高慢
【自由意志以外のすべての善、例えば才能、美、富、名誉などによって、自分自身を過分に評価してうぬぼれる人たちは、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。(ルネ・デカルト(1596-1650))】「何にせよ、他のなんらかの理由で自分自身に過分の評価をしてうぬぼれる人たちはすべて、真の高邁をもたず、ただ高慢をもつだけだ。高慢は、つねにきわめて悪い。自分を評価する理由が不当であればあるほど、それだけいっそう悪いということになるが。そして、すべてのうちで最も不当な理由は、なんの根拠もないのに高慢である場合だ。」(中略)「たしかに、才能、美、富、名誉などのような自由意志以外のすべての善は通常、それを持つ人の数が少なければ少ないほど重く見られ、しかも、大部分、多数の人に伝え移すことのできない性質のものだから、高慢の人たちは、他の人々すべてを低めることに努めるようになり、かつ、自分の欲望の奴隷となって、その精神は絶えず、憎しみ、うらやみ、執着、怒りにかきたてられることになる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一五七、一五八、pp.137-138、[谷川多佳子・2008])
(索引:高慢)
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
6.認識論
6.1 認識するわれわれ
6.2 認識さるべき物自身
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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