2020年5月31日日曜日

道徳的原則の基礎には根拠づけ不能な信念があり強制力がないとされるが,特定の権威,宗教的信条には依らず,理性と経験のみに基づいて全ての人が納得できない原則ならば,道徳的という分類からは強制的に排除されよう.(ディーター・ビルンバッハー(1946-))

道徳的原則は強制力を持つか?

【道徳的原則の基礎には根拠づけ不能な信念があり強制力がないとされるが,特定の権威,宗教的信条には依らず,理性と経験のみに基づいて全ての人が納得できない原則ならば,道徳的という分類からは強制的に排除されよう.(ディーター・ビルンバッハー(1946-))】


(1)基礎づけ倫理学の方法
 倫理学の基礎づけモデルは、中程度の一般性のレベルで実践を導く原則を、さらに基本原則にまで還元する。
(2)基礎づけ倫理学の根本問題
 根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」があるのではないか。
 参考: 事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
 (2.1)強制力のある根拠
  強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。強制力のある根拠では、aを言った者は、もしも理性的であることを引き続き認められたいのならば、bも言わなければならない、という構造がある。
 (2.2)蓋然性による根拠
  蓋然性による根拠の場合には、選択の余地が残されている。蓋然性による根拠は強制力がなく、単に、根拠づけられたものへの賛同を促すだけである。
 (2.3)倫理学にも、強制力のある根拠が在る
  (2.3.1)「道徳的」原則とは何か(メタ倫理学的規範)
   (2.3.1.1)道徳的原則は、論理的普遍性を持つこと
    (a)すなわち、その原則には論理的一貫性がなければならない。
    (b)原則は、理性と経験のみに基づいて納得することができる。
   (2.3.1.2)道徳的原則は、普遍的妥当性を持つこと
    (a)すなわち、あらゆる人々が、その道徳規範に納得できるようでなくてはいけない。
    (b)すなわち、特定の権威や宗教的信条に基礎を置いてはならない。特別な宗教的信条または世界観に関わる信条を持っていても、あらゆる人々が納得できるのが、道徳的原則である。
  (2.3.2)ある特定の原則や根拠づけを排除する
   (a)必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を、道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論が可能である。
   (b)生命倫理学では、道徳規範に固有の普遍妥当性要求とは両立できない特別に神学的な論法が展開されることが多いので、否定的な作用でも批判に有効である。

 「倫理学の基礎づけモデルと再構成的モデルの違いは、中程度の一般性のレベルで実践を導く原則を基礎づけモデルが全然考えないという点ではなく、むしろ、基礎づけモデルがこのような中程度の一般性レベルでの原則を、さらに基本原則にまで還元するという点にある。ただし、こうした根拠づけの主張が、すでに、〔次のような意味で、〕基礎づけ倫理学の根本問題を含んでいる。ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている(Wittgenstein 1984,§253)。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。強制力のある根拠では、aを言った者は、もしも理性的であることを引き続き認められたいのならば、bも言わなければならない、という構造がある。これに対して、蓋然性による根拠の場合には、選択の余地が残されている。蓋然性による根拠は強制力がなく、単に、根拠づけられたものへの賛同を促すだけである。
 そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。
 つまり、こうした議論は、もともと道徳的な方向づけを探し求めている人を対象にしている(断固とした非道徳主義者に向かって、このような議論をしても無駄である)。そのうえまた、この種のメタ倫理学的議論は、つねに、否定的な効力を発揮するだけである。このようなメタ倫理学的議論は、ある特定の原則や根拠づけを排除するためのフィルターの役割を果たすのであって、特定の規範にもとづく倫理的または道徳的な立場の優位を肯定的に表示するためには役立たないのである。それでも、このような形での否定的なメタ倫理学の議論は、道徳上の立場および議論に対する相当に強力な批判の手段となりうるのである。これは、とりわけ生命倫理学に当てはまる。生命倫理学では、道徳規範に固有の普遍妥当性要求とは両立できない特別に神学的な論法が展開されることが多いのである。〔さて、否定的なメタ倫理学の議論が強力な批判の道具となり得る〕というのも、道徳規範が普遍妥当性要求を申し立てる場合には、原則として、あらゆる人々がその道徳規範に納得できるようでなくてはいけないからである。したがって、道徳規範は、権威や宗教的信条に基礎を置いてはならない。カントの言葉を借りれば、道徳的命令の遵守を「要求」される者は、誰でも皆、特別な宗教的信条または世界観に関わる信条とは独立に、すなわち、理性と経験のみにもとづいてこの要求の意味に納得することができる、という権利を有するのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-52,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:道徳的原則の強制力,生命倫理学,基礎づけモデル,原則)

生命倫理学: 自然と利害関心の間 (叢書・ウニベルシタス)


(出典:dieter-birnbacher.de
ディーター・ビルンバッハー(1946-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。」(中略)
 「そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-51,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:)

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