「せざるを得ない」と「責務を負っている」
【「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】(1)「せざるを得ない」
(1.1)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
(1.2)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
(1.3)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
(2)「責務を負っている」
(2.1)信念や動機についての事実は、必要ではない。
(2.2)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
(2.3)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
「人があることを《せざるをえなかった》'was obliged to'という主張と、彼はそれをなす《責務を負っていた》'had an obligation'という主張には、なお説明されるべき違いがある。
前者はしばしば行動を行なうさいの信念や動機についての陳述である。Bは金を渡さざるをえなかったということは、拳銃強盗の場合のように、もし彼はそうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果がふりかかるだろうと信じ、これらの結果を避けるためそうしたということを意味するにすぎないだろう。このような場合、行為者が従わなければ自分に何が起こるかという予測から、事情が別であれば彼がやってしまおうと思っていたであろうこと(金を保持しておくこと)もできなくなる。
あることをせざるをえないという観念の解明は、さらに二つの要素が加わることによって少し複雑にされている。
威嚇された害悪が、常識によれば、命令に従った場合にBまたは他人がこうむる不利益や重大な結果に比べて些細な場合には、Bは金を渡さざるをえないと考えるべきではないのは明らかであろう。
たとえば、単にAがBをつねるぞとおどす場合にはそれにあたるだろう。また、Aが比較的重大な害悪をもたらす威嚇をたぶん実現できるし、また実現するだろうと考えるにたる十分な根拠がない場合も、Bはせざるをえなかったとおそらく言うべきでない。
しかし、この観念は、害悪の比較についての常識や蓋然性についての十分な評価に言及しているけれども、人はある人に従わざるをえなかったという陳述は、主として行動がなされた場合の信念や動機についての心理的な陳述である。
しかし、ある人があることをする《責務を負っていた》という陳述は、それと非常に違ったタイプのものであり、そしてこの差異は多くのことで示されている。
たとえば、拳銃強盗の場合におけるBの行動、信念と動機についての事実は、Bは彼の財布を渡さざるをえなかったという陳述が真実であるためには十分であるが、彼はそうする責務を負っていたという陳述が真実であるためには《十分ではない》という場合がこれにあたる。
さらに、この種の事実、つまり信念や動機についての事実は、人があることをする責務を負っていたという陳述が真実であるためには《必要でない》ということもまたそうである。
このように、人がたとえば、真実を告げるか、兵役につく責務を負っていたという陳述は、たとえ彼が見つけ出されないと(十分な根拠をもってまたは根拠なしに)信じ、そして不服従からくる恐怖を何らもっていなかったとしても、その陳述は真実であることにかわりない。
その上、彼はこの責務を負っていたという陳述は、彼が実際に兵役についたかどうかの問題とはまったく無関係であるが、他方ある人はあることをせざるをえなかったという陳述は、普通彼は現実にそうしたという含みをもっている。」
「拳銃強盗の場合には、あることをせざるをえないという、より単純な観念はそこにある諸要素でうまく定義されるだろうが、そこでは責務を見つけることはとうていできない。
責務の法的形態の理解に不可欠な前提である責務の一般的観念の理解のために、われわれは拳銃強盗の場合と異なって、社会的ルールの存在を含んでいる社会的状況を調べなければならない。
というのは、この状況が次の二つの点で人が責務を負っているという陳述の意味を明らかにするのに助けとなるからである。
第一に、あるタイプの行動を基準とするようなルールの存在は、責務を負うという陳述に対するそれと明言されてはいないが、通常の背景ないし適切な前後関係となっている。
第二に、そのような陳述に特有な機能は、特定の個人の場合がこの一般的ルールに当てはまっているという事実に注意を促すことによってその人にそのルールを適用することである。
すでに第4章で見たように、何らかの社会的ルールが存在するところには、規則的な行為と、その行為を基準とする特有な態度の結合がみられる。
われわれは、また、社会的ルールが社会的習慣と主にどのようなところで違っているか、そして、どのようにしてさまざまな規範的な言葉(「するのが当然である」'ought'「しなければならない」'must'「すべきである」'should')が、基準やそれからの逸脱に注意を促したり、基準にもとづいているだろう要求、批判、認容をなすために用いられているかを見てきた。
この規範的な言葉の部類のなかで、「責務」「義務」という言葉は重要な下位の部類となっており、それは他には普通みられない、ある含みをもっているのである。
したがって、社会的ルールを単なる習慣から一般に区別する要素を把握することは、責務または義務の概念の理解には、たしかに欠くことができないけれども、それだけでは十分ではないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.92-95,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:せざるを得ない,責務を負っている)
(出典:wikipedia)
「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)
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「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
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