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2018年7月20日金曜日

2.私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、僅かのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。これが、持続するものと、自我とを信じるようになる源泉である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

意識と自我

【私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、僅かのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。これが、持続するものと、自我とを信じるようになる源泉である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】
(1) 私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、僅かのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。
(2) 意識の(a)のような不完全性が、生成のうちに何か持続するものを想定し「諸事物」を信じる源泉である。
(3) 同様に、私たちが一つの「自我」を信ずる源泉である。
(4) 仮に、私たちの知る働きが事柄の展開と同じくらい迅速に、また同じくらい絶え間なく進行したなら、「自我」といったものは考えられないであろう。

 「私たちの意識はびっこを引いて後についてゆき、わずかのものしか一挙には観察せず、その間他のものに関しては休憩している。

こうした不完全性が、たぶん、私たちが諸事物を信じて、生成のうちに何か持続するものを想定するということの、同様にまた、私たちが一つの自我を信ずるということの源泉であろう。

私たちの知る働きが〔事柄の〕展開と同じくらい迅速に、また同じくらい絶え間なく進行したなら、「自我」といったものは考えられないであろう。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 一七、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.20、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:諸事物,自我,意識)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2018年6月14日木曜日

7.意識に関する諸事実:(a)特定脳部位との関係付け。(b)意識、低いレベルの注意、覚醒。(c)意識と情動の非分離性。(d)中核意識、延長意識の区別。(e)中核意識の成立条件。(f)統合的な心的風景について。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

意識に関する諸事実

【意識に関する諸事実:(a)特定脳部位との関係付け。(b)意識、低いレベルの注意、覚醒。(c)意識と情動の非分離性。(d)中核意識、延長意識の区別。(e)中核意識の成立条件。(f)統合的な心的風景について。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】
 神経学的観察や神経心理学的実験によって明らかに諸事実。
(a)意識のプロセスのいくつかの側面を、脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけることができる。
(b)意識、低いレベルの注意、覚醒は、それぞれ区別できる異なる現象である。
 ・生得的な低いレベルの注意は、意識に先行して存在する。
 ・注意は、意識にとって必要なものだが、十分なものではない。注意と意識とは異なる。
 ・集中的な注意は、意識が生まれてから生じる。
(c)意識と情動は、分離できない。
(d)意識には、いくつかの段階がある。例として、
 ・中核意識(core consciousness):「いま」と「ここ」についての自己感を授けている。
 ・延長意識(extended consciousness):「わたし」という自己感を授け、過去と未来を自覚させる。
(e)中核意識は、言語、記憶、理性、注意、ワーキング・メモリがなくても成立する。
(f)統合的、統一的な心的風景を生み出すことそのものが、意識ではない。統合的、統一的なのは、有機体の単一性の結果である。

 「本書で紹介する考え方の出発点になったものは、神経学的観察や神経心理学的実験によって明らかにされた多くの事実である。

 第一の事実は、意識のプロセスのいくつかの側面を脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけることができること。それにより、意識を支える神経構造の発見への扉がいま開かれつつある。」(中略)

「第二の事実は、意識と低いレベルの注意、意識と覚醒は、どちらも分離できるということ。この事実は、例の円形の部屋で男の患者が例証したように、正常な意識がなくても、人は覚醒と注意を維持できるという証拠にもとづいている。」(中略)

「第三の、そしてたぶんもっとも意味深い事実は、意識と情動は分離「できない」ということ。第2章、第3章、第4章で論じるように、通常、意識に障害が起こると情動にも障害が起こる。基本的に、情動と意識の結びつき、そしてそれらと身体との結びつきが、本書の中心テーマである。

 第四の事実は、少なくとも人間において意識は一枚岩的ではないということ。意識は単純なものと複雑なものに分けることが可能であり、神経学的証拠からその分離は明白だ。

私が「中核意識」(core consciousness)と呼ぶもっとも単純な種類の意識は、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」についての自己感を授けている。」(中略)

「他方、私が「延長意識」(extended consciousness)と呼んでいる多くのレベルと段階からなる複雑な種類の意識は、有機体に精巧な自己感――まさに「あなた」、「私」というアイデンティティと人格――を授け、また、生きてきた過去と予期される未来を十分に自覚し、また外界を強く意識しながら、その人格を個人史的な時間の一点に据えている。」(中略)
「第五の事実。意識は言語、記憶、理性、注意、ワーキング・メモリといった他の認知機能で単純に説明されることがよくある。そうした機能は延長意識の最上層が正常に作用するには必要だが、中核意識にはそれらが必要でないことが神経疾患の患者の研究からわかっている。

したがって意識の理論は、単に、言語、記憶、理性が、脳と心の中で進行していることに対する解釈を情報から、どう構築しているのか、というような理論であっては「ならない」。」(中略)

「さらに、意識の理論は単に、脳はどのように対象のイメージに目を向けるか、というような理論であっては「ならない」。

私が見るところ、生得的な低いレベルの注意は意識に先行して存在し、一方、集中的な注意は意識が生まれてから生じる。意識にとって、注意はイメージをもつのと同じぐらい必要なものである。しかし、注意は意識にとって十分なものではないし、意識と同じものでもない。

 最後に、意識の理論は単に、脳はどのようにして統合的、統一的な心的風景を生み出すか、というような理論であっては「ならない」。

もちろん統合的、統一的な心的風景は意識の重要な側面であり、とくに意識の最終レベルではそうである。しかし、そうした風景は孤立して存在するわけではない。それが統合的、統一的であるのはその有機体の単一性「ゆえに」であり、またその単一の有機体の「ために」である。」


(アントニオ・ダマシオ(1944-)『起こっていることの感覚』(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』)第1部 脳と意識の謎、第1章「脳の中の映画」とは何か、pp.35-38、講談社(2003)、田中三彦(訳))
(索引:意識、注意、覚醒、情動、中核意識、延長意識)

無意識の脳 自己意識の脳


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

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2017年12月26日火曜日

およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

無意識とは何か?

【およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 意識に現われるすべてのものは、精神の働き、言うなら精神の作用を、意識していると言える。また、すべての作用に対応して、われわれの精神の能力あるいは力能が、存在していると言える。しかし、能力あるいは力能については、言わば潜勢的に存在しており、われわれがある能力を使用しようとする場合に、ただちに、現実的に意識されるようなものなのである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも精神のうちには存在しない。
 「われわれのうちには、われわれのうちにそれがあるのと同じその瞬間にわれわれがそれを意識することがないようないかなる思惟も、ありえないのです。ですから、私は、精神は嬰児の身体に入りこむやすぐさま、思惟しはじめ、と同時に、自らの思惟を自らに意識する、ということを疑いません。そうした思惟の形象[ども]は記憶に刻みつけられることはありませんから、後になってからその事物を精神が、想起することはありませんが、よしそうだとしてもです。しかしながら、銘記すべきは、われわれの精神の働き、言うなら作用をこそ、われわれは常に現実的に意識しているということ、〔しかし〕われわれの精神の能力あるいは力能については、潜勢的にというならばともかく、常に[現実的に意識している]というわけではなく、すなわち、われわれが或る能力を使用しようとする場合には、その能力が精神のうちにあるとするならば、ただちに、われわれはそれを現実的に意識するというようになっているということです。だからこそ、その能力が精神のうちにあることを、われわれは、それについて意識することができないならば、否定することができるのです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察 第四答弁』デカルト著作集[二]、pp.295-296、[廣田昌義・1993])


デカルト著作集(全4巻)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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