただ技術と知識のうちにある。自然はこれに従うことなくしては、命令されないからである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一二九、pp.195-196、[桂寿一・1978])
(索引:野心の3つの種類、知識と技術)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)




フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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2018年1月17日水曜日

人間に知られ得るものは、論拠から論拠への長い論理の鎖で、連続し合っているのであろう。そして、そこに至るための四つの教則は、(1)明証的に真、および明晰かつ判明な現前、(2)分析と分割、(3)総合と演繹、(4)枚挙による再検査である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真理のための4つの教則

【人間に知られ得るものは、論拠から論拠への長い論理の鎖で、連続し合っているのであろう。そして、そこに至るための四つの教則は、(1)明証的に真、および明晰かつ判明な現前、(2)分析と分割、(3)総合と演繹、(4)枚挙による再検査である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 人間に知られ得るものは、幾何学者らが、証明にたどりつくために用いる、論拠から論拠への長い論理の鎖のような仕方で、連続し合っているのであろう。そして、そこに至るための四つの教則は、(1)明証的に真および明晰かつ判明な現前、(2)分析と分割、(3)総合と演繹、(4)枚挙による再検査である。
(1) 明証的に真、および明晰かつ判明な現前:疑ういかなる隙もないほど、それほどまで明晰に、それほどまで判明に、私の心に現れるもののほかは、何ものをも私の判断に取りいれぬこと。また、明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受けとらぬこと。
(2) 分析と分割:研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよりよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割すること。
(3) 総合と演繹:それ自体としては互になんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識へまで少しずつ、だんだんと登りゆき、私の思索を順序に従ってみちびくこと。
(4) 枚挙による再検査:何一つ私はとり落とさなかったと保証されるほど、どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。
 「論理学を構成させた多くの教則の代りに、守ることをただの一度も怠らぬという堅固一徹な決心をもってしたならば、次の四つで十分である、と私は確信した。
 第一は、明証的に真であると認めることなしには、いかなる事をも真であるとして受けとらぬこと、すなわち、よく注意して速断と偏見を避けること、そうして、それを疑ういかなる隙もないほど、それほどまで明晰に、それほどまで判明に、私の心に現れるもののほかは、何ものをも私の判断に取りいれぬということ。
 第二は、私の研究しようとする問題のおのおのを、できうるかぎり多くの、そうして、それらのものをよりよく解決するために求められるかぎり細かな、小部分に分割すること。
 第三は、私の思索を順序に従ってみちびくこと、知るに最も単純で、最も容易であるものからはじめて、最も複雑なものの認識へまで少しずつ、だんだんと登りゆき、なお、それ自体としては互になんの順序も無い対象のあいだに順序を仮定しながら。
 最後のものは、何一つ私はとり落とさなかったと保証されるほど、どの部分についても完全な枚挙を、全般にわたって余すところなき再検査を、あらゆる場合に行うこと。
 幾何学者らが、かれらの最も骨の折れた証明にたどりつくために、つねに用い慣れた、実に単純で容易な、論拠から論拠への長い鎖は、何かのおりに私にこんなことを考えさせたのである。人間に知られうるようなものは何から何まで、これと同様の仕方で連続し合っているのであろう、そうしてそれらのもののうち真ならぬものを真なるものとして決して受けいれることなく、このものからあのものを演繹するに必要な順序を守りつづけさえするならば、最後まで到達できぬほどの遠くにあるものも、発見できぬほどに隠されているものも、断じてありえないであろうと。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『方法序説』第二部、pp.29-30、[落合太郎・1967])
(索引:論理の鎖、真理のための四つの教則、明証的に真、明晰かつ判明な現前、分析と分割、総合と演繹、枚挙による再検査)

方法序説 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年1月16日火曜日

1.知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

知識の目的

【知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 知識の真の目的は、人生の福祉と有用である。力への欲求や知識への欲求からではなく、愛のうちで学問は成しとげられ、愛によって支配されるべきである。愛には過ぎることはない。心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとかではない。

 「最後に我々はあらゆる人に全体として忠告したいと欲する。

すなわち、知識の真の目的を考えること、知識を心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとか、その他この種の低いことのためにではなく、人生の福祉と有用のために求めること、それを愛のうちに成しとげ支配することである。

それというのも力への欲から天使は堕ち、知識への欲から人は堕ちたのだが、愛には過ぎることはない。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』大革新 序言、p.32、[桂寿一・1978])
(索引:知識の目的)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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