2021年12月4日土曜日

社会理論は、それが言及する対象に影響を及ぼす(オイディプス効果)。認識者がこの影響を意識したとき、対象の状況が理論に逆向きの影響を及ぼす。その結果、理論には特定の時代に支配的 な嗜好や、政治的、経済的、階級的利害が反映される。そうだとすると、社会理論の客観性とはいったい何なのかが問題となる。(カール・ポパー(1902-1994))

社会理論と社会の相互作用

社会理論は、それが言及する対象に影響を及ぼす(オイディプス効果)。認識者がこの影響を意識したとき、対象の状況が理論に逆向きの影響を及ぼす。その結果、理論には特定の時代に支配的 な嗜好や、政治的、経済的、階級的利害が反映される。そうだとすると、社会理論の客観性とはいったい何なのかが問題となる。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)情報から社会への影響(オイディプス効果)
 (a)予測というのは一つの社会的なできごとであり、ほかの社会的できごとと相互作用する可能 性がある。そのほかのできごとには、当の予測の対象も含まれる。
 (b)極端な場合、予測自体が《原因》となってそのできごとが起こるということもあるかもしれ ない。
 (c)何かを予測することも、予測を控えることも、さまざまな結果をもたらしうる。

(2)社会から情報への反作用
 (a)予測自体が予測したできごとに影響を及ぼすかもしれないということも 意識すると、予測の中身にも逆の影響が及ぶ可能性がある。
 (b)ある状況においては、予測の影響が、予測をする観察者にも逆向きの重大な影響を返 すことがありうる。

(3)社会に関する理論と社会との相互作用
 (a)社会の発展のある一時期にある種の傾向が内在する場合は必ず、その発展に影響を及ぼ すよう な社会学理論があると考えていい。その場合、社会科学は新しい時代を生み出すのに手 を貸す助産婦の役割を果たすかもしれないが、保守的な利益のために、起ころうとしている社 会の変化を遅らせる働きをする可能性もある。
 (b)ヒストリズム
  各学説や学派を、特定の時代に支配的 だった嗜好や利害に関係づけて説明する。
 (c)知識社会学
  各学説や学派を、政 治的、あるいは経済的、あるいは階級的利害に関係づけて説明する。

(4)問題:社会に関する理論の客観性とは何か
 社会科学者は懸命に真実を見出そうとしているのだろうが、同時に、必ず社会に確かな 影響を及ぼすことになる。社会科学者の言明が《実際に》影響を及ぼすという事実により、科 学者の客観性は失われる。

 「6 客観性と価値判断  ここまで見てきたように、社会科学の分野での予測の困難さを強調する際に、歴史主義は、 予測が予測されたことがらに与える影響の分析に基づいて議論を進める。しかし歴史主義者は 一方で、ある状況においては、予測の影響が、予測をする観察者にも逆向きの重大な影響を返 すことがありうると指摘する。
 物理学の分野でも、同様の考察が行なわれることがある。あらゆる観察は、観察者と観 察対象との間のエネルギー交換に基づくという考察である。このことから、物理学的予測の不 確実性――通常は無視できる程度だが――ということが言われる。その不確実性は「不確定性原 理」により記述される。それは、観察対象と観察主体の間の相互作用によるものであると主張 することができる。両者は作用や相互作用が生じる同一の物理世界に属しているからである。ボーアが指摘したように、物理学におけるこの状況と類似の状況は、ほかの科学、とくに生 物学と心理学にも存在する。しかし、社会科学では(これまで見てきたように)予測が不確実 となり、そのことが現実的に重大な意味を帯びることがある。  社会科学分野では、私たちの目の前に、観察者と観察対象、主体と客体の間に全面的に複雑 な相互作用が生じるという現実がある。将来のできごとを生み出すかもしれない傾向の存在に 気づき、加えて、その予測自体が予測したできごとに影響を及ぼすかもしれないということも 意識すると、予測の中身にも逆の影響が及ぶ可能性がある。その逆向きの影響は、社会科学に おける予測やその他の研究結果の客観性を大きく損なうかもしれない。  予測というのは一つの社会的なできごとであり、ほかの社会的できごとと相互作用する可能 性がある。そのほかのできごとには、当の予測の対象も含まれる。先に見たように、予測がそ のできごとを促すこともあるだろうが、ほかのしかたで影響するかもしれないということは、 容易に理解できるだろう。  極端な場合、予測自体が《原因》となってそのできごとが起こるということもあるかもしれ ない。つまり、予測がなければそのできごとは起こらなかったかもしれないということだ。逆 に、起こりかけているできごとを予測が《妨げる》ということもあるだろう(したがって、社 会科学者は、意図的あるいは怠慢により予測を控えることで、できごとを生じさせる、つまり 原因となることができるとも言えよう)。明らかに、この両極端なケースの間に、多くの中間 的な形態がある。何かを予測することも、予測を控えることも、さまざまな結果をもたらしう るということである。  さて、社会科学者がいずれはこうした可能性に思い至らざるをえないということは間違いの ないところである。たとえば、ある社会科学者は、自分の予測がそれを引き起こすことを予見 しながら予測をするということがあるだろう。あるいは、あるできごとが起こることを妨げよ うと、それは起こらないと予測することもあるだろう。どちらの場合も、その科学者は科学的 客観性を保証する原理――真実を語り、真実でないことを語らない――に従っているように見え る。たしかにその科学者は真実を述べているが、しかし科学的客観性に従っているとは言えな い。なぜなら予測をする(その予測は実際、後に的中するのだが)際に、自分が望む方向にも のごとが進むよう影響を及ぼしているかもしれないからである。
 歴史主義者は、この見方が少々図式的であることを認めるとしても、この指摘が社会科学の ほとんどあらゆる部分に見出される問題を明確に取り出して見せていると主張するはずだ。  科学者の言明と社会生活との相互作用は、ほとんど不可避的に、その言明の真実性だけでな く、将来のできごとの展開への実際の影響についても考慮する必要のある状況を生み出すので ある。社会科学者は懸命に真実を見出そうとしているのだろうが、同時に、必ず社会に確かな 影響を及ぼすことになる。社会科学者の言明が《実際に》影響を及ぼすという事実により、科 学者の客観性は失われる。  私たちは今まで、社会科学者は真実を、それも真実のみを見出すべく懸命に努力していると 想定してきた。しかし、歴史主義者は、ここまで述べてきた状況がその想定を難しくする、と 指摘するはずである。  
 嗜好や利害が科学理論や予測にこのような影響力を持つ以上、そのバイアスを見極め、 除外できるかどうかは、きわめて疑わしいと言わざるをえない。したがって社会科学分野で物 理学に見られるような客観的で理想的な真理の追究を表すようなものがほとんど見られないか らといって、驚くには当たらない。社会科学の分野では、社会生活に見られるのと同じだけの 数の偏り、利益の数と同じだけの数の見地があるものと考えておくべきである。  
 歴史主義者が展開するこのような議論が極端な相対主義に至るのではないか、という点は問 題になるかもしれない。極端な相対主義は、〈成功、それも政治的な成功のみが決定的要素と なる社会科学において、客観性と真理の理想を適用することはまったく不可能だ〉と考える。  ここまで挙げてきた議論を具体化して、歴史主義者は以下のことを指摘するかもしれない。  
 社会の発展のある一時期にある種の傾向が内在する場合は必ず、その発展に影響を及ぼ すような社会学理論があると考えていい。その場合、社会科学は新しい時代を生み出すのに手 を貸す助産婦の役割を果たすかもしれないが、保守的な利益のために、起ころうとしている社 会の変化を遅らせる働きをする可能性もある。
 このような見方は、さまざまな社会学説や学派間の相違を、以下のいずれかの見方で分析 し、説明する可能性を示唆するかもしれない。一つは、各学説や学派を、特定の時代に支配的 だった嗜好や利害に関係づける見方である(このアプローチは「ヒストリズム」と呼ばれるこ とがある。私の言う「歴史主義」と混同してはならない)。もう一つは、各学説や学派を、政 治的、あるいは経済的、あるいは階級的利害に関係づける見方である(このようなアプローチ は「知識社会学」と呼ばれることがある)。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見解,6 客観性と価値判断,pp.39-44,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







2021年12月3日金曜日

自然科学における法則が破ることのできない普遍的なものであるのに対して、人間や社会に関する法則は、もし存在するとしてもそうではない。それは、人間が社会を作り、変えていくことができるからである。では、科学的方法は使えないのか?(カール・ポパー(1902-1994))

人間や社会に関する法則とは?

自然科学における法則が破ることのできない普遍的なものであるのに対して、人間や社会に関する法則は、もし存在するとしてもそうではない。それは、人間が社会を作り、変えていくことができるからである。では、科学的方法は使えないのか?(カール・ポパー(1902-1994))


 「1 一般化
 歴史主義は以下のように主張する。
 自然科学で一般化が可能で、実際にうまく一般化できるのは、自然に全般的な一様性 (斉一性)があるからである。つまり一般化は、同様の条件の下では同様のことが起こるとい う観察に基づく。観察というよりも想定といったほうがいいかもしれない。空間と時間を通じ て常に妥当するとみなされるこの原理が、物理学の方法の根底にある。  この原理を社会学で役立てることは、当然できない。「同様の状況」は、歴史上ひとつの時 代にしか生じない。別の時代まで同様の状況が持続するということはない。したがって社会に は、長期的な一般化を基礎づけられるような一様性は存在しない。あるとすれば、《ごくささ いな規則性》にすぎない。たとえば、〈人間は常に集団で暮らす〉とか、〈物質には有限なも のと無限なもの(空気など)があり、有限な物質のみが市場価値、つまり交換価値を持つ〉と いうような、わかりきった自明の規則性でしかない。  この限界に目をつむり、社会的一様性を一般化しようとする方法論は、その規則性が永続す ることを暗黙のうちに仮定している。物理学の一般化の方法を社会科学も採用できるとするこ の素朴な考え方からは、誤った、そして人を誤らせる危険な社会学理論が生じる。そのような 理論は、社会が発展するということを否定する。社会が重大な変化を起こすということも否定 する。社会の発展というものがあったとしても、それが社会生活の根本的な規則性に影響を及 ぼしうるということを否定する。
   歴史主義者は、こうした誤った理論の背後には弁明的な目的が隠れているものだと力説する ことが多い。たしかに不変の社会法則という仮定は、弁明のためには援用しやすいものであ る。  
 不変の社会法則という仮定は、さしあたり、不快なことや望ましくないことについて、 〈それは不変の自然法則により決まっていることだから受け入れねばならない〉という議論と して現れてくるかもしれない。例を挙げれば、経済学の「厳然たる法則」が、賃金交渉に法制 度が介入することの無益さを証明するものとして引き合いに出されることがある。  永続性を仮定することの弁明的誤用のもうひとつの例は、運命は避けがたいものだという雰 囲気を育むことである。現在あるものは永久にあり、できごとの流れに影響を与えようとする などとんでもないことで、その流れを評価しようとするだけでもおかしなことだ、という雰囲 気である。自然の法則に反論することはできず、法則を捨て去ろうと努めるならば、悲惨な事 態を招きかねないということになる。  これらの主張は、保守的で、弁明的で、ときには宿命論的でさえある。社会学でも自然主義 的方法を援用すべきであるという要請には、こうした主張が必然的に伴う。
 これに対して歴史主義は、社会の一様性は自然科学でいう一様性とは大きく異なると主張す る。     
 社会の一様性は、時代により変化する。その変化をもたらす力は《人間の》活動であ る。社会の一様性は自然の法則ではなく、人間により作られたものである。人間の自然な性質 に基づいていると言うことはできるかもしれない。しかしそれは、人間の自然な性質が社会の 一様性を変化させ、おそらくは制御する力をもつからにほかならない。  それゆえ、ものごとは良くなったり悪くなったりする。活動によりものごとを改変しようと しても無益なことだとは、必ずしも言えない。
  歴史主義が持つこうした傾向は、能動的であることに使命感を抱く人々の目に魅力的に映 る。能動的であるとは、現状を不可避のものとして受け入れることを良しとせず、特に人間の 営みに介入することである。能動性に傾き、あらゆる自己満足を忌避する傾向を、「能動主 義」(アクティビズム)と呼んでいいだろう。  歴史主義と能動主義との関係については第17章と第18章でさらに詳しく述べるが、ここでは 有名な歴史主義者、マルクスのよく知られた警句を引いておこう。この言葉は「能動主義的」 態度を見事に表現している。
   「哲学者は世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。しかし問題は、世界を変えるこ とである。」」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,1 一般化,pp.26-30,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







一般に、ある一つの情報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響をオイディプス効果と名付けたい。予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれない。このため、社会的予測は極めて難しくなる。(カール・ポパー(1902-1994))

オイディプス効果

一般に、ある一つの情報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響をオイディプス効果と名付けたい。予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれない。このため、社会的予測は極めて難しくなる。(カール・ポパー(1902-1994))



「後に歴史主義の親自然主義的見解を考察する中で明らかにするが、歴史主義は科学の務め の一つとして将来の予測ということを掲げ、その重要性を強調する傾向がある(この点につい ては私も完全に同意する。ただし、社会科学の任務の中に《歴史的予言》が含まれるとは考え 《ない》。しかし同時に歴史主義は、社会的予測はきわめて困難な作業にならざるをえないと 論じる。その理由は、社会の構造が複雑であるということだけでなく、予測と予測されること がらとが相互に関係することから、特別に複雑な状況が生じるからである。  予測が、予測されたことがらに影響を及ぼすことがあるという発想は非常に古くからあっ た。伝説のオイディプス王は知らずに父親を殺したが、これはオイディプスが父親を殺すとい う予言の結果だった。その予言ゆえに父親はオイディプスを捨てたのである。私は、この伝説 に基づいて、予測が予測されたことがらに及ぼす影響(より一般化するなら、「ある一つの情 報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響」)を「オイディプス効果」と名付けたいと思 う。その予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれないが、い ずれの場合もオイディプス効果である。  歴史主義者は最近、この種の効果が社会科学にもあるのではないかと指摘するようになった。それにより正確な予測が難しくなり、客観性が損なわれるだろうというのである。
   社会科学の発展により、あらゆる社会的事象を科学的に《正確に》予測できるようにな ると仮定すると、非常におかしな帰結が生じ、それゆえこの仮定は純粋に論理的に棄却でき る。なぜなら、もし新種の科学的社会予測カレンダーが作られて世に知られるようになったと したら(そのようなものがあるとしたら原理的に誰にでも作れるはずなので、長く秘密にして おくことは不可能)、その予測を覆そうとする動きが必ず起こるからである。  たとえば、ある銘柄の株価が3日間上昇して、それから落ちると予測されたなら、市場参加 者は全員3日目に売りに出て、その日のうちに株価は暴落し、予測は外れる。つまり、社会的 なできごとに関して正確で詳細な予測カレンダーを作るという発想自体、自己矛盾なのであ る。したがって、社会科学的に《正確で詳細な》予測をすることは不可能である。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,5 正確な予測の不可能性,pp.37-38,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







本質主義は、理論的モデルを具体的事物と誤認している。社会現象の解明においても、自然科学と同じような方法論的唯名論が科学的方法である。すなわち、社会学的モデルを、個人に関してその態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築していく(方法論的個人主義)等の方法が必要だ。(カール・ポパー(1902-1994))

方法論的個人主義

本質主義は、理論的モデルを具体的事物と誤認している。社会現象の解明においても、自然科学と同じような方法論的唯名論が科学的方法である。すなわち、社会学的モデルを、個人に関してその態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築していく(方法論的個人主義)等の方法が必要だ。(カール・ポパー(1902-1994))



「自分が仮説や理論を操作していることに気づかず、それゆえに理論的モデルを具体的事物 と誤認することは珍しくない。これは非常に一般的な誤りである。モデルがこのように使われ ることが多いという事実が、方法論的本質主義の見解を説明し、それにより方法論的本質主義 を無効にする(第10節参照)。説明するというのは、モデルというのがその性格上抽象的また は理論的であるため、私たちはそれを観察可能な変化するできごとのうちに、あるいはその背後に、一種の永続的な亡霊として、つまり本質として見ているような感覚をもちやすいからである。また、無効にするというのは、社会理論の課題は、社会学的モデルを記述的または唯名論的な観点から、つまり《個人に関して》その態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築し、分析することにあるからである。社会理論の課題をこのように見る主張は、「方法論的個人主義」と呼んでいいだろう。
 自然科学と社会科学の方法の単一性については、ハイエク教授の「科学主義と社会の研究」から二つの部分を抜き出して分析してみればよくわかる。この分析により、両者の単一性を擁護できるだろう。まず、ハイエク教授はこのように書いている。

   物理学者が社会科学的問題を自分の分野からの類推で理解しようとするなら、次のような世 界を想像せざるをえないだろう。そこでは原子〔個々の人間〕の内部を直接観察して知ること ができるが、多くの材料を集めて実験をすることはできず、ごくわずかな原子の相互作用を限 られた期間しか観察できない。物理学者は、さまざまな種類の原子についての知識から、原子 が集まって大きな単位となるような、さまざまな仕方でモデルを構築できるだろう。そしてこ れらのモデルを、より複雑な現象をそこに観察できるようないくつかの事例のすべての特徴 を、ますます厳密に再現できるようにしていくこともできるだろう。しかし、物理学者はマク ロの世界の法則を、ミクロの世界について自分が持っている知識から引き出すのであり、その 法則は常に「演繹的」なものになる。複雑な状況のデータについての知識が限られているた め、その法則から個々の状況の結果を正確に予測することはほとんどできない。また、対照実 験により法則を確認することもできない。もっとも、自説によればありえないはずのできごと を観察したときには、その法則は《反証》されるのではあるが。」

 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,29 方法の単一性,pp.220-222,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)









例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

方法論的唯名論と本質主義

例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


「自然科学の分野で方法論的唯名論が支配的であることは、ほとんどの人が認めるはずであ る。たとえば、物理学は原子の本質や光の本質を問うことはなく、ただこれらの言葉を物理的 観察を説明し記述するために利用し、重要かつ複雑な物理構造の名称として用いているだけで ある。  生物学でも事情は同じである。哲学者は生物学者に対して、「生命とは何か」「進化とは何 か」といった問いの回答を求めるかもしれないし、生物学者の中にもときにはその要求に応え ようとする者が出てくる。しかし、科学としての生物学は全体としてそのような問題には対応 することなく、物理学にごく近い説明や記述の方法を採用している。  そうすると当然、社会科学の分野でも、方法論的自然主義者は唯名論を支持し、反自然主義 者は本質主義を支持することが予想される。ところが実際には、社会科学ではどうやら本質主 義が支配的なのである。しかも、それに対する積極的な反論は存在しない。本質主義の立場は 以下のように論じる。 
 《自然科学の方法が基本的に唯名論的であるのに対して、社会科学は方法論的に本質主 義を採用せざるをえない》。社会科学の任務は、国家、経済活動、社会集団など社会学的実体 を理解し、説明することであり、それは、それらの実体の本質を見抜くことによってのみ成し 遂げられる。重要な社会学的実体には必ずそれを指示する普遍名辞が前提として存在し、自然 科学で行なわれて成果を上げているように自由に新しい言葉を導入しても、意味がない。社会 科学の任務は、これらの実体を明確かつ適切に、すなわち本質的な部分と偶有的な部分を区別 して記述することだが、そのためには本質の知識が必要とされる。「国家とは何か」や「市民とは何か」(アリストテレスは『政治学』の中でこれらを根本問題と考えている)、あるいは 「信用とは何か」、「英国国教会教徒と分離派教徒(つまり教会とその分派)の本質的な違い は何か」といった問いは、完全に正当な問いであるのみならず、まさにそれに答えるために社 会学理論が構築されるような種類の問いなのである。
 歴史主義者はそれぞれ、形而上学的問題に対する姿勢や、自然科学の方法論に関する考え方 で互いに異なるが、社会科学の方法論に関する限りでは、唯名論より本質主義に傾くことは明 らかである。実際、私の知る歴史主義者はひとり残らず本質主義的態度を取る。しかし、その 理由が歴史主義が持つ一般的な反自然主義的傾向のみによるものか、あるいは本質主義の方法 を支持せざるをえないような特殊の歴史主義的議論が存在するのかという点は、考察に値す る。  第一に、社会科学で定量的方法を用いることに反対する議論は、明らかにこの問題に関連す る。社会的できごとの定性的性格を強調することと、(単なる記述ではない)直感的理解を強 調することは、本質主義にきわめて近い態度である。  しかし、もっと歴史主義に典型的で、すでに読者にはお馴染みになっている考え方の傾向に 沿った議論がある(偶然ではあるが、アリストテレスは、まさにこの議論により、プラトンは 最初の本質論を発展させたと指摘している)。  歴史主義は変化の重要性を強調する。すべての変化には、変化する何かが存在しなければな らないと、歴史主義者は論じるだろう。  
 不変のものが何もないとしても、変化について語るためには、〈変化したもの〉を同定 できなければならない。  物理学においてはこれは比較的容易である。たとえば力学においてあらゆる変化は物体の運 動、すなわち空間-時間的変化である。しかし、主に社会制度を考察対象とする社会学におい ては、変化した後の制度を同定することは容易ではないため、困難は大きい。記述的な意味の みで言うなら、変化《前》の社会制度を変化《後》の制度と同一と見なすことは不可能であ る。記述的な観点では、両者はまったくの別物かもしれない。  たとえば英国における現在の政治制度を自然主義的に記述するとしたら、4世紀前の制度と は完全に異なるものとして提示しなければならないかもしれない。しかし私たちは、《行政 府》がある限り、大きく変わっていようともそれは《本質的に》同じものだと言うことができ る。現代社会でその制度が果たす機能は、かつての制度が果たしていた機能と《本質的に》同 じである。両者の特徴を記述すればほとんど同じところは残っていないにもかかわらず、《本 質的》同一性は保たれており、一つの制度の形が変化したと見ることができる。社会科学にお いては、不変の本質を想定することなしに、つまり方法論的本質主義に沿うことなしに、変化 や発展を語ることはできないのである。  不況、インフレーション、デフレーションといった社会学的な用語のいくつかが、もともと 純粋に唯名論的に導入されたことは、言うまでもなく明らかである。しかしそうだとしても、 これらの用語はすでに唯名論的な性格を持ち合せていない。社会状況が変化すると、遠からず 社会科学者たちの間で、ある現象が本当にインフレーションであるかどうかを巡って意見の食 い違いが生じるのである。こうして、厳密を期すために、インフレーションの本質的な性質 (あるいは本質的な意味)を探究する必要が出てくるであろう。  したがって、いかなる社会的実体についても、「その《本質》に関する限り、ほかの何らか の場所、ほかの何らかの形で存在するかもしれないし、同様に実際には変わらないまま変化す るかもしれないし、実際の変化とは違う仕方で変化するかもしれない」(フッサール)と言う ことができる。起こりうる変化の幅は、アプリオリには限定されない。社会的実体がどのよう な種類の変化を受けて、なお同じでありつづけられるかは、けっしてわからない。ある観点か らは本質的に異なる現象が、別の観点からは本質的に同一であるということもあるかもしれな い。

 右に展開してきた歴史主義者の議論からは、以下の結論が導ける。 

 社会の発展をそのまま記述することは不可能である。あるいは、社会学的記述は単なる 唯名論的意味での記述ではありえない、と言った方がいいかもしれない。社会学的記述が本質 抜きではありえないとしたら、社会の発展の理論はなおさら本質を無視しては成り立たない。 社会的なある時代の特徴を、その時代の緊張状態やそこに内在する傾向やトレンドとともに確 認し、説明するという課題に対しては、唯名論的手法により一切の対処の努力が許されないと いうことは、誰も否定できないからである。

 したがって、方法論的本質主義の基には、プラトンを実際に形而上学的本質主義に導いた議 論と同じ歴史主義的議論があると言うことができる。つまり、変化する事物だけでは合理的記 述は不可能だというヘラクレイトス的議論である。 

 科学や知識は、前提として、変化せずにそれ自体と同一であり続ける何ものか、すなわち本質を必要とする。  こうして見ると、《歴史》、すなわち変化の記述と、《本質》、すなわち変化の中で不変を 保つものとは、相関的な概念であると思われる。しかしこの相関には別の面もある。ある意味 で本質は変化を前提とし、それにより歴史を前提としているということである。なぜなら、事 物が変化するときに同一のまま変化しない原理が本質(あるいはイデア、形相、本質、実体) であるとするなら、その事物が被る変化こそが、事物の異なる側面、あるいは可能性を、した がってその本質を明るみに出すからである。つまり、本質とは事物に内在する可能性の総和、 または源泉と解釈することができ、変化(あるいは運動)とは、事物の本質の潜在的可能性の 現実化、具現化と解釈できる(この説はアリストテレスに由来する)。したがって、事物、す なわちその不変の本質は、《変化を通して》のみ知ることができると言える。  たとえば、あるものが金でできているかどうかを知りたければ、叩いたり、化学的に検査し たりして、つまりそれを変化させて潜在的可能性を引き出さなければならない。同様に、人間 の本質――性格――は、その本質が人生の展開の中で現われてくるときにのみ知ることができる。 この原理を社会学に適用すると、以下のような結論が導かれる。ある社会集団の本質、すなわ ち本当の性格は、その歴史を通じてのみ自ら現われ、知られることができる。  しかし、社会集団がその歴史を通じてのみ知られうるとしたら、その集団を記述する概念は 歴史的概念でなければならない。実際、日本《国家》であるとかイタリア《国民》、アーリア 《民族》といった社会学的概念は、歴史研究に基づいた概念であるとしか考えられない。社会 《階級》についても同じことが言える。たとえば《ブルジョワ》というのは、歴史によっての み――産業革命により権力を得て、地主を押しのけ、プロレタリアートと闘っている階級として ――定義される概念である。  

 本質主義は、変化する事物の中で同一性を見出せるのは本質あってのことであるという根拠 に基づいて考えられたものかもしれないが、結局は、社会科学は歴史的方法を採用しなければ ならないとする見解、言い換えれば歴史主義を支える最も強力な議論の一部を用意するものと なったのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,10 本質主義と唯名論,pp.61-65,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







特定の出来事の因果的説明は、初期状態を仮定して、それと法則とからその出来事を演繹することで足りる。しかし、ある規則性の因果的説明には、主張されている規則性が成立する、ある種類の状況を特徴付ける条件自体も、一般法則から演繹する必要がある。(カール・ポパー(1902-1994))

規則性の因果的説明とは何か

特定の出来事の因果的説明は、初期状態を仮定して、それと法則とからその出来事を演繹することで足りる。しかし、ある規則性の因果的説明には、主張されている規則性が成立する、ある種類の状況を特徴付ける条件自体も、一般法則から演繹する必要がある。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)特定の出来事の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)《特定的初期条件》
 これは、単称言明である。正確には、条件ではなく、状態である。原因と呼ばれる。
 (c)ある《特定の出来事》を、(a)と(b)とから演繹できるとき、因果的説明がなされたことになる。説明された特定の出来事は、結果と呼ばれる。

(2)規則性の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)ある種類の状況を特徴付ける条件
 (c)ある規則性
 (a)と(b)とから規則性を演繹できても、不十分である。規則性の因果的説明とは、主張されているその規則性が当てはまる条件(b)を含む法則を、すでに独立に検証、確認された普遍法則から演繹することにある。


「ある《特定のできごと》を因果的に説明するということは、そのできごとを叙述する言明 を二種類の前提から演繹することを意味する。二種類というのは、《普遍法則》と、単称言 明、つまり特定の言明である。この特定の言明は、《特定的初期条件》と呼べるだろう。」 (中略)  「このように二種類の要素、二種類の言明があり、両者が合わさって完全な因果的説明が成 立する。すなわち《自然法則の性格を持つ普遍言明と問題になっている具体的事例に関係す る、「初期条件」と呼ばれる特定的言明》である。  これで、普遍法則から初期条件の助けを借りて、特定的言明「この糸は切れる」を演繹する ことができる。この結論を、特定的《予測》と呼ぶこともできるだろう。初期条件(より正確 に言うなら、その条件により記述される状況)は通常、問題のできごとの《原因》として語ら れ、予測(あるいはその予測により記述されるできごと)は結果として語られる。たとえば1 ポンドにしか耐えられない糸に2ポンドの重りをつるすことが原因であり、糸が切れることが 結果であると言う。  当然、こうした因果的説明は、普遍法則が十分に検証され、裏づけられ、かつ、その原因、 すなわち初期条件を裏づける独立した証拠が存在する場合にのみ、科学的に認められる。」 (中略)  「普遍法則により記述される《規則性》の因果的説明は、特定のできごとの因果的説明の場 合とは少々異なる。一見したところ状況は似ていて、問題の法則は二つの要素から演繹される はずだと思えるかもしれない。すなわち、(1)それより一般的ないくつかの法則と、(2)初期条件に対応する特定の条件(ただしそれは単称的では《なく》、ある《種類》の状況を条件づ けている)である。しかし規則性の因果的説明は、そのようにはならない。なぜなら、(2)の 特定の条件は、まさに説明しようとしている法則の定式化の中に明示的に述べられなければな らないことだからである。そうでなければ、この法則は単純に(1)と矛盾する(たとえば ニュートンの理論を使ってあらゆる惑星が楕円軌道で運動することを説明しようとする場合、 その妥当性を主張できる条件を、当の法則の定式化の中で、まず明示的に述べなければならな い。おそらく次のような形である。「複数の惑星が、相互の引力が非常に小さくなる程度に互 いに十分に離れた状態で、それらの惑星より非常に重い太陽の周囲を回っているなら、《その ときは》各惑星は太陽を焦点の一つとする楕円に近い軌道を運動する」)。言い換えると、そ こで説明しようとしている自然法則の定式化は、それが妥当するすべての条件を組み込んでい なければならないのである。そうでなければ、その法則を普遍的に(ミルの言葉遣いでは無条 件に)主張することはできない。したがって、規則性の因果的説明とは、(主張されているそ の規則性が当てはまる条件を含む)法則を、すでに独立に検証、確認された、より一般的な一 群の法則から演繹することのうちにある。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,28 還元の法則、因果的説明、予測と予言,pp.202-206,日経BPクラシックスシリーズ(2013), 岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良


カール・ポパー
(1902-1994)










進化の法則はあり得るのだろうか。「その答えはノーであるに違いないと私は信じている」。生命の進化、あるいは人間社会の進化は、あらゆる因果関係の連鎖によって織り合わされているとはいえ、プロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明に過ぎない。(カール・ポパー(1902-1994))

進化の法則はあるのか

進化の法則はあり得るのだろうか。「その答えはノーであるに違いないと私は信じている」。生命の進化、あるいは人間社会の進化は、あらゆる因果関係の連鎖によって織り合わされているとはいえ、プロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明に過ぎない。(カール・ポパー(1902-1994))



「しかし、進化の《法則》というものはありうるのだろうか。T・H・ハクスリーは「科学 が、遅かれ早かれ、有機的形態の進化の法則に傾倒するということを疑う哲学者は、まともな 哲学者ではありえない。その法則とは、古今を問わずあらゆる有機的形態がそのつなぎ目であ るような巨大な因果の鎖という不変の秩序である」と書いているが、このときハクスリーが意 図していた意味での科学的法則というものは、果たして存在しうるのだろうか。  その答えは「ノー」であるに違いないと私は信じている。私の考えでは、進化の中に「不変 の秩序」という法則を探し求めることは、生物学であろうと社会学であろうと、科学的方法の 範囲には収まりえないのである。私にとって理由は非常に単純だ。地上の生命の進化、あるい は人間社会の進化は、類例のない歴史的プロセスである。そのようなプロセスは、あらゆる種 類の因果法則、たとえば力学的法則や化学的法則、遺伝と分離の、あるいは自然選択の法則な どに従って進むと想定していいだろう。しかしそのプロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明にすぎない。  普遍法則は、ハクスリーの言葉を借りるなら、不変の秩序に関わる、すなわち、特定の種類 のすべてのプロセスに関わる主張をなす。たしかに、単一の事例の観察をきっかけに普遍法則 の定式化に向かうということがあってはならない理由はないし、運が良ければそれで真理にた どり着くことがありえないと断じる理由もない。しかし、このようなあり方で(あるいはどの ようなあり方であれ)定式化された法則を科学でまともに取り上げるには、その前に新たな事 例で《検証》しなければならないことは明らかである。しかし、類例のない一回だけのプロセ スを観察しているかぎり、普遍的仮説を検証することも、科学的に認められる自然法則を見つ け出すことも期待できない。類例のない一回だけのプロセスの観察は、未来の展開の予測には 役立たない。《一匹の》芋虫の成長を細心の注意を払って観察しても、それが蝶へと変態する ことを予測する助けにはならないのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,27 進化の法則は存在するか:法則とトレンド,pp.180-182,日経BPクラシックスシリーズ (2013),岩坂彰(訳)

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)









社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。社会的現象の歴史性と新奇性は事実であるが、科学的な仮説の全てが法則ではない。医学的な診断や進化論は単称言明であるが科学的な仮説である。(カール・ポパー(1902-1994))

単称言明である仮説

社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。社会的現象の歴史性と新奇性は事実であるが、科学的な仮説の全てが法則ではない。医学的な診断や進化論は単称言明であるが科学的な仮説である。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。
(b)進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特称(より正確に言うなら単称)言明である。

「進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特 称(より正確に言うなら単称)言明であるという事実は、「仮説」という用語が普遍的自然法 則の資格を特徴づけるために頻繁に使われるせいで、いくぶんわかりにくくなっている。しか し、仮説という言葉は別の意味でもよく使われることを忘れてはならない。たとえば、医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。言い換えると、すべての自然法則が仮説であるという事実に 引っぱられて、すべての仮説が法則であるわけではないという事実から目を逸らせてはならな い。とくに歴史的な仮説となれば、それは基本的に全称言明ではなく、個々のできごとや多く のできごとについての単称言明なのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,27 進化の法則は存在するか:法則とトレンド,pp.179-180,日経BPクラシックスシリーズ (2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)









自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。しかし社会には歴史があり、全ての出来事には新奇性があるため、科学的な方法が使えないのではないかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史に由来する出来事の新奇性

自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。しかし社会には歴史があり、全ての出来事には新奇性があるため、科学的な方法が使えないのではないかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)しかし社会には歴史があり、同じ条件での反復は不可能で、全ての出来事は1回だけしか起こらないかもしれない(新奇性)。
(c)社会現象の解明に、科学的な方法は使えるのだろうか。

「右の議論は一考に値する。右に述べたように、歴史主義は、大規模な社会実験を全く同じ 条件の下で繰り返すことは不可能だと断じる。二度目の実験の環境条件は、その前に実験が行 なわれているという事実の影響を被らざるをえないからである。この議論の基には、社会とい うのは、生物と同じように、ある種の記憶を有しているという考え方が存在する。私たちが通 常「歴史」と呼ぶものの記憶である。  生物学では、生物のライフヒストリーについて語ることができる。生物は過去のできごとに より特定の条件づけを受けている。できごとが繰り返されると、それを経験する生物にとって 新奇性が失われ、できごとは習慣的な色合いを帯びる。しかし、だからこそ、その経験は元の 経験とは同じでは《ない》。繰り返しという経験は《新しい》のである。それゆえ、観察して いるできごとが繰り返されるということは、観察者にとって新奇な体験が現れたことに対応す ると言える。それは新しい習慣を形成する。そのため、繰り返しは新しい習慣的条件を生み出 す。  したがって、ある生物個体に一定の実験を繰り返す際の内的、外的条件の総計は、真の意味 での反復と呼べるほど常に同じとは言えない。たとえ外的条件を完全に同じにしたところで、 それと関係する生物の内的条件は新しい。生物は経験から学んでしまっている。  歴史主義によれば、社会にも同じことが言える。社会も経験をするからである。社会は自身 の歴史を持つ。  
 社会は自身の歴史の〈部分的〉繰り返しから学ぶ。ゆっくりとしか学ばないかもしれな いが、過去により部分的に条件づけられている限り、学ぶことに疑いの余地はない。社会生活 において伝統と、伝統的忠誠と敵意、信用と不信が重要な役割を果たすのは、この学習を通じ てこそである。  ゆえに、社会の歴史の中で、本当の繰り返しは不可能である。つまり、本質的に新しい性質 のできごとが起こると考えざるをえないということだ。歴史は繰り返すかもしれないが、同じ レベルでは繰り返さない。とくにできごとが歴史的に重要で、その影響が社会に長く残るよう な場合は、繰り返しにはならない。  物理学が記述する世界においては、本質的に真に新しいことは何も起こりえない。新しい原 動機は発明されるかもしれないが、それを分析すれば、必ず既知の要素の組み替えと見ること ができる。物理学における新しさとは、配置または組み合わせの新しさにすぎない。  これとは逆に、社会的な新しさとは、生物学的な新しさのように、本質的な種類の新しさで ある。それは本当の新しさであり、配置の新奇性に還元できるものではない。社会生活におい ては、新しい配置の中の古い要素は、けっして同じ古い要素ではないからである。厳密な反復 が不可能な状態では、常に本当の新奇性が現れてくる。  互いに本質的に異なる歴史の新段階、あるいは新時代の発展について考察する際に、右のこ とは重要な意味を持つと考えられている。本当に新しい時代の出現以上に偉大な瞬間はない。しかし社会生活におけるその非常に重要 な側面を、私たちが物理学で新奇性を説明するときに従う議論の筋、つまり、既知の要素の組 み替えという議論に沿って追究することはできない。仮に物理学の通常の方法が社会に適用可 能だったとしても、社会の最も重要な特徴である《時代が区分されること》と《新奇性の出 現》に適用することはできない。ひとたび社会の新しさの意味をつかんだなら、〈物理学の通 常の方法を社会学的問題に適用することで社会的発展の問題の理解を深められる〉という考え は、捨てざるをえなくなる。  社会的な新しさにはほかの側面もある。ここまで、社会で起こる物事、社会生活における一 つ一つのできごとはすべて、ある意味で新しいと言えるということを見てきた。ほかのできご とと同種であると分類できたり、ある面で類似していたりすることはあるかもしれないが、社 会のできごとは常にきわめて厳密な意味で独特である。  ここから、社会学的な説明に関する限り、物理学とははっきりと異なる状況が生じる。社会 生活を分析することで、特定のできごとの生じ方や生じた理由を発見し、それを直感的に理解 できるかもしれないと考えることは、たしかにできる。その《原因と作用》、つまりそのでき ごとを引き起こした力と、ほかのできごとへの影響は明確に理解できるだろうという考え方で ある。しかしその場合でも、そのような因果関係の一般的記述として使えるような《一般法 則》を定式化することはできないだろう。というのは、発見した特定の力を用いて正確に説明 できるような社会学的状況はただ一回しか起こらないだろうからである。そのような力は独特 なものである可能性が高い。それはその特性の社会状況において一度しか生じず、二度と繰り 返さないかもしれない。
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,3 新奇性,pp.32-35,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







2021年12月2日木曜日

社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。確かに、自然科学における典型的な実験は、理想的な条件の元での再現実験であるが、実験の概念はもっと広く多様である。(カール・ポパー(1902-1994))

社会科学における実験

社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。確かに、自然科学における典型的な実験は、理想的な条件の元での再現実験であるが、実験の概念はもっと広く多様である。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)社会実験の例
 (a)新しい食料品店を開いた店主は、一つの社会実験を行なっている。
 (b)市場の売り手と買い 手は、供給が増えるたびに価格が下がり、需要が増えるたびに価格が上がる傾向があるという 教訓を、実践的な実験を通じてのみ学ぶのである。 
 (c)民間企業のあらゆる活動、公的な政策実施もすべて社会実験である。
(2)課題への取組みと誤りから学ぶ方法
 ただ観察したことを 記録するのでなく、積極的な試みをして、何らかのある程度実践的で限定的な問題を解決しよ うとする。そして《誤りから学ぶ》姿勢をもったときに、その場合にのみ、私たちは前進す る。
(3)社会的政治的な課題における効果的な方法は、科学的方法そのものである
 私たちが試行のリスクを冒す姿勢をより自由に、より意識 的にとればとるほど、そして自らが常に犯す間違いに、より批判的な目を向ければ向けるほ ど、試行錯誤の方法は科学的な性格を帯びることになる。この定式は、実験の方法だけでな く、理論と実験の関係についても当てはまる。すべての理論は試行である。うまくいくかどう かが試される暫定的な仮説なのである。実験による裏づけとは、理論のどこが誤っているかを 見つけ出そうと批判的精神のもとで遂行される検証の結果にすぎない。
(4)政治における科学的方法の適用
 政治に科学的方 法に近いものを適用する唯一の方法は、〈欠陥がなく悪影響も伴わないような政策などありえ ない〉という前提のもとで施策を進めることなのである。誤りに注意を向け、見つけ出し、公 にし、分析し、そこから学ぶという姿勢を、政治学者はもちろん、科学的政治家もとらなけれ ばならない。

「新しい食料品店を開いた店主は、一つの社会実験を行なっている。劇場のチケット売り場 に並ぶ人でさえ、次のときはそこで得た実験的、技術的知識を活かして席を予約するかもしれ ない。これもまた一つの社会実験である。忘れてはならない事例として、市場の売り手と買い 手は、供給が増えるたびに価格が下がり、需要が増えるたびに価格が上がる傾向があるという 教訓を、実践的な実験を通じてのみ学ぶのである。  もう少し大きな規模でのピースミール実験の例として、独占企業が価格の変更を決定する場 合や、公的保険機関や民間の保険会社が新しいタイプの健康保険や雇用保険を導入する場合、 新しい売上税や景気循環を抑える政策を導入する場合などが挙げられる。これらの実験はいずれも、科学的な目的ではなく、実践的な目的を念頭に置いて実施される。そればかりでなく、 実際一部の大企業は、ただちに利益を増やすためというよりは、市場についての知識を増大さ せる目的で(もちろんそれは後の増益のためではあるが)、意図的に実験を実施してきてい る。  この事情は、物理学的工学や、人類が造船や航海術のようなことがらについての技術的知識 を最初に獲得した際の前科学的方法における事情にごく近いものである。これらの方法を改良 し、最終的にはより科学的に考えられた技術で置き換えるという方向をとっていけない理由は ないように思える。そうして、実験と批判的考え方の両方に基づいて、より体系的なアプロー チで同じ方向に進めばいいのである。  このようなピースミール的見解からすると、実験に際して科学的方法、つまり批判的方法を 適用する意識を高めていくことが非常に重要であるとはいえ、前科学的実験のアプローチと科 学的実験のアプローチとの間の明確な境界線はない。どちらも基本的には試行錯誤という手法 を利用するアプローチであると言える。まず私たちは試行する。つまり、ただ観察したことを 記録するのでなく、積極的な試みをして、何らかのある程度実践的で限定的な問題を解決しよ うとする。そして《誤りから学ぶ》姿勢をもったときに、その場合にのみ、私たちは前進す る。頑なに誤りにこだわり続けるのではなく、誤りを認識し、それを批判的に活用するのであ る。  この分析は、些末なことがらに見えるかもしれないが、あらゆる経験科学の方法論の特徴を 描写するものであると私は考える。私たちが試行のリスクを冒す姿勢をより自由に、より意識 的にとればとるほど、そして自らが常に犯す間違いに、より批判的な目を向ければ向けるほ ど、試行錯誤の方法は科学的な性格を帯びることになる。この定式は、実験の方法だけでな く、理論と実験の関係についても当てはまる。すべての理論は試行である。うまくいくかどう かが試される暫定的な仮説なのである。実験による裏づけとは、理論のどこが誤っているかを 見つけ出そうと批判的精神のもとで遂行される検証の結果にすぎない。  ピースミール技術者・工学者の目から見ると、これらの見解は、〈社会研究や政治に科学的 方法を持ち込みたいのなら、最も必要なことは批判的態度の採用と、試行だけでなく錯誤も欠 かせないという認識である〉ということを意味している。それも、誤りを予想するだけでな く、意識的に誤りを探し出そうとすることを学ばなければならない。  私たちはみな、自分が常に正しいと、非科学的に考えたがる。この弱点は、とくに政治家 (職業的政治家もアマチュア政治家も含め)によく見られるようだ。しかし、政治に科学的方 法に近いものを適用する唯一の方法は、〈欠陥がなく悪影響も伴わないような政策などありえ ない〉という前提のもとで施策を進めることなのである。誤りに注意を向け、見つけ出し、公 にし、分析し、そこから学ぶという姿勢を、政治学者はもちろん、科学的政治家もとらなけれ ばならない。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第3章 反自然主義的な見解への批判,24 社会実験の全体論,pp.148-151,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良


カール・ポパー
(1902-1994)









自然科学における典型的な実験は、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。社会科学においては、そのような理想実験が可能なのか、可能だとしても有意義なのかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

社会科学における実験

自然科学における典型的な実験は、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。社会科学においては、そのような理想実験が可能なのか、可能だとしても有意義なのかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)自然科学における典型的な実験は、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)社会科学において、同様の実験が行えるとしても、意味を持つだろうか。
(c)社会科学において、そもそも理想的な実験条件を準備できるだろうか。

「2 実験  物理学は実験という手法を利用する。人為的な操作を行い、人為的に対象を環境から隔離 し、それにより確実に同様の条件を再現し、その結果、一定の作用を確実に生み出せるように する。この手法の基には明らかに、同様の環境であれば同様のできごとが起こるという考え方 がある。  この手法は社会学には適用できないし、仮に適用できたとしても役には立たないと、歴史主 義者は主張する。 
 なぜなら、同様の条件というのは、限定されたひとつの時代の間にしか生じないため、 どんな実験をしても、その結果の持つ意味は非常に限られたものになるからである。しかも、 人為的に環境から隔離するということは、社会学的に最も重要な因子を切り捨てることになり かねない。ロビンソン・クルーソーと、彼がひとりで行なった孤立した経済活動が、個人や集 団の間の経済的相互作用ゆえに問題が生じてくる経済のモデルとして価値を持つことは、あり えないのである。

 現実的に価値を持つ実験など一切ありえないとまで論じられる。  

 社会学における大規模実験は、物理学的意味での実験ではない。それは知識を深めるた めに行なわれるのではなく、政治的な成果を達成するために行なわれる。外界から切り離され た実験室の中で実施されるのではなく、実験を行うこと自体が社会の条件を変化させる。最初 の実験で条件が変化してしまう以上、全く同じ条件の下で実験を繰り返すことはできない。

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,2 実験,pp.30-31,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







事実からは目標は導出できない。故に、政治とは政治的目標と実現方法の一つの選択である。それにもかかわらず、空想的で全体主義的な目標選択の誤りに陥らないためには、事実の評価から始めなければならない。従って政治的目標は、悪に対する漸次的闘いとなる。(カール・ポパー(1902-1994))

悪に対する漸次的闘い

事実からは目標は導出できない。故に、政治とは政治的目標と実現方法の一つの選択である。それにもかかわらず、空想的で全体主義的な目標選択の誤りに陥らないためには、事実の評価から始めなければならない。従って政治的目標は、悪に対する漸次的闘いとなる。(カール・ポパー(1902-1994))

(1)事実から目標は導出できない
 (a)社会科学によって扱われる事実。
 (b)倫理的な考察に基づいているか、他の意思決定に基づいているかのいずれにせよ、政治 的な目標。 
(2)事実から目標が導出可能とする反論
 (a)意思決定の仕方は、教育やそれと同じような事実の影響に依存してい る。
 (b)目標や意思決定もそれ自体が事実である。
(3)政治とは、政治目標とその実現方法の選択である
 (a)目標が実現可能かどうかは事実の問題であり、社会科学 によって探究される。
 (b)目標を実現する方法もまた、社会科学に よって探究される。
(4)それにもかかわらず、最初に社会を構想してから、実現方法を考えるというアプローチを、批判することを試みる。
(5)事実の評価
 目標は事実に還元不可能である。では、目標は何から得られるのか。それは、単なる空想なのか。事実の評価から、我々は選択肢を作り、そして選択する。
(6)空想的な目標
 空想的な目標は、実行不可能性が問題ではなく、そのアプローチが全体主義的であり、そして全体主義は怪 物キマイラである。一連の新しい社会制度の帰結を《すべて》思い描くことはできない。
(7) 悪に対する漸次的闘い
 従って、政治的な目標選択は、悪に対する漸次的闘いとなる。
 

「1 ここで詳しく検討できませんが、議論の前提の一つは、政治では、次の二つの違った 問いを区別すべきだということです。つまり、次の二つについての問いです。  (a)社会科学(たとえば、権力の社会学)によって扱われる、社会学的な事実。  (b)倫理的な考察に基づいているか、他の意思決定に基づいているかのいずれにせよ、政治 的な目標。  われわれの最初の命題は、目標や意思決定は事実と関係はするが事実から導き出すことは不 可能だ、ということです。目標や意思決定を事実から導き出そうとするどのような試みも誤り です。たとえば、何人も奴隷となってはならないと、意思決定したり、このことが実現した社 会を目標としたりすることはできます。しかし、この決定や目標は、すべての人は自由に生ま れるという事実と称されるものからは導き出せません。というのも、もしすべての人が自由に 生まれるということが事実だとしてさえも、なお人々を奴隷にすることを目標にできるからで す。また、もしすべての人が鎖につながれて生まれてくるとしてさえも、なお、人々を解放すべきと要求できるのだからです。言い換えると、どのような一連の事実を考慮に入れても、つねに 多くの目標や意思決定、たとえば、それらの事実を変更するとか、そのままにしておくとか、 そういった目標や意思決定が可能なのです(もし問題となる事実が変更不可能なら、そのとき これらの特定の事実に関してはいかなる目標も設定できません)。  目標や意思決定は事実に還元できないという主張は、しばしば異議を唱えられてきました。 たとえば、意思決定の仕方は、事実に、つまり、教育やそれと同じような影響に依存してい る。あるいはまた、目標や意思決定もそれ自体が事実である。したがって、目標や意思決定と 事実が、このように厳格で揺るぎない区分だとするのはばかげている、などと言われてきまし た。この場でこれらの反論に答えることは不可能ですが、私の本の中で、これらの反論には十 分に答えていると考えます。ここではこの目標や意思決定は事実に還元できないという主張を 当然としていただくようお願いしなければなりません。

  2 目標や意思決定は還元不可能だという主張を受け入れるなら、政治とは、政治目標とその 実現方法の選択であると見なさねばなりません。われわれは、そのような目標を実現可能なも のとして選択するでしょう。それらの目標が実現可能かどうかは事実の問題であり、社会科学 によって探究されるべきことです。そしてそれらの目標を実現する方法もまた、社会科学に よって探究されるでしょう。しかし、可能かつ実際に実現可能だという制約の中で、われわれ は自由な選択をする、つまりわれわれが自分たちの目標を自ら決定するのです。  この見方は、われわれの目標は歴史的ないし経済的必然性によって決定されると信じるすべ ての見方、ここでは論ずるつもりのない見方に反対しているのです。

  3 ここで私が描き出した政治の考え方は、実は私がしりぞけようとする一つの帰結に結び付 いているように見えます。しかし、そうだとしても、私はこの考え方を固く維持するつもりで す。その見かけ上の帰結とは次のことです。  もし政治が自由に選択された目標の実現なら、政治が取りうる唯一の合理的方法は以下のも のです。すなわち、最初にわれわれは自分たちの究極目的を決定しようとする、つまり、最初 にわれわれが(可能で実際に実現可能な社会のうちで)どのような種類の社会を最も好むかに ついて合意に辿り着こうとします。そして次に、この社会を実現する最上の方法を見つけよう とする、というものです。  ここで描き出した見方に、「空想主義」と名前を付けることにしましょう。理想社会が不可 能だとか、実行不可能だということは、この種の空想主義に対する妥当な反論ではないことを 理解することが重要です。不可能なあるいは実行不可能な社会を夢見ることは、ここでは関係 のないことです。というのも、そのような社会は不可能だ、あるいは実行委不可能だと容易に 批判できるからです。私が批判を試みるのは、はるかに重大なことなのです。つまり(その選 択が可能性と実行可能性の制約に制限されることは理解されているとしても)、「どんな種類 の社会をもちたいかをまず最初に決めましょう」などと言って政治問題にアプローチする、見 かけは合理的な方法、そのような方法の批判を私は試みるのです。     〔この箇所で草稿は終わっているが、以下のいくつかのメモ書き、及び構想も存在す る。〕

 社会問題の改革:人生の展望と生き方の相互調整の問題  われわれは事実から始めねばならない   目標は事実に還元不可能    われわれは事実の評価から始めねばならない  目標は事実に還元可能   われわれは目標から始めねばならない

 4 自由・正義・平等といった形式的原理ではなく、具体的社会、一連の新しい制度、社会生 活の様式。ん一連の新しい制度、社会生活の様式は...... 

5 実行不可能性が問題ではなく、そのアプローチが全体主義的であり、そして全体主義は怪 物キマイラである。一連の新しい社会制度の帰結を《すべて》思い描くことはできない。空想 主義的計画に対立するのは......

 6 (本からの)さらなる批判。変数を定数にする。変化の抑制や変化の制御 

7 悪に対する漸次的(Piecemeal)闘い

  同意

8 功利主義

9 なぜ最小限の要求か

10 開かれた社会の考え方は......であるのか〔削除された項目〕   空想主義と開かれた社会〔削除された項目〕 

11 いわゆる「人間を変質させる問題(Problem of Transforming Man)〔削除された項 目〕

12 空想主義と歴史主義と閉じた......〔削除された項目〕

13 空想主義の出自

  閉じた社会の崩壊

  改革の問題。完全改革(Complete adaptation)は不可能であろう。大規模な一括改革 (Wholesale adaptations)は《事実》不可能である。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第3部「開かれた社会」について,第5章 公 的価値と私的価値――1946年?,補遺 空想主義と「開かれた社会」,pp.145-148,ミネルヴァ 書房(2014),吉川泰生(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)







2021年12月1日水曜日

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))

寛容の限度

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不寛容な少数派が、合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである。
(b)ただし、寛容は相互性を基盤としてのみ存在し得ることを知らしめること。
(c)民主制の廃絶は、勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるので、民主制の廃絶を訴える政党が、仮に民主的手段によって多数派になるようなことがあれば、われわれは寛容である必要 はない。


 「なるほど、寛容の偉大な擁護者たちのうちの誰も――ロッテルダムのエラスムスも、ジョ ン・ロックも、ジョン・スチュアート・ミルも――こうしたとりわけ不愉快な状況の可能性を見 越してはいなかった。しかしながら、私に言わせれば、ロックとミル、そして彼らに連なる 人々の幾人かは寛容と民主性についての理論を展開して、「この新たな状況下で何がなされね ばならないか?」という問いに最適の答えを与えるまでに至っていた。というのも、彼らには 寛容が無制限ではありえないということがはっきり見えていたからである。  われわれの状況に適用するなら、その答えは――ごく実際的な言葉づかいで言って――こういう ものである。すなわち、「これら不寛容な少数派が合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである」。ただし、われわれは彼 らの注意を次の事実へと、すなわち、寛容は相互性を基盤としてのみ存在しうるのであり、そ して、当の少数派が暴力的に行動し始めるときには、そうした少数派を寛容に遇すべきである というわれわれの義務は終わるという事実へと、引きつけておかなければならない。そこで問 題となるのは、「どこで合理的な議論が終わり、暴力行動が始まるのか?」ということであ る。このことを決定することは容易ではないだろう――というのも、こういう終わりや始まりと は、暴力への煽動や民主的体制の転覆のための陰謀といったような行動から始まるものだから である。もちろん、煽動も陰謀も、比較的許容できる行動形態と容易に区別されうるものでは ない。このことは、しかしながら、そうした行動が法と関わる状況のほとんどに当てはまる。 たとえば、故殺と謀殺、あるいはまた、無能力と手抜きとを区別することはおそらく非常に困 難だろう。  道徳的及び理論的立場は、私に言わせれば、原理的にはつねに明白であった。にもかかわら ず、人々の多くは寛容に対してあまりに深く愛着を感じているために、その違いを見ようとは しない。たとえば、民主的な意味での政党――はずみで過半数を得るにせよ、民主制のルールに 制約されている政党――と、それとは反対に――おそらく部分的には公然と、またはまったく秘密 裏に――民主性を廃する陰謀をめぐらしている政党との間には違いがある。後者のような政党が このことをある程度民主的手段によって行なおうがそうでなかろうが、そのことはさほど問題 ではない。いずれにせよ民主制の廃絶は勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるのであ る。そうした政党に対してわれわれは、仮にその政党が過半数を得てしまったとしても、屈服 してはならない。  そうした政党が寛容に遇されることを要求する権利をもつかどうかという問題に対しては、 民主制及び寛容についての理論がはっきりとした答えを与えているように思う。答えは「否」 である。不寛容ということがまだ危惧であるにすぎないとしても、われわれは寛容である必要 はない。また、その危惧が深刻化している場合には、断じて寛容であってはならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第12章 寛容について ――1981年,pp.252-253,ミネルヴァ書房(2014),松枝啓至(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏 郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)








 





個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会と国家

個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)開かれた社会(目的)
 個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態である。自由や寛容や正義、市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような諸価値に支えられている。

(2)民主的統治形態(目的のための手段)
 (a)国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。
 (b)開かれた社会を、内的あるいは外的な侵害から守るためには、強力な国家、強力な政 府の保護を必要とする。
 (c)国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつもその誤用の危険がある。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。
 (d)必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りである。それは、抑制と均衡のシ ステムであり、「民主主 義」とも呼ばれる。

「この時点で、私は、《社会と国家の区別》を、そしてとくに、開かれた社会と、《民主国 家、すなわち民主的統治形態》との区別をはっきりとさせておきたい。  開かれた社会ということで、私は、ある形態の社会生活と、次のような諸価値を意味してい る。すなわち、自由や寛容や正義や市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような、伝統的にそうした社会 生活において大切にされている価値である。  他方、民主国家ということで、私は一組の制度を意味している。それは、憲法や市民法や刑 法、立法機関と執行機関のようなもの、そして、政府や政府が選ばれる規則のようなもの、そ して法廷、市民サービス、公衆衛生や防衛等々の機関などである。  社会と国家との間に私が設けている区別、あるいは、開かれた社会及びその伝統と、民主国 家(つまり「民主政体」)とその制度との間に私が設けている区別が、それほど鮮明なもので はないことは明らかである。そしてこのことが、おそらく、〔この区別を〕把握するのがそれ ほど容易ではない理由であろう。だが、この区別は、われわれ全員にとって、大変有益なもの であるし、重要なものである。その理由は、人間の自由、及び自由な個人からなる自由な社 会、そしてまた、個々人の解放は、すべてそれ自体価値あるものだと考えられているからであ る。おそらく、究極的な価値としてではないにせよ、とにかく、それ自体価値あるものと考え られているからである。しかし、民主国家――つまり、その憲法、統治制度、選挙制度など―― は、《目的への手段》として考えられるべきだと、私は考える。つまり、それらは、大変重要 な目的への大変重要な手段である。しかしそれでも、やはりそれらのいずれも、それ自体が目 的なのではない。  私は、ここで、次のようなテーゼを提案したい。それは、自由で開かれた社会という考え は、《国家というものが、人間個人のため――その自由な市民と、人々の自由な社会生活のため ――に存在すべきだ》という要求を含んでいるというテーゼである。つまり、国家は、自由な社 会のためにあるのであり、その逆ではないという要求を含んでいるのである。このことが含意 している要求は、国家の機能は、その市民の自由な社会に奉仕し、それを保護することだとわ れわれは定めるべきだという要求である。この機能は最も重要な機能である。そして、自由な 社会においては、国家が、いささかでも危険につながる仕方で、この機能の制限を超えていくことは決して許されてはならないのである。  自由な社会の成員と自由な国家の市民は、もちろん、その国家に忠実であるべき義務をもっ ている。なぜなら、国家の存在は、社会の存続にとって不可欠だからである。そして、市民は 必要が生じたときに、国家に奉仕するだろう。とはいえ、この忠誠心に、ある程度の警戒心 を、そしてときには、国家とその官吏についてのある程度の不信を結び付けることも、市民の 義務である。その国家が、その合法的な役割の限界を超えないことを、監視し、調べることも 彼の義務である。というのも、国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつも その誤用の危険――自由にとっての危険――があるからである。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。そして、結局のところ――市民の側におけるほとんど嫉妬にも近い 用心深さの伝統を含んだ――《自由な社会の伝統》だけが、すべての自由がそれに依存している ところの、市民の点検と制御を提供することによって、国家権力の均衡をとることができるの である。  自由で開かれた社会という考えが、最も難しい政治問題を必然的に生み出すことを理解する ことは、大変に重要かつ必要なことだと私は思う。というのも、もし開かれた社会を、内的あ るいは外的な侵害に屈しないようにしたいなら、相当に強力な国家、あるいは相当に強力な政 府の保護を必要とするからである。他方、開かれた社会は、もしもその国家権力が、あまりに も強くなるならば、屈してしまうだろう。もしも国家権力があまりにも大きなものになれば、 そのとき、チャーチルがかつて言ったように、「われわれの公僕は、われわれの反公民的御主 人様になるだろう」。しかし、開かれた社会は、主人を受け入れてはならない。とくに、その 権力と権威の地歩を固めようとしがちなすべての主人を受け入れてはならない。  こうしてわれわれは、開かれた社会が、政治的には、いつも、そして必然的に、きわめて不 安定な地位にあることが分かる。というのも、それは、強力ではあるが、強力すぎない政府を 必要とするからである。それは、本来的に不安定な一種の政治的な均衡状態を必要としてい る。ほとんどの社会が、この扱いにくい問題の解決を果たさなかったことは、驚くべきことで はない。必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りであり、そして、その芸当をやっ てのけるように設計された政治的制度のシステムは、だから、かなり適切に《抑制と均衡のシ ステム》として描かれるのはかなり適切なのであり、そしてそのシステムがまた、「民主主 義」とも呼ばれるのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と 民主国家――1963年,pp.199-200,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監 訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)







2021年11月30日火曜日

悪に対する闘いは公的な事柄であり、緊急度の高いときは、積極的善の犠牲が必要な場合もある。これに対して、希望や夢、美的理想や宗教的理想などの価値は、私的価値であり、公的な介入はそれらを堕落させ破壊してしまう。(カール・ポパー(1902-1994))

悪に対する闘い

悪に対する闘いは公的な事柄であり、緊急度の高いときは、積極的善の犠牲が必要な場合もある。これに対して、希望や夢、美的理想や宗教的理想などの価値は、私的価値であり、公的な介入はそれらを堕落させ破壊してしまう。(カール・ポパー(1902-1994))



 「最も大きく最も具体的な悪と闘うことが最も緊急度の高い義務であり、より小さい悪に進 むにつれて緊急度は減少し、積極的善に進んだとき確実に緊急度は減少すると私は考える。最 高善が(「存在する」という言葉の何らかの興味のもてる意味において)存在するのか否か、 私は知らない。しかし存在するのなら、その実現は、私の観点からは、この世で最も緊急度が 低いだろう。私にとって、最高善は、他の比べれば、むしろ贅沢品という特徴を帯びていると いえる。そして、とりわけ、最大善の実現は大きな犠牲に値する、つまり大きな悪を我慢する に値するという考え方は、端的に有害だと思える。緊急度の高い具体的悪と闘うために必要と あらば、われわれは犠牲を、とくに積極的善を犠牲にするよう要求できる。しかし、遠くにあ る善のために、犠牲を要求したり、具体的な悪を我慢したりするという、代償を払うべきでは ない。  善の理論と呼べるものと、倫理学に関する私自身の見方を大雑把に比較すること以上に、こ のことについて話し続けられることはないと思う。そこで、この善の理論と私の見方の間の論 争とはまったく独立に私の提案を判断して頂くようお願いする。ただ、明らかにしておきたい が、私は積極的価値を重要でないと見なしているのではない。それどころか、希望や夢、美的 理想や宗教的理想以上に重要なものは、人生にまず存在しないのである。私の主張は、これら価値の世界は私的な世界、親しい友人と共有する世界であり、これらの価値を公的な世界に 強制しようとするなら、それらを堕落させ破壊してしまうのだというものである。積極的価値 は私的価値なのである。悪に対する闘いは公的な事柄である。もしある人が通りで転んで足を 骨折したら、その人を助けることは、疑いもなく、そこに居合わせた人すべての義務なのであ る。しかし、隣にいる人がビールを楽しめるよう保障してやることは私の義務ではないし、 ビールよりよいものがあると説得することも私の義務ではない。もちろん、その隣の人がとて も親しい友人だとすれば、まったく違ってくるかもしれないが。  積極的価値に結び付いた公共政策の唯一の責務は、われわれの選択の自由を見守ること、つ まり誰でも自分の意見を胸にしまい込むことを強制しないようにすることだと思われる。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第3部「開かれた社会」について,第5章 公 的価値と私的価値――1946年?,II,pp.134-135,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳),神 野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)







次の詭弁に注意せよ。利他主義へ向う道徳的衝動を使って個人主義を攻撃し、集団主義へとねじ曲げ、自らの集団利己主義的な目的のために個人を犠牲にする。真実は、個人主義に基づく共感と責任が、自集団を超える利他主義へと導く。(カール・ポパー(1902-1994))

個人主義的利他主義

次の詭弁に注意せよ。利他主義へ向う道徳的衝動を使って個人主義を攻撃し、集団主義へとねじ曲げ、自らの集団利己主義的な目的のために個人を犠牲にする。真実は、個人主義に基づく共感と責任が、自集団を超える利他主義へと導く。(カール・ポパー(1902-1994))


(i)個人主義、集団主義、利己主義、利他主義
 (a)個人主義  (a')集団主義
 (b)利己主義  (b')利他主義
(a)人間の人格は永遠の価値を持ち、目的そのものである。(個人主義)
(a')個人はつねに、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならない。(集団主義)
(b)自己や自集団の利益を最優先に考える。(利己主義)
(b')他者や他集団の利益を考える。(利他主義)

(ii)集団主義的利己主義の詭弁
 自己の利益を最優先にすること(利己主義)への道徳的な反発感情を使って、個人の人格に最高の価値を認める考え(個人主義)を攻撃し、個人は集団のためにあるという考え(集団主義)にすり替え、自集団のみの利益のために個人を犠牲にする。(集団主義的利己主義)
(iii)真実は個人主義的利他主義にある
 真実は、個人の人格に最高の価値を認める(個人主義)が故に、他者の喜びや悲しみに関心を持ち(利他主義)、政治や社会への関心は、他者に対する共感と責任感を基礎とする。


 「さて、4つの用語(a)、(a')、(b)、(b')は、ある態度・要求・道徳的決定・道徳律を記 述する。これらの用語は事例を挙げれば容易に説明できる。集団主義から始めよう。集団主義 が最もよく例示されるのは、個人はつねに集団全体や共同体、たとえば、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならないというプラトンの要求である。「部分は全体 のために存在するが、全体は部分のためには存在しない......。あなた自身も全体のために創られ たのであり、あなたのために全体が創られたのではない」とプラトンは書いている。この引用 は、集団主義の例示というだけでなく、感情に強く訴えるものももっている。それは、たとえ ば、集団や部族への帰属願望といった様々な感情に訴えるのである。そして、このように訴え る要因の一つは、疑いもなく、利己主義や自分本位(b)に反対するという道徳的に訴える力で ある。プラトンが示唆し、後の集団主義者すべてがプラトンに従った点は、もし全体のために 自己利益を犠牲にできないのなら、その人は自己本位な人物であり、道徳的に堕落していると いうことである。  しかしながら、上述の小さな表を少し眺めれば分かるように、そうではないのである。集団 主義は利己主義と対立しないし、利他主義や自分本位でないことと同一でもないのである。集 団主義者は集団利己主義者でありうる。集団主義者は、他のすべての集団と対立して、自分自 身の集団の利益を自己本位に守るかもしれない。集合的利己主義ないし集団利己主義(たとえ ば、国家利己主義や階級利己主義)は非常にありふれたものだ。そのようなものの存在によっ て、集団主義が自分本位と対立しないことが申し分なく明確に示される。  他方、個人主義者たる反集団主義者は、同時に利他主義者でありうる。つまり他の個人を助 けるために進んで犠牲になれるのである。人は他人すなわち他の個人に、その人たちの喜びや 悲しみに、そしてその希望と涙に関心をもちうるのである。このように他の個人に直接関心を もつことは、共同体や集団への関心を必要としない。個人主義者だということが意味するの は、すべての人間個人のうちに見い出すのが、たとえば国家の利益といった、さらに別の利益 にとっての単なる手段でなく、目的そのものだということである。《個人主義者だということ は、自分自身の個人性を取り立てて深刻に考えることを意味しないし》、他人の利益より自分 自身の利益をより(あるいは同程度にですら)強調することも意味しないのである。  さて、われわれの小さな表をもう一度見ると、4つの立場の組み合わせのうち、2つが不可能 だと分かる。つまり、(a)と(a')の組み合わせと、(b)と(b')の組み合わせである。この組み 合わせが不可能なのは、個人主義を反集団主義として、集団主義を反個人主義として定義した からだ。そして、同じように、利己主義を自分本位として、利他主義を非自分本位として定義 できるだろう。《しかし、他の組み合わせはすべて成り立つのでる》。  つまり、(a)と(b)を結び付けて利己主義的な個人主義が作れ、あるいは、(a)と(b')を結 び付けて利他主義的な個人主義を作れるのである。そして、同じようにして、(a')と(b)を結 び付けて利己主義的な集団主義を作れ、さらに、(a')と(b')を結び付けて利己主義的な集団 主義を作れるのである。  ここに4つの立場があり、その一つを選ばねばならない、このことを理解するのが非常に重 要である。プラトン、そしてほとんどの集団主義者たちはプラトンと同じく、つねにこの事実 を曖昧なままにしておこうとした。つまり、個人主義と集団主義という二つの可能性しか存在 しないかのように語ったのである。しかも、(a)かつ(b')という立場を無視し、集団主義を唯 一の利他主義的態度、したがって唯一の道徳的態度だとして褒めたたえ、個人主義を利己主義 とつねに同一視したのである。しかし、集団主義について語るとき集団主義者たちが念頭にし ているのは、利他主義的集団主義(つまり、自分自身の共同体ではない他の共同体の権利の承 認)ではなく、利己主義的集団主義、つまり、自分たち自身の共同体の重視であった。このよ うにして、利他主義へ向う道徳的衝動は、集団主義へと向かう衝動へとねじ曲げられたのであ る。集団主義者はわれわれのもつ道徳的利他主義に訴えるのだが、それを自らの集団利己主義 的な目的のために使ったのである(そして同じことが、ファシストと共産主義者によってなさ れた)。  これまで話したことから明らかであろうが、私は個人的にはこれら4つの可能性のうち、(a) かつ(b')、つまり個人主義と利他主義の組合せを採用すべきだと、つまり、利他主義的個人主 義を採用すべきだと信じている。実際のところ、ソクラテスの時代よりこの方、この利他主義 的個人主義は多くの人の信条であった。思うに、これはまたキリスト教徒の態度でもあり、こ こで、キリスト教がもつ個人主義を例証する一節を、マーリン・デイヴィス卿の講演から引用 してもよかろう。マーリン・デイヴィス師はこう書いている。「まず第一に、神によって創られ、キリストによって贖われたのだから、人間の人格は永遠の価値をもつものだという確信を もって、キリスト教徒は政治に携わらなければならない」と。  このことが意味するのは、政治や社会へのわれわれの関心が、人間個々人に対するわれわれ の関心に、彼らを助けようと案じることに、そして彼らに対するわれわれの責任に、完全に基 づいていることである。これは、明確な個人主義――もちろん利他主義的個人主義――である。こ れは、(プラトンが、ファシストと同じく要求したように)《国家のために個人が存在すべ き》というのではなく、《国家は個人のために存在すべき》という要求につながるのであ る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第2部 ニュージーランドでの講義,第4章 道 徳的な人間と不道徳な社会――1940年,pp.118-120,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳), 神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)







2021年11月28日日曜日

生命の秘密は、生命が利用している論理と情報の諸規則の中にある。生命は、情報を通した反応操作を使うことで「自然な」化学と熱力学の規制から抜け出し、自律性のある「不自然な」 反応を強行する。遺伝子コードを使ったソフトウェアによる操作を導入することによって、これを実現している。(ポール・デイヴィス(1946-))

 

論理と情報の諸規則

生命の秘密は、生命が利用している論理と情報の諸規則の中にある。生命は、情報を通した反応操作を使うことで「自然な」化学と熱力学の規制から抜け出し、自律性のある「不自然な」 反応を強行する。遺伝子コードを使ったソフトウェアによる操作を導入することによって、これを実現している。(ポール・デイヴィス(1946-))


「もちろん生物といっても、物理と化学の法則には従わなければならない。しかし、それらの諸法 則は生物学にとっては付随的なものでしかなく、法則の主な役割は、適切な論理的かつ情報的な体 系が形成されるその場を規定することにある。

 普通の化学反応と普通の熱力学で間に合う場合、生命は進んでそれを受け入れる。 しかし、化学 として「不自然な」ことでも、生命はその抜け道を見つける。 生命は必要な触媒を編み出して異例 の反応を強行し、エネルギーを付加された適切な分子をつくって、ときには化学を複雑に重ね合わ せ、熱力学の勾配に逆らって進む。

 そこで、生命の発生へと向かう道の主要な一歩は、分子がただ受動的に普通の化学の道に従って いた状態から、自分自身の通り道を自分でつくるようになった、という変容であろう。その巨大 な一歩は、遺伝子の暗号を使ったソフトウェアによる操作を導入することによって、この相反する 「自然な」反応と「不自然な」 反応の二つを結び合わせることを可能にしたのである。生命は、情 報を通した反応操作を使うことで、化学の規制から抜け出すことができ、ぎこちない原子の相互反 応を脱して、自律の能力をもつ新しい世界に舞い上がることが可能になったのである。

 この肝心なところを理解すると、生物起源の真の問題が明らかになる。 分子生物学が急速に進展して以来、研究者たちは生命の秘密について物理学と分子化学の方面に目を向けてきた。しかし、 うまく行かなかった。その理由は、彼らが従来の物理学と化学で、 生命を説明しようとしたからで ある。

 それは媒体と伝言を取り違える古典的な例だったということができる。生命の秘密は、その化 学的な基盤にあるのではなく、生命が利用している論理と情報の諸規則のなかに求めなければなら ない。生命は、化学の命令を「回避」することによって成功しているのである。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『5番目の奇跡』(日本語書籍名『生命の起源』),第10章 宇宙は生命を育むか,pp.374-375,明石書店,2014,木山英明)


生命の起源 地球と宇宙をめぐる最大の謎に迫る [ ポール・C.W.デーヴィス ]





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