2019年8月24日土曜日

27.選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

選ばれた優れた人たちの判断

【選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
   (a)例として、普通の人たちが統治に干渉し、予め決められている自分たちの判断を、立法者たちに押しつけ、立法者を普通の人たちの単なる代理人にしてしまう。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
   (a)政治学における真理のなかには、政治学の全体を一通り研究を終えなければ理解できないような命題も存在する。完全に理解するためには、多くの思索と、人間本性に関する経験を理解していることが必要である。
   (b)真理のなかには、見かけ上は常識に反しているように思われるものがあり、逆に一番もっともらしく見える見解が間違っているということも多い。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
   選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  以上に記載した民主主義の考え方が理解され、その精神に従って仕組みが運用されるかどうかは、普通の人たちの見識と行動にかかっている。仕組そのものに保障があるわけではない。
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
   (a)普通の人たちが、科学の問題に関して、科学者が一致して持っている見解に信頼を寄せているように、政治や経済、道徳に関する問題に関しても、優れた見識の価値を評価し、優れた人を選ぶことができるようになるならば、真偽の判断をすることができるであろう。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。


 「他のすべてのことにおけるのと同じように統治においても危険なのは、望むことを何であってもできるような人々が彼らの究極的利益のためになること以上のことをしたいと望むことがあるということである。人民にとって利益となるのは、見つけ出すことのできるうちでもっとも有識で有能な人を自分たちの支配者として選び、そうした後は、彼らが目的としているものが人民の善で《あって》何らかの私的な善でないかぎり、自由な議論とまったく制限のない批判による監視のもとで、人民の善のために彼らが知識と能力を行使するのを認めることである。このようにして運営される民主主義は、これまでのあらゆる統治制度がもっていた良い資質をすべて合わせもつことになるだろう。その目的が善いものであるだけでなく、その手段も時代の英知が認めるような善いものが選ばれるだろう。そして、多数者の全能は代理人を通じて、そして最終的に多数者に対して責任を負っている見識ある少数者の判断にしたがって行使されることになるだろう。
 しかし、民主主義がそれについての間違った考え方に従うのではなく、このような精神によって理解され運営されるための十分な保障を民主主義の仕組みそれ自体が与えるということはありえない。このことは人民自身の良識にかかっている。人民があることを理由として自分たちの支配者を解任することができるならば、別のことを理由としてもそうすることができる。それなしには人民が良い統治への保障をもちえないような究極的な支配権は、人民が望むならば、彼ら自身が統治に干渉し、立法者をあらかじめ決められている多数者の判断を執行する単なる代理人にするための手段とされてしまうかもしれない。人民がこのようなことをするとしたら、彼らは自分たちの利益について思い違いをしていることになる。そして、そのような統治はほとんどの貴族政治よりもよいものだろうが、賢明な人が望むような民主政治ではない。
 民主主義についての正しい理念をこのように歪曲することについて私たちのように深刻には考えない人々もおり、これは開明的な統治を望んでいることが疑いようのない人の中にもみられる。彼らが言うには、多数者がすべての政治的問題を自分たちの法廷に引き出し、自分たち自身の判断にしたがって決定を下すことがよいことであるのは、そうすることで哲学者たちは大衆を啓蒙し、大衆が自分たちのより深遠な見解を理解できるようにしなければならなくなるだろうからである。このようなことを実現することができると考えるかぎりにおいて、人民の統治のこのような帰結に対して私たち以上に重要な価値を認める人は他にいない。そして、人民を教育するために必要なのはそれを望むことだけだとしたら、また、政治的真理を発見することだけが学問や知恵を必要とし、その根拠が見出されたときには、共同体のすべての個人が受けることができ、受けるべきであるような教育を受けた常識をもっているすべての人がその根拠を理解できるとしたら、この議論は抵抗することのできないものになるだろう。しかし、現実はそうではない。政治学における真理の多くは(たとえば経済学におけるように)、複数の命題が結びついたことの結果であり、一通り研究を終えた人でなければその最初の段階でさえ認識することのできないようなものである。完全に理解するためには多くの思索と人間本性に関する経験が必要となるような命題が他にも存在している。哲学者たちはどのようにしてこれらの命題を大衆に納得させるのだろうか。彼らは、常識によって科学を判断させ、無経験によって経験を判断させることができるのだろうか。政治哲学の入り口をくぐったことがあるすべての人が知っているように、その問題の多くに関して、間違った見解が一番もっともらしくみえ、その真理の大部分は、それについて特別に研究した人以外のすべての人にとっては矛盾したものであり、地球が太陽の周りを廻っているという命題と同じように見かけは常識に反しているものであるし、つねにそうであり続けるに違いない。大衆は、自分たちが天文学の問題に関して天文学者が一致してもっている見解に対して無制限の信頼を寄せているが、それと同じような信頼を寄せているような権威者から示されないかぎり、これらの真理をけっして信じようとはしない。現時点で大衆がそのような信頼感を寄せていないということは、哲学者にとって不名誉なことではないし、そのような資格がある人がどこにいるだろうか。しかし、有識階級のなかで意見の全般的一致のようなものを生み出すくらいまで知識の進歩が十分になされればすぐに、そのような信頼は与えられるだろうと強く確信している。現在でさえ、有識階級のなかで意見が一致している論点については、教育のない人々は一般的に彼らの見解を受けいれている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.366-368,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,代理人,真理,常識)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月23日金曜日

特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

善とは何か

【特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)何かが「善」であるとは、どのようなことなのか。
 (1.1)価値ある目的の手段としての善
  (a)目的:何か別の善を為すこと、何か別の善を得ることである。
  (b)目的を達成する手段は「善」である。
  (c)例として、ある種の技能を持つこと、ある種の機会を与えられること、ある時ある場所に身を置くこと。
 (1.2)価値ある社会的役割に内在する善
  (a)社会的役割:社会的に確立された特定の実践があり、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値を持つと考えられている。
  (b)ある人が社会的役割を果たしている場合、その活動は「善」である。
  (c)例として、ある漁船の乗組員の一員としての善、ある家族の母親としての善、チェスの選手やサッカー選手としての善。
(2)特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうちどれを選択し、実践的に顧慮して追求することが「善」なのか。また、なぜそれが「善」なのか。
 (2.1)ある目的のために、ある種の資質や能力を高めることが善である。しかし、そもそも何のために、何をなすことが善なのか。
 (2.2)ある社会的役割を担いつつある活動に従事することは善である。しかし、そもそも何のために、人としていかなる存在であることが善なのか。

 「以上の考察は、何かに善を帰するのに、少なくとも三種類のやりかたがあることを示唆している。
 まず第一に、私たちが何かを一つの手段として《のみ》評価することによって、それに善を帰する場合がある。ある種の技能をもつことや、ある種の機会を与えられることや、ある時ある場所に身を置くことは、それらが、人が何か別の善い者になることを、あるいは何か別の善をなすことを、あるいは何か別の善を得ることを可能にするかぎりにおいて、善である。つまり、こうしたことがらはたんに、それ自体として善であるような何か別のことがらの手段《として》善いことなのである。では次に、第二のタイプの善について考えよう。誰かをある一定の役割を担う者として、あるいは、ある社会的に確立された実践の枠内である一定の役目を果たす者として善いと判断することは、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値をもつものとして評価される正真正銘の善であるという場合にかぎり、その行為者を善いと判断する、ということである。そうした〔ある活動に内在する〕善が〔ある特定の行為者の特定の行為によって〕そこに生じているのか否か、また、そうした善はそもそもどのようなものなのかということは、そうした問題に特徴的なこととして一般に、その特定の活動について手ほどきを受けることによってしか学ばれえない。ある特定の実践に内在する諸々の善を達成することに秀でているということは、たとえば、ある漁船の乗組員の一員《として》、ある家族の母親《として》、あるいはチェスの選手やサッカー選手《として》、善いということだ。それは、それ自体として価値ある諸々の善を適切に評価することができ、それらを生みだすことができるということである。しかるに、一人ひとりの個人にとっては次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善〔を追求すること〕がその人の人生の中である特定の場を占めることは、その人にとって善いことであるのか否か、という問題である。また、個々の社会にとっても次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善が、その社会における共同の生の営みの中である一定の場を占めることが、その社会にとって善いことであるのか否か、という問題である。それゆえ〔これらの問題に答えるためには〕私たちは〔何かに善を帰することにかかわる〕第三のタイプの判断を行う必要がある。
 ある一組の善、すなわち、〔それ自体として追求されるに値する〕正真正銘の善〔の追求〕が私個人の人生の中である従属的な場を占めることが、私自身と他者たちにとって最善のことである場合もあれば、それらが私個人の人生の中でいかなる場も占めないことがそうである場合もあるだろう。かつてゴーギャンは、絵を描くことの善が《彼の》人生においていかなる場を占めるべきかという問題に直面した。画家《としての》ゴーギャンにとっては、タヒチに行くという選択は最善の選択であったかもしれない。だが、かりにそうであったとしても、その選択がヒト《としての》ゴーギャンにとって、あるいは父親《としての》ゴーギャンにとって最善の選択であったということにはならない。それゆえ私たちは次の二つの問いを区別する必要がある。すなわち、なぜある種の善は善であるのかという問い、つまりそれらがそれら自体として価値あるものとみなされるべき善であるのはなぜかという問いと、特定の状況下にある特定の個人ないしは特定の社会にとって、それらの善をその個人ないしはその社会のメンバーたちによって実践的に顧慮され追求されるべき対象とみなすことが善いことであるのはなぜかという問いを区別する必要がある。そして、ある個人にとって、ないしはあるコミュニティにとって、その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善かについての私たちの判断こそが、この〔何かに善を帰する〕第三のタイプの判断の実例である。そうした判断において私たちは、一人の個人や個々の集団が、ある役割を担いつつある形態の活動に従事している行為者や行為者集団《として》のみならず、ヒト《として》も、いかなる存在であることが、また、何をなすことが、また、いかなる資質や能力を備えていることが最善であるのかについて、無条件的な判断をくだしている。そして、このような判断こそがヒトの開花についての判断なのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.87-90,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:善,価値ある目的の手段としての善,価値ある社会的役割に内在する善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則を支える力

【ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(d)追記。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
    (b.1.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
    道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))
    (b.2.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相容れない法と道徳が併存する場合もある。
    (b.2.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更したり、高めたりすることもある。
    (b.2.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅することもある。
    (b.2.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。

  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   道徳的および法的犯罪が成立する諸条件。
   (c.1)道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
    基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
   (c.2)何が正しい行動なのかを知っている。
    (c.2.1)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか?
    (c.2.2)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。
   (c.3)できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができる。
    (c.3.1)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をしても、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
    (c.3.2)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
   (c.4)判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。
    道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
   (c.5)考察するための事例。
    (c.5.1)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
    (c.5.2)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
    (c.5.3)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
    (c.5.4)不注意や過失による殺人
    (c.5.5)故意の殺人
  (d)道徳的圧力の形態
   ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。
   (d.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
    判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする場合、それは「悪」であり行為者が責任を負わなければならない。例えば、「それでは嘘になるだろう」とか、「それでは約束を破ることになるだろう」など。
    参照:できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (d.2)違反者自身による罰(良心の感情)
    仮に、違反に対する敵対的な社会的反作用、刑罰による威嚇、遵守することによる個人的利益がなかった場合であっても、違反することによって恥辱の感情、罪の意識、自責の念が生じる。
   (d.3)敵対的な社会的反作用
    軽蔑、社会関係の断絶、社会からの追放などの例。
   (d.4)刑罰による不愉快な結果の威嚇
   (d.5)個人的利益
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法


 「(4)道徳的圧力の形態 道徳のもう一つの顕著な特徴は、道徳を維持するために用いられる道徳的圧力の特有な形態である。この特徴はすぐ前にのべたところと密接に関連しており、またそれと同様に道徳は「内面的」なものにかかわるという曖昧な観念の形成におおいに寄与してきたものである。道徳をこのような解釈に導いたのは次のような事情による。もしある者が行動に関するルールを破ろうとする場合に、それを思いとどまらせる論法として常に体刑と不愉快な結果という威嚇《のみ》がもち出されるというのであれば、そのようなルールをその社会の道徳の一部とみなすことは不可能であろう。たとえそうだとしても、それが社会の法の一部として取り扱われることに異議はないであろう。法的圧力の典型的な形態はこのような威嚇からなっているということができよう。これに反して、道徳については、圧力の典型的形態はルールをそれ自体重要なものとして尊重しようという訴えからなっており、その尊重はルールの名宛人によって共有されていると考えられる。したがって、道徳的圧力は威嚇によってあるいは恐怖や利益に訴えることによってではなく、行なわれようとする行為の道徳的性格および道徳の要請を思い出させることによって、もっぱらではないとしても特徴的に行使されるのである。「それでは嘘になるだろう」とか「それでは約束を破ることになるだろう」というような表現をとってみても、その背後には確かに刑罰の恐怖に類似した「内面の」道徳がある。というのは、抗議はそれが向けられる者に恥辱または罪悪の念を呼び起こすということが考えられるからである。つまりその者は自らの良心によって「罰せられる」ことになろう。もちろん、このような極めて道徳的な訴えには、体刑の威嚇とか通常の個人的利益に対する訴えが付随することがある。道徳律から逸脱すれば敵対的な社会的反作用いに出会うことになり、それには比較的ありふれた軽蔑から社会関係の断絶あるいは社会からの追放にいたるまでさまざまな形態がある。しかし、ルールが求めているものを強く思い出させること、良心に訴えること、あるいは罪の意識とか自責の念という作用に頼ることは、社会道徳を支えるために用いられる圧力の、特徴的な非常に顕著な形態である。社会道徳がまさにこのような方法で維持されるべきであるということは、道徳的ルールや基準を維持すべきまったく重要なものとして容認していることの当然の帰結である。このような方法で維持されないような基準は、社会および個人の生活において、道徳的責務としての特色ある地位を占めることができないであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,p.196,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則,良心の感情,道徳的圧力の形態)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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26.選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

普通の人たちの究極的な支配権

【選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「合理的な民主主義という考えは、人民自身が統治するということではなく、人民が優れた統治への保障をもっているということである。

彼ら自身の手中に究極的な支配権を保持する以外のどのような方法によってもこの保障をもつことはできない。

もし彼らがこれを放棄したら、自らの身を専制に委ねることになる。

一般的に、人民に対して責任を負うことのない統治階級は自分たちの個別の利益や好みを追求して人民を犠牲にするに違いない。

道徳感情でさえ、そして卓越性についての考えでさえ、人民の善にではなく、彼ら自身の善に関係している。彼らの言う徳とは階級的な徳にほかならないし、彼らの愛国心や自己献身からの気高い行為は、自分の属している階級の利益のために自分の私的利益を犠牲にすることにすぎない。

レオニダスが示したような英雄的な公徳は奴隷の存在と完全に両立するものであった。

人民の利益に対する支配者の献身について人民が疑問を抱くようになったらすぐに人民が支配者を解任することができるような場合を別にすれば、いかなる政府においても人民の利益が目的とされることはないだろう。

しかし、人民の権力が適切に行使されるのはこれだけである。よい意図が保証されうるならば、最良の統治は(言うまでもないかもしれないが)もっとも賢明な人々による統治に違いなく、そのような人はつねに少数であるに違いない。

人民は主人でなければならないが、彼らは自分自身よりも熟練した召使を雇わなければならない主人であり、それは軍司令官を使っている時の大臣や、軍医を使っている時の軍司令官と同じである。

大臣は軍司令官を信任しなくなったら彼を解任して別の人を任命するが、いつどこで戦闘をおこなうかについて指示することはない。大臣は司令官に意図と結果に対してだけ責任を負わせている。人民も同じようにしなければならない。

このことによって人民による統制が無価値になるわけではない。政府による軍司令官に対する統制は無価値なものではない。

ある人による医者に対する統制は、その人が医者に対してどの薬を投与するのかを指示しないからといって、無価値なものではない。彼は医者の処方に従うか、不満があるならば、別の医者にかかるのである。彼の安全はこのことにかかっている。人民の安全もこのことにかかっており、彼らの分別はこれで満足するべきである。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.364-366,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,究極的な支配権,階級利益)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月22日木曜日

良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治のための必要条件

【良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (b)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (c)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (a)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (b)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して、慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (c)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの権限
  選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が、普通の人たちにあること。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (a)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (b)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (c)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (d)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「私たちが主張してきたことと時には矛盾しがちであっても重要性の点ではとにかくそれに匹敵するような唯一の目的――良い統治にとって不可欠な唯一の他の条件――は次のようなものである。

すなわち、集団としての公衆によってではなく、選ばれた人々によって統治されるということ、政治的問題が、直接的であっても間接的であっても、無知な集団――それが有閑階級の集団であっても下層の人々の集団であっても――の判断や意志へ訴えることによってではなく、少数者、とりわけこのような任務のために特別な教育をうけた少数者の慎重に形成された見解によって解決されるということである。

これが、不運なことに私たちのものにおいてではなかったが、多かれ少なかれいくつかの貴族政治においてこれまで存在してきた良い統治の一要素であり、それらの統治が分別あり熟練している政権というあらゆる評価を享受してきた理由となっているような要素である。

明確にそうなっていない貴族政治においてはこれはほとんど見出されない。(イングランドやフランスのような)貴族制を装った君主制はほとんどつねに怠け者による貴族政であったのに対して、(ローマやヴェネツィアやオランダのような)別の貴族制は熟達し勤勉な人々による貴族制としてある程度はみなされうるだろう。

しかし、すべての現代の政府のなかでもっとも顕著にこの卓越性を有していたのはプロイセンの政府――王国のなかでもっとも高度な教育を受けた人々によるきわめて力強くしっかりと組織された貴族政――である。インドにおけるイギリスの統治は(大幅に修正された形で)同じような性質を帯びていた。

 この原理がその他の幸運な状況と結びつけられたときには、そして、とりわけ(プロイセンにおけるように)政府に対する人民の支持をその安定のためのほとんど必要条件とするような状況と結びつけられたときには、人民に対する明確な説明責任が課されていないときでさえも、きわめて優れた統治がなされたことがあった。

しかしながら、そのような幸運な状況はめったに期待することはできない。

しかし、そのために特別に育成されてきた人々による統治という原則は良い統治を生み出すのに十分なものではないだろうけれども、良い統治はそれなしにはありえない。

今後長い間にわたって政治学における重大な難問は、良い統治を左右する二つの重要な要素をどのようにしてもっともよく調停するかということであり、また、特別に教育を受けた少数者による独立した判断から得られる利点を、多数者に対する責任をその少数者に負わせることによって目的の公正さを最大限に保証することとどのようにしてもっともよく結びつけるかということになるだろう。

 しかしながら、二つの目的を完全に調停可能なものとするために必要なのは、最初に想定されたかもしれないものよりも些細なことである。

多数者自らが完全に賢明である必要はなく、優れた見識の価値を認めるのに足る分別があれば十分である。

政治的問題の大部分は、多数者およびその目的のために訓練されていないあらゆる人々が必然的にきわめて不完全な判定者であるような考慮に左右されるものであるということや、概して彼らの判断が、問題それ自体というよりも、彼らのために問題を解決するべく任命した人の性格や才能に基づいてなされてしまいがちであるということを認識していれば十分である。

そうすれば、彼らは知識人たちが全般的に《もっとも》教育あると考えているような人を自分たちの代表者として選びだすことになるだろうし、彼らの行為に公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかにならないかぎり、彼らを選び続けることになるだろう。

このことは、人民が十分に判断できるのはどのようなものであり、できないものはどのようなものであるかを知っているという、誰でももっているような分別さえもっていればよいということを含意している。

国民の大半がこの分別をかなりの程度共有しているとしたら、そのような人民に関するかぎり、普通選挙賛成論は反対しがたいものであろう。

というのは、年月を重ねた経験、とりわけあらゆる重大な国家的非常時における経験は、大衆は優れた知性をもった人が必要なことに本当に気づいているときにはいつでも、優れた知性をもった人を見分けそこなうことはほとんどないということを示しているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.362-364,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良い統治のための必要条件,選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月20日火曜日

「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

善には善を

【「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)へ追記。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて、人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと。
    (b.3.1)恩恵を受けた人は、その恩恵に対して返礼することが、自然で合理的なこととして期待されている。すなわち「善には善を」は習慣的に、十分に確信され信頼されている原理である。
    (b.3.2)相手が必要としているときに、恩恵に対する返礼を拒否することは、合理的な期待を裏切ることであり、相手に重大な危害を与える。
    (b.3.3)事例として、友情に背いたり、約束を破ったりすることは、重大な危害を与える。
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「善には善をというのも正義の命じていることである。そして、その社会的功利性は明らかであり、それは自然な人間の感情を伴っているが、これは一見したところ、正義・不正義のもっとも基本的な事例において存在し、正義の感情に特有の激しさの源泉となっている、危害や侵害とのはっきりとした結びつきをもっていない。しかし、この結びつきは明白でないけれども実在していないわけではない。恩恵を受けながら、必要とされているときにその恩恵に対して返礼をすることを拒否する人は、もっとも自然で理にかなっている期待のうちの一つを裏切ることによって、そしてその人が少なくとも暗黙的には抱くように仕向け、それがなければ恩恵がもたらされることはまずなかったと思われるような期待を裏切ることによって、実際に危害を与えている。人による害悪や不正のなかで期待を裏切ることが重要な地位を占めていることは、それが友情に背いたり約束を破ったりするという二つのきわめて不道徳な行為の主要な違反要件になっているという事実に示されている。習慣的に、また十分に確信して信頼しているものに必要としているときに裏切られることほど、人が受けうる危害が重大なものはほとんどないし、これ以上の大きな危害を受けるものはない。このように善を与えないだけのことであるが、これ以上に重大な不正はほとんどないし、これ以上に被害を受けた人や共感を抱いている傍観者に憤りを感じさせるものはない。したがって、各人にふさわしいものを与える、つまり悪には悪を与えるとともに善には善を与えるという原則は、私たちが定義した正義の観念に含まれているだけでなく、人を評価する際に正義を単なる便宜性よりも重視させる、あの激しい感情の適切な対象にもなる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.340-343,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:善には善を,正義の原理,合理的な期待,恩恵に対する返礼)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月18日日曜日

正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義と、便宜や機略

【正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2)正義の原理
  「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、全ての人に共通である。
   カントの道徳の根本原理「その行為の規則が、すべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」も、同じことを主張している。
  (b)行為の規則は、全ての人にとっての善を目的としたものである。
   仮に、規則が「行為者の善のみを目的とせよ」という完全に利己的なものであったとしたら、この規則は、すべての理性的存在によって採用されるという要請とは矛盾するだろう。
  (c)自分自身や、自分が共感している人びとに限定されることなく、全ての人びとに広げられている。
 (2.2)行為の規則を是認する感情
  (a)行為の規則を犯した人に、処罰を与えてよいという欲求がある。
  (b)行為の規則に違反することによって、被害を被る特定の人がいるという認識を伴う。
  (c)仮に、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害であっても、まず、全ての人にとっての善という目的に適っているかどうかが判断される。
  (d)逆、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害がない場合でも、社会全体に対する危害に対して憤慨の感情が生じる。
 (2.3)「権利」とは何か。
  (a)自分か他者かは問わず、自分が共感している人びとか否かを問わず、行為の規則を犯した人によって加えられた被害に対して、規則を犯した人を処罰し、被害者を救済することが、社会に対して正当に請求できるとき、被害者は「権利」を保持しており、その権利を侵害されていると表現する。
  (b)仮に、何らかの原因により特定の人が被害を被っていても、社会がその人に何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められれば、彼に「権利」はない。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「正義と便宜の間の違いは想像上の区別にすぎないのだろうか。正義は機略(policy)よりも神聖なものであり、正義が満足されてからはじめて機略は傾聴されるべきであると考えたのは、妄想にとりつかれていたということなのだろうか。

けっしてそうではない。私たちが正義の感情の性質や起源についておこなった説明によって真の区別がはっきりと示されている。

行為の帰結をその道徳性の一要素とすることにひどい軽蔑を示す人のなかに、私以上にこの区別を重要視している人はいない。

私は功利性に基礎づけられていない空想的な正義の基準を打ち立てているあらゆる理論の主張に対して異議を唱えるが、功利性に基礎づけられた正義があらゆる道徳の主要部分であり、飛びぬけて神聖で拘束力の強い部分であるとみなしている。

正義とはある種の道徳規則に対する名称であり、それは人生の指針となる他のあらゆる規則よりも人間の福利にとって不可欠なものにより緊密に関わるものであり、それゆえにより絶対的な拘束力をもっている。

私たちが正義の観念にとって本質的であるとみなした考え、つまり個人に属している権利という観念は、このより強い拘束力をもった責務を含意し、それを立証しているのである。

 人類が互いに危害を与えることを禁じている道徳規則(互いの自由への不当な干渉を禁じることがこのなかに含まれていることを忘れてはいけない)は、人間の福利にとって他のあらゆる格率よりも重要であり、他の格率はどれほど大切だとしても、人間事象のいくつかの部門をうまく扱うための最良の方法を明らかにしているにすぎない。

これらの道徳規則は人類の社会的感情の全体を左右する主要な要因であるという特性ももっている。

人類がこれらの規則を遵守することによってのみ、人々の間で平和が保たれる。もしこれらを遵守することが決まりごとではなく、遵守違反が例外的ではないとしたら、各人が他のすべての人を敵とみなし、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。

同じように重要なのは、これらの規則は、人類が他の人に対してこれらを認識させることにもっとも強く直接的な誘因をもった指針であるということである。

人々は慎重に指針や勧告を互いに与え合うだけでは、何も得ないか、何も得ないだろうと考える。人々は積極的な善行の務めを互いに教えあうことに明白な利益を持っているが、その程度はきわめて小さい。

人は他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。

このように、他者から直接的に危害を被るにせよ、自らの善を追求する自由を妨げられることによって被る危害にせよ、他者から危害を受けないように個々人を保護している道徳は、人がもっとも心から気にかけているものであると同時に、言葉や行動によって示し実行することにもっとも強い関心を抱いているものでもある。

この道徳を遵守するかどうかによって、人は人類という共同体の一員として生きていくのがふさわしいかどうかが試され判断される。というのは、人が関係をもつ人にとって厄介者になるかそうならないかはこのこと次第だからである。

だから、正義の責務を構成しているのは主としてこれらの道徳である。

もっとも際立った不正義の事例であり、この感情を特徴づけている反感の論調を決めている事例は、人に対する不当な侵害行為や不当な権力の行使である。これに続く事例は、人が受け取るべきものをその人に不当に与えないでおくことである。

どちらの事例においても、直接的な苦痛という形によるか、自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善をその人に与えないという形によるかして、積極的な危害が人に対して加えられている。

 これらの主要な道徳を指令するのと同じような強い動機が、これらに違反した人を処罰することを要求する。

そして、それらの動機はすべて、自己を守るという衝動や他の人を守るという衝動、復讐の衝動として違反者に向けて呼びおこされるので、悪には悪をという報復は正義の感情と強く結びつくようになり、正義の観念のなかに一般的に含まれるようになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.337-340,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義,便宜や機略,正義の拘束性,危害,報復の感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月10日土曜日

できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的犯罪の自発的な性格

【できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(c)詳細化。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
    (b.1.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
    道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))
    (b.2.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相容れない法と道徳が併存する場合もある。
    (b.2.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更したり、高めたりすることもある。
    (b.2.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅することもある。
    (b.2.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。
  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   道徳的および法的犯罪が成立する諸条件。
   (c.1)道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
    基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
   (c.2)何が正しい行動なのかを知っている。
    (c.2.1)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか?
    (c.2.2)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。
   (c.3)できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができる。
    (c.3.1)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をしても、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
    (c.3.2)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
   (c.4)能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。
    道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
   (c.5)考察するための事例。
    (c.5.1)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
    (c.5.2)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
    (c.5.3)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
    (c.5.4)不注意や過失による殺人
    (c.5.5)故意の殺人
  (d)道徳的圧力の形態
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法



 「(3)道徳的犯罪の自発的な性格 法は「外面的」行動にのみ関与するのに対して、道徳はもっぱら「内面的」なものに関与するという古くからある考えは、すでに検討した二つの特徴を部分的に誤って言いあらわしたものである。しかし、この考えは道徳的責任と道徳的非難のある顕著な特徴を示すものとして極めてしばしば取り扱われている。もしある人の行動が《外部から》判断して道徳的ルールまたは原則を犯しているにもかかわらず、その者が自己の行為は故意によるものではなく、自己のできるかぎりの注意にもかかわらず生じたものであることを立証するのに成功したという場合、その者は道徳的責任を免れるし、このような事情の下で彼を非難することはかえって道徳的に問題があることになるであろう。ここにおいて、彼はできるだけのことをしたのであるから、道徳的非難を免れるのである。発達したいずれの法体系においても、ある点まで同じことが言えるのである。というのは、《故意》という一般的要件は刑事責任における一要素であって、それは、不注意によらず、無意識に、あるいは法に従う肉体的または精神的能力を欠く状態において罪を犯す者が免責されることを確保するために予定されたものだからである。もしもこういうことになっていなければ、法体系は、少なくも厳しい刑罰を伴う重罪の場合に、大きな道徳的非難にさらされることになるであろう。
 それにもかかわらず、すべての法体系にこのような免責をもち込むことはさまざまな方法によって制限されている。心理的事実の証明は本当に困難であり、あるいは困難であるといわれているので、法体系は特定の個人が現にもっている心理的状態ないしは能力の究明を拒み、その代わり「客観的テスト」を用いることになる。このテストによって、罪を問われている個人は、通常人とか「道理をわきまえた」人間のように自制の能力をもち、あるいは注意能力をもつものとみなされるのである。法体系のなかには「意思」能力の欠如と「認識」能力の欠如とを区別しないものがある。このような場合に、これらの法体系は罪の免責の範囲を意思の欠如または知識の欠陥に限ることになる。また法体系はある犯罪類型については、おそらく被告人が正常に身体をコントロールすることができなければならないという最低の要件は別にして、「厳格な責任」を課すことによって責任を《故意》とはまったく切り離しているのである。
 したがって、被告人が自分の違反した法について、それを順守しようとしてもできなかったであろうということを示すことによって、法的責任は必ずしも除かれるとはかぎらないということを明らかである。これとは対照的に、道徳上の行為においては「せざるをえなかった」ということは常に一つの弁解となるものであり、また道徳的責務は道徳上「べきである」ということがこの意味において「できる」ということを意味しない場合には、現にあるものとはまったく異なるものになろう。しかし、「せざるをえなかった」が(十分な弁解であるとしても)一つの弁解にすぎないということを理解し、弁解を正当化と区別することは重要なことである。というのは、すでにのべたように、道徳は外面的行動を要求するのではないという主張はこれら二つの観念の混同に起因するものだからである。もし善意というものが道徳的ルールの禁じる行為を正当化するものであれば、あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤って他人を殺した者の行為について嘆き悲しむことは何ひとつないであろう。このような行為は、正当防衛上必要な措置としてなされる他人の殺害と同じようにみられるべきである。後者が《正当なものとされる》のは、そのような状況における殺人が、たとえ殺人の一般的禁止の例外であることはいうまでもないとしても、法体系が防止しようとするものではなくむしろ奨励しさえするような性質の行為だからである。罪を犯した者が、故意によるのではないという理由で《弁解がいれられる》という場合、その根底にある道徳的観念は、この行為が法の政策上許容され、あるいは歓迎さえされるといった性質をもつものだからというところにあるのではない。むしろそれは、この場合犯罪人の精神状態を調べてみると、その者は法の要請に従う正常な能力を欠いていたとみられる、というところにある。このようにみてくると、この道徳の「内面性」という側面は、道徳が外面的行動に対するコントロールの形態ではないということを意味するのではなく、個人は自己の行動についてある種のコントロールをしなくてはならないというのが道徳的責任の一つの必要条件であるということである。道徳においてさえも、「彼は誤ったことをしなかった」ということと「彼はそれをせざるをえなかった」ということの間にはある相異が存在する。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.194-195,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的犯罪,法的責任,道徳的責任,せざるを得なかった)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

個人の才能や技能と、妥当な報酬

【妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (3.5)個人の才能や技能と、妥当な報酬
  (a)社会に対する貢献度
   (a.1)社会は、より有能な労働者から多くを得ている。共同の成果のうち大きな割合は、実際には有能な人の労力によるものである。
   (a.2)しかし、共同の成果のうち、性質の異なる様々な労力の成果を、どのようにすれば正当に評価することができるだろうか。
  (b)偶然的な出来事の影響
   (b.1)偶然的な出来事や幸運から、ある人は大きな成果を上げ、他の人は、自らは何の過ちも犯していないのに、成果が上げられなかったとしたら、どうだろう。全力を尽くす人は、誰であっても同じ報酬を受けるに値するのではないだろうか。
   (b.2)生まれながらに、様々な資質を持った人びとがいる。ある人は、生まれ落ちた時代と社会において大きく評価される資質を持っており、他の人はそのようなものを持っていない。また、ある人は特定の能力を欠いて生まれてくる場合もある。
  (c)人の有能さの由来
   そもそも有能な人も、その有能さを社会から与えられたというのが事実である。生まれ落ちた家庭の環境、与えられた教育と社会的環境が、その人の有能さを育んだ。この意味で、個人の有能さは個人の努力の成果というだけではなく、同時に社会的環境の成果物でもある。
  (d)社会の果たすべき役割
   (d.1)有能な人の貢献が社会にとって有用だとしたら、社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っているのではないか。
   (d.2)優れた能力をもっている人は、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉を持っていることによって、すでに十分すぎるほどに利益を得ている。社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることである。
  (e)個別原理を超える妥当性は、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「共同体的な産業アソシエーションにおいて、才能や技能をもつ人はより多くの報酬を得る権利があるというのは正義なのだろうか、そうでないのだろうか。

この問題を否定的に考える側は、全力を尽くす人は誰であっても同じ報酬を受けるに値するし、自らは何の過ちを犯していないのに低い立場におかれることは正義ではないと論じている。

そして、優れた能力をもっている人は、世俗的な財貨についてより多くの分け前を受け取ることはなくても、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉をもっていることによってすでに十分すぎるほどに利益を得ているし、正義のために社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることであると論じている。

これに反対する側は次のように強く主張している。社会はより有能な労働者から多くを得ている。そのような人の貢献が有用だとしたら社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っている。

共同の成果のうち大きな割合は実際にはその人の労力によるものであって、それに対するその人の権利を認めないのは一種の略奪である。

その人が他の人と同じ報酬を受け取れないとしたら、その人は他の人と同じくらいの生産を行うことしか求められず、その人の優れた能力に比べてみればわずかの時間と労力を割くことしか求められないことになる。

誰がこれらの相反する正義の原理への訴えの間で評決を下せるだろうか。この事例では正義は二つの側面をもっていて、それは調和させることのできないものである。

双方の論者はそれぞれ相対する側を選び取っており、一方は個人が何を受け取ることが正義なのかに関心を向け、他方は共同体が何を与えることが正義なのかに関心を向けている。

いずれもそれぞれの視点からは反論の余地はない。正義を考慮しながらそれらのうちいずれかを選んだとしても、それはまったく恣意的なものにならざるをえない。社会的功利性だけが優劣を決めることができる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.335-336,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:妥当な報酬,個人の才能や技能,社会に対する貢献度,偶然的な出来事)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月9日金曜日

道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則の特徴:意図的な変更を受けない

【道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(b.2)追記。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
    (b.1.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
    (b.2.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相容れない法と道徳が併存する場合もある。
    (b.2.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更したり、高めたりすることもある。
    (b.2.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅することもある。
    (b.2.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。
  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
  (d)道徳的圧力の形態
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法


 「道徳や伝統は法のように立法機関の制定行為によって直接変更されるものではないという事実から、それらが他の形の変更をも受けないものであると誤解してはならない。たしかに道徳的ルールや伝統は意図的な選択や定立によって廃止したり変更することはできないけれども、法の定立や廃止がある種の道徳的基準やある種の伝統の変化または衰退の原因の一部になることは十分ありうることである。もしガイ・フォークスの夜祭のような伝統的な慣行が法によって禁じられたり罰せられるということになれば、この慣行は絶え、伝統は消滅するだろう。これに反して、もしある法がある階層の人々に兵役を課すことになれば、これはその階層に一つの伝統を生み出し、それはその法よりも長く存続することになるかもしれない。したがって、法の規定もまた誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、これは究極的に現行の道徳を変更したり高めたりすることにもなる。これは反して、道徳上義務的であると考えられる慣行を法によって抑制することが、結局は、その慣行が重要であるという意識とそれゆえにまたその道徳としての地位を失わしめる原因となるのである。しかしたいていの場合、法はこのような深く根をおろしている道徳との戦いには敗れるのであり、その道徳的ルールは道徳が命じるものを禁じる法とならんで生気あふれる活動を続けるのである。
 伝統や道徳が変化する場合、法がその原因となるかもしれないが、その変更の諸形態は立法機関による変更や廃止とは区別されなければならない。というのは、法律の制定によって《法的》地位が獲得されたり失われたりすることはたしかに制定された法律の「法的効果」であると呼ばれるであろうが、これは、制定法が道徳または伝統に対して結果的にもたらす効果のような、偶然的な変化の原因となるものではない。この相異を理解するためには、明白で有効な法の制定が道徳の変更をもたらすかどうかは常に疑うことができるのに対して、明白で有効な法の制定が法を変更したものであることに対して同様の疑いをさしはさむことはできない、という事実を見れば十分であろう。
 道徳または伝統の観念が意図的な制定による変更の観念とは相いれないものであるということは、また、ある体系のある種の法が憲法の制限的条項によって変更を受けないということとも区別されなければならない。このような変更を受けないことは、憲法の改正によって取り除くことができるものであるから、法が法としてもっている地位に不可欠の要素ではない。このように法が立法機関による変更を受けないのとは異なり、道徳や伝統が同様の方法によって変更されえないということは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。そのことは道徳や伝統という言葉の意味に組み込まれているものであって、法の定立が法をつくり変更するのと同様の意味で、道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。特に国際法について考察するようになれば、この体系の欠陥であるとみられることのある立法機関の単なる《事実上の》欠如と、ここで強調したように、道徳的ルールまたは基準は立法行為によってつくられ廃止されるという考えに潜んでいる基本的な矛盾とを区別することが重要であることがわかるようになるであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.192-194,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則の特徴,意図的な変更を受けない)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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犯罪行為の処罰の程度を決めるには、(a)処罰と道徳的罪悪との釣り合いを取るという原理と、(b)犯罪抑止の原理があるが、さらに(c)犯罪者、被害者を含めた全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

量刑の原理、犯罪抑止の原理

【犯罪行為の処罰の程度を決めるには、(a)処罰と道徳的罪悪との釣り合いを取るという原理と、(b)犯罪抑止の原理があるが、さらに(c)犯罪者、被害者を含めた全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.4)追加。

(3)事例。
  正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)個人の自由と正当防衛
  (a)個人の自由
   問題になっているのが、その人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰も持っていない。したがって、たとえその人の「ためになる」と思われることでも、介入することは不正義ではないか。
  (b)正当防衛
   個人の自由があるといっても、他の人に害悪が及ぶ場合には、それを防止するために介入することは、正義である。なぜなら、自分自身に害悪が及ぶ場合に、いかなる人も自分自身を守ることは、正当なことだからである。
  (c)個人の自由の限界は、どこにあるのか。ある人の自由な行為の結果が社会に及ぶ場合、影響のうちどの範囲のものが、他の人に及ぼされる害悪と言えるのか。さらに、害悪があるとしても、その害悪を防止するために自由を制限する限界はどこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)責任の原理、決定論と意志の自由
  (a)責任の原理
   本人がどうしようもできないことに関して、その人を罰することは不正義である。
  (b)決定論
   教育や環境によって性格が作り出されたとしたら、犯罪者にはどこまで責任があるのだろうか。
  (c)意志の自由
   人には意志の自由がある。したがって、徹底的に憎むべきような意志を持った人は、仮に教育や環境の影響があるにしても、自らの意志に責任を負わなければならない。
  (d)これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)同意あれば危害無しか、社会契約か
  (a)同意あれば危害無しの原則
   他の人の利益になるからといって、ある一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに犠牲にするということは、不正義である。
  (b)社会契約の擬制
   人間というものは、社会の構成員全員が、自分たちの利益や社会全体の利益のために、法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられるという契約をしているものだと考える。
  (c)本人の意志、同意によって決め得る正義の範囲の限界は、どこにあるのか。本人の意志に関わらず、正当なものとされる正義の限界は、どこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 (3.4)量刑の原理、犯罪抑止の原理
  (a)量刑の原理
   処罰は犯罪行為と釣り合っているべきである。道徳的罪悪を測る基準がどのようなものであるとしても、犯罪者の道徳的罪悪によって、処罰は測られなければならない。
  (b)犯罪抑止の原理
   本人が非行を繰り返さないように、そして他の人がそれを真似しないようにするのに十分な、最低限度の処罰が必要である。これを超える苦痛を同胞に負わせることは、その非行がどのようなものであったとしても、正義ではない。
  (c)個別原理を超える妥当性は、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「罰を与えることの正当性が認められるときでも、犯罪者に対して割り当てられる適切な処罰について議論がなされると、なんと多くの相反する正義の概念が明るみになることであろう。

この問題については、目には目を歯には歯をという報復律ほど、原初的で自然発生的な正義の感情に強く訴えかける規則は他には存在しない。

このユダヤ的でマホメット的な法の原理はヨーロッパにおいては実践的格率としては徐々に放棄されてきているが、多くの人は心のなかでは密かに望んでいるように思われ、そのために、報復がこのような厳格な形で犯罪者に偶然に降りかかると一般的に満足感が表明されることになるし、このことは同じやり方で報復することを受け入れる感情がいかに自然なものであるかを示している。

多くの人にとって、刑罰における正義を判断する試金石は、処罰は犯罪行為と釣り合っているべきであるというものである。つまり、(道徳的罪悪を測る基準がどのようなものであるとしても)犯罪者の道徳的罪悪によって処罰は測られなければならないという意味である。

彼らの見方では、犯罪を抑止するためにはどの程度の処罰が必要かという考慮は正義に関する問題とは関係ない。

一方で、この考慮こそすべてとみなす人もおり、彼らは、本人が非行を繰り返さないように、そして他の人がそれを真似しないようにするのに十分な最低限度を超えた苦痛を同胞に負わせることは、その非行がどのようなものであったとしても、少なくとも人間にとっては正義ではないと主張している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.334-335,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:量刑の原理,犯罪抑止の原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月8日木曜日

25.正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理

【正義の原理が、個別に主張される時には、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれている。全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則という原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】


(3)事例。
 (3.1)個人の自由と正当防衛
  (a)個人の自由
   問題になっているのが、その人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰も持っていない。したがって、たとえその人の「ためになる」と思われることでも、介入することは不正義ではないか。
  (b)正当防衛
   個人の自由があるといっても、他の人に害悪が及ぶ場合には、それを防止するために介入することは、正義である。なぜなら、自分自身に害悪が及ぶ場合に、いかなる人も自分自身を守ることは、正当なことだからである。
  (c)個人の自由の限界は、どこにあるのか。ある人の自由な行為の結果が社会に及ぶ場合、影響のうちどの範囲のものが、他の人に及ぼされる害悪と言えるのか。さらに、害悪があるとしても、その害悪を防止するために自由を制限する限界はどこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)責任の原理、決定論と意志の自由
  (a)責任の原理
   本人がどうしようもできないことに関して、その人を罰することは不正義である。
  (b)決定論
   教育や環境によって性格が作り出されたとしたら、犯罪者にはどこまで責任があるのだろうか。
  (c)意志の自由
   人には意志の自由がある。したがって、徹底的に憎むべきような意志を持った人は、仮に教育や環境の影響があるにしても、自らの意志に責任を負わなければならない。
  (d)これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.3)同意あれば危害無しか、社会契約か
  (a)同意あれば危害無しの原則
   他の人の利益になるからといって、ある一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに犠牲にするということは、不正義である。
  (b)社会契約の擬制
   人間というものは、社会の構成員全員が、自分たちの利益や社会全体の利益のために、法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられるという契約をしているものだと考える。
  (c)本人の意志、同意によって決め得る正義の範囲の限界は、どこにあるのか。本人の意志に関わらず、正当なものとされる正義の限界は、どこにあるのか。これらは、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「私たちは、功利性は不確実な基準であって、すべての人が異なった仕方でそれを解釈しているし、それ自体が根拠をもっていて世論の揺らぎとは無関係な正義による不変で不滅で明白な指令以外に確実なものはないと絶えず告げられる。

ここから、正義に関する問題については論争の余地がなく、正義を規則とみなせば、どのような事例に適用しても数学の証明のようにほとんど疑問の余地がなくなると思うかもしれない。

このことは事実から遠く離れており、何が正しいのかについては、何が社会にとって有用なのかについてと同じように、多くの見解の相違や多くの議論がある。

異なった国民や個人は異なった正義の観念をもっているだけでなく、同一の個人の心のなかでさえ、正義は何らかの単一の規則、原理、格率ではなく、多くのものからなっており、それらの指令はつねに一致するとはかぎらないし、それらの中から選び取るときには、何らかの外的基準か個人的な好みによって導かれるのである。

 たとえば、他の人への見せしめのために人を処罰することは不正義であり、処罰はそれを受ける人の善を目的としているときにのみ正義にかなっていると言う人がいる。

まったく反対のことを言って、その人の利益のためといって分別ある年齢に達している人を罰するのは、問題になっているのがその人自身の善だけだとしたら、善についてのその人の判断を支配する権利は誰ももっていないのだから、横暴で不正義であるが、他の人に害悪が及ぶのを防止するためには、これは自己防衛という正当な権利の行使であるから、正当に罰を与えることができると主張する人もいる。

また、オウエン氏は、犯罪者が自らの性格を作り出したのではなく、教育や取り囲んでいた環境が人を犯罪者にしたのであり、それらについてその人は責任がないのだから、処罰はとにかく不正義であると主張している。

これらの見解はすべて非常にもっともらしいし、この問題が単に正義に関するものの一つとして論じられ、正義の根底にありその権威の源泉となっている原理にまで掘り下げられることがないならば、どのようにしてこれらの論者を論破することができるかは私にはわからない。

というのは、実際にこれらの三つの主張はいずれも明らかに真の正義の規則に立脚しているからである。

第一のものは、一個人を選び出して、本人の同意を得ることなしに他の人の利益のためにその人を犠牲にするという広く認められている不正義に訴えている。

第二のものは、自己防衛という広く認められている正義と、人が自分の善は何であるかということについて他の人に従うように強要されるという一般に認められた不正義に訴えている。

オウエン主義者は、本人がどうしようもできないことに関して人を罰することは不正義であるという一般に認められた原理を持ち出している。

自らが選んだもの以外の正義の格率も考慮しなければならないようにならないかぎりは、いずれの論者も得意げにしている。しかし、それらの複数の格率がつき合わされると、それぞれの論者は、他の論者とまったく同じ程度の自己弁護論を並べ立てるだけのように思われる。

彼らのうち誰も、同じような拘束力をもっている他の正義の観念を踏みにじることなく、自らの正義の観念を押し通すことはできない。これらが難点であり、これまでずっとそのように思われてきた。

そして、それらを克服するというより避けるために多くの工夫が考案されてきた。

三つのうち最後のものからの逃げ込み場として、人々は意志の自由と呼ぶものを考え出し、徹底的に憎むべきような意志をもった人を罰することは、そのような状態になったのはそれまでの環境の影響によるものではないと思われないかぎり、正当化することはできないと考えている。

その他の難問から逃れるために都合のよい工夫は契約という擬制であり、それによって、いつのことか分かっていないある時代に社会の全構成員が法律に従うことを約束し、法律に違反したら罰せられることに同意し、その結果として、彼らを自分たちの利益あるいは社会の利益のために罰するという、このようなことをしなければ手にすることができなかったような権利を彼らの立法者に与えたとされる。

この巧妙な考えは難点を全面的に取り除くものと考えられ、危害を被ると思われる人の同意を得てなされることは不正義ではないということを意味する「同意あれば危害なし(Volenti non fit injuria)」という、もう一つの一般に認められている正義の格率に基づいて処罰を与えることを正当化するものと考えられた。

この同意が単なる擬制ではないとしても、この格率はそれが取って代ろうとした他の格率よりも優越した権威をもっていないということを指摘する必要はほとんどない。

むしろ、この格率は正義の原理というものがいい加減でいびつな仕方でできあがってくることを示している教訓的な実例である。

この特殊な格率は法廷での急場しのぎの一助として使われるようになったものであり、法廷は、詳細に検討しようとするとより大きな害悪がしばしば生じてくるだろうという理由から、時にはきわめて不確実な推論で納得せざるをえない。

しかし、法廷でさえこの格率をつねに遵守できてはいない。というのは、詐欺を理由として、あるいは時にはほんの些細な誤解や誤認を理由として、法廷は自発的な契約を無効にすることを認めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.331-334,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:正義の原理,個人の自由,正当防衛,責任の原理,決定論,意志の自由,同意あれば危害無し,社会契約)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月4日日曜日

一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則の特徴:意図的な変更を受けない

【一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(b.1)~(b.4)追記。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。

  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
  (d)道徳的圧力の形態
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法

 「(2)意図的な変更をうけないこと ある法は最高の立法府の権限を制限する成文憲法によって変更されないよう保護されている場合があるけれども、法体系の特質は意図的な立法行為により新しい法的ルールが導入され、古いものは改廃されるというところにある。これと対照的に、道徳的ルールとか原則の場合には、このような方法ではこれを導入、変更、廃止することができない。しかしこのようにすることが「できない」と主張しても、人間が気候を変えることは「できない」という主張と同じように、ある事態では現実にそのことが起こりうることを否定するものではない。そうではなくて、この主張は次のような事実を示しているのである。すなわち、「しかじかの行為は1960年1月1日をもって刑事犯罪とされる」とか、「しかじかの行為は1960年1月1日をもってもはや違法とはされない」ということや、このような陳述を、定立または廃止された法を参照して支持することは十分意味のあることである。ところが、これにくらべて、「しかじかの行為は明日からもはや不道徳ではなくなる」とか、「しかじかの行為は去る1月1日をもって不道徳なものとなった」というような陳述、およびこれらを意図的な定立を参照して支持しようとする試みは、無意味とは言わないまでも驚くべき矛盾となるであろう。というのは、道徳的ルール、原則または基準が、法と同様に、意図的行為によってつくり出されたり変更されてりすることができるものとみなされるべきだということは、個人の生活において道徳が果たしている役割と矛盾するからである。行動の基準は人間の《厳命》fiat によって道徳的地位を与えられたり奪われたりするものではないのである。このことが法について当てはまらないことは定立、廃止というような日常の用法から明らかである。
 道徳哲学の大部分は、道徳のこのような特徴を説明しようとし、道徳は何か「そこにあって」承認されるというたぐいのものであり、人間の意図的な選択によってつくられるものではないということの意味を明らかにすることに腐心しているのである。しかし、この事実それ自体は、それの説明とは異なり、道徳的ルールの特色とされるものではない。なぜなら、道徳のこのような特徴は、それが極めて重要なものであるとしても、それ自体では道徳を社会規範のその他のすべての形態から区別するのに役立たないからであって、その理由は、他の点ではそうでないにしても、この点についてみればどのような社会的伝統でも道徳と似ているということによるのである。つまり、伝統もまた人間の《厳命》によって定立したり廃止したりすることのできないものである。おそらくは偽作であろうが、イギリスのある新しいパブリック・スクールの校長が、来学期のはじめから上級生は一定の服装をすべきであることを本校の伝統とすると発表したという話があるが、それがこっけい味をもつのは、伝統という概念が意図的な定立および選択の概念と理論的にまったく矛盾するからである。ルールはそれが生成し、実行されることによってその伝統としての地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。そして、このようにゆっくりした、意図的でない過程とは別の方法で導入されたり廃止されるルールは、それによって伝統としての地位を得たり失ったりするということはありえないであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.191-192,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則の特徴,意図的な変更を受けない)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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