2018年11月18日日曜日

22.先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))

「真理らしさ」の増大

【先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))】

(3.1.3.1)(6.3.1)~(6.3.3)(7)追加記載。

(1)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(2)理論は、実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性を持つ。
(3)しかし、真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
 参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
  (3.1.1)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
  (3.1.2)したがって、理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
  (3.1.3)したがって、理論は当て推量、推測である。
   (3.1.3.1)科学も、人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している。
(4)経験主義の原理
 (4.1)科学理論の採否は、観察と実験の結果に依拠すべきである。
(5)帰納の論理的問題
 参照: 帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、かつて考えられたが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))
 (5.1)かつて、(3.1)と(4)が衝突するように考えられたことがある。
 (5.2)この問題から、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。
(6)批判的合理主義の原理
 (6.1)科学理論の採否は、批判的推論に依拠すべきである。
 (6.2)観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
 (6.3)理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い理論として、暫定的に、拒否されたり、受け容れられたりする。
  (6.3.1)新しい仮説に要請される、後退を防ぐ保守的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説が解決した問題を、同じ程度にうまく解決せねばならない。
  (6.3.2)新しい仮説に望まれる、革命的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説からは導出されない予測を演繹する。
   (b)新しい仮説は、先行仮説と新しい仮説のいずれを支持するかの、決め手となる実験を構成する。
  (6.3.3)もし、決め手となる実験が新しい仮説に有利に決まるなら、より「真理らしさ」が増大した、科学理論は「進歩した」と言うことができる。
(7)科学理論は、理論や仮説に固有の傾向として、真理らしさの増大に「向かう」と言うべきではない。科学の進歩は、誤謬消去を基礎とした科学の方法と、我々の批判的で能動的な行為により支えられている。

 「一般に人間の思考というもの、そして特に科学というものは、人間の歴史の所産である。それゆえ、それらは多くの偶然に依存している。つまり、われわれの歴史が異なっていたならば、われわれの現在の考え方と現在の科学もまた(もしあったとすれば)異なっていたことであろう。


 多くの人はこのような論証によって相対主義的または懐疑論的な結論を出してきたが、この結論は避けられないものではけっしてない。

われわれは事実として、思考には偶然的(そしてもちろん非合理的)要素があることを容認できる。だが、われわれは相対主義的な結論を自滅的で、敗北主義的なものとして拒否できる。

なぜなら、これはしばしば行なっていることだが、われわれは自身の誤りから学ぶことができ、これが科学の進歩の仕方であると指摘できるからである。われわれの出発点がいかに誤っていようと、それらを訂正し、したがって超えることができるのである。科学において行なわれるように、われわれが意識的な批判によって誤りをつきとめようとする場合は特にそうである。

したがって、科学的思考は多少とも偶然的な出発点をもつにもかかわらず、(合理的な観点からは)進歩的であり得る。

そしてわれわれは、批判することによって科学の前進を能動的に助けることができ、そのため真理に近づくことができる。

目下の科学理論は、多少とも偶然的な(またおそらく歴史的に決定された)われわれの偏見《と》批判的な誤謬消去の共通の所産である。批判と誤謬消去という刺激の下で科学理論の真理らしさは増大に向うのである。

 おそらく私は《向う》と言うべきではないだろう。

というのは、より真理らしくなるのはわれわれの理論や仮説に固有の傾向ではないからである。それはむしろ、新しい仮説が以前の仮説に比べて改良されているようにみえる時に限ってその仮説を承認するという、われわれの批判的態度からの結果なのである。

われわれが新しい仮説に対して、それを以前のものと置き換えることを承認する前に要求するのは次のことである。
 (1) それは先行仮説が解決した問題を、少なくとも先行仮説が行なったと同じ程度にうまく解決せねばならない。
 (2) それは古い理論からは出てこない予測の演繹を許すものでなければならない。望ましくは、古い理論に矛盾する予測を認め、決め手となる実験の構成を許すものでなければならない。

もし新理論が(1)と(2)を満足するなら、それは進歩が可能なことを示している。もし決め手となる実験が新理論に有利に決まるなら、進歩は現実のものとなるだろう。

 (1)は必要な要請であり、かつ保守的な要請である。それは後退を防ぐ。(2)は選択的で、望ましいものである。それは革命的である。科学におけるすべての重要な成功は革命的であるが、科学のすべての進歩が革命的性格をもっているわけではない。二つの要請がいっしょになり、科学の進歩の合理性、すなわち真理らしさ(verisimilitude)の増大を保証するのである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P5章 心身問題についての歴史的批評、43――われわれの宇宙像の歴史(上)pp.231-232、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:真理らしさ)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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