2024年4月21日日曜日

24. 人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。 (チャールズ・カーバー、マイケル・シャイアー)ジョナサン・H・ターナー(1942-)



「カーバーとシャイアーは、感情が行動調整にとって重要であるとする考えに同意しない。

彼らは感情的要因よりもむしろ情報が自己調節を導いていると論じる。

不一致減少に向けたさらなる努力が成功を収めると信じているなら彼らは継続するだろう。もし人びとが不一致減少に向けた努力が不成功に終わると思っていると、彼らは撤退し、止めてしまうだろう。

しかし撤退することもままならないことがある。とくにその目標が個人の自己定義の中心に位置している場合がそうである。人びとは止めることもできず、そしてなお不一致を経験すると、彼らはしばしば憂鬱になる。

つまりカーバーとシャイアーは、不一致の現前そのものがいつも不快(否定的情動)を人びとのうちにつくりだすとは考えていない。むしろ否定的な気持ちは、個人が不一致を減らせないと確信する場合だけに生じる。そうであるとすると、その個人は自己目標の優先順位を入れかえるだろう。

つまり人びとがどのように感じ、そして何をするかに影響をおよぼすのは、その不一致が減少できるかどうかについての彼らの期待である。  

最後にカーバーとシャイアーは、感情は不一致減少のフィードバック・ループから生じるだけでなく、個人が特定の結果を避けようと試みる不一致拡大のフィードバック・ループからも生じると議論している。

その目標に近づこうとする行為よりも、むしろある個人の行動は基準あるいは準拠している価値から離れる動きを起こそうとするかもしれない。」(中略)  

「不一致減少のループでは、個人は目標を達成しようとつとめる。そして個人が望ましい目標に近づくほど、喜びなどの肯定的感情がますます出現する。

不一致拡大のループでは、個人は目標を避けようとつとめ、そして個人がそうすることに成功するほど、安堵のような感情が生じやすくなる。  

カーバーとシャイアーのアプローチとヒギンズの情動理論のあいだには、いくつかの興味深い相違が見いだされる。

ヒギンズにとって、感情は自己の二つの表象間の不一致の関数である。これに対して、カーバーとシャイアーにとって、感情は目標に向う速度の関数である。

たとえばカーバーとシャイアーにとって、不一致があっても個人が目標へ向けて速い速度で進行していると感じるかぎり、否定的より肯定的な感情が経験される。  

もう一つの相違は、ヒギンズ理論は否定的感情に焦点を合わせる傾向が見られるが、カーバーとシャイアーは肯定的ならびに否定的感情に等しく注目している。

さらに、両者の理論のあいだにあるもう一つの相違は、道徳指令、すなわち「理想的」と「当為的」がどのように概念化されるかと関係する。理想は不一致減少のループを取り扱うのに対して、当為は不一致減少のループ(肯定的目標の実現に向けた運動)および不一致拡大のループ(反目標からの逃避)の両方を示唆している(Carver and Sheier,1998)。

カーバーとシャイアーにとって、もし個人が回避ループで十分に進展できなかったならば、経験される不安の水準は、肯定的目標に向う運動が実現されないときと同程度であろう(ヒギンズモデルはこの点を強調している)。  

カーバ-とシャイアーのモデルの強みは、「怖がる自己」「望ましくない自己」「あってほしくない自己」と見なされるものから出現する感情に注目していることである。」

 
望ましい目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標に向う展開
不一致減少なし
不一致減少
憂鬱
望ましい目標 標準より速い速度で目標に向う展開 不一致減少 高揚/喜び
望ましくない目標 目標に向けた展開なし
標準を下回る速度で目標から遠ざかる展開
不一致拡大なし
不一致拡大
不安
望ましくない目標 標準より速い速度で目標から遠ざかる展開 不一致拡大 安堵
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第4章 象徴的相互作用論による感情の理論化、pp.273-276、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月19日金曜日

29 約束することのできる動物を育成するというあの課題(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)


約束することのできる動物を育成するというあの課題(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)


「まさにこれこそは《責任》の由来の永い歴史なのである。

約束することのできる動物を育成するというあの課題は、われわれがすでに理解したごとく、その条件や準備として、まずもって人間を或る程度まで必然的な、一様な、同等者たちのあいだで同等な、規則的な、したがってまた算定可能なものと《する》というより差し迫った課題を含んでいる。

私が〈習俗の倫理〉と呼んだもののあの巨大な作業(『曙光』九節、一四節、一六節参照)―――人類のもっとも長きにわたった期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、人間のあの《前史的な》作業の全体は、たとえその内にどんなに多くの冷酷、暴虐、遅鈍、痴愚が宿っているにしても、右の課題に関する点でその意義をもち、立派に申し開きが立つものとなる。

それというのも、人間は習俗の倫理と社会的拘束の緊衣とのおかげで本当に算定しうるものと《された》からである。

しかるに、もしわれわれがこの巨大な過程の終点に立ってみるならば、すなわち樹木がついにその実を結び、社会とその習俗の倫理がそれの手段にすぎなかった当の《目的》がついに実現される地点に立ってみるならば、そのときわれわれは、その樹のもっとも熟した果実として《主権者的な個体》を見いだすであろう。

これこそは自己自身にのみ等しい個体、習俗の倫理からふたたび解き放たれた個体、自律的にして超倫理的な個体(というのも〈自律的〉と〈倫理的〉とは相容れないから)、要するに自己固有の、独立的な、長い意志をもつ《約束のすることのできる》人間である。

―――そして彼の内には、ついに達成されて彼自身それの化身となった《そのもの》についての、全筋肉を震わせるほどの誇らかな意識が、真の権力と自由との意識が、人間そのものとしての完成感情が見られる。

真実に約束することの《できる》この自由となった人間、この《自由なる》意志の支配者、この主権者、―――この者が、かかる存在たることによって自分が、約束もできず自己自身を保証することもできないすべての者に比して、いかに優越しているかを、いかに多大の信頼・多大の恐怖・多大の畏敬を自分が呼びおこすか―――彼はこれら三つのものすべての対象となるに〈値する〉―――を、知らないでいるはずがあろうか?

 同時にこの自己に対する支配とともに、いかにまた環境に対する支配も、自然および一切の意志短小にして信頼しがたい被造物どもにたいする支配も、必然的にわが手にゆだねられているかを、知らないでいるはずがあろうか? 

〈自由なる〉人間、長大な毀たれない意志の所有者は、この所有物のうちにまた自己の《価値尺度》をもっている。

彼は自己を基点にして他者を眺めやりながら、尊敬したり軽蔑したりする。彼は必然的に、自己と同等な者らを、強者や信頼できる者ら(約束することの《できる》者たち)を尊敬する、

―――要するに主権者のごとくに重々しく、稀に、ゆったりとして約束する者、容易には他を信頼せず、ひとたび信頼したとなれば《これを賞揚する》者、おのれの一言を災厄に抗してすら・〈運命に抗して〉すらも守りぬくほど十分に自分が強いことを知るがゆえに、頼むに足るだけの言質を他に与える者、こうしたすべての者を尊敬するのである―――。

同様にまた必然的に彼は、できもしないのに約束する法螺吹きの痩犬どもを足蹴にすべく身構えるだろうし、舌の根の乾かぬうちにはやくもその約束を破る虚言者どもに懲戒の笞を振るうべく身構えるであろう。

《責任》という格外の特権についての誇らかな自覚、この稀有な自由の意識、自己と命運とを支配するこの権力の意識は、彼の心の至深の奥底まで降り沈んでしまって、本能とまで、支配的な本能とまでなっているのだ。

―――もし彼にしてこれを、その支配的な本能を、一つの言葉で名づける必要に迫られるとすれば、これを彼は何と呼ぶであろうか? 疑いの余地もなく、この主権者的な人間はこれを自己の《良心》と呼ぶ・・・」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『道徳の系譜』第二論文〈負い目〉、〈良心の疾しさ〉、およびその類いのことども、二、ニーチェ全集11 善悪の彼岸 道徳の系譜、pp.425-427、[信太正三・1994]) (索引:約束することのできる動物)

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

2024年4月17日水曜日

11. もし君が特定の個人を攻撃するばあい、その人物の祖国や家族や親類のことを悪くいってはならない。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 もし君が特定の個人を攻撃するばあい、その人物の祖国や家族や親類のことを悪くいってはならない。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 「もしやむにやまれず、あるいは腹にすえかねて、どうしても他人にむかってひどいことを言わなければならないようなときには、すくなくともその当人だけの気にさわることを口にするだけに止めておくように注意したまえ。

たとえば、もし君が特定の個人を攻撃するばあい、その人物の祖国や家族や親類のことを悪くいってはならない。

それというのも、たった一人の特定の人間を攻撃しようとして、多くの人々を怒らせるなど愚の骨頂だからである。」

(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)、『リコルディ』C、八 他人を非難する方法、フィレンツェ名門貴族の処世術、p.52、[永井三明・1998])


フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



2024年4月16日火曜日

16. ノーマル・アクシデント(高木仁三郎(1938-2000)

ノーマル・アクシデント(高木仁三郎(1938-2000)

 「この種の事故のパターンが、なぜ現代の巨大システムには、現れやすいのか、ということが問題になる。この問いに対する答えには、エール大学の社会学者チェールズ・ペロウが示唆を与えてくれた。彼の著『ノーマル・アクシデント』に従って、しばらく彼の考えを述べてみよう」。

 「彼は現代の巨大システムにおける事故を、ポカとかミスとか何かしら信じられないようなことによってもたらされる、偶然的なものとはみない。

あるいは、そのシステムにとって外在的なものとはみない、と言ってもよいかもしれない。

彼は事故はシステムそのものが生み出すもの、いわばシステムに内在し、システムの営みそのものとして生み出されてしまうものとみる。

 その意味で、彼はノーマル・アクシデントという言葉を使う。ノーマル(通常、正常)なアクシデント(事故)とは、そもそも矛盾した表現である。アクシデントとは、そもそも異常(反ノーマル)な事態のはずだから。

しかし、まさにノーマル・アクシデントという捉え方こそが必要だと彼は力説する。同じことだがシステム・アクシデントという言葉も使われている。」

 「さて、ペロウが現代システムの重要な特徴として第一にあげるのが相互作用性( interactiveness )ということである。相互作用というのは、ひとつのシステムのいろいろな部分とかあるいはさまざまな機能が相互に関連していて作用しあうということである。」

 「現代のシステムは、巧妙に高度な機能が組み込まれているだけに、複雑な相互作用を起こす。こういう性質を称して、ペロウは「高い相互作用性をもつ」と呼び、そういうシステムは、共倒れを起こしやすいとしている。私は、将棋倒しにこそなりやすいのではないかと思う。

 右のような機能的な複雑さと直感的なわかりにくさというだけでなく、相互作用の強さにはさまざまな原因があるとして、ペロウはたとえば、近接性ということをあげている。

 現代の巨大プラントでは、機能性と空間の有効利用を考え諸機能を空間的にきわめて近接してコンパクトに作るように配置する。ところがそんなシステムの一ヵ所で爆発があるとすぐに他の部分も損傷する。火災も同様で、ラアーグ再処理工場の火災のケースがまさにそうだった。

この「近接性」も、本来設計者が予期しなかったような相互作用の原因となり、共倒れや将棋倒しにもつながることは容易に理解できよう。

 私がさらに付け加えれば、原発事故では放射能が、化学工場の事故では化学毒物が、事故の初期に漏れ始めると、これが制御室を襲ってくることがある(実際スリーマイル島事故でもチェルノブイリの事故でも制御室は危機になった)。これもひとつの「複雑な相互作用」で、そうなったら混乱は増幅される。

 もうひとつ付け加えておくと、システムが全体として複雑になるにつれて、構成各要素間の予期せぬ相互作用の可能性は飛躍的に増えるだろう。

その観点から言うと、安全装置を何重にも多く装備することで、システムは必ずしも安全性を増さないのである。むしろ、複雑になった分だけ、事故が起こりやすくなるかもしれない。ここに、安全装置が決して万能でない理由がある。」

 「もうひとつのペロウの重要な概念は、「緊密さ( tightness )」ということだ。現代の先端的システムはどれも非常に緊密( tight )につくられていて遊びがない。

ある圧力とか温度とか定められた範囲にきわめて近いところで運転され、それを少しはずれるととたんに事故になるようにつくられている。遊びのたくさんある自転車の運転とはわけが違う。

 もちろんある程度の余裕ということは安全上から現代のシステムでも必要とされるが、その幅はきわめて小さい。たとえば、原発で制御棒を誤って引き抜いてもよい本数はたかだか一本である。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第九巻 市民科学者として生きるⅢ』巨大事故の時代 第七章 事故はなぜ起きるか、pp.123-127)




2024年4月15日月曜日

18. サプライサイド経済理論(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

サプライサイド経済理論(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「1980年代には、その前の10年間に発展したサプライサイド経済理論の影響下で、保守的なイデオロギーと特別利益団体に駆り立てられたアメリカの政策立案者たちが経済を自由化しはじめた。

さらに、国は最富裕層と資本収益に対する税率を引き下げた。

そして1990年代には、キャピタルゲイン課税がさらに引き下げられた。今世紀初めには、最高税率、キャピタルゲイン課税、配当金課税のさらなる引き下げが行なわれた。

これらはすべて、労働と貯蓄をさらに促進するためとされた。減税すれば成長が拡大し、すべての国民が利益を得られるというのが前提だった。

レーガン大統領は、成長が著しく拡大し、税収も増えるだろうと論じたが、結果は思わしくなかった。期待されたサプライサイドの反応は現れず、税収は減り、成長は鈍って経済はさらに不安定になったのだ。

 

 ※サプライサイド経済理論 Supply-side economic theories

 経済の供給側(サプライサイド)を増大させることに焦点をあてる理論――たとえば、事業や投資家のためにさらに有利な条件を設けたり、減税が大きな労働力の供給を引き出すことを期待して労働者に対する税率を引き下げたりする。

需要に焦点をあてるケインズ学派とは対照的な理論。

サプライサイド理論は、税率の引き下げと事業に対する規制緩和でインセンティブを高めれば、労働や投資や起業の増加につながり、さらには雇用や所得や税収の上昇というトリクルダウン効果をともなって力強い成長につながると想定した。

予測ははずれ、この理論は経済学者たちからの信用をほぼ失うことになったが、一定の保守的な政治家や理論家のあいだでは今も好まれている。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.43-44,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))

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(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)








持続可能かつ公平な成長を取り戻す(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)


持続可能かつ公平な成長を取り戻す(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「持続可能かつ公平な成長を取り戻す

 ①公共投資にもとづく成長政策。

 トリクルダウン経済がうまく機能しない理由はすでに説明した。成長は自動的に万人に恩恵をもたらすわけではないが、貧困によって引き起こされる事象をふくめ、きわめて扱いが難しい問題の一部に対して、解決のために必要なリソースを提供してくれる。いま現在、アメリカとヨーロッパ諸国が直面している最重要問題は、需要の不足だ。しかし、やがて総需要が回復を遂げ、アメリカの資源をフル活用できるようになれば(すなわち、アメリカが本来の機能を取り戻せば)、今度は供給側が新たな制約要因となるだろう。もちろんこれは、右派の主張するサプライサイド経済学の時代が来ることを意味しない。投資を行なわない企業の法人税率を上げ、投資と雇用創出を行なう企業は下げる、という政策を導入すれば、財界の一部が求める一律の減税より、高い確率で経済成長を実現することができるはずだ。

 右派の主張するサプライサイド経済学は、とりわけ法人税にかんして租税インセンティブを過大評価する一方、ほかの政策の重要性を過小評価してきた。政府の公共投資――インフラと教育と技術への投資――は、前世紀の成長を下支えしてきており、今世紀においても成長の基盤となる潜在性を秘めている。将来的に公共投資は経済を拡大させ、民間投資の魅力をさらに向上させることとなるだろう。経済歴史学者のアレックス・フィールズが指摘したように、1930年代と40年代と50年代と60年代は、前後の数十年間と比べても、生産性の伸び率が高いという特徴を持っており、その成功の大部分は公共投資に由来していたのである。

 ②雇用および環境を維持するための投資とイノベーションの方向転換。

 わたしたちは投資とイノベーションの方向性を、労働節約(現状では雇用喪失の婉曲な言いまわし)から資源節約へ転換させなければならない。これは簡単な作業ではなく、駆け引きが必要となってくるだろう。たとえばイノベーションの領域では、政府の資金で基礎・応用研究を振興する政策と、環境被害の賠償責任を100パーセント企業に負わせる政策を、同時に進めればいい。おそらく企業には資源節約のインセンティブが働き、労働者のリストラ一辺倒の姿勢を変えられるはずだ。現在のような一律の低金利政策は、低熟練労働者を機械に置き換える働きを助長しているため、投資税額控除を通じて投資を奨励する手法に切り替えたほうがいいだろう。控除の適用は、投資が資源節約と雇用維持を実現する場合にのみ認め、それらが破壊される場合は認めてはならない。

 わたしが本書を通じて強調してきたとおり、重要なのは成長そのものではなく、どのような成長がもたらされるかという点だ(成長の質と言い換えてもいい)。大多数の個人の暮らし向きを悪化させ、環境の質を低下させ、人々に不安感と疎外感を抱かせるような成長は、わたしたちが追い求めるべきものではない。市場の力をより良く形作ることと、集めてきた税金を成長促進と社会の福祉向上に使うことが、矛盾しないという事実は、わたしたちにとって朗報と言える。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.405-407,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳


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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


新たな社会契約(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

新たな社会契約(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「新たな社会契約

 ①労働者と市民の集団行動の支援。

 ゲームのルールは各参加者の交渉力に影響を与える。アメリカがつくり出したルールは、資本家に対する労働者の交渉力を弱め、結果として彼らを苦しめてきた。雇用の不足とグローバル化の非対称性は、求職競争を引き起こし、労働者に敗北を、資本家に勝利をもたらしてきた。それが偶然の進化の産物であれ、意図的な戦略の産物であれ、いまは事態を認識し、流れを逆転させるべきときなのだ。

 万人に尽くす社会や政府――正義と公正と機会均等の原則に一致する社会や政府――は、ひとりでに維持されるものではない。誰かが目を光らせていなければ、アメリカの政府と諸制度は、さまざまな利益集団によって掌握されてしまうだろう。最低でも拮抗する勢力の存在は不可欠だが、残念ながらアメリカの社会と政治は、バランスを欠いたまま発展を続けてきた。人間がつくったすべての制度は必ずあやまちを犯し、それぞれが独自の弱点をかかえている。きわめて多数の大企業が労働者を搾取したり、環境に損害を与えたり、反競争的行為に手を染めたりしていても、大企業を根絶やしにしろと主張する者はいない。代わりにわたしたちは、危険を認識し、規制を課し、企業の行動を変えさせようとする。なぜなら、100パーセントの成功はありえないとしても、改革が企業のふるまいを向上させうると知っているからだ。

 それと好対照をなすのが、アメリカ人の労働組合に対する態度である。労組は罵詈雑言を浴びせられ、多くの州では、労組の力を弱める露骨な試みがなされている。労働者が変化を受け入れ、新たな経済環境に順応するには、基本的な社会保護の制度が必要となるが、そのような制度を守り抜き、利益集団の跳梁を抑え込みたいとき、労働組合がどれほど重要な役目を果たしうるかという点を認識している者は、皆無と言っていい。

 ②差別の遺産を払拭するための積極的差別是正措置。

 最も腹立たしい、そして最も根絶しにくい不平等の源のひとつは差別であり、ここには現在も継続中の差別と、過去の差別の遺産がふくまれる。国によって差別の形は異なるが、人種差別と性差別はほぼすべての国に存在する。市場に力に任せておいたら、差別の根絶は望むべくもない。前に述べたとおり、市場の力と社会の力が合わさったとき、差別は持続の可能性を手に入れるのだ。そのような差別によって、わたしたちの根源的な価値観やアイデンティティや国民性はむしばまれている。必要不可欠なのは差別を禁止する強力な法律だが、現時点で差別の撲滅に成功したとしても、過去の差別の影響は残りつづけるだろう。幸い、わたしたちはアファーマティブ・アクション制度を通じた事態改善の方法を学びとってきた。定員割当制度ほどは厳格ではないものの、アファーマティブ・アクションを善意で実践していけば、基本的な原理原則と調和する方向に、アメリカ社会の進化をうながすことができる。機会均等の鍵は教育にあるため、教育分野におけるアファーマティブ・アクションは、より大きな重要性を秘めていると言っていいだろう。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.403-405,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


完全雇用の回復と維持(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

完全雇用の回復と維持(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「完全雇用の回復と維持

 ①完全雇用を平等に維持するための財政政策。」(中略)「

 ②完全雇用を維持するための通貨政策と通貨制度。」(中略)「

 ③貿易不均衡の是正」(中略)「

 ④積極的な労働市場政策と社会保護の改善。

 アメリカの経済は大きな構造転換を遂げようとしている。グローバル化と技術進歩からもたらされた変化が、労働者たちに業種間・職種間の大移動を強いる一方、市場は独力で変化への対応をうまく取り仕切れていない。だから、変化のプロセスから生まれる勝者をできるだけ多くし、敗者をできるだけ少なくするためには、政府が積極的な役割を果たさなければならないだろう。消え去っていく仕事から、新しく生み出される仕事への移動をうながすには、積極的な支援が不可欠であり、少なくとも転職による労働環境の悪化を防ぎたいなら、教育と技術に莫大な投資を行なう必要がある。積極的な労働市場政策が効果をあげうるのは、当然ながら、移動先の雇用が存在する場合に限られる。もしも、わたしたちが金融制度の改革に失敗し、金融セクターを本来の基幹機能へ復帰させられなければ、未来の新ビジネスに対する資金提供という役割も、政府が積極的に担わざるをえなくなるかもしれない。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.400-403,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))


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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)



富裕層以外の人々を支援する(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

富裕層以外の人々を支援する(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「富裕層以外の人々を支援する

 ①教育へのアクセス権の向上。

 機会の形成を左右する最も大きな要因は、何と言っても教育へのアクセス権だ。わたしたちが進んできた方向(所得層別に分かれた住宅地、高等教育に対する公的支援の急減、公立大学の授業料の高騰、工学などの高需要・高コスト分野における奨学生の制限)は、逆転させることができるものの、それには国を挙げた協調と努力が必要となる。教育へのアクセス権を向上させるための方策、とりわけ公教育の質を向上するための方策について語りはじめたら、一冊の分厚い本ができあがってしまうだろう。

 しかし、すぐに打てる手がひとつある。営利第一主義の学校に対する規制だ。政府融資、政府保証融資、民間融資のいずれを原資とする場合でも、学資ローンを背負わされた若者たちは、ローン債務の免除禁止という枷をはめられる一方、機会の拡大という恩恵にはあずかれなかった。じっさい、営利第一主義の学校は、向上心にあふれる貧しいアメリカ人の足をひっぱる主要因となってきたのだ。良い就職先には決まって卒業できる学生は少数にとどまり、圧倒的大多数は巨額の債務とともに大学から放り出される。そのような略奪的行為の継続をゆるすことは不条理であり、事実上、公的資金で略奪を支えることはなおさら不条理である。公的資金の使いみちとして適切なのは、州もしくは非営利の高等教育制度に対する援助の拡充や、貧困層の教育機会を保証するための奨学金の提供だ。

 ②一般の人々に貯蓄をうながす。」(中略)「

 ③万人のための医療」(中略)「

 ④医療以外の社会保護制度の強化。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.395-398,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)







税制改革(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 税制改革(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 ①所得税と法人税の累進性を高め、税制の抜け穴を減らす。

 名目上、累進制度をとるアメリカの税制は、見かけよりもずっと累進性が低く、すでに述べたとおり、抜け穴と例外と免除と優遇であふれ返っている。本当の公平な税制というものは、投機の収益に課税をする際、少なくとも労働の報酬と同じ税率を適用するはずであり、上層の所得に課税をする際は、少なくも中下層と同じ税率を確保するはずだ。法人税にかんしては、抜け穴を取り除くとともに、雇用と投資の増加をうながす改革が必要となる。

 4章で説明したとおり、右派の主張とは裏腹に、わたしたちは税制の効率性と累進性を同時に高めることができる。貯蓄と労働力供給への影響を勘案したいくつかの研究によると、適正な最高税率は50パーセントをはるかに超え、70パーセントをも上回るという。しかも、これらの研究には、上層の法外な所得がどれほどレントに依存しているか、という点が充分に反映されていないのだ。

 ②新たな財閥の誕生を阻止するため、現在より実効性の高い相続税制を創設し、実効性の高い運用体制を構築する。

 骨抜きにされた相続税を復活させ、キャピタルゲインの優遇税制を撤廃させれば、新たな財閥や特権階級の誕生を防ぐことにもつながるだろう。それらの措置の副作用は、最小限にとどまる可能性が高い。なぜなら、相続税の対象となる巨額の遺産は、たんなる運や、独占力の行使や、非金銭的なインセンティブによって蓄積されているからだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.394-395,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

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ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)







経済改革の7つの基本方針(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)


 「経済改革の7つの基本方針

 ①金融部門の抑制。

 不平等拡大のかなりの部分は、金融セクターの行き過ぎと関連しているため、改革プログラムに着手する際、金融界から始めるのは自然な流れと言える。ドッド・フランク法は第一歩だが、あくまでも第一歩にすぎない。ここで、6つの緊急課題を述べる。

 (a)行き過ぎたリスクテイクと、“大きすぎて潰せない”もしくは“相互のつながりが強すぎて潰せない”金融機関を制限する。この二つの組み合わせは破滅的な結果を招きかねず、じっさい、過去30年間にわたって金融機関の救済が繰り返されてきた。鍵となる対策は、レバレッジと流動性の制限。なぜなら銀行界はどういうわけか、レバレッジという魔法で無から資源をつくり出せると信じているからだ。そんなことができるはずはない。現実に銀行が生み出すのは、リスクと激しい変動だ。

 (b)銀行の透明性を高める。とりわけデリバティブの店頭取引はもっときびしく制限すべきであり、政府保証のもとにある金融機関がデリバティブを引き受けるべきではない。高リスクの金融商品を保険とみなそうと、ギャンブルとみなそうと、ウォーレン・バフェットのように“金融の大量破壊兵器”とみなそうと、損失補填に納税者を巻き込むべきではない。

 (c)銀行業界とクレジットカード業界の競争力を高め、各企業が競争的な“行動”をとるように仕向ける。アメリカの技術力をもってすれば、21世紀にふさわしい効果的な電子決済システムは実現が可能だ。しかし、既存の決済システムは、クレジットカードとデビットカードの維持に固執し、消費者を搾取するだけでなく、取引ひとつごとに小売商から多額の手数料を徴収している。

 (d)高利貸し(行き過ぎた高金利での貸付)に対するきびしい制限をふくめ、銀行が略奪的貸付と濫用的クレジットカード業務に従事することを難しくする。

 (e)過度のリスクテイクと近視眼的な行動をうながす役員ボーナスを抑制する。

 (f)オフショア・バンキングの拠点(と、それに相当する国内拠点)を閉鎖する。これらの拠点は、規制回避と脱税・節税の両面で大いに役立ってきた。ケイマン諸島でこれほど金融業が栄えることは、合理的に説明できない。ケイマン諸島そのものにも、ケイマン諸島の気候にも、金融をひきつける要素はなく、ひとつだけ考えられる理由は租税回避だ。

 以上の課題の多くは相互に関連している。たとえば、銀行業界の競争力を高めれば、濫用的業務が行なわれる可能性も、レントシーキングが成功する確率も低くなる。銀行は規制逃れを大の得意にしているため、金融セクターを抑え込むことは難しいだろう。銀行の規模に上限を設定――それだけでも厄介な作業だ――したとしても、銀行同士は(デリバティブのような)契約を結び、“相互のつながりが強すぎて潰せない”状態を確実につくり出すはずだ。

 ②競争法とその取り締まりの強化。

 法体系と規制体系はあらゆる側面において、効率性と平等性に影響を与えているが、競争と企業統治と破産にかんする法律はとりわけ影響が大きい。

 独占と不完全な競争市場は、レントの主要供給源だ。本来より競争性が低いセクターは、金融界だけではない。アメリカ経済を見渡してみると、驚くべきことに、2社、3社、4社に牛耳られている部門が非常に多い。それでよいと考えられていたときもあった。技術進歩にもとづく活発な競争が、支配的企業の交代を実現させるはずだ、と。これは市場内の競争ではなく、市場参加をめぐる競争と言ったほうがいいが、わたしたちは今日、その考え方が不充分であることを知っている。支配的企業は競争抑圧のためのツールを持っており、多くの場合、イノベーションの抑圧さえ可能だ。彼らが設定する高い価格は、経済をゆがめるだけでなく、税金のようなふるまいをする。しかし、集められたこの“税金”は、公共の目的に振り向けられず、独占者たちの金庫の中に貯め込まれる。

 ③企業統治の改善――特に制限すべきなのは、CEOが莫大な社内資源を私的に流用する能力。

 企業幹部に与えられる権力と敬意は、所有しているとされる叡智と比較してあまりにも大きすぎる。本書が説明してきたとおり、彼らは権力を濫用し、莫大な社内資源を私的に流用している。役員報酬に対する株主の発言権を法律で保証すれば、大きな変化が生じるだろう。新たな会計基準を設定し、企業幹部の報酬を株主に明示させた場合も、同じような変化が期待できるだろう。

 ④破産法の包括的改革――デリバティブの扱いから、担保割れの住宅、学資ローンまで。

 ゲームの基本ルールが市場の機能を決定づけ、最終的に効率性と所得分配が大きく左右される、という実例は破産法にも見られる。ほかの多くの分野と同様に、破産法が上層を利する度合はどんどん高まってきている。

 すべてのローンは、自発的な貸し手と自発的な借り手との契約だが、一方の市場に対する理解は、もう一方よりはるかに深いと考えられている。要するに、情報と交渉力の面でとてつもない非対称性が存在するわけだ。それゆえに、あやまちの結果をもっぱら引き受けるべきは、貸し手であって借り手ではない。

 債務者が有利になるよう破産法を改正すれば、銀行にはもっと注意深く貸付を行なうインセンティブが与えられるだろう。信用バブルの発生頻度も、多額の負債をかかえる人々も少なくなるはずだ。前にも述べたとおり、最もたちの悪い融資のひとつは、学資ローン制度である。学資ローンの場合、悪質な貸付を助長してきたのは、個人破産をしても債務が免除されないという法律だった。

 つまり、バランスを欠く破産法によって、金融セクターの膨張や、経済の不安定化や、貧しい人々と金融知識に乏しい人々の搾取や、経済上の不平等が促進されてきたわけだ。

 ⑤政府の無償供与の打ち切り――公共資産の譲渡においても物資の調達においても。

 先述した4つの改革の焦点は、金融関係者をふくむ上層の人々が私的取引において、消費者や借り手や株主などを搾取できないようにすることだ。しかし、レントシーキングの多くは、納税者の搾取という形で行なわれる。搾取はさまざまな装いを身にまとっており、たんに無償供与と説明するのがふさわしいものもあれば、企業助成の項目にあてはまるものもある。

 2章で説明したとおり、企業に対する政府の無償供与は莫大な額にのぼる。例として挙げられるのは、薬価交渉を禁止するメディケア改正法の一条項、コストプラス方式で行なわれた〈ハリバートン〉社との防衛契約、お粗末な油田の競売制度、テレビとラジオの周波数帯の無償供与、そして、市場価格を下回る鉱物資源の採掘権料だ。これらは、企業と富裕層に対する残りの階層からの純粋な所得移転とみなせるが、予算に制約がある世界では、悪影響はさらに広がっていく。なぜなら、ハイリターンを望める公共投資が結果的に減少してしまうからだ。

 ⑥企業助成の打ち切り――隠れた補助金をふくむ。

 これまで説明してきたとおり、政府はほとんどの場合、援助が必要な人々に手を差しのべず、貴重な資金を企業助成に振りむけている。補助金の多くは税法の中に埋もれている。すべての抜け穴と例外と免除と優遇は、累進性を低下させてインセンティブをゆがめるが、この傾向は企業助成の領域でとりわけ強くなる。独力でやっていけない企業は退場させるべきだ。労働者に対しては転職の支援が必要となるだろうが、それは企業助成とはまったく別の問題である。

 企業助成の多くは、透明とはほど遠い手法で行なわれる。おそらくは、実際の額があきらかになった場合、市民にゆるしてもらえないだろうからだろう。税法だけでなく、政府の低利融資と融資保証にも企業助成は埋め込まれている。産業界がもたらしうる損害――原子力発電所による損害や石油会社による環境汚染――について、その賠償責任を限定することは、企業助成の最も危険な形のひとつと言える。

 行動の全コストを負担させないのは、暗黙の補助金も同然だ。だから、たとえば環境破壊のコストを他者に転嫁する産業は、事実上、補助金を受け取ってることになる。本項で論じてきた改革案の多くと同じく、企業助成の打ち切りにも3つの利点がある。経済の効率性の向上と、上層の行き過ぎの抑制と、ほかの経済分野の繁栄だ。

 ⑦法制度の改革――司法への門戸を開放し、軍拡競争を緩和する。

 法制度は、富裕層以外の人々を犠牲にして、とほうもない規模のレントを生み出している。現行の制度のもとでは、万人のための正義は行なわれていない。現行の制度のもとでは、軍拡競争が繰り広げられており、最も大きな財布を持つ人々が、最も有利な立場で戦って勝利を収める。アメリカの法制度の改革についてくわしく述べることは、本書の守備範囲を超えると思われるし、ひょっとすると、もっと分厚い本にも収まりきれないかもしれない。ここでは、求められる改革が右派の主張する訴訟改革よりもはるかに広範であり、質的にもまったく異なっているということを指摘するだけで充分だろう。保守的な改革指針を採用すれば、法廷弁護士たちが正しくも指摘するように、一般の人々は保護を受けられなくなる。しかし、説明責任制度や保護制度を発展させてきた国々もある。そのような国では、医療過誤にかかわった医師は説明責任を負わなければならず、障害に苦しむ人々は、医療過誤の結果であれ、単なる不運の結果であれ、適正な補償を受けることができる。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第10章 ゆがみのない世界への指針,pp.387-393,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】







 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)






18. われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)

 われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


「われわれが啓示と呼ぶところのものの永遠的な原現象(Urphänomen)、《今》と《ここ》におけるその永遠的な根本現象とは何であろうか? 

それは、あの至高の出会いの時間から出てくるとき、人間はその出会いのなかへはいっていったときの彼とはことなっているということである。

そのような出会いの瞬間とは、敏感な魂のうちで昂揚し完成するひとつの《体験》なのではない。そのときには、人間との関わりにおいて何ごとかが生ずるのだ。それは時としては微風のようなものとして、時としては格闘のようなものとして生ずるが、いずれにしても何ごとかが生ずるのである。

そして純粋なる関係という本質的行為から歩み出る人間の存在のなかには、ひとつの《より以上》(ein Mehr)が、ひとつの新たに発生したものがもたらされているが、それは彼がこれまでは知らなかったもの、またそれがどこから起こったかをあとからただしく言いあらわせないものである。

世界の現象の位置づけを好むような科学的操作は、無欠な因果律をうち立てようとするその権限を行使して、こうした新たなことの由来をも、何らかの因果的構図のなかへ組みいれてしまうことであろう。

だが、現実的なものの現実的な考察を重んずるわれわれには、潜在意識だの、その他の心的からくりによる説明は受けつけられない。

われわれが、これまでにはわれわれになかったものを受け取り、しかもそれを、それがわれわれに他からあたえられたものだという認識において受け取るということ、これが現実なのである。

聖書には語られている、《神を待ち望む者らは、新たなる力によって生かされるであろう》と。またこのような現実を伝えることにかけてやはり誠実であるニーチェは語っている、《人は受け取る、だが誰によってあたえられるかは問わない》と。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.146-147、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話






2024年4月14日日曜日

23. 病院の職員は、その人たちの合理的かつ正常な行動を無視して、精神病院に入っている人は精神病に違いないと考えているようだった。ウォルター・ミシェル(1930-2018)

病院の職員は、その人たちの合理的かつ正常な行動を無視して、精神病院に入っている人は精神病に違いないと考えているようだった。ウォルター・ミシェル(1930-2018)

 「状況と社会的役割の影響力の劇的な描写は、発表時に多数の人にショックを与えた自然実験においてみることができる(Rosenhan,1973)。

その実験では、スタンフォード大学の医者・心理学者・大学院生といった正常な個人が、さまざまな精神病の症状を演じて、地域の精神病院に入院した。その人たちは、収容された後は、ふだんと同じく合理的にふるまった。

ところが、外ではどんな人物なのか知らない精神病院の専門職員によって、入院後、ずっと精神障害がある人として扱われ続け、精神病とラベルづけされていた。

病院の職員は、その人たちの合理的かつ正常な行動を無視して、精神病院に入っている人は精神病に違いないと考えているようだった。職員の目にとって、そこにいることだけで、正常な人が精神病患者のようにみえるのに十分だったのである。」

(ウォルター・ミシェル(1930-2018),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅳ部 行動・条件づけレベル、第10章 行動主義の考え方、p.325、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

【中古】パーソナリティ心理学—全体としての人間の理解 / ミシェル ウォルター ショウダユウイチ アイダック オズレム 黒沢香 原島雅之 / 培風館

23. ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。(E・トリー・ヒギンズ)ジョナサン・H・ターナー(1942-)

ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。(E・トリー・ヒギンズ)ジョナサン・H・ターナー(1942-)



「自己不一致理論の基礎的な着想は、情動がいずれか一つの自己状態の表象内容の結果であるよりも、むしろ別々の自己状態の表象間の結果であると見なす。

異なる型の自己状態の表象を判別するため、ヒギンズ(1987,1989)は二つの心理的次元を用いる。

(1)自己の領域と、(2)自己に関する異なる見方である。

前者によってヒギンズは三つの領域を識別する。(a)現実の自己(あなた[あるいは他者]が、あなたが現に保有していると考えている属性)、(b)理想的な自己(あなた[あるいは他者]が、あなたが保有したいと欲している(あるいは望んでいる)特定な自己の特徴)、(c)当為としての自己(あなた[あるいは他者]が、あなたがもつことを義務あるいは責務と感じている自己の特徴)。

自己に関する第二の次元、つまり自己に関する異なる見方は、(a)自分自身の見方と、(b)家族や友人など重要な他者の見方をともなう。  

自己の異なる領域が自己についての異なる見方と結びつくと、さまざまな自己状態の表象が現われる。

たとえば現実的/自分自身の自己、現実的/他者の自己、理想的/自分自身の自己、理想的/他者の自己、当為的/自分自身の自己、当為的/他者の自己である。

ヒギンズは最初の二つの「自己」(そしてとくに現実的/自分自身の自己)が個人の自己概念に近似していると主張する。

彼は残りの四つの「自己」を自己の指針と呼んでいる。ヒギンズによれば、行為者は自らの自己概念と彼(彼女)の関連する自己指針の一致を維持しようと動機づけられる。一致が達成できないと、否定的感情が生じる。

この着想がアイデンティティ制御理論や情動制御理論ときわめて近似していることに注意してほしい。」

 
現実的/自分自身の自己 理想的/自分自身の自己 現実-理想の不一致 落胆に関する感情
憂鬱、悲しみ、不満
現実的/自分自身の自己 理想的/他者の自己 現実-理想の不一致 落胆に関する感情
恥、当惑
現実的/自分自身の自己 当為的/自分自身の自己 現実-当為の不一致 動揺に関する感情
不安、罪、自虐
現実的/自分自身の自己 当為的/他者の自己 現実-当為の不一致 動揺に関する感情
恐れ
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第4章 象徴的相互作用論による感情の理論化、pp.267-269、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



2024年4月10日水曜日

10. 言って利益になるか、どうしてもやむにやまれぬものでもないかぎり、人の悪口はぜっていにいってはならない。フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)

 言って利益になるか、どうしてもやむにやまれぬものでもないかぎり、人の悪口はぜっていにいってはならない。フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)


 「君に害を与えるだけで、何の得にもならないことは、どんなこともしないように注意するがよい。

だから当人がいないところであろうと、目の前にいようと、言って利益になるか、どうしてもやむにやまれぬものでもないかぎり、人の悪口はぜっていにいってはならない。

それはいわれもなく敵をつくるばかげたふるまいだからである。

このことは記憶しておくがよい。なぜなら、ほとんど誰しもがこのような軽はずみで失敗するものだから。」

(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)、『リコルディ』B、八八 他人への非難、フィレンツェ名門貴族の処世術、pp.220-221、[永井三明・1998])



フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



2024年4月9日火曜日

15. 機械同士や、機械と人間の間に相互作用が生じるという事情が、事態をより深刻化する(高木仁三郎(1938-2000)

機械同士や、機械と人間の間に相互作用が生じるという事情が、事態をより深刻化する(高木仁三郎(1938-2000)



「これに加えて、機械同士や、機械と人間の間に相互作用が生じるという事情が、事態をより深刻化する。エール大学のペロウ教授がその著『Normal Accident』の中で interactiveness (相互作用性)と呼んだ現象である。」(中略)

 「人為的要素もまた、最も相互作用を起こしやすいことの一つである。ランチョセコの事故で、制御室への電源が断たれて混乱状態となり、手作業で弁を開けようと奮闘した年配の運転員が倒れてしまったのなどは、典型的なことだ。

デービス・ベッセの事故でも運転員の操作ミスがからんだが、これも混乱の結果であろう。チェルノブイリの信じがたいような異常事象の重なりも、強い相互作用を示唆している。

 こういう連鎖が起こりうるとすると、大事故の起こる確率は、個々の事象が独立に起こる確率を掛け合わせた総合の事故確率、
 P = P1 × P2 × P3 × ………
よりはるかに大きくなる。ラスムッセン報告流の事故確率論が、現実的でない理由がここにある。」
 「この相互作用性ということを考えると、原発の安全審査の重要な指針となっている「単一故障指針」の妥当性は大いに疑問となる。

安全審査で事故を考える時に、安全系の機能別に最も厳しい結果を与える単一の故障を考えて、それに対処できるように安全設計をする(装置の多様性や冗長性を考える)というのが、安全審査の際の基本となっている約束事である。

 「日本の原発は、絶対に事故を起こさない」などと言うのは、みなこの単一故障指針に基づいての話で、「いかなる単一の厳しい故障にも耐えられるように設計されている」という意味にすぎない。

したがって、この単一故障指針が成立しないとすると、「大事故は起こらない」保障はなくなり、また安全審査の事故解析や災害評価、さらに防災対策といったことのいっさいの前提は崩れ去る。

 ところが明らかに、システムの構成要素の間に相互作用が存在するとなると、単一故障指針は怪しくなる(火災などで多くの機器が一気に止まってしまう共通要因故障も、「相互作用」の中に含めておく)。

単一故障指針は明らかに、二つの重要な故障が重なる確率は、もともと小さい確率を二つ三つ掛け合わせるから無視しうるほど小さくなる、という暗黙の了解に立っている。相互作用を考慮すると、この了解は成り立たないのである。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』チェルノブイリ――最後の警告 第Ⅱ章 原発事故を考える、pp.213-215)



2024年4月8日月曜日

17. ミルトン・フリードマンの研究(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 ミルトン・フリードマンの研究(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)

 「本書の主要なテーマはふたつある。ひとつは、これまで思想の戦い――ほとんどの国民にとってどのような社会、どのような政策が最善なのかをめぐる――が続いてきたということで、

ふたつめは、その戦いにおいて、上位1パーセントにとって好ましいもの、すなわち最上層の関心や願望の対象――最上層の税率の引き下げ、赤字の削減、政府規模の縮小――は誰にとっても好ましいものであると、すべての人に信じ込ませようとする試みがなされてきたということだ。

 現在流行の通貨経済学・マクロ経済学の起源が、強い影響力を持つシカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンの研究にあることは偶然ではない。

フリードマンはいわゆる自由市場経済学の強力な支持者で、外部性の重要度を控えめに見て、情報の不完全性などの“エージェンシー”問題

(訳注:プリンシパル(委託者)の委託を受けたエージェント(代理人)が、委託者の利益のために行動しないことによる取引の失敗のこと。エージェントとプリンシパルのあいだに利害対立と情報の非対称性があることによって起こる)を無視する。

消費の決定要因にかんするフリードマンの先駆的な研究はノーベル賞を受賞するにふさわしいものだったが、自由市場にかんする所見は、経済分析ではなくイデオロギー的確信にもとづいていた。

不完全な情報や不完全なリスク市場がもたらす帰結について、フリードマンと長時間議論したのを覚えている。

 わたし自身の研究と、ほかの数多くの同僚の研究では、これらの条件下で市場は通常うまく機能しないという結果が示されていた。フリードマンはそういう結果をまったく把握できなかったか、把握しようとしなかった。反論もできなかった。

たんに、そういう研究がまちがいでなければならないことはわかっていると、返答するだけだった。

フリードマンをはじめとする自由市場経済学者の返答は、あとふたつあった。理論的帰結が正しくても、それらは“珍しい事象”、つまりルールを証明する例外にすぎないというものと、問題が広範囲にわたるものであったとしても、その問題を修復するのに政府をあてにすることはできないというものだ。

 フリードマンの通貨理論・通貨政策には、政府の規模を小さくし、その決定権を制限することに注力する姿勢が反映されている。

フリードマンが広めた学説は、通貨管理経済政策(マネタリズム)と呼ばれるもので、政府は一定の割合(生産の増加率、これは労働力の増加率と生産性の増加率を足したものにひとしい)で通貨供給量を増やすだけでよいとする。

現実の経済を安定させる――つまり、完全雇用を確保するという目的で通貨政策を使うことはできないという点は、あまり重要視されなかった。フリードマンは、経済がひとりでに完全雇用状態かそれに近い状態にとどまるだろうと思い込んでいた。政府が台無しにしないかぎり、どれほど逸脱してもすぐに修正されるだろう、と。」(中略)

「フリードマンは銀行経営規制についても持論があった。ほかの大半の規制と同じように、経済効率の妨げになっていると考えていたのだ。」(中略)

 「金融市場は独力でうまく機能するから政府は干渉すべきではないという見解は、過去四半世紀のあいだに最も有力なテーマとなり、すでに見てきたように、グリーンスパンFRB議長と歴代財務長官によって強力に推し進められた。

そして、これもすでに触れたように、その見解は金融部門など最上層の人々の利益には大いにかなうものだったが、経済全体をゆがめてしまった。

さらに、金融システムの崩壊はFRBを驚かせたようだが、それはしかるべき結果だった。バブルは西欧資本主義が始まって以来、ずっとついてまわったきた。1637年のチューリップ球根熱から、2003年~2007年の住宅バブルまで。

経済的安定の維持において通貨当局が果たすべき責任のひとつは、そういうバブルの形成をはばむことなのだ。

 マネタリズムの基礎には、貨幣の流通速度――1ドル紙幣が1年間に受けわたしされる回数――は一定であるという仮定があった。一部の国や一部の場所に限ればそのとおりだったが、20世紀末の急速に変化する世界経済においては、それは事実ではなかった。

この理論は、中央銀行の理事たちのあいだで大流行してからほんの数年で、根本から疑われることになった。理事たちはただちにマネタリズムを捨て去ると、市場への干渉は最小限にするべきだという教義と矛盾しない新しい信条を探した。

そして、インフレ・ターゲット論を見つけた。このスキームでは、中央銀行は目標インフレ率を選定して(2パーセントが好まれる)、実際のインフレがその数字を上回ると必ず金利を上げなくてはならない。金利が上がると成長が鈍り、それによってインフレが鎮まることになる。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第9章 上位1%による上位1%のためのマクロ経済政策と中央銀行,pp.370-374,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))

【中古】 世界の99%を貧困にする経済/ジョセフ・E.スティグリッツ【著】,楡井浩一,峯村利哉【訳】







 
(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Propositions of great philosophers)


17. 神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。マルティン・ブーバー(1878-1965)


 「《宗教的な》人間とは、単独者として、唯一者として、孤立者として神の前に歩んでゆく者だというようなことが語られている。

なぜなら彼は、この世界の義務と負い目になおも服しているような《倫理的》(sittlich)な人間の段階をも通りこえてしまっているからである、と。

倫理的な人間はまだ、行為者としての自分の行為にたいする責任という重荷を明らかに背負っているが、それは彼が存在と当為のあいだの緊張によって全く規定されているからで、だから彼はこの両者のあいだの埋められぬ深淵のなかへグロテスクにも絶望的な犠牲心から、自分の心の切れはしを次々に投げいれる、……

《宗教的な人間》はしかし、そうした緊張を脱して、世界と神とのあいだの緊張のなかへふみこんでいる、というわけである。」(中略)  

「だがこれは、神が世界を仮象たるために、そして人間を酩酊者たるために創造したと思い誤っているものである。

たしかに神の顔前に歩みよる者は、犠牲や負い目を通りこえてはいる、――しかしそれは、彼が世界から遠ざかったからではなくて、彼が世界に真に近づいたからである。

われわれが世界に義務と負い目を感ずるのは、世界が疎遠なものである限りにおいてであって、親密なものである世界にはわれわれは、ただ愛によってのぞむのだ。

神の顔前に歩みよって、現在の充溢のなかにおかれるときはじめて、人間にたいして世界は永遠によって照明されてまったく現前的になり、そして人間はあらゆる存在の中心たる存在にむかって、ただひとこと《汝》と言うことができるのである。そのとき世界と神とのあいだにはもはや緊張は存在せず、ただ《唯一》の現実だけが存在するのだ。

といっても、このとき人間は責任から解除されているわけではない。ただ彼は、限定された、おのれの効果を気がかりに追跡するような責任がもたらす苦痛を、無限なる責任というものの振動力と取り替え、またそれを、感取し得ぬ世界現象全体にたいする愛にみちた責任の力と取り替え、神の顔前において世界のなかへ深く引きいれられるということと取り替えてしまったのである。

たしかに彼は、倫理的判断なるものを永遠に廃棄してしまったのだ。

このとき彼にとって《悪しき人間》とは、より深くそのひとにたいする責任が彼に託されているところの人間、よりいっそう愛を受けることを必要としているところの人間にほかならない。

だが、彼は彼の自発性の深みにおいて、正しき行為への決断を死にいたるまでなし続けねばならないであろう。正しき行為にたいする、ゆとりのあるたえず新たな決断を。

ここでは行為は無意味なのではない。それは求められ、使命としてあたえられ、役立てられ、創造のわざにその一部分としてつらなっている。だが、こうした行為はもはや世界にたいする義務として課されているのではなく、世界との触れあいから、あたかも無為であるかのように生じてくるのである。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第3部(集録本『我と汝・対話』)pp.143-146、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:)

我と汝/対話








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