2020年6月6日土曜日

価値評価の認知主義は,真理を評価基準の最高位におき,証拠に基づいて議論可能で,合意へと収斂可能であると考える. 真理は人間の意志や認識能力とは独立に存在する実在の反映であり,互いに矛盾せず,確定可能であろう.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))

認知主義と非認知主義

【価値評価の認知主義は,真理を評価基準の最高位におき,証拠に基づいて議論可能で,合意へと収斂可能であると考える. 真理は人間の意志や認識能力とは独立に存在する実在の反映であり,互いに矛盾せず,確定可能であろう.(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-))】

(1)認知主義
 (a)真理であるから、それを受け入れる。判断の評価基準は、真理かどうかが最上位である。
 (b)真理であるかどうかは、証拠に基づいて議論可能であり、合意へと収斂可能である。
 (c)真理は、人間の意志や認識能力とは、独立に存在する。
 (d)あらゆる真理は、何か真にするものによって真である。人間を超えた真に存在するものがある。
 (e)あらゆる真理は、他のあらゆる真理と両立可能であると期待可能である。
 (f)真理が完全な確定性をもち、また、その答えが真理をもつことを志向するような問いもすべて完全な確定性を持つと要求は正当である。
(2)非認知主義
 (a)真理であるからといって、それを受け入れるとは限らない。というより、価値評価は、真理とは無関係である。
 (b)価値評価は、議論不可能であり、合意することもできない。
 (c)価値評価は、人間の意志や認識能力に依存する。
 (d)価値評価は、人間の評価である。恐らく、真理も人間に依存する。
 (e)価値評価は、互いに矛盾することもある。
 (f)意味のある問いが、確定した答を持つとは限らない。

「非認知主義者の眼目を際立たせる第二の仕方は、哲学的分析の伝統における一連の荒唐無稽な試み――快や感じ、是認といったものによって「よい(good)」や「べき(ought)」、「正しい(right)」などを分析しようとする試み――からみずからの議論を切り離し、以下のような非形式的な考察へと変容させることである。すなわち、評価や実践における判断が与っている主張可能性を一方の側に置き、(たとえば)歴史学や地理学における判断が与っている端的な真理(plain truth)――範例的な真理、標準的な真理――という身分をもう一方の側に置いた場合の、両者の間の類似性あるいは差異に関して考察することである。
 それでは、端的な真理とは何だろうか。比較のためにはおそらく端的な真理についての自明の理と呼びうるものによってそれを特徴づけることで足りるだろう。私が受け入れている自明の理は以下のものである。
(1) 判断の評価軸として、真理が最上位である。
(2) 真理は、証拠にもとづいた議論のあり方を説明できなければならない。そもそも議論は、良好な条件の下では合意へと収斂するものであって、その合意についての適切な説明はまさにその真理を必要とする。
(3) 真理は、われわれの意志と独立であるのみならず、ある言明の属性の存在ないし不在を認識するわれわれ自身の限られた手段に対しても独立性をもつ。この(2)と(3)が合わさると、
(4) あらゆる真理は何か〔真にするもの(truth-maker)〕によって真である、という自明の理が示唆される。そこから、われわれはさらに、
(5) あらゆる端的な真理は他のあらゆる端的な真理と両立可能である、ということを期待することができる。最後に、さらなる自明の理と推定されるものとして、
(6) 真理が完全な確定性(determinancy)をもち、また、その答えが真理をもつことを志向するような問いもすべて完全な確定性をもつ、という要求を挙げることができる。
 評価的な判断および/または熟慮的な判断の主張可能性は、以上の基準を満たすだろうか。もしこの問いを先ほど提案した枠組みのなかで追求するとすれば、非認知主義者に特有の教説は、この問いに対して《否》と答える主張となるだろう。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第3章 真理、発明、人生の意味、8、pp.181-182、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・古田徹也(訳))
(索引:認知主義,非認知主義)

ニーズ・価値・真理: ウィギンズ倫理学論文集 (双書現代倫理学)



(出典:Faculty of Philosophy -- University of Oxford
デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)の命題集(Propositions of great philosophers)
「価値述語の意味が解体の危機に瀕しているように見え、それを防いで述語を維持するには、ヒュームもまた、われわれに共通する人間本性と特定の感情への共通の傾向が必要だと考えていた、という点である。ヒュームは健全な判断と不健全な判断とを識別することを求めており、また、そうした識別と道徳的主体性の主権を両立させるというヒュームの苦闘が彼の理論的関心の中心にあり続ける以上、ヒュームが主観主義の第一の定式化へと戻ることにはいかなる利点もないと思われる。
 じっさい、解決できない実質的な不一致の可能性のうちにどのような困難があるとしても、そのような困難を免れていられるようないかなる道徳哲学上の立場もありえない。われわれは、解決できない実質的な不一致があると主張するとしても、うろたえてはならない。われわれは端的にそのような不一致の可能性を尊重すべきであるし、それを尊重するときには、ある程度の認知的未確定性(cognitive underdetermination)のあるケースとして認めておくべきであると思われる。ある反主観主義的理論――カントの理論、直観主義の理論、功利主義の理論、あるいは独断的実在論の理論――を支持することによって、この可能性をあらかじめ排除する哲学的立場を見つけたいと願った論者もいる。だが、いかにしてそのような可能性が単純に排除されうるのであろうか。そして、なぜ他方で主観主義者は《その可能性を組み入れて》しまったとみなされねばならないのだろうか。この点に関して主観主義者がしなければならないのは、実際には他のすべての論者がしなければならないことと同じである。主観主義者はただ次のことを主張すればよい。すなわち、解決できない実質的な不一致がありうるにもかかわらず、その可能性によって部分的に条件づけられた仕方で、われわれは、推論、意見の転向、批判というなじみの過程のなかで可能な限りやり抜かなければならない――しかも、そうしたことが成功する保証はないし、そうした保証は、獲得不可能であるのとほぼ同程度に不必要だということである。」
(デイヴィッド・ウィギンズ(1933-)『ニーズ・価値・真理』第4章 賢明な主観主義?、17、pp.272-273、勁草書房(2014)、大庭健(監訳)・奥田太郎(監訳)・萬屋博喜(訳))
(索引:)

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