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2018年12月2日日曜日

17.理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

「真」の世界、神的世界、自由の世界

【理性と論理の「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。同じように、生きることに疲れた人間の本能が、「神的世界」を捏造し、「自由の世界」を虚構した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(5)追加記載。

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)理性、論理にかかわる3つの誤り
  (a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。
   (4.3.3.1)「科学」を促進してきた3つの錯覚。
     「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

    (a)科学を通じて、神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したこと。
    (b)認識の絶対的な有用性を信じること、特に、道徳と知識と幸福との深奥での結合を信じたこと。
    (c)科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、所有したり愛したりできると思ったこと。

(5)「別の世界」の捏造
 以上のとおり、「真」の世界が捏造され、真に実在する世界は「仮象」の世界であると誤解された。捏造された世界は、他にも存在した。
 (5.1)「別の世界」
  (a)「真」の世界:哲学的先入見が捏造した世界。
  (b)「神的世界」:宗教的先入見が捏造した世界。
  (c)「自由の世界」:道徳的先入見が虚構した世界。
 (5.2)「別の世界」は、生きることに疲れた人間の本能が作り上げた世界であり、実際には存在しない。
 (5.3)「仮象」と誤解された世界が真に実在する世界であり、私たちが唯一、現実的に生きているのは、この世界である。
 (5.4)真に生きることの意味、価値の源泉は、真に実在する世界に存在する。

「「別の世界」という表象の発生地は、すなわち、
 哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では《理性》と《論理的》機能がふさわしい、―――ここから「真」の世界が由来する。

 宗教的人間である。宗教的人間は「神的世界」を捏造する、―――ここから「自然性を剥奪された、反自然的」世界が由来する。

 道徳的人間である。道徳的人間は「自由の世界」を虚構する、―――ここから「善き、完全な、正しい、神聖な」世界が由来する。

 これら三つの発生地に《共通なこと》は、《心理学的な》つかみそこない、生理学的な取りちがえである。

 実際に歴史のうちにあらわれるような「別の世界」は、どのような述語でもって印づけられているのか?  哲学的、宗教的、道徳的先入見の傷痕でもって。

 これらの事実から明らかにされるような「別の世界」は、《存在しない》、生きていない、生きようと《欲し》ないことの《同義語》にほかならない・・・

 《総体的洞察》。すなわち、「別の世界」をつくりあげたのは、《生の疲労》の本能であって、生の本能ではない。
 《結論》。すなわち、哲学、宗教、道徳は、《デカダンスの症候》である。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八六、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.131-132、[原佑・1994])
(索引:理性の世界,真の世界,神的世界,自由の世界,別の世界)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2018年11月27日火曜日

16.「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

「科学」を促進してきた3つの錯覚

【「科学」を促進してきた3つの錯覚:(a)宗教的な理由、(b)認識の絶対的な有用性への信仰、特に、道徳と幸福のための、(c)科学のなかに、公平無私・自己充足的・真実無垢なものを見い出せると信じたこと。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(4.3.3.1)追加記載。

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)3つの誤り
  (a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。
   (4.3.3.1)「科学」を促進してきた3つの錯覚。
    (a)科学を通じて、神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したこと。
    (b)認識の絶対的な有用性を信じること、特に、道徳と知識と幸福との深奥での結合を信じたこと。
    (c)科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、所有したり愛したりできると思ったこと。

 「《三つの錯覚から》。―――ひとびとは最近の数世紀において科学を推し進めてきた。

その理由の一つとしては、ひとびとが科学とともにかつ科学を通じて神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したことがあげられる―――これが偉大なイギリス人たち(ニュートンのような)の心にあった主要動機であった―――、

他の理由の一つは、ひとびとが認識の絶対的な有用性を、とくに道徳と知識と幸福との深奥の結合を信じたことにある―――これは偉大なフランス人たち(ヴォルテールのような)が心中に抱いた主要動機であった―――、

いま一つの理由は、ひとびとが科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、要すれば人間の悪質な衝動などとはおよそ何の関係もないようなあるものを、所有したり愛したりできると思ったことにある、―――これは認識者として自分を神的なものに感じたスピノザの心にあった主要動機だ―――、

つまり、このように三つの錯覚から科学が促進されたのであった!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第一書、三七、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.27-28、[信太正三・1994])
(索引:「科学」を促進してきた3つの錯覚)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年11月26日月曜日

15.(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

理性、論理、「科学」の誤解

【(a)認識の一手段に過ぎない理性、論理、「科学」の誤解、(b)「真」の世界の取り違え、(c)「価値」の偽造。これら3つの誤りが、真に実在する世界の真の認識、真の科学、真の価値の源泉への道を遮断した。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)真に実在する世界
 真に現実的な世界は、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘など、この世界の実在性をつくりなす諸固有性を持った、全てのものが連結され、制約し合っているような世界である。
(2)真に実在する世界を認識する諸方法がある。真の科学。
(3)理性、論理、「科学」の世界
 認識の一方法として、雑然たる多様な世界を、扱いやすい単純な図式、記号、定式へと還元する。
(4)3つの誤り
 (4.1)誤り1:「科学」の誤解
  理性、論理、「科学」の世界は、真に実在する世界を認識するための一方法に過ぎないにもかかわらず、この方法のみが世界を認識する手段であると誤解された。
 (4.2)誤り2:「真」の世界の誤解
  その結果、「真」の世界は、認識の手段が要請するような、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえないようなものと考えられ、逆に、真に実在する世界は、「仮象」の世界であると誤解された。
  (4.2.1)しかし、真に現実的な世界の、何らかのものを断罪して無きものと考えれば、正しい認識には到達できない。これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
  (4.2.2)真に実在する世界を知り、「真」の世界への信仰に反対する人々は、理性と論理をも疑い「科学」を忌避し、これによって、真の認識、真の科学への道が遮断された。
 (4.3)誤り3:「価値のある」ものが、「真」の世界に由来するとの誤解
  (4.3.1)真の認識、真の科学への道から遮断された偽りの世界が、「真」の世界とされる。
  (4.3.2)真に実在する世界は、「仮象の世界」「虚偽の世界」とされる。
  (4.3.3)「真」の世界から、「価値のある」ものが導き出される。

 「哲学の迷誤は、論理と理性範疇のうちに、有用性を目的として世界を調整する(それゆえ、「原理的」には、有用な《偽造》をなす)手段をみとめる代わりに、そこには真理の標識が、したがって《実在性》の標識があると信ぜられたことにもとづいている。

じじつ、「真理の標識」は《原理的偽造のそうした体系の生物学的有用性》にすぎなかった。

しかも、動物という類は自己保存にもまして重大なことを何ひとつしらないのだから、じじつこの点において「真理」について語ってよかったのである。

ただ、人間中心的特異体質を、《事物の尺度》と、「実在的」と「非実在的」の基準とみなしたことにのみ、幼稚さがあった。要するにこれは、一つの被制約性を絶対化することであるからである。

ところが見よ、そのとき一挙に世界は「真」の世界と「仮象」の世界とに分裂した。

しかも、人間がそこに住まい、そこに住みつくようおのれの理性を工夫しておいた世界、まさしくこの世界が人間の不信を買ったのである。

形式を把手として利用し、世界を取りあつかいやすい算定しうるものたらしめる代わりに、哲学者たちの妄想は、私たちがそのうちで生きている別の世界がそれとは対応しないあの世界の概念が、これらの諸範疇のうちにあたえられていると、看破した・・・手段が、価値尺度であると、意図のいかんを断罪するものであるとすら、誤解された・・・

 意図されたのは、有用な仕方でおのれを欺くということであった。そのための手段が、雑然たる多様性を合目的的な扱いやすい図式へと還元する助けになるような定式や記号の捏造にほかならなかった。

 しかるに、ああ! そのとき、いかなる存在者もおのれを欺こうとは欲しない、いかなる存在者も欺いてはならない、―――したがってあるのはただ真理への意志のみであるとの、《道徳の範疇》が使いだされたのである。「真理」とは何か?

 矛盾の原理が範型をあたえたが、それは、そこへといたる道が探しもとめられている真の世界は、自己矛盾をおかしえず、転変しえず、生成しえず、いかなる起源をもいかなる終極をももたないということにあった。

 これこそ、犯された最大の誤謬であった、地上で犯された誤謬の本来的宿業であった。

すなわち、実在性の標識は理性形式のうちにあると信ぜられたが、―――他方この理性形式は、実在性を支配するための、賢明な仕方で実在性を《誤解する》ためのものであったのである・・・

 ところが見よ、そのとき世界は偽となった。しかもそれは、《この世界の実在性をつくりなす》諸固有性、すなわち、転変、生成、多様、対立、矛盾、戦闘、精密にこのもののためにほかならない。かくして全宿業が実現した。すなわち、

(一)いかにしてひとは、虚偽の世界、たんなる仮象の世界から脱却するか? (―――かつてはそれが、現実の世界、唯一の世界であった。)

(二)いかにしてひとは、仮象の世界の性格とは反対のものに能うかぎりおのれをならしめるか? (あらゆる実在の存在者とは反対のものとしての、もっと明瞭に言えば、《生との矛盾》としての、完全なる存在者という概念・・・)

 価値の全方向は《生の誹謗》をめざしていた。理性にもとづく独断論を認識一般と取りちがえることがでっちあげられた。そのため反対派の人々はいまや《科学》をもつねに忌避したのである。

 科学への道はこのように《二重に》遮断されていた。

第一には「真」の世界によせる信仰によって、第二にはこの信仰の反対者たちによって。

自然科学、心理学は、(一)その対象において断罪され、(二)その無垢を奪われてしまっていた・・・

 もっぱらすべてのものが連結され制約されている現実的世界においては、なんらかのものを断罪して《なきものと考える》とは、すべてのものをなきものと考えて断罪することにほかならない。

「このものは存在すべきではなかった」、「このものは存在すべきではないのに」という言葉は、一つの茶番である・・・この帰結を考えぬいてみれば、なんらかの意味で《有害で破壊的》であるものを除去しようと欲するなら、生の源泉は台なしにされる。いや、生理学がこのことを《もっと上手に》論証してくれる!

 ―――私たちにわかったのは、いかにして道徳が、(a)全世界観を《害毒する》か、(b)認識への、《科学》への道を遮断するか、(c)すべての現実的本能を解体し掘りくつがえすか(道徳がこの本能の根ざすところを《非道徳的》と感取するよう教えることによって)、ということである。

 私たちにわかったのは、最も聖なる名称や態度でもって身ごしらえしているデカダンスの怖るべき道具が私たちの面前でひと仕事しているということである。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅰ 認識としての権力への意志、五八四、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.27-28、[原佑・1994])
(索引:理性,論理,科学)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年10月21日日曜日

14.思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

思想

【思想は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項である。感情、欲求、反感を伴った多義的な思想が刺激剤となり、あたかも多数の諸人格が関与しているかのように、諸思想が比較、吟味、解釈、限定され一義的となる。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(再掲)(3.1)~(3.5)追記
意識に現われる思想、感情、意志は、意識に登る前の互いに抵抗し合う諸衝動一切により決まる、その瞬間における、ある総体的状態である。意識は、無意識における出来事の最終項、その徴候、一つの記号である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
(1)ある思想が、直接ある思想の原因であるように見えるのは、見かけに過ぎない。すなわち「意志」を、何か単純な実体であると考えることは、一つの欺瞞的な具象化である。

時刻1 思想1⇒意志1
 │  │
 ↓  ↓
時刻2 思想2⇒意志2

(2)諸感情、諸思想等々の、意識に現われ出てくる諸系列や諸継起は、意識に登る前の本来的な出来事の連鎖の最終項であり、その徴候である。
(3)思想、感情、意志は、互いに抵抗し合う諸衝動一切の、支配と服従の瞬間的な権力確定の結果としての、ある総体的状態である。
 (3.1)思想が私の念頭に浮ぶ。意識にとって、あらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をする。
  (3.1.1)一群の感情、欲求、反感によって取りまかれている。
  (3.1.2)一群の他の思想によって取りまかれている。
 (3.2)一切の思考には、ある多数の諸人格が関与しているように見える。
  (3.2.1)多義的な思想を純化し、それが何を意味しているのかが問われる。
  (3.2.2)それが何を意味してもよいのかが問われる。
  (3.2.3)それは正しいのか、それとも正しくないのかが問われる。
  (3.2.4)他の諸思想の助けを求め、その思想と比較される。
 (3.3)かくして、思想は解釈が試みられ、限定され、確定されて一義的となる。
 (3.4)これら一切が、急速に、しかも急ぎの感情なしでなされる。このとき私は確かに、事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。
 (3.5)あらゆる感情に関しても事情は同様である。
  (3.5.1)内蔵の窮状、血圧、交感神経の病的な諸状態、不確実な不快感、苦痛が刺激剤となる。
  (3.5.2)私たちは、何らかの心的・道徳的な説明を探し求め、それを解釈する。
(4)ある思想に引き続き現れる思想は、諸衝動の総体的な権力状況が転移した結果を示す、一つの記号である。

時刻1 衝動11⇔衝動12
 │  ↓↑  ↓↑ ⇒感情1⇒思想1⇒意志1
 ↓ 衝動13⇔衝動14
時刻2 衝動21⇔衝動22
    ↓↑  ↓↑ ⇒感情2⇒思想2⇒意志2
   衝動23⇔衝動24

 「思想は、それが発生するさいの形態においては、それがついに一義的となるまで、解釈を、より正確には、或る任意の制限や限定を必要とする一つの多義的な記号である。

思想が私の念頭に浮ぶ―――どこから? 何によって? このことを私は知らない。

思想は、私の意志から独立的に、通常、一群の感情、欲求、反感によって、また一群の他の思想によって取りまかれ曖昧にされて発生し、かなりしばしば「意欲」あるいは「感情」の働きとほとんど区別されえない。

ひとは思想をこうした一群のもののうちから引き出し、それを純化し、それをひとり立ちさせて、いかにそれがそこに立っているか、いかにそれが歩むかを、見るのだが、これら一切はすばらしく急速に、それなのにまったく急ぎの感情なしでなされるのだ。

《何者が》これら一切をなすのか―――私はそれを知らず、そのさい私はたしかに、こうした事象の創始者であるよりもむしろ傍観者である。

次いでひとはその思想を裁く、ひとはこう問うのだ、「何をこの思想は意味するのか? 何をそれは意味してもよいのか? それは正しいのか、それとも正しくないのか?」と―――ひとは他の諸思想の助けを求め、その思想を比較する。

思考は、このように、ほとんど一種の公正な処置ないしは審理たるの実を示すのであり、そこには、裁く者、相手方がおり、そのうえ証人訊問さえもあるのであって、この証人訊問には私はいささか傾聴する必要がある―――もちろんただ《いささか》にすぎない。

私はたいていのことを聞き落とすように見える。

―――あらゆる思想は最初には多義的にぼんやりと発生し、それ自体としては解釈の試みや任意の確定のための誘因としてしか発生しないということ、一切の思考には或る多数の諸人格が関与しているように見えるということ―――、

これはそうやすやすとは観察できないことであって、私たちは、根本においては、これとは逆の訓練を、つまり、思考のさいに思考のことを思考しないという訓練を受けている。

思想の起原は隠されたままである。思想が或るずっと包括的な状態の徴候にすぎないということの蓋然性は、大きいのだ。

まさしく《この思想が》発生して他の思想が発生しないということ、この思想、多かれ少なかれまさしくこれだけの明るさをもって、ときとしては確実かつ高びしゃに、ときとしては弱々しく支えを必要として、総じてつねに刺激的に、物問いたげに発生するということ

―――つまり意識にとってあらゆる思想は一つの刺激剤のような作用をするのだが―――、

こうした一切のことのうちに私たちの総体的状態の幾分かが記号というかたちで表現されているのだ。

―――あらゆる感情に関しても事情は同様であって、感情はそれ自体として何かを意味するのではない。

感情は、それが発生するとき、私たちによってまず解釈されるのであり、そしてしばしば《なんと奇妙に》解釈されることか! 

私たちにはほとんど「無意識的な」、内蔵の窮状のことを、下腹部における血圧の緊張のことを、交感神経の病的な諸状態のことを、まあ考えてみるがよい―――、かくて私たちが共通感官によってはそれについてほとんど一抹の意識をももっていないものが、なんと多くあることか! 

―――解剖学に精通している者だけが、そうした不確実な不快感のさいに、諸原因の正しい種類や《部位》を推量する。

しかし、その他のすべての者たちは、それゆえ、人間が存在するかぎり、総じてほとんどすべての人間たちは、そうしたたぐいの苦痛のさいに、なんらの身体的な説明をも探し求めないで、なんらかの心的・道徳的な説明を探し求め、そして身体の事実上の不調に或る《偽りの根拠づけ》をなすりつけるのだが、これは、彼らが、彼らのもろもろの不快適な経験や危惧の圏内で、このようにぐあいがよくないことのなんらかの根拠を取り出してくることによってなのだ。

拷問にかけられるとほとんどあらゆるひとがおのれに罪のあることを告白する。

その身体的な原因がわからない苦痛のさいには、そういう苦痛の拷問にかけられた者は、この者がおのれか他人たちかに《罪のあることを認める》までずっと、しかもそのようにきびしく審問的にみずから尋問する、

―――これは、たとえば、不合理な生活法に付き物のおのれの不機嫌を、習慣上道徳的に、つまりおのれ自身の良心の呵責と解釈した清教徒が行なったのと、同様のことだ。―――」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一九八、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.119-121、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思想,感情)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年10月17日水曜日

13.無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

言語の畜群的遠近法

【無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)意識のうちに入らずに為される多くのことがある。感覚、思考、情動、意欲、想起。
(2)また、我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
(3)意識にのぼってくる思考は、意識されない思考の極めて僅少の部分、その最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。
(4)さらに、言語で表現された世界は、意識にのぼってくるものの、さらに限定された一部である。しかもそれは、一般化され、凡俗化され、深みを失い、薄っぺらになり、愚劣となり、頽廃があり、偽造がある。
(5)自分自身をできるかぎり個的に理解しよう、「自己自身を知ろう」と望んでも、意識にのぼってくるのは、非個的なもの、「平均的なもの」、「種族の守護霊」によって多数決にかけられ、畜群的遠近法に訳し戻されたものである。結局のところ、増大する意識とは一つの危険であり、一つの病気とも言えるのである。
(6)以上のことは、意識と言語の以下のような起源に由来する。
 (6.1)人間は、最も危険に曝された動物として、仲間の救助や保護を必要とした。
 (6.2)仲間に知らせる必要のあることが、意識化され、言語化された。すなわち意識も言語も、種族、共同体的、畜群的な効用に関する点で、精妙な発達をとげてきた。なお、人と人を結びつけるものには、眼差しや身振りの働きもある。
  (6.2.1)自分の危急状態、何が不足しているのか。
  (6.2.2)自分がどんな気分でいるのか、何を考えているのか。
  (6.2.3)人と人とを結びつける連絡網、特に命令者と服従者を結びつける。

 「「種族の守護霊」について。

―――意識(もっと正しく言えば、自己を意識すること)の問題は、どの程度までわれわれは意識なしで済ませられるかを悟りだすときにはじめて、われわれの前面にあらわれてくる。

こうした悟り始めの地点に、今日われわれを立たせるのは、生理学と動物学とである(これらの学問は、したがって、ライプニッツの先駆的な疑問に追いつくのに二世紀かかったわけだ)。

すなわち、われわれは、考えたり、感じたり、欲したり、想い起こしたりすることができるし、同様にまた語のあらゆる意味で「行為する」ことができるだろう、だがそうだとしてもそうした一切のものがわれわれの「意識のうちに入ってくる」(比喩的に言われるごとく)ことを要しない筈だ。

生の全体は、それがいわば鏡に自分を映してみなくても、可能な筈である―――実際において今日でもなお、われわれにおけるこの生活の大半が、こうした鏡面映写なしに演じられているごとくに―――、しかもそこにわれわれの思考し・情感し・意欲する生をも含めての話だ、こう言えば老いぼれた哲学者の耳には侮辱したように聞こえるかもしれないけれど。

―――意識が大体において《余計なもの》であるとするなら、いったい意識は《何のため》にあるのか? 

―――ところで、この問題に対する私の解答とその恐らくは的外れかもしれぬ推測に人々が耳を藉してくれるとしての話だが、意識の精緻さと強さとはつねに人間(あるいは動物)の《伝達能力》に比例し、またその伝達能力は《伝達の必要》に比例する、と私には思われる。

この後者の場合、自分の必要をひとに伝達したり分からせたりすることにかけては実に名人である当の個人それ自体が、その必要という点で同時にまた大抵のことを他人に頼らねばならないものだ、といった風にこれを解してはならない。

だがしかし、こと種族全体や血族連鎖の全体に関するかぎりでは、たしかにそんな風の事情になっているように、私には思われる。

必要とか困窮とかのために、長期にわたって人間が、伝達し合い相互に迅速かつ精細に理解しあうよう迫られたところでは、ついにあり余る程のこうした伝達の力と技が生じてくる。それはいわば漸次に蓄積された末にこれを浪費する相続人を待つばかりになっている資産のようなものである

(―――いわゆる芸術家はこうした意味の相続人であるし、演説家も説教家も著述家も同断である。これらの者はみな、きまって長い血族連鎖の最後にあらわれ、いつの場合も語の最上の意味での「末裔」であり、前述のようにその本質において「浪費家」である)。

この私の考察が正しいとしたら、さらに次のように推測をすすめることができよう、すなわち、《およそ意識というものは伝達の必要に迫られてのみ発達したものである》、―――もともとそれは人と人との間(特に命令者と服従者との間)にのみ必要なもの、有用なものであって、しかもこの有用性の程度に比例してのみ発達したものである、と。

意識とは、本来、人と人との間の連絡網にすぎない、―――ただそうしたものとしてのみ発達したに違いなかった。つまり、世捨人的な猛獣のような人間なら意識など必要とはしなかっただろう。

われわれの行為、想念、感情、運動すらも―――すくなくともそれらの一部分が―――われわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき「やむなき必要」(Muss)の結果なのだ。

人間は、最も危険に曝された動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表わし自分を分からせるすべを知らねばならなかった、―――こうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず「意識」を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを「知る」こと、自分がどんな気分でいるかを「知る」こと、自分が何を考えているかを「知る」ことが、必要であった。

なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。

《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。

―――というのも、この意識化された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》―――これで意識の素性そのものがあばきだされるが―――《をもって営まれる》からである。

要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。

付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。

われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。

記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。

人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、―――人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。―――お察しのとおり、私の考えは、こうだ

―――意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ畜群的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ畜群的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。

また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、「自己自身を知ろう」と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における「平均的なもの」だけであるだろう、

―――われわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によって―――意識の内に君臨する「種族の守護霊」によって―――いわば《多数決にかけられ》、畜群的遠近法に訳し戻される。

われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。

それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》・・・これこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法論である。

《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡俗化された世界にすぎない、

―――意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、畜群的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている。

結局のところ、増大する意識とは一つの危険なのだ。そして、極度に意識的となったヨーロッパ人のあいだに生活する者は、その上それが一つの病気でもあることを知っている。

お察しのことだろうが、ここで私が問題としているのは、主観と客観の対立などではない。こんな区別だてなど、文法(俗流形而上学)の罠にかかったままでいる認識論者諸君の手に一任する。

ましてやそれは、「物自体」と現象との対立といったものではさらさらない。なぜなら、われわれの「認識」は、そうした《区別》だけでもやれるにはまだまだ遥かに不充分だからだ。

われわれは《認識》のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有っていない。

われわれは、人間畜群や種族のために《有用だ》とされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。

しかも、ここで「有用」と呼ばれるものでさえも、所詮また一個の信仰、一個の妄想にすぎず、また恐らくそれこそは、われわれをいつかは破滅させるあの宿命的な蒙昧さであるかもしれない。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第五書、三五四、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.391-395、[信太正三・1994])
(索引:意識の発生,言語の起源,畜群的遠近法)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月23日日曜日

12.言語による思考以外にも、より広義の「思考」が存在する。思考とは、感覚が編み合わされて、極めて洗練されたものではないだろうか。例として、皮膚感覚による思考。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

皮膚感覚による思考

【言語による思考以外にも、より広義の「思考」が存在する。思考とは、感覚が編み合わされて、極めて洗練されたものではないだろうか。例として、皮膚感覚による思考。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)言語による思考以外にも、より広義の「思考」が存在する。思考とは、感覚が編み合わされて、極めて洗練されたものではないだろうか。
(2)例。
 視覚による思考、「線と形」による思考、幾何学
 聴覚(音)による思考、音楽
 皮膚感覚(触覚、温覚、冷覚、痛覚)による思考
(3)より広義の「思考」が存在するにしても、「論理的諸形式は、感官知覚の生理学的諸法則なのである。」は、誤りである。次の命題を参照せよ。(未来のための哲学講座)
「真であることの法則」と論理法則は、人がそれを「真とみなす」かどうかの心理法則ではなく、何か動かしがたい永遠の基礎に依存しているに違いない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))
数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))

 「私たちの《思考する働き》は、ほんとうは、《見たり、聞いたり、感得したりする働き》が編み合わされてきわめて洗練されたかたちをとったもの以外の何ものでもない。論理的諸形式は感官知覚の生理学的諸法則なのである。私たちの諸感官は強力な反響と反映をともなった発達した感覚中枢なのである。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 二一、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.22、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思考)

 「目というものがあったよりずっと以前に、思考がなされていたにちがいない。

それゆえ、「線と形」が最初に与えられているのではなくて、触感にもとづいてずっと以前から思考がなされていたのだ。

しかしこのことは、目によってささえられること《なしに》、圧迫感の程度を教えるのであって、まだ形を教えはしない。

それゆえ、世界を運動するもろもろの形として理解する修練に先立って、世界が可変的なさまざまの程度の圧迫感覚として「把握され」た時代があるのだ。

形象において、また音調において思考がなされうるということは、なんの疑いもないことだ。だが圧迫感においてもまたそうなのだ。強度と方向と継起とに関する比較、想起等々。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一八七、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.113-114、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:思考,皮膚感覚による思考)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月22日土曜日

11.夢は、真の実在の仮象である現実の、さらに高次の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

仮象への憧憬

【夢は、真の実在の仮象である現実の、さらに高次の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)目覚めているときの現実
 (1.1)一見これのみが、重要かつ貴重であり、生きるに値するもののように思われる。
 (1.2)一方、人間はこの世界を、時間と空間の中における不断の生成として感じている。
(2)夢みているとき
 (2.1)夢みる者が夢の世界の幻想のただなかにあってその幻想を打ち壊すことなく、「これは夢だ、夢ならばさらに見続けてくれよう」とわが身に呼びかける、このような深い内的な歓喜が存在する。
 (2.2)これは仮象への憧憬、仮象による救済への熱烈な憧憬、何ものにもまして強力な芸術衝動である。
(3)一つの仮説。真実の存在者にして根源的一者たるものは、永遠に悩めるもの、矛盾に満てる者として、恍惚たる幻視を、歓喜に満ちた仮象を、自己の絶えざる救済のため必要としているのではないか。
 (3.1)目覚めているときの現実
  (3.1.1)時間と空間の中における不断の生成としての現象は、真の実在の一瞬ごとに作られる仮象であり、私たちは完全に仮象に囚われているのではないか。
 (3.2)夢みているとき
  (3.2.1)夢は、真の実在の仮象である「現実」の、さらに高次の仮象、仮象の仮象であり、私たちの夢みることへの深い内的な歓喜、仮象への憧憬は、真の実在の神秘に満ちた根底の何らかの本質を示しているのではないか。

 「この素朴的芸術家に関しては、夢の類比がわれわれに若干の教示を与える。

夢みる者が夢の世界の幻想のただなかにあってその幻想を打ち壊すことなく、「これは夢だ、夢ならばさらに見続けてくれよう」とわが身に呼びかける情景をわれわれが想像するならば、

またわれわれがそのことから、夢を観照することの深い内的な歓喜を推論しなければならないとすれば、

他面またわれわれが、そもそも観照にたいするこの内的な歓喜をもって夢み得んがためには、白昼とその怖るべき執拗さを完全に忘れ果てていなければならないとしたら、

われわれはこれらすべての現象を夢を占うアポロンの導きの下にあるいは、次のように解釈することもできよう。

たしかに生の両半、すなわち目覚めている一半と夢みている一半のうち、前者の方が比類なく優れており、重要かつ貴重であり、生きるに値するもの、否、これのみがわれわれの生きるものであるかのようにわれわれには思われるのであるが、

それにもかかわらず私は、いかに逆説のごとく見えようとも、われわれの本質―――その現象がわれわれである―――のかの神秘に満ちた根底にたいしては、これと反対に夢を評価することをまさに主張したいのである。

すなわち、私が自然のなかに、かの何ものにもまして強力な芸術衝動を、またこれらの衝動のなかに、仮象への、仮象による救済への熱烈な憧憬を認めれば認めるほど、ますます私は次のごとき形而上学的仮説を否応なく認めざるを得ないことを感ずるのである、

すなわち、真実の存在者にして根源的一者たるものは、永遠に悩めるもの、矛盾に満てる者として、恍惚たる幻視を、歓喜に満ちた仮象を同時に自己の絶えざる救済のため必要とする、という仮説である。

しかるにこの仮象を、完全に仮象に囚われ仮象より成るわれわれは、真実の非存在者として、すなわち、時間、空間、および因果性のうちにおける不断の生成として、換言すれば、経験的実在として感ぜざるを得ない。

それ故、われわれが一旦われわれ自身の「実在」を一瞬不問に付すならば、そしてわれわれの経験的存在を、世界一般の存在と同様、根源的一者の、一瞬毎に作られる表象として把握するならば、今やわれわれは夢を、《仮象の仮象》と、従って仮象への根源的欲求のさらに高次の満足と見做さねばならない。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『音楽の精神からの悲劇の誕生』四、ニーチェ全集2 悲劇の誕生、pp.48-49、[塩屋竹男・1994]) (索引:仮象への憧憬,アポロン)

悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月21日金曜日

10.自我は唯一の個体というよりも、経済的、社会的な諸関係から習慣化された一切の善き、また悪しき諸衝動によって、細かく分裂させられた「数多性」の状態で存在している。それは、社会的な修練の場、闘争の場である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

社会的衝動と自我の数多性

【自我は唯一の個体というよりも、経済的、社会的な諸関係から習慣化された一切の善き、また悪しき諸衝動によって、細かく分裂させられた「数多性」の状態で存在している。それは、社会的な修練の場、闘争の場である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)私たちが把握し、承認し、また夢みてしまった一切の存在者は、私たちの内へと受け入れられ、縮小して移し入れられる。
 (1.1)物理的、自然的な事物(オリーブの木々や暴風雨)
 (1.2)経済的、社会的な諸関係(財布や新聞)、社会的に習得したもの、「社会」
 (1.3)宇宙、神
 (1.4)その他、名称のないもの
(2)経済的、社会的な諸関係は、友情、敵意、嫉妬、憎悪、復讐のような社会的な諸衝動へと習慣化される。
(3)この結果、自我は唯一の個体というよりも、一切の善き、また悪しき、習慣化した諸衝動が存在し、細かく分裂させられ、言わば常に「数多性」という状態で存在しており、社会的な修練の場、闘争の場のようになっている。
 (3.1)私についての思考、善き衝動、悪しき衝動
 (3.2)他者についての思考、善き衝動、悪しき衝動
(4)人がおのれの殻に閉じこもるのは、社会からの逃避ではなくて、しばしば、おのれの諸事象を以前の諸体験の図式に従って綿密に夢み続けて解釈することである。

 「私たち自身に対する私たちの関係! それを《エゴイズム》と言ってみたところで全然《なんの》意味も《ない》。

私たちは、一切の善き、また悪しき、習慣化した諸衝動をおのれへと向ける。おのれについての思考、おのれのための、またおのれに逆らう感覚、私たちのうちなる闘争―――私たちはおのれをけっして個体として取り扱わないで、二元性や数多性として取り扱うのだ。一切の社会的な修練(友情、復讐、嫉妬)を私たちは正直におのれに施すのである。

動物の素朴なエゴイズムは私たちの《社会的な習得》によってまったく改変されている。つまり、私たちはもはや自我の唯一性というものを全然感ずることができず、《私たちはつねに或る数多性という状態で存在しているのだ》。

私たちはおのれを細かく分裂させてしまっており、またおのれをつねに新たに分裂させる《社会的な諸衝動(敵意、嫉妬、憎悪のような)》(それらは或る数多性を前提する)が私たちを変化させてしまった、つまり、私たちは「社会」を私たちの内へと移し入れ、縮小してしまったのであり、

そしておのれの殻に閉じこもるのは社会からの逃避ではなくて、しばしば、おのれの諸事象を以前の諸体験の図式にしたがって綿密に《夢みつづけて解釈する》ことなのだ。

神のみならず、私たちが承認する一切の存在者を、私たちは、名称なしですら、私たちの内へと受け入れる、つまり、私たちは、《私たちが宇宙を把握しあるいは夢みてしまったかぎり》、宇宙なのだ。

オリーブの木々や暴風雨は私たちの一部分となってしまったのであり、財布や新聞も同様なのだ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 三六〇、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.210、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:自我の数多性,社会的衝動)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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2018年9月20日木曜日

9.ある対象や諸変化の状況が、意欲されている目標との関連で判断され、激情的な所有欲や拒絶へと簡約化され、総体的価値へと固定される。これが快と不快であり、同時に、目標や知性における判断への逆作用を持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

快と不快

【ある対象や諸変化の状況が、意欲されている目標との関連で判断され、激情的な所有欲や拒絶へと簡約化され、総体的価値へと固定される。これが快と不快であり、同時に、目標や知性における判断への逆作用を持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)快と不快の起源は、知性の中枢部のうちにある。
 (1.1)力の劣った者には危険であり防衛の必要ありと見えるその同一のものが、力の極めて充実している者の意識にあっては情欲をそそる刺戟であり、結果として快感を伴い得るのである。
 (1.2)すなわち、知覚されたある対象や諸変化の状況が秩序付けられ、諸分類に包摂され、意欲されている目標のための手段として好ましいのか、好ましくないのかが算出され、推理され判断される。
 (1.3)これら知性のうちの全ての根拠づけや論理性が放棄され、判断における肯定と否定が、激情的な所有欲や拒絶へと還元され、簡約化される。
(2)すなわち、意欲されている目標、意志の反作用として快と不快の欲情が発生し、知性における中心すなわち判断が、快と不快として表現され、総体的価値へと固定される。同時に快と不快は、意欲された目標や知性における判断への逆作用を持つ。
(3)快と不快は、総体的有用性、総体的有害性を示す命令法であり、紛れもない有用性を持つ。

 「「不快」と「快」は考えうる最も愚劣な判断の《表現手段》である。

このことはもちろん、ここでこうした仕方で表明される判断が愚劣であるにちがいないということを言うものではない。

すべての根拠づけや論理性の放棄、激情的な所有欲や拒絶へと還元された肯定や否定、まぎれもない有用性をもつ命令法での簡約化、すなわちこれが快と不快である。

その起源は知性の中枢部のうちにあり、その前提は、限りなく加速度を加えられた知覚、秩序、包摂、算出、推断のはたらきのうちにある。すなわち、快と不快はつねに結論現象であって、いかなる「原因」でもないのである。

 快と不快を喚起するものの何であるかに関する決定は、《権力の度合い》に依存している。権力量の劣ったものには危険であり急速に防衛の必要ありとみえるその同一のものが、権力のきわめて充実しているものの意識にあっては情欲をそそる刺戟であり、結果として快感をともないうるのである。

 すべての快・不快の感情が、すでに、《総体的有用性、総体的有害性による測定》を、それゆえ、目標(状態)の意欲とそのための手段の選出とが生ずる領域を、前提としている。快と不快はけっして「根源的事実」ではない。

 快・不快の感情は《意志の反作用(欲情)》であり、この反作用において知性の中心は、入りこんできた或る諸変化の価値を総体的価値へと固定し、同時に逆作用の導入として固定する。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『権力への意志』第三書 新しい価値定立の原理、Ⅱ 自然における権力への意志、六六九、ニーチェ全集13 権力の意志(下)、pp.191-192、[原佑・1994])
(索引:快と不快)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
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