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2022年2月6日日曜日

外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

自由意志に関する諸問題

外的世界、他者、自己に関する事実の知識は、私の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。しかし、目的とは何なのか。それは、客観的なのか主観的なのか、いかに知られるのか。どこまでが、私の自由意志と言えるのかという問題がある。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



(1)外的世界、他者、自己に関する事実
 重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去する。
 (a)基本的な想定
   (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。


(2)外的世界
 人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か。
 (a)外的世界が必要との主張
  例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。
 (b)内なる砦への退避
  ストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。

(3)どこまでが私の意志なのか
 事物と非合理的な生物から成る 外的世界と、主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのか。

(4)目的とは何なのか
 一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか。
 (a)客観的な目的があるとの主張
  ある者は、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張した。
 (b)目的は主観的であるとの主張
  目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されている。
 (c)目的はいかに知られるのか
  この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあるもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの か。




「つまり重要な事実についての知識、外的世界と他人と私自身の本性についての知識は、私 の方針に対する無知と妄想に由来する障害を除去するという結論である。哲学者(そして神学 者、劇作家、詩人)は、それぞれ人間の本性とその目的について、この本性と目的を多少とも 達成するには、外的世界をいかにまたどの程度支配することが必要か、そのような一般的な本 性ないしは客観的な目的がそもそも存在しているのか、そして事物と非合理的な生物から成る 外的世界と主体的な行動主体とを区別する境界線はどこにあるのかについて、大きく意見を異 にしている。ある思想家は、本性の達成はこの地上において可能である(あるいはかつて可能 であったか、いつの日にかは可能であろう)と考え、また他の思想家は可能ではないと考え た。あるものは、人間の目的は客観的に存在しており、特殊な調査方法によって発見可能であ ると主張したが、この方法が何であるか、経験的であるか先験的であるか、直感的であるか推 論的であるか、科学的である純粋内省的であるか、公的であるか私的であるか、特に才能のあ るもの、あるいは幸運なものに限られているのか、それとも原則として万人に開かれているの かについては、意見が異なっていた。また他のものは、その目的は主観的であり、あるいはき わめて多様な物理的、心理的、社会的要因によって決定されていると信じていた。さらにいえ ば、例えばアリストテレスは、外的条件があまりにも不利ならば――人がいわばトロイ最後の王 プリアモスの不運に苦しめられるならば――、自己達成、自らの本性の適切な実現は不可能にな るであろうと考えた。それにたいしてストア派とエピクロス派は、人間社会と外的世界からあ る程度の距離をおきさえすれば、外的状況が何であれ、完全な合理的自己統制は人間に達成可 能であると主張した。彼らはさらにこれに加えて、意識的に独立と自立を求める人々、つまり 自分には支配できない外的な力の《おもちゃ》になることからの逃避を求める人々には、誰で も原則としてこの自己達成に必要な距離をおくことができるという、客観的な信念を抱いてい た。これらすべての見解に共通する想定として、次の点を挙げることができよう。  (i)物と人は本性――それが知られているかどうかにかかわりなく、明確な構造を有してい る、 (ii)これら本性ないし構造は、普遍的かつ不変の法則によって支配されている、  (iii)これら構造と法則は、少なくとも原則としては、すべて知ることができる。そしてそ の知識は自動的に、暗闇でつまずかないように、そして所与の事実――事物と人の本性、それを 支配する法則――からして失敗を運命づけられている方針に努力を浪費しないですむようにして くれる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.255-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

真の自由とは何か

真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)麻薬、催眠術
 自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である。行動主体がどのような説明や正当化を試 みるかにはかかわりなく、何か隠された心理的、生理的条件によって自分には統制できない力の手中に握られていれば、自由ではない。

(2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 人間の行動が方向を誤った感情、例えば、存在していないものに対する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪などを原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。
(3)合理化、イデオロギー
 合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、あるいは真の根源を無視ないし誤解している偽りの行動の説明である。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。

(4)意識的な意図と動機、目的
 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるのかが問題である。ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。



「この理論によると、人間の行動が方向を誤った感情――例えば、存在していないものにたい する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪など――を原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。この見解では、合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、ある いはそれを無視ないし誤解している偽りの行動の説明ということになるであろう。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。したがって 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるか、逆にいえば、同じ効果、つまり(行動主体がどのような説明ないし正当化を試 みるかにかかわりなく)選択の結果であるかのように装って同じ行動を生み出すとしても、ど の程度まで何か隠された心理的、生理的条件によっていないかによって、人間は自由である。 ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。つまり、このような意 図と目的を持っていることが、彼の行動の充分条件ではないが、必要条件であるといってよい 場合である。自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である――彼が自分の行動をどう説明しようと、彼の表面の明白な動機と方針がいかに変化 しようとも、その事実には変わりはない。彼がどのような理由を挙げるにせよ、彼の行動が明 白に同じと予言できる時には、彼は自分には統制できない力の手中に握られており、したがっ て自由でないと、われわれは考える。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.256-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月2日水曜日

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

現実の真の目標

無限の彼方にある目標は、目標ではないのです。目標はもっと近いものでなければなりません、少なくとも労働者の労働の報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「さらに、「進歩」を語ったり、現在を未来への犠牲にしたり、遠い未来の子孫たちが幸福 であり得るために今日の人々を苦しめる用意をしている人々がいる。そして、彼らは野蛮な犯 罪や人間の堕落をそれがある保障された未来の幸福に向けての不可避的方途であるからといっ て許している。反動的ヘーゲル派や革命的共産主義者たち、純理的功利主義者たちと教皇至上 主義の熱狂的信者たち、および高貴だが遠い将来の目的の名において嫌悪すべき方法を正当化 するすべての人々のまさに等しくわかちもつこのような態度をゲルツェンはもっとも激しく軽 蔑し、嘲笑した。彼は一八四八年のうちくだかれた幻想への挽歌として書いた彼の政治的信条 告白(profession de foi)――『向こう岸から』の最も多くのページをこの問題 に捧げている。  『もし進歩がその目標ならば、われわれは一体誰のために働いているのでしょうか? 勤勉 な労働者たちが近づいてきた時に、彼らに褒美を与えるかわりにあとずさりして、「われら死 せんとする者君に礼す(morituri te salutant)」と叫びながら疲れ果てて死ぬ 運命にある群衆への慰めとして、お前たちの死んだあとの地上はすべてが素晴らしくなるのだ と嘲笑的に答えることしかせぬこのモロク神は、いったい誰なのでしょうか? はたしてあな たは現在生きている人びとに、いつかその上で他人が踊りを踊る床を支えている女神像柱とい う悲しい役割......あるいは膝まで泥につかりながら、「未来の進歩」というあわれな言葉をその 旗に書いた《はしけ》を曳く不幸な船漕ぎ奴隷たちの悲しい役割を与えることを、ほんとうに 望んでいるのでしょうか? ......無限の彼方にある目標は、目標ではないのです、単なる......まや かしにすぎません。目標はもっと近いものでなければなりません――少なくとも労働者の労働の 報酬とか、なされた仕事の中の喜びであるべきです。それぞれの時代、それぞれの世代、それ ぞれの生活がそれ自身の充足を持っていたのだし、現に持っているのです。そして、その途中 で新しい要求や、新しい経験や、新しい方法が発達するのです。......  それぞれの世代の目的は、それ自身です。自然は決してある世代をある未来の目標を達成す るための手段として作るのでもなければ、未来について配慮しているわけでもありませ ん。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.220-222,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

バーリン選集1 思想と思想家 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド

アイザイア・バーリン
(1909-1997)





社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

狂った知性による想像上の利益

社会の真の現実の構成分子である個人は、真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって、何か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印によって犠牲とされてきた。すべては狂った知性の 結果である。歴史、進歩、国民の安全、社会的平等、社会、国民、人間性など。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))















「これらの公式は、狂信的な空論家たちの手中にあっては恐るべき武器になってゆくのであ る。彼らはなにか絶対的な理想のために、もし必要ならば狂暴な生体解剖も辞せずにこれらの 公式を人間に押しつけようとしている。その絶対的理想の証明は批判もなされず、また批判も できない――形而上的で、宗教的で、美学的で、いずれにせよ現実の人間の現実的な必要に無関 係なある種の世界観に依拠している。その世界観の名において、革命的指導者たちは良心に苦 痛を感ぜずに人を殺し、拷問する。なぜなら、彼らはこの絶対的理想が、またはこの絶対的理 想のみが、社会的、政治的、個人的なあらゆる病の解決をもたらすか、またはもたらすに違い ないと考えていたからである。そして、ゲルツェンはこのテーゼを、大衆は才人を嫌い、すべ ての人間が彼らと同じように考えることを望み、また、思想や行動の独立にひどく懐疑的であ ると指摘して、トックヴィルやその他の民主主義の批判者たちによってわれわれが知っている 線にそって批判を発展させている。  『社会、国民、人間性、思想への個人の従属は、人身供養の継続です。......無実の者を有罪者 の代わりにはりつけ刑にすることです。......社会の真の現実の構成分子である個人は、常になに か一般概念、ある種の集合名詞、ある種の旗印、その他の犠牲とされてきました。何の目的で の......犠牲なのか、決して問われることはなかったのです。』  これらの抽象語――歴史、進歩、国民の安全、社会的平等――は注目に値する。なぜならそれら はすべて無実の人々が仮借なく犠牲に供されてきた非情な祭壇だからである。ゲルツェンはそ れらを順次検討する。  もし、歴史がゆるぎない方向性と合理的構造とひとつの目的(多分、有益な目的)を持って いるならば、われわれはそれらに合わせるか、あるいは逆らって滅びなければならない。しか し、この合理的目的とは何か。ゲルツェンはそれを認識できない。彼は歴史のなかに意味を見 ず、ただ「代々の慢性的狂気の」物語を見るだけである。  『事例を引用することは必要ないように思われます。数百万の例があるからです。あなたの お好きな歴史書をひもといてみなさい。すると驚くべきことには......真の利益の代わりに、すべ てが想像上の利益や空想によって占められています。血が流されたり、人々がひどい苦難を負 わされた理由を見つめなさい。何が称賛され、何が罰せられるかを見つめなさい。そうすれば あなたは、最初は悲しく見え、思い直せば慰めに充ちている真理――すべてこれは狂った知性の 結果であるという確信をもつでしょう。古代世界を見る時、あなたはいたるところで、現代に おけるのとほとんど同じように狂気がくりひろげられているのを見出すでしょう。』」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.216-217,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

一般的、普遍的なものは現実ではない

自然は計画に従わない。また、個人あるいは社会の問題を解決できる公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的な目標は決して真の目標ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値であり、一般的な目標のための抑圧は誤りである。(アレクサンドル・ゲルツェン(1812-1870))

















(a)自然は計画に従わない。
 自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。
(b)一般的な解決は解決ではない。
 単純化や一般化は経験の代用品ではない。
(c)普遍的な目標は決して真の目標ではない。
 すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。
(d) 絶対的価値としての個人の自由
 特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことは、すべての人々にとっての道徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧されるべきでない。


「この偉大な専制的ヴィジョン――時代の知的栄光――はドイツの形而上学的天才によって顕さ れ、礼賛され、無数の比喩や言葉のあやで美化され、フランス、イタリア、ロシアの深遠で、 もっとも尊敬された思想家たちによって喝采された。しかし、ゲルツェンはこれに対して激し く反逆した。彼はその基本的諸理念を拒否し、その結論を否定した。その理由は、それが彼に とって(彼の友人のベリンスキーにとってもそうであったように)道徳的に我慢ならないとい うだけでなく、それが知的な見かけだおしであり、審美的にけばけばしく、また自然をドイツ の俗物たちや学者ぶる連中の貧弱きわまりない空想の拘束用上着に無理におしこむ試みと思わ れたからであった。「フランスおよびイタリアからの手紙」『向こう岸から』「古い同志への 手紙」のなかで、ミシュレ、W・リントン、マッツィーニへの公開書簡のなかで、もちろん 『過去と思索』を通じて、彼は彼自身の倫理的および哲学的信念を宣伝した。それらのなかで もっとも重要なことは次のことである。自然は計画に従わない。原則として個人あるいは社会 の問題を解決できる鍵はひとつもないし、公式もない。一般的な解決は解決ではない。普遍的 な目標は決して真の目標ではない。すべての時代がそれ自身の性格と自己の課題をもってい る。単純化や一般化は経験の代用品ではない。特定の時間と場所での現実の個人の自由は絶対 的な価値である。自由な行為のための最小限度の余地をもつことはすべての人々にとっての道 徳的必要であり、それらは永遠の救済とか歴史とか人間性とか進歩とか、ましてや、国家とか 教会とかプロレタリアートなどといった抽象語もしくは一般的な原理の名において抑圧される べきでない。現代あるいは他のあらゆる時代において偉大な思想家たちによってかくも自由に 言いふらされたこれらの偉大な名目は、憎むべき残酷さや専制主義の諸行為を正当化するため にもち出されたものであり人間の感情や良心の声を窒息させるようにもくろまれた魔術的なき まり文句なのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ゲルツェンとバクーニン』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.211-212,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),今井義夫 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




どんな知識でも、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらし得るものではない。フランス啓蒙主義の指導者たちの科学への素朴な楽観主義に対して、モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚は、今日非常に有益である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

モンテスキューの思想の意義

どんな知識でも、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらし得るものではない。フランス啓蒙主義の指導者たちの科学への素朴な楽観主義に対して、モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚は、今日非常に有益である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)無知、蒙昧、野蛮、愚昧、真実の隠蔽、冷笑、人権の無視に対する闘い
 フランス啓蒙主義の指導者たち、科学を広めた偉大な人たちは、あらゆる種類の無知と蒙昧、とくに、野蛮、愚昧、 真実の隠蔽、冷笑、人権の無視にたいして公然の戦いをいどみ、人類に大きな貢献をしてき た。

(2)科学への素朴な楽観主義とその誤り
 どんな知識でも、技能でも、論理力で も、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらしうるものではないという事実 を、モンテスキューが非常にはっきりとみてとっていた。
 人間と社会に対する不十分な理論の典型的な考え方は、次のようなものだ。
 (a)人間についての科学
  事物の運動にかんする科学があるように、人間の行動にかんする 科学もありうるはずだ。
 (b)科学的方法への楽観主義
  科学の諸原理をつ かんだ者は誰でも、それを適用することにより、彼らが一致して目指していた全ての目標を 実現することができる。
 (c)統一的、一元主義的な世界観
  真理、正義、幸福、自由、知識、徳性、繁栄、 肉体的力と精神的力は、コンドルセが言ったように、互いに「ひとつの分かちがたい鎖 に」つながっている。少なくとも、互いに矛盾するものではない、そして社会生活 について新たに発見された科学的真理の絶対確実な諸原理に一致するよう社会を変えたなら、 これらすべての目標を実現することができる。
 (d)フランス革命の失敗の原因
  (i)理解不足か?
   新しい原理が正確に理解されていなかったか、その適用 が不十分であったかのいずれかだったからだ。
  (ii) 社会的、経済的原因か?
   別の原理が問 題解決の真の鍵である。例えば、ジャコバン派の純粋に政治的な解決は、問題を過度に単純化 しすぎている点が致命的であり、社会的経済的原因がもっと考慮されるべきであった。
  (iii)他の原理か?
   科学的解決を信じる人々は、何か他のもの、例えば階級闘争とか、コント的進化の原理とか、他のある種の本質的要素が無視されたのが理由であると考えた。

(3)モンテスキューの思想
 (a)用心深い経験主義
 「物事の結果のほとんどは、あまりにも不思議な方法で生じたり、知覚できない、遠い原因によっていたりするので、それをあらか じめ見通すことは、ほとんど無理である」。
 (b)法律を普遍的に適用することへの不信
  人々の「性向や性 癖」に最もよく適した政体が最良である。
 (c)人間の能力の限界に対する鋭い感覚
  我々にできることはただ、その目的が 何であれ、人間をできるだけ失望させないよう努力することである。
 (d)「恐るべき単純化をする人々」は知的に明晰であり道徳的に心が純潔であるからこそ、この誤りに陥ったように思われる。


「今日、明らかとなり、とくに有益と思えるのは、どんな知識でも、技能でも、論理力で も、社会問題について最終的で普遍的な解決を自動的にもたらしうるものではないという事実 を、モンテスキューが非常にはっきりとみてとっていたことである。フランス啓蒙主義の指導 者たち、科学を広めた偉大なひとたちは、あらゆる種類の無知と蒙昧、とくに、野蛮、愚昧、 真実の隠蔽、冷笑、人権の無視にたいして公然の戦いをいどみ、人類に大きな貢献をしてき た。彼らの自由と正義のための戦いは、彼らが自分たちの教義を完全には理解していない時でさえも、非常に多くのひとびとが、今日そのおかげで生きてゆけ、自由でいられるひとつの伝 統をつくりあげた。これら指導者たちの大多数(彼らの告発の論拠はそれほど反駁の余地のな いものであったが)はまた、事物の運動にかんする科学があるように、人間の行動にかんする 科学もありうるはずだ、と信じていた。そして、この人間の行動についての科学の諸原理をつ かんだ者は誰でも、それを適用することにより、彼らが一致して目指していたすべての目標を 実現することができる、これらすべての目標――真理、正義、幸福、自由、知識、徳性、繁栄、 肉体的力と精神的力――は、コンドルセが言ったように、たがいに「ひとつの分かちがたい鎖 に」つながっている、あるいはすくなくとも、互いに矛盾するものではない、そして社会生活 について新たに発見された科学的真理の絶対確実な諸原理に一致するよう社会を変えたなら、 これらすべての目標を実現することができる、と信じていた。  フランス大革命が、一夜にしてひとびとを幸福にそして有徳にすることができなかった時、 革命を支持した者の中には、それは、新しい原理が正確に理解されていなかったか、その適用 が不十分であったかのいずれだったからだと主張したり、これらの原理ではなく別の原理が問 題解決の真の鍵である、例えば、ジャコバン派の純粋に政治的な解決は、問題を過度に単純化 しすぎている点が致命的であり、社会的経済的原因がもっと考慮されるべきであった、と主張 したりする者もいた。一八四八年から四九年にかけて、これらの要素が十分考慮され、それで もやはり、結果は満足すべきでなかった時、科学的解決を信じるひとびとは、何か他のもの―― 例えば階級闘争とか、コント的進化の原理とか、他のある種の本質的要素――が無視されたから だと断言した。モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、 人間の能力の限界にたいする鋭い感覚といったものが、敢然と立ち向かっていくのは、まさに この種の「恐るべき単純化をするひとびと」にたいしてであって、彼らが知的に明晰であり、 道徳的に心が純潔であるからこそ、人間の行動にかんして彼らが想定した科学によって祭壇に 供えられた巨大な抽象の名において、彼らはますます容易に人類を幾度となく犠牲に供したよ うに思われたのである。もし、急進的な改革や反乱や革命が主張されるとすれば、それは、社 会体制のもたらす不正があまりにもたえがたきものとなり、それにたいして「自然が反対の叫 びをあげる」時である。しかしこうしたなりゆきは、つねに危険を伴うし、社会的結果を計算 にいれた絶対確実な方法により、物質的にも精神的にも安全を保証してもらうわけには決して いかない。人類の歴史は、とりわけフランスにおいて幾多の高邁な思想家たちを深く魅了した ような単純な法則によって影響されうるものではない。「物事の結果のほとんどは、あまりに も不思議な方法で生じたり、知覚できない、遠い原因によっていたりするので、それをあらか じめ見通すことはほとんど無理である」。だから、われわれにできることはただ、その目的が 何であれ、人間をできるだけ失望させないよう努力することである。ひとびとの「性向や性 癖」に最もよく適した政体が最良である。立法に際しては、なによりも、何がどういう結果を もたらすかについての判断が必要であり、この判断力は、経験もしくは歴史によってのみみが くことができる。なぜなら、法律と、人間性および人間の意識と相互作用をもつ人間の諸制度 との関係は、きわめて複雑であって、単純で小ぎれいな体系でははかり切れないからである。 時代を無視した規則をきびしく押しつければ、結果はつねに流血に終わるものである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『モンテスキュー』,収録書籍名『思想と思想家  バーリン選集1』,pp.195-198,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),三辺博之(訳)) 

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月31日月曜日

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

マキアヴェッリの所説の意義

価値の一元主義的信念は誤りであるだけでなく、熱狂主義、強制、迫害を正当化しやすい。価値多元主義が現実の真実である。マキアヴェッリの所説の意義は、この真実を示したことにある。価値多元主義は、経験主義、寛容、妥協へ の道の拓く。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)一元主義的信念は熱狂主義、強制、迫害を正当化する
 一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。
(b)以下のような一元主義的信念は誤り
 (i)われわれの病弊に対する最終的回答があり、それに至る道があるはずだ。
 (ii)われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能である。
 (iii)全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは、技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためである。
(c)価値多元主義が現実の真実である
 (i)全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならない。
 (ii)ある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかったが故にこうした生き方を選ぶとしよう。 
(d)経験主義、寛容、妥協へ の道
 同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ない。


「マキアヴェッリ以後、全ての一元主義的思想建築物は疑いの目をのがれることはできなく なった。どこかに隠れた宝――われわれの病弊に対する最終的回答――があり、それに至る道があ るはずだ(それというのも、こうした答は原則として発見可能であるはずであるから)といっ た確実性の意識、それと違ったイメージを用いていえば、われわれの信念や習慣の形作る断片 ははめ絵の一片であり、従ってそれは原則的に解決可能であり(そのことはア・プリオリに保 証されているので)、全ての利益の調和が実現する回答を発見するのに成功していないのは技 術が乏しいか、愚かであるか、不運であるためであるという信念、こうした西欧政治思想の基 本的な信念は激しく動揺するに至った。確実性を求める時代にあって、『君主論』と『論考』 を説明しよう、あるいは釈明しようとする無限の試み――それはかつてよりも今日の方が多い―― が確かに見られるが、その理由はこれで十分説明されるであろう。  これはマキアヴェッリの所説に含まれる消極的な帰結である。しかし実は積極的帰結、マキ アヴェッリを驚かせ、恐らく不愉快にする積極的帰結も存在している。一つの理想が真の目的 である限り、常にいかなる手段も困難すぎることはなく、いかなる犠牲も高すぎることはない ように思われ、人間は究極的目的の実現のために必要なあらゆることをすると考えられる。こ うした確実性の意識こそ、熱狂主義、強制、迫害を正当化するのに与かって力のあるものの一 つである。しかももし全ての価値が互い一致することなく、それぞれの価値のあるがままの姿に基づいて選択しなければならず、ある価値を選ぶのはそれがある単一の基準との関連でより 高次のものとされるからではなく、そのあるがままの姿の故であるとしよう。またある生活を 信ずるが故にそうした生活様式を選び、またそれを当然と考えるが故に、あるいは吟味の結 果、われわれは他の形の生き方をする道徳的心構えができていないことがわかった(他の人々 は違った選択をするとしても)が故にこうした生き方を選ぶとしよう。合理性や計算が適用さ れうるのは手段や従属的目的についてであって、決して究極目的についてではない、としよ う。ここの現れてくるのは、人間にとって唯一の善があるという古い原理の下に構築された世 界とは全く違った世界である。  もしパズルの答えが一つだけしかないならば、そこで問題になるのは、第一にそれをどのよ うにして見い出し、次にどのような形で実現し、最後に説得や力によっていかに他の人々がそ の答えを信奉するようにするか、だけである。しかしもしパズルの答えが一つでないならば (マキアヴェッリは二つの生き方を対比したが、しかし狂信的一元主義者を除けば、二つ以上 の生き方があり得るし、かつあることは明らかである)、経験主義、多元主義、寛容、妥協へ の道が開かれる。寛容は歴史的に見て、同じような独断的信仰が和解できないこと、一方の他 方に対する完全な勝利が実際上あり得ないことが意識された結果として生じた。生き延びよう と欲する人々は誤りを寛容しなければならないことを知った。彼らは徐々に多様性に価値を認 めるようになり、人間の世界の事柄について確定的な解決があるという立場に対して懐疑的と なった。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『マキアヴェッリの独創性』,収録書籍名『思想と思 想家 バーリン選集1』,pp.81-83,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),佐々木毅 (訳))

バーリン選集1 思想と思想家 岩波オンデマンドブックス 三省堂書店オンデマンド


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月15日土曜日

18.非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

普遍的な道徳律

非常に多くの国で、非常に長い期間にわたって非常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律が存在する。これを認めると、それによって他の人々と一緒に生きることが可能になる。仮に、異なる文化、異なるものの見方、異なる直感を持った人々でも、理解することはできるだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



 「―――しかし、あなたは普遍的な道徳的価値を信じるのですか。  
バーリン 
そうです、ある意味では。私は、非常に多くの国で非常に長い期間にわたって非 常に多くの人々が生きる基準にしてきた道徳律を信じています。この道徳律を認めること、そ れによって他の人々と一緒に生きることが可能になります。

しかし、あなたが「絶対的な道徳 律」と言われるなら、私は「どうしてそれが絶対的になっているのか」、「それは何を根拠に してか」と問い返さねばなりません。そして先験的なものに再び帰っていくことになります。 

普遍的というのが道徳律の直感的確実性という意味なら、私はある種の直感的確実性を感じて いると思います。しかし、誰か他の人はまったく違ったものの見方と直感の体系を持っている とあなたが言われるなら、私はそれが理解不可能なものでない限りは、その誰かがどのように してその価値を持つに至ったかを把握できるよう努めるでしょう。

その文化が私の文化に危険 をもたらすようなことがあるとすれば、その文化から我が身を守らねばならなくなるとして も、理解しようとするでしょう。

現実に人間と人間のものの見方はヘルダーの思っていたのよ りははるかによく似ており、文化は例えばシュペングラー、さらにはトインビーが主張してい たのよりもはるかに大きく互いに似かよっていると、私は信じています。

しかし文化はやはり 違っており、互いに和解できないものかもしれません。しかし私は、自分には絶対的な道徳律 を探知する能力はないことは、はっきり判っています。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第3の対話 政治思想――時の試練,道徳と宗教,pp.162-163,みすず書房(1993), 河合秀和(訳))


17.権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

政治哲学とは

権力の問題は、観察、歴史分析、社会学的調査によって解決される経験的な問題であるが、政治哲学の対象はこれだけではない。それは本質的には、社会状況に適用された道徳哲学であり、人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

 
 「―――何が政治哲学の課題であると思いますか。  
バーリン
 人生の目的を検討することです。政治哲学は本質的には社会状況に適用された道 徳哲学です。この社会状況には、もちろん政治組織、個人の共同体・国家に対する関係、共同 体と国家相互の関係などを含んでいます。

政治哲学は権力についての哲学だと、人は言いま す。私は反対です。権力は純粋に経験的な問題で、観察、歴史分析、社会学的調査によって解 決される問題です。

政治哲学は人生の目的、人間の社会的、集団的目的を検討します。政治哲 学の仕事は、さまざまな社会的目標のもとに打ち出されてくるさまざまな主張の有効性を、こ れらの目標を特定し達成するための方法の正当性を検討することです。

すべての哲学研究と同 様、これらの見解の枠組になっている言葉と概念を明確にして、人々が自分の信じているのは 何なのか、彼らの行動が何を表現しているのかを理解できるようにします。

それは、人間が追 求しているさまざまな目的にたいする賛成反対の議論を評価し、先に私がマクミランを回想し て引用した「馬鹿げたことを言」わせないようにします。

これが政治哲学の仕事であり、それ はいつもそうでした。真の政治哲学はこれをやらないで済ます訳にはいきません。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,理想の追求,p.75,みすず書房(1993), 河合秀和(訳))


16.各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




 「―――自由について話すとなると、まずあなたが積極的自由と消極的自由の間に引いた区別 を、あなた自身の口から説明したいただけませんか。

バーリン
  二つの別々の問題があります。一つは、「私にはいくつのドアが開いているか」 もう一つは、「誰がここの責任者か、誰が管理しているのか」です。この二つの問題はからみ 合ってはいるが、同じ問題ではありません。別の答えを必要としているのです。

私にはいくつのドアが開いているのか。消極的自由の範囲という問題は、私の前にどのような障害があるか にかかっています。他の人々によって――故意にか間接的にか、意図的でなく制度的にか――私が 何をするのを妨害されているのかという問題です。

もう一つの問題は、「誰が私を統治してい るのか、他の人が私を統治しているのか、それとも私が自分を統治しているのか。もし他の人 が統治しているとすれば、いかなる権利、いかなる権威によってか。

もし私が自己支配、自治 の権利を持っているとすれば、私はこの権利を失うことができるのか、放棄できるのか。また 取り返せるのか。どのようにしてか。誰が法を作るのか、あるいは誰がそれを執行するのか。 私は協議に参加できるのか。多数が統治しているのか。何故そうなのか。それとも神が、聖職 者が、政党が統治しているのか。それとも世論の圧力なのか。伝統の圧力なのか。いかなる権 威によってなのか。」

それは別の問題です。両方の問題、それに付随する問題は、それぞれに 中心的な問題、正統な問題です。両方に答えねばなりません。

私は、積極的自由に反対して消 極的自由を擁護し、消極的自由の方が文明社会に相応しいと主張したという嫌疑をかけられて いますが、その理由は唯一つ、積極的自由という観念――もちろん、まともな生存のためには本 質的に必要なものです――の方が消極的自由の観念よりも悪用ないし歪曲されることが多かった からという理由です。

二つとも真の問題であり、避ける訳にはいきません。そして、この二つ の問題にたいする答えが社会の性質――それが自由主義的か権威主義的か、民主的か専制的か、 世俗的か神政的か、個人主義的か共同主義的か等々を規定します。

二つの自由概念は、政治 的、道徳的にねじ曲げられて逆のものに変えられてきました。

この点では、ジョージ・オー ウェルが見事です。「私があなたの真の願望を表明する。あなたは、自分が何を望んでいるか 自分で知っていると思っているかもしれないが、私、指導者、われわれ、共産党中央委員会 は、あなたが自分で知っているよりもあなたのことをよく知っており、あなたが自分の「真 の」必要を認識するならば、あなたの欲するものを与えよう。」

虎と羊にとって、自由は平等 でなければならぬ、虎が羊を喰うことができるようになっても、そこで国家の強制を発動して はならぬというのなら、これは避けられない事態なのだと言い出してしまうと、消極的自由が ねじ曲げられることになります。

もちろん、資本家にとっての無制限の自由は労働者の自由を 破壊し、鉱山所有者や親の無制限の自由は子供を鉱山労働に使うのを許すでしょう。弱者を強 者に対して守らねばならないし、その限りで自由を制限しなければならない、これは確実なこ とです。

積極的自由を充分に実現しなければならないとすれば、消極的自由を制限しなければ なりません。

この二つの間にバランスがなければなりませんが、このバランスについては何か 明確な原理を打ち出すことはできません。

積極的自由、消極的自由は、ともに完全に有効な概 念ですが、歴史的に見て現代世界ではインチキ積極的自由の方がインチキ消極的自由よりも大 きな損害をもたらしてきました。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,二つの自由概念,pp.66-68,みすず書房 (1993),河合秀和(訳))


2019年11月5日火曜日

2.異なる文化への嫌悪、非難の感情そのものが、異なる文化に対する我々の想像力と、共感による理解、洞察力、感情移入の能力の存在を証明する。人々がなぜ、その思想、感情を抱き、その目標を追求するのかを理解すること。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

異なる文化の理解

【異なる文化への嫌悪、非難の感情そのものが、異なる文化に対する我々の想像力と、共感による理解、洞察力、感情移入の能力の存在を証明する。人々がなぜ、その思想、感情を抱き、その目標を追求するのかを理解すること。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(3.1)(3.2)追記。

(1)歴史的決定論は、誤りである。
 (a)人間は、歴史の目的や説明を求める。
 (b)もちろん、個々人や国民の生活の形成を決定していく、大きな非人格的な要因は存在する。
 (c)しかし、歴史の法則というものには、あまりにも多くの明白な例外と、逆の事例が存在する。
(2)個々人の決断と行為が歴史をつくる。
  我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互いに矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 様々な要因が多少とも均等にバランスしている時において、大抵は予測することができない偶然や、個々人の決断や行為が、歴史の進路を決定するというような決定的な瞬間、転換点が存在する。
(3)我々は、多様な文化の中に生きている。
 (3.1)我々は、時間と空間を超えた、我々とは大きく異なった文化に生きる人々を理解できる。
  (a)異なる文化の人々の生き方が、ときには嫌な感情を喚起したり、非難したくなるような場合もある。
  (b)しかしこの事実は、我々には共感による理解、洞察力、感情移入の能力があり、異なった文化に生きる人々を理解できるということを示している。
  (c)文化は、新規で予想もされないような世界観を持っており、互いに矛盾しているような場合もあることを理解すべきである。
 (3.2)文化は、思想、感情、態度、行動の特殊な形態に影響を与える。
  (a)文化は、世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚に影響を与える。
  (b)人々が、なぜその思想を考えるのかを理解すること。
  (c)人々が、なぜその感情を感じるのかを理解すること。
  (d)人々が、なぜその目標を追求し、その行動を行うことができるのかを理解すること。

 「―――あなたが個々人の目標の間の対立について語る時には、ヴィーコの思想にもとづいてその議論を打ち出しているのですか。 

 バーリン ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。
 
ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。 

人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。

われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。

このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
(索引:異なる文化の理解,想像力,共感による理解,洞察力,感情移入)

ある思想史家の回想―アイザィア・バーリンとの対話


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年11月3日日曜日

1.我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互いに矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

多様な文化と歴史をつくる力

1【我々は、多様な文化の中に生き、思想、感情、態度、行動はその影響を受け、また文化は互いに矛盾する場合もある。このような文化の中に生きる諸個人の決断と行為、予測できない偶然が歴史を作っていく。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)歴史的決定論は、誤りである。
 (a)人間は、歴史の目的や説明を求める。
 (b)もちろん、個々人や国民の生活の形成を決定していく、大きな非人格的な要因は存在する。
 (c)しかし、歴史の法則というものには、あまりにも多くの明白な例外と、逆の事例が存在する。
(2)個々人の決断と行為が歴史をつくる。
 様々な要因が多少とも均等にバランスしている時において、大抵は予測することができない偶然や、個々人の決断や行為が、歴史の進路を決定するというような決定的な瞬間、転換点が存在する。
(3)我々は、多様な文化の中に生きている。
 (a)文化は、新規で予想もされないような世界観を持っており、互いに矛盾しているような場合もある。
 (b)文化は、世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚に影響を与える。
 (c)文化は、思想、感情、態度、行動の特殊な形態に影響を与える。

 「―――近代の思想家の中では、あなたは特にヴィーコとヘルダーに注目しています。あなたの歴史についての考え方はこの二人の思想家からもっとも大きな影響を受けていると考えて、正しいでしょうか。

 バーリン ヴィーコとヘルダーについてあなたの言ったことはその通りですが、私は歴史についてあまり多くのことを自分で考えたとは思っていません。私は、本来の意味での歴史哲学者ではないのです。

私は多元主義を信じ、歴史的決定論を信じていません。決定的な瞬間、いわゆる転換点、さまざまな要因が多少とも均等にバランスしている時には、偶然、個人、個々人の決断と行為――これら必ずしも予測できないもの、むしろ大抵の場合には予測できないもの――が、歴史の進路を決定できます。

私は「歴史の筋書」があるとは思っていません(この言葉はゲルツェンが使ったものですが、彼は歴史を何幕かのドラマ――神や自然の作ったテーマのあるお芝居、はっきりした模様のあるカーペット――だとは思っていません)。マルクスとヘーゲルは、歴史は一つのドラマだと信じていました。何幕かが連続し、おそらくは大変動があった後に、マルクスにおいては激しい衝突と苦難と災厄の後に天国への門が開き、最後の大団円が来て、そこで歴史は止まり――マルクスのいう人類の前史です――、それからはすべてが永遠に調和し、人々は合理的な協力関係を結ぶことになるのです。

ヴィーコとヘルダーは、そのようなタイプのことはほとんど言っていません。二人はいくつかの型があると考えており、特にヴィーコはそうでしたが、大団円のある芝居があるとは思っていません。

思うに私の歴史観はヘーゲル、マルクス、この二人の支持者の著作を読み、彼らの議論はまるで納得できないと思ったことから始まっています。その他の型の発見者――シュペングラー、トインビー、そしてプラトン、ポリビウスに始まる彼らの先行者――についても、同じことを感じています。もちろん、人間はいつもこのタイプの歴史の目的、歴史の説明を求めるものです。しかし私には、事実はそれを証明していない、法則はあまりにも多くの明白な例外と逆の事例のために破られているように思えるのです。 

私はブローデル、E・H・カー、現代マルクス主義者の著作をよく読み、彼らの議論がどんなものか、歴史決定論者がどんなことを信じているかを承知しています。

個々人や国民の生活の形成を決定していく大きな非人格的な要因はもちろんあるでしょうが、だからといって、歴史は高速自動車道路のようなもので、大きく逸れていくことなどあり得ないということにはならないと思います。

私は、ヴィーコとヘルダーが文化の多元性を信じたことに、興味を持っています。それぞれの文化にはそれ自身の重心がある――多様な文化があり、それぞれに異なった、新規で予想もされなかった世界観と矛盾した態度を持っているという見方です。

ヴィーコは、文化――世界がそれぞれの社会にとって何を意味するかという感覚、他の人々、環境にたいする関係で普通の男女が自分自身について持っている感覚――思想、感情、態度、行動の特殊な形態を定めていくもの――、つまり文化はそれぞれに異なっているということを理解していたと思います。彼以前には誰も理解していなかったことです。ヴィーコは文化の違いを時代で区別しました。

ヘルダーは別の時期に登場した文明という観点だけでなく、同時代のさまざまな国の文明という観点から区別しました。このことが、歴史はきちんとした直線を描いて進むものではないという私の考えを強化してくれました。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.57-59,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
(索引:歴史決定論,多様な文化)

ある思想史家の回想―アイザィア・バーリンとの対話


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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