2019年8月26日月曜日

29.人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

真理の一部をその全体と誤解すること

【人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

 「人間と社会との研究家で、しかもそのように困難な研究にとっての第一要件、すなわちその研究にともなうもろもろの困難についてのしかるべき認識、を備えている人は皆、絶えずつきまとう危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりはむしろ真理の一部をその全体と誤解することである、ということを知っているはずである。社会哲学における、過去または現在の、主な論争は、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるということ、また、いずれの側にせよ、そもそも己の見解の上に相手の見解を加味することができたならば、その教説を完全なものにするためには、それ以上にほとんど何ものをも要しなかったであろうということ、以上のことは、まず間違いなく主張しうるところであると言ってよいだろう。人類は文明によってどれほどの利益を得たかという問題を例にとってみるがよい。ある観察者は、物理的な安楽が増大したこと、知識が進歩し普及したこと、迷信がすたれたこと、相互交流が容易になったこと、礼儀作法が優雅になったこと、戦争と個人的闘争とが減少したこと、強者が弱者の上に及ぼす圧制が漸次制限されてゆくこと、大衆の協力によって地球上のいたるところにもろもろの偉大な事業が成就されたこと、以上のことによって強烈な印象をうける。こうして彼は、あのきわめてありふれた人物、すなわち「わが開明の時代」の礼賛者となるのである。しかるに、他の観察者は、これらの利益の持っている価値にではなしに、これらの利益を得るために支払われた高価な代償に、もっぱらその注意を向ける。すなわち、個人の精力と勇気とが減退したこと、誇り高くして自らをたのむ独立心が失われたこと、人類のきわめて多くの部分が人為的な必要品の奴隷となり果てていること、彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること、彼らの生活が退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと、彼らの性格が情熱に欠け面白味のないものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること、決まりきった規則にのっとって決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力と、即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力と、この両者の間にいちじるしい対照が感じられること、富と社会的地位とのはなはだしい不平等が道義的な退廃をかもし出していること、文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点では野蛮人の場合とほとんど変わらないにもかかわらず、野蛮人が必要物の供給のうえの不便さの代償として持っている自由と刺激との代わりに、無数の足かせに縛られて悩んでいること、などがそれである。こうしたことに、しかももっぱらこうしたことのみに、注目する人は、野蛮生活は文明生活よりも望ましいものであり、文明の作用は、できる限り、抑制されるべきものであると推論しがちになるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.138-139,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:真理の一部をその全体と誤解すること)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月25日日曜日

5.放射性廃棄物が壊変して毒性のない元素になるには、数百万年の時間が必要となる。これは、人間に管理できる時間スケールだろうか?(高木仁三郎(1938-2000))

放射性廃棄物の壊変時間

【放射性廃棄物が壊変して毒性のない元素になるには、数百万年の時間が必要となる。これは、人間に管理できる時間スケールだろうか?(高木仁三郎(1938-2000))】

 「毒性の減衰はゆっくりとしており、セシウムやストロンチウムが壊変しきる一〇〇〇年後以降は、長寿命のプルトニウムやネプツニウムの毒性が残存するため、数百万年後まで目立った変化がない。

 それだけの時間の「絶対的隔離」が放射性廃棄物の処分に必要な条件であるが、人間の行う技術に課せられた条件としてはこれはきわめて厳しい。

主として考えられている処分の方法は、地下の深層への埋設処分だが、埋設された放射能が一〇〇万年以上もの間生物環境に漏れ出てこないことを保障することはできそうにない。

 放射性廃棄物を閉じこめる容器(いわゆる人工バリア)と地下の岩盤(天然バリア)によって隔離を達成しようとするわけだが、容器は数十年以上の耐腐食性が保障されそうにないし、地下の地層も何万年を超えるような安全性を確保できそうにない。

最も大きな問題は、何百万年といわず、仮に何千年という期間を考えても、私たちの現在もっている科学的能力では、その期間に何が起こるか、とても予測ができないことだ。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第二巻 脱原発へ歩みだすⅡ』共著書の論文 核エネルギーの解放と制禦、p.528)
(索引:放射性廃棄物の壊変時間)

脱原発へ歩みだす〈2〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
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ニュース(原子力市民委員会)

裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的権利と法的権利

【裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3)追加。

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則
  法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)先例
  裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)法準則と先例を支持する諸原理
  そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。そして、これらの諸原理は、法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。
 (2.1)当該特定の法準則を肯定的に支持する諸原理
  これらの諸原理は、当該法準則の変更を支持するかもしれない他の諸原理よりも、重要であることを意味している。
 (2.2)既に確立された法理論からの離反に対抗する、幾つかの重要な諸原理
  (2.2.1)立法権の優位の理論
   裁判所は、立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると主張する諸原理
  (2.2.2)先例の理論
   判決の一貫性が、衡平に適い、実効性のあることを主張する諸原理

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (a)権利は、制定法により創出される。
  (b)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (a)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (b)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (a)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (b)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (c)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (d)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (e)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
  (f)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利

(4)諸原理
 (4.1)諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (4.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
   原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (4.2.1)原理の制度的な支え
   (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
   (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
   (c)当該原理を引用している制定法の序文
   (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
  (4.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
   (a)制度的責任
   (b)法令解釈の一定の技術
   (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
   (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
   (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
  (4.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行



 「難解な事例における法的論証は、その意味内容に関し複数の解釈が可能な諸概念をめぐって展開されるが、この概念の性質及び機能はゲームの性格を示す概念にきわめて類似している。これらの概念には契約や財産といった法的陳述の構成要素となる幾つかの実体的概念が含まれるが、これには更に我々の当面の論証にとってはるかに関連性をもつ二つの概念が含まれている。第一の概念は、ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」という概念であり、この概念の機能は、権利は制定法により創出されるという一般的見解の政治的正当化と、特定の制定法により如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案とを架橋する点にある。第二の概念は、判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理という概念であり、この概念の機能は同様の事例は同様に判決されるべしとする法理の政治的正当化と、この一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案とを架橋する点にある。これら二つの概念が結合されることにより、法的権利は政治的権利のある種の函数――きわめて特殊な函数ではあるが――として定義されることになる。ある裁判官が法体系において既に確立された慣行を受容すれば――たとえば法体系の明確な構成的及び規制的法準則が彼に認めている自律性を彼が受容すれば――彼は、政治的責任の原則の要請に従い、この種の慣行を正当化する一定の一般的政治理論を受容しなければならない。立法趣旨及びコモン・ロー上の諸原理という概念は、法的権利につき争いのある争点に対し、このような一般的政治理論を適用するための装置なのである。
 さて、ここである哲人裁判官を想定し、然るべき事案において、立法趣旨及びコモン・ローの原理が具体的に何を要請するかにつき彼がいかなる諸理論を展開するかを検討してみるのがよいだろう。このとき、我々は哲人審判員がゲームの性格を理論構成するのと同じやり方で、彼がこれらの理論を展開することに気づくだろう。この目的のために私は超人的な技能、学識、忍耐、洞察力をもつ法律家を想定し、彼をハーキュリーズと呼ぶことにする。更にこのハーキュリーズはアメリカの代表的なある法域(jurisdiction)に属する裁判官であり、彼の法域で明白に効力を有する主要な構成的及び規制的法準則を受容しているとしよう。すなわち彼は、制定法が法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有することを認め、当該裁判所や上位裁判所の先例――法律家が先例の判決理由を呼ぶものが当該事案を拘束するのであるが――に裁判官が従う義務が一般的に存在することを認めているとしよう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,A 立法,木鐸社(2003),pp.130-131,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:立法趣旨,コモン・ローの原理,政治的権利,法的権利)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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ルールが持つ諸属性:(a)重要性、(b)意図的な変更を受けるか否か、(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件、(d)社会的圧力の形態、(e)ルールが適用される集団の範囲。(ハーバート・ハート(1907-1992))

ルールの属性

【ルールが持つ諸属性:(a)重要性、(b)意図的な変更を受けるか否か、(c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件、(d)社会的圧力の形態、(e)ルールが適用される集団の範囲。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
 ルールには、下記のような諸属性がある。
 (a)重要性
  (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
  (a.2)社会的圧力の大きさの程度
   (i)例えば、違反に対して当然なすべき「正しい」ことを主張し、それを思い出させる。
   (ii)例えば、違反に対して厳しい非難や侮辱、関連団体からの除名を伴う。
  (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
 (b)意図的な変更を受けるか否か
  (i)例えば、合意や意図的な選択に由来するものではなく、意図的には変更できない。
  (ii)例えば、合意によって拘束力が生じ、自主的な脱退を許す。
  (iii)法的ルールは、承認、裁判、変更のルールを含む。
 (c)ルールの自明性、自由意志と犯罪要件
  (c.1)自明なルールか、理解を要するルールか
   (i)例えば、判断する能力があれば、誰でも「正しい」行為が分かると見なされるような、社会において広範に容認されている慣習的なルール。
   (ii)例えば、理解していなければ遵守できないような、多くの人々に共有されているわけではない、理想的なルール。
  (c.2)故意または不注意が犯罪とされるか、結果責任か
   (i)自己をコントロールして正しい行為をすることが可能だったにもかかわらず、違反したことによって犯罪とされるようなルール。
   (ii)自己をコントロール可能だったか否かにかかわらず、違反した行為の結果から犯罪だとされるようなルール。
 (d)社会的圧力の形態
  (i)例えば、ルールに対する尊敬、罪の意識、自責の念によって維持されるルール。
  (ii)例えば、刑罰の威嚇によって主として維持されるルール。
 (e)ルールが適用される集団の範囲
  (i)例えば、社会集団一般に適用されるルール。
  (ii)例えば、社会階層のような一定の特質によって区分される、特別な下位集団に適用されるルール。
  (iii)例えば、特定の目的のため結成された集団に適用されるルール。

 「われわれはまず、ある社会で「行なわれている道徳」'the morality'として、あるいは実際の社会集団の「容認された」もしくは「慣習的な」道徳 the 'accepted' or 'conventional' morality としてしばしば言及されている社会現象を考察する。これらの語句が言及しているのは、個々の社会で広範に共有されている行為の基準であって、それらは個人の生活を支配しているがともに住んでいる多くの人々に共有されているわけではない道徳的原則や道徳的理想 the moral principles or moral ideals と対比されるものである。社会集団に共有され容認された道徳の基本的要素は、責務の一般的観念の解明にかかわっていた第5章ですでにのべられた種類の、そしてそこで責務の第1次的ルールと呼ばれた種類のルールから成りたっている。これらのルールが他のルールと区別されるのは、それらを支えている重大な社会的圧力と、それらに従うさいにおこる個人の利益や好みのかなりの犠牲の両者によってである。同じ章で、われわれはまたそのようなルールが社会的コントロールの唯一の手段であるような段階にある社会を描写した。その段階においては、もっと発展した社会でなされるような法的ルールと道徳的ルールの間の明白な区別に対応するものは何もない、ということにわれわれは注目した。このような区別の萌芽的な形態があらわれるのは、たぶん、一方において不服従に対しては刑罰の威嚇によって主として維持されるルールが、他方においてルールに対するもっともらしい尊敬、罪の意識、自責の念へ訴えることによって維持されているルールがある場合であろう。この初期の段階がすぎ去り、法以前の世界から法的世界への歩みがなされたとき、したがって社会的コントロールの手段が、承認、裁判、変更のルールを含むルールの体系をもつようになったとき、法的ルールと他のルールとのこのような対比は固定し、確定したものになる。公的な体系によって確認された責務の第1次的ルールは、このように公的に承認されたルールとともに存在しつづける他のルールとは、今や区別される。実際、われわれ自身の社会、およびこの段階に達したすべての社会において、法体系の外にある多くのタイプの社会的ルールや基準が存在する。そして、ある法理論家達は「道徳」という語を法的ルール以外のすべてのルールを指し示すように用いたこともあるが、これらのうちのいくつかだけが、通常、道徳として考えられ、語られている。
 このような法的ルール以外のルールは、さまざまな方法で区別され分類されるだろう。あるものは、ただ特定の範囲の行動(たとえば服装)とか、意図的につくられるが、ときたましか行なわれない行動(たとえば儀式やゲーム)に関する非常に限られた範囲のルールである。あるルールは社会集団一般に適用されると考えられ、他のルールはそのなかの特別な下位集団に適用されると考えられる。その場合その下位集団は、明白な社会階層のような一定の特質によって、あるいは特定の目的のために会合したり結合したりすることをみずから選ぶことによって区分される。あるルールは合意によって拘束力をもつと考えられ、自主的な脱退を許すだろうが、他のルールは合意や他の形態の意図的な選択に由来するものではないと考えられるだろう。あるルール(たとえばエチケットや正しい話し方のルール)は、違反されたとき、当然なすべき「正しい」ことを主張し、それを思い出させるだけであろうし、他のルールは厳しい非難や侮辱あるいは関連団体からの多少とも長びいた除名を伴うだろう。いかなる正確な尺度をもつくりえないが、これらのさまざまなタイプのルールがもつ相対的な重要性の概念は、それが要求する私的な利益の犠牲の量、および一致への社会的圧力の重さの両方に反映されている。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.185-186,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:ルールの属性,ルールの重要性,ルールの意図的な可変性,ルールの自明性,犯罪要件,社会的圧力の形態,ルールの適用範囲)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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28.単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

伝統的な意見と、それに対立する意見

【単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)伝統的な意見
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。

 「コウルリッジの場合には、いかなる教説にせよ、それが思慮ある人びとによって信じられてきて、あらゆる国民またはいく世代もの人類によって受け入れられてきたという事実そのものが、解決されるべき問題の一部であり、また説明を要する現象の一つなのであった。そして、万事を貴族、聖職者、法律家、その他何らかの詐欺師たちの利己的な利害のせいにする、ベンサムの短絡的で安易な方法は、人間の知性と感情との錯綜物をはるかに深く見抜いていたひとりの人物を満足されることはできなかったので――彼コウルリッジは、いかなる意見にせよ、それが長くまたは広く流布されていたという事実をもって、それがまんざら謬見とは限らないという推定の一つの根拠とみなしたのである。また、のちに至って単なる伝統に従ってその教説を受け入れている人びとの多数にとってはおそらくそうではないにしても、少なくとも最初の創始者たちにとっては、その教説は、彼らにとってある現実性の感じられるものを、言葉に表現しようとする努力の結果である、と彼は考えたのである。また彼は、こう考えた。すなわち、一つの信念が長く存続したということは、少なくともその信念が人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた根拠である、と。また、かりに、その信念の根元まで掘りさげていった際に、たいていの場合そうであるように、ある真理を見出しえないとしても、なおもわれわれは、当の教説がそれを満足させるに適した人間性の、ある自然な要求または必要を発見しうるのである、と。そしてまた、これらの要求の中には利己と軽信との本能が一つの場所を占めてはいるが、決してそれ以外のものを締め出しているわけではない、と彼は考えたのである。二人の哲学者の観点にはこのような相違があったことから、そしておのおのがあまりにも厳格に自らの観点を固執したことから、ベンサムは伝統的な意見のうちに存する真理を絶えず見落とすであろうし、コウルリッジは伝統的な意見の外にあってこれら伝統的意見と対立している真理を絶えず見落とすであろうということは、当然予期しえた事柄である。しかしまた、おのおのは、相手の見落とした真理の多くを見出すか、またはそれらを見出すための途を示すだろうことも、大いにありうることであった。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.132-133,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:伝統的な意見,信念,真理,伝統的な意見に対立する意見)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月24日土曜日

27.選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

選ばれた優れた人たちの判断

【選ばれた優れた人たちは、普通の人たちの判断や意志の単なる代理人であってはならない。なぜなら、真理は常識に反して見えることもあり、多くの研究と思索を経なければ、理解できないような真理もあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.1)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
   (a)例として、普通の人たちが統治に干渉し、予め決められている自分たちの判断を、立法者たちに押しつけ、立法者を普通の人たちの単なる代理人にしてしまう。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
   (a)政治学における真理のなかには、政治学の全体を一通り研究を終えなければ理解できないような命題も存在する。完全に理解するためには、多くの思索と、人間本性に関する経験を理解していることが必要である。
   (b)真理のなかには、見かけ上は常識に反しているように思われるものがあり、逆に一番もっともらしく見える見解が間違っているということも多い。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
   選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  以上に記載した民主主義の考え方が理解され、その精神に従って仕組みが運用されるかどうかは、普通の人たちの見識と行動にかかっている。仕組そのものに保障があるわけではない。
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
   (a)普通の人たちが、科学の問題に関して、科学者が一致して持っている見解に信頼を寄せているように、政治や経済、道徳に関する問題に関しても、優れた見識の価値を評価し、優れた人を選ぶことができるようになるならば、真偽の判断をすることができるであろう。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。


 「他のすべてのことにおけるのと同じように統治においても危険なのは、望むことを何であってもできるような人々が彼らの究極的利益のためになること以上のことをしたいと望むことがあるということである。人民にとって利益となるのは、見つけ出すことのできるうちでもっとも有識で有能な人を自分たちの支配者として選び、そうした後は、彼らが目的としているものが人民の善で《あって》何らかの私的な善でないかぎり、自由な議論とまったく制限のない批判による監視のもとで、人民の善のために彼らが知識と能力を行使するのを認めることである。このようにして運営される民主主義は、これまでのあらゆる統治制度がもっていた良い資質をすべて合わせもつことになるだろう。その目的が善いものであるだけでなく、その手段も時代の英知が認めるような善いものが選ばれるだろう。そして、多数者の全能は代理人を通じて、そして最終的に多数者に対して責任を負っている見識ある少数者の判断にしたがって行使されることになるだろう。
 しかし、民主主義がそれについての間違った考え方に従うのではなく、このような精神によって理解され運営されるための十分な保障を民主主義の仕組みそれ自体が与えるということはありえない。このことは人民自身の良識にかかっている。人民があることを理由として自分たちの支配者を解任することができるならば、別のことを理由としてもそうすることができる。それなしには人民が良い統治への保障をもちえないような究極的な支配権は、人民が望むならば、彼ら自身が統治に干渉し、立法者をあらかじめ決められている多数者の判断を執行する単なる代理人にするための手段とされてしまうかもしれない。人民がこのようなことをするとしたら、彼らは自分たちの利益について思い違いをしていることになる。そして、そのような統治はほとんどの貴族政治よりもよいものだろうが、賢明な人が望むような民主政治ではない。
 民主主義についての正しい理念をこのように歪曲することについて私たちのように深刻には考えない人々もおり、これは開明的な統治を望んでいることが疑いようのない人の中にもみられる。彼らが言うには、多数者がすべての政治的問題を自分たちの法廷に引き出し、自分たち自身の判断にしたがって決定を下すことがよいことであるのは、そうすることで哲学者たちは大衆を啓蒙し、大衆が自分たちのより深遠な見解を理解できるようにしなければならなくなるだろうからである。このようなことを実現することができると考えるかぎりにおいて、人民の統治のこのような帰結に対して私たち以上に重要な価値を認める人は他にいない。そして、人民を教育するために必要なのはそれを望むことだけだとしたら、また、政治的真理を発見することだけが学問や知恵を必要とし、その根拠が見出されたときには、共同体のすべての個人が受けることができ、受けるべきであるような教育を受けた常識をもっているすべての人がその根拠を理解できるとしたら、この議論は抵抗することのできないものになるだろう。しかし、現実はそうではない。政治学における真理の多くは(たとえば経済学におけるように)、複数の命題が結びついたことの結果であり、一通り研究を終えた人でなければその最初の段階でさえ認識することのできないようなものである。完全に理解するためには多くの思索と人間本性に関する経験が必要となるような命題が他にも存在している。哲学者たちはどのようにしてこれらの命題を大衆に納得させるのだろうか。彼らは、常識によって科学を判断させ、無経験によって経験を判断させることができるのだろうか。政治哲学の入り口をくぐったことがあるすべての人が知っているように、その問題の多くに関して、間違った見解が一番もっともらしくみえ、その真理の大部分は、それについて特別に研究した人以外のすべての人にとっては矛盾したものであり、地球が太陽の周りを廻っているという命題と同じように見かけは常識に反しているものであるし、つねにそうであり続けるに違いない。大衆は、自分たちが天文学の問題に関して天文学者が一致してもっている見解に対して無制限の信頼を寄せているが、それと同じような信頼を寄せているような権威者から示されないかぎり、これらの真理をけっして信じようとはしない。現時点で大衆がそのような信頼感を寄せていないということは、哲学者にとって不名誉なことではないし、そのような資格がある人がどこにいるだろうか。しかし、有識階級のなかで意見の全般的一致のようなものを生み出すくらいまで知識の進歩が十分になされればすぐに、そのような信頼は与えられるだろうと強く確信している。現在でさえ、有識階級のなかで意見が一致している論点については、教育のない人々は一般的に彼らの見解を受けいれている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.366-368,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,代理人,真理,常識)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月23日金曜日

04.特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

善とは何か

【特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)何かが「善」であるとは、どのようなことなのか。
 (1.1)価値ある目的の手段としての善
  (a)目的:何か別の善を為すこと、何か別の善を得ることである。
  (b)目的を達成する手段は「善」である。
  (c)例として、ある種の技能を持つこと、ある種の機会を与えられること、ある時ある場所に身を置くこと。
 (1.2)価値ある社会的役割に内在する善
  (a)社会的役割:社会的に確立された特定の実践があり、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値を持つと考えられている。
  (b)ある人が社会的役割を果たしている場合、その活動は「善」である。
  (c)例として、ある漁船の乗組員の一員としての善、ある家族の母親としての善、チェスの選手やサッカー選手としての善。
(2)特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうちどれを選択し、実践的に顧慮して追求することが「善」なのか。また、なぜそれが「善」なのか。
 (2.1)ある目的のために、ある種の資質や能力を高めることが善である。しかし、そもそも何のために、何をなすことが善なのか。
 (2.2)ある社会的役割を担いつつある活動に従事することは善である。しかし、そもそも何のために、人としていかなる存在であることが善なのか。

 「以上の考察は、何かに善を帰するのに、少なくとも三種類のやりかたがあることを示唆している。
 まず第一に、私たちが何かを一つの手段として《のみ》評価することによって、それに善を帰する場合がある。ある種の技能をもつことや、ある種の機会を与えられることや、ある時ある場所に身を置くことは、それらが、人が何か別の善い者になることを、あるいは何か別の善をなすことを、あるいは何か別の善を得ることを可能にするかぎりにおいて、善である。つまり、こうしたことがらはたんに、それ自体として善であるような何か別のことがらの手段《として》善いことなのである。では次に、第二のタイプの善について考えよう。誰かをある一定の役割を担う者として、あるいは、ある社会的に確立された実践の枠内である一定の役目を果たす者として善いと判断することは、その活動に諸々の善が内在しており、それらの善は、もし追求されるとすれば、それら自体が目的として追求されるにふさわしい価値をもつものとして評価される正真正銘の善であるという場合にかぎり、その行為者を善いと判断する、ということである。そうした〔ある活動に内在する〕善が〔ある特定の行為者の特定の行為によって〕そこに生じているのか否か、また、そうした善はそもそもどのようなものなのかということは、そうした問題に特徴的なこととして一般に、その特定の活動について手ほどきを受けることによってしか学ばれえない。ある特定の実践に内在する諸々の善を達成することに秀でているということは、たとえば、ある漁船の乗組員の一員《として》、ある家族の母親《として》、あるいはチェスの選手やサッカー選手《として》、善いということだ。それは、それ自体として価値ある諸々の善を適切に評価することができ、それらを生みだすことができるということである。しかるに、一人ひとりの個人にとっては次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善〔を追求すること〕がその人の人生の中である特定の場を占めることは、その人にとって善いことであるのか否か、という問題である。また、個々の社会にとっても次のことが問題となる。すなわちそれは、ある特定の実践に含まれる諸々の善が、その社会における共同の生の営みの中である一定の場を占めることが、その社会にとって善いことであるのか否か、という問題である。それゆえ〔これらの問題に答えるためには〕私たちは〔何かに善を帰することにかかわる〕第三のタイプの判断を行う必要がある。
 ある一組の善、すなわち、〔それ自体として追求されるに値する〕正真正銘の善〔の追求〕が私個人の人生の中である従属的な場を占めることが、私自身と他者たちにとって最善のことである場合もあれば、それらが私個人の人生の中でいかなる場も占めないことがそうである場合もあるだろう。かつてゴーギャンは、絵を描くことの善が《彼の》人生においていかなる場を占めるべきかという問題に直面した。画家《としての》ゴーギャンにとっては、タヒチに行くという選択は最善の選択であったかもしれない。だが、かりにそうであったとしても、その選択がヒト《としての》ゴーギャンにとって、あるいは父親《としての》ゴーギャンにとって最善の選択であったということにはならない。それゆえ私たちは次の二つの問いを区別する必要がある。すなわち、なぜある種の善は善であるのかという問い、つまりそれらがそれら自体として価値あるものとみなされるべき善であるのはなぜかという問いと、特定の状況下にある特定の個人ないしは特定の社会にとって、それらの善をその個人ないしはその社会のメンバーたちによって実践的に顧慮され追求されるべき対象とみなすことが善いことであるのはなぜかという問いを区別する必要がある。そして、ある個人にとって、ないしはあるコミュニティにとって、その生の営みの中でさまざまな善をどのように秩序づけるのが最善かについての私たちの判断こそが、この〔何かに善を帰する〕第三のタイプの判断の実例である。そうした判断において私たちは、一人の個人や個々の集団が、ある役割を担いつつある形態の活動に従事している行為者や行為者集団《として》のみならず、ヒト《として》も、いかなる存在であることが、また、何をなすことが、また、いかなる資質や能力を備えていることが最善であるのかについて、無条件的な判断をくだしている。そして、このような判断こそがヒトの開花についての判断なのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第7章 傷つきやすさ、開花、諸々の善、そして「善」,pp.87-90,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:善,価値ある目的の手段としての善,価値ある社会的役割に内在する善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的な原則を支える力

【ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(d)追記。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
    (b.1.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
    道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))
    (b.2.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相容れない法と道徳が併存する場合もある。
    (b.2.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更したり、高めたりすることもある。
    (b.2.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅することもある。
    (b.2.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。

  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   道徳的および法的犯罪が成立する諸条件。
   (c.1)道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
    基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
   (c.2)何が正しい行動なのかを知っている。
    (c.2.1)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか?
    (c.2.2)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。
   (c.3)できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができる。
    (c.3.1)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をしても、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
    (c.3.2)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
   (c.4)判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。
    道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
   (c.5)考察するための事例。
    (c.5.1)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
    (c.5.2)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
    (c.5.3)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
    (c.5.4)不注意や過失による殺人
    (c.5.5)故意の殺人
  (d)道徳的圧力の形態
   ルールを遵守させる力が、敵対的な社会的反作用や刑罰への恐怖、個人的利益だけではなく、違反行為そのものが「悪」であるという理解と、違反者自身による罰(良心の感情)を含むのが、道徳的な原則の特徴である。
   (d.1)違反行為そのものが「悪」であるという理解
    判断する能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする場合、それは「悪」であり行為者が責任を負わなければならない。例えば、「それでは嘘になるだろう」とか、「それでは約束を破ることになるだろう」など。
    参照:できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (d.2)違反者自身による罰(良心の感情)
    仮に、違反に対する敵対的な社会的反作用、刑罰による威嚇、遵守することによる個人的利益がなかった場合であっても、違反することによって恥辱の感情、罪の意識、自責の念が生じる。
   (d.3)敵対的な社会的反作用
    軽蔑、社会関係の断絶、社会からの追放などの例。
   (d.4)刑罰による不愉快な結果の威嚇
   (d.5)個人的利益
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法


 「(4)道徳的圧力の形態 道徳のもう一つの顕著な特徴は、道徳を維持するために用いられる道徳的圧力の特有な形態である。この特徴はすぐ前にのべたところと密接に関連しており、またそれと同様に道徳は「内面的」なものにかかわるという曖昧な観念の形成におおいに寄与してきたものである。道徳をこのような解釈に導いたのは次のような事情による。もしある者が行動に関するルールを破ろうとする場合に、それを思いとどまらせる論法として常に体刑と不愉快な結果という威嚇《のみ》がもち出されるというのであれば、そのようなルールをその社会の道徳の一部とみなすことは不可能であろう。たとえそうだとしても、それが社会の法の一部として取り扱われることに異議はないであろう。法的圧力の典型的な形態はこのような威嚇からなっているということができよう。これに反して、道徳については、圧力の典型的形態はルールをそれ自体重要なものとして尊重しようという訴えからなっており、その尊重はルールの名宛人によって共有されていると考えられる。したがって、道徳的圧力は威嚇によってあるいは恐怖や利益に訴えることによってではなく、行なわれようとする行為の道徳的性格および道徳の要請を思い出させることによって、もっぱらではないとしても特徴的に行使されるのである。「それでは嘘になるだろう」とか「それでは約束を破ることになるだろう」というような表現をとってみても、その背後には確かに刑罰の恐怖に類似した「内面の」道徳がある。というのは、抗議はそれが向けられる者に恥辱または罪悪の念を呼び起こすということが考えられるからである。つまりその者は自らの良心によって「罰せられる」ことになろう。もちろん、このような極めて道徳的な訴えには、体刑の威嚇とか通常の個人的利益に対する訴えが付随することがある。道徳律から逸脱すれば敵対的な社会的反作用いに出会うことになり、それには比較的ありふれた軽蔑から社会関係の断絶あるいは社会からの追放にいたるまでさまざまな形態がある。しかし、ルールが求めているものを強く思い出させること、良心に訴えること、あるいは罪の意識とか自責の念という作用に頼ることは、社会道徳を支えるために用いられる圧力の、特徴的な非常に顕著な形態である。社会道徳がまさにこのような方法で維持されるべきであるということは、道徳的ルールや基準を維持すべきまったく重要なものとして容認していることの当然の帰結である。このような方法で維持されないような基準は、社会および個人の生活において、道徳的責務としての特色ある地位を占めることができないであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,p.196,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的な原則,良心の感情,道徳的圧力の形態)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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26.選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

普通の人たちの究極的な支配権

【選ばれた優れた人たちによる統治は、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の下でのみ、公正に機能し得る。なぜなら、いかなる人も、個人的または階級的な利益や感情、価値観の影響下にあるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)追記。

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (1.1)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (1.2)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (1.3)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (2.1)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
  良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの究極的な支配権の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (3.1.1)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (3.1.2)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (3.1.3)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの究極的な支配権
  (3.2.1)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が存在すること。
  (3.2.2)このような究極的な支配権を保持する以外の方法で、選ばれた優れた人たちを制御することはできない。この支配権を放棄したら、選ばれた優れた人たちによる専制を招くことになるだろう。
  (3.2.3)なぜなら、いかなる人も個人的な利益や好み、自分の属している階級の利益や好みを持っており、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、何が優れたことなのかに関する考え方にも、偏りが存在するからである。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (3.3.1)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (3.3.2)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (3.3.3)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (3.3.4)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「合理的な民主主義という考えは、人民自身が統治するということではなく、人民が優れた統治への保障をもっているということである。

彼ら自身の手中に究極的な支配権を保持する以外のどのような方法によってもこの保障をもつことはできない。

もし彼らがこれを放棄したら、自らの身を専制に委ねることになる。

一般的に、人民に対して責任を負うことのない統治階級は自分たちの個別の利益や好みを追求して人民を犠牲にするに違いない。

道徳感情でさえ、そして卓越性についての考えでさえ、人民の善にではなく、彼ら自身の善に関係している。彼らの言う徳とは階級的な徳にほかならないし、彼らの愛国心や自己献身からの気高い行為は、自分の属している階級の利益のために自分の私的利益を犠牲にすることにすぎない。

レオニダスが示したような英雄的な公徳は奴隷の存在と完全に両立するものであった。

人民の利益に対する支配者の献身について人民が疑問を抱くようになったらすぐに人民が支配者を解任することができるような場合を別にすれば、いかなる政府においても人民の利益が目的とされることはないだろう。

しかし、人民の権力が適切に行使されるのはこれだけである。よい意図が保証されうるならば、最良の統治は(言うまでもないかもしれないが)もっとも賢明な人々による統治に違いなく、そのような人はつねに少数であるに違いない。

人民は主人でなければならないが、彼らは自分自身よりも熟練した召使を雇わなければならない主人であり、それは軍司令官を使っている時の大臣や、軍医を使っている時の軍司令官と同じである。

大臣は軍司令官を信任しなくなったら彼を解任して別の人を任命するが、いつどこで戦闘をおこなうかについて指示することはない。大臣は司令官に意図と結果に対してだけ責任を負わせている。人民も同じようにしなければならない。

このことによって人民による統制が無価値になるわけではない。政府による軍司令官に対する統制は無価値なものではない。

ある人による医者に対する統制は、その人が医者に対してどの薬を投与するのかを指示しないからといって、無価値なものではない。彼は医者の処方に従うか、不満があるならば、別の医者にかかるのである。彼の安全はこのことにかかっている。人民の安全もこのことにかかっており、彼らの分別はこれで満足するべきである。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.364-366,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち,究極的な支配権,階級利益)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年8月22日木曜日

良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治のための必要条件

【良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (b)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (c)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (a)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (b)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して、慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (c)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの権限
  選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が、普通の人たちにあること。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (a)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (b)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (c)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (d)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「私たちが主張してきたことと時には矛盾しがちであっても重要性の点ではとにかくそれに匹敵するような唯一の目的――良い統治にとって不可欠な唯一の他の条件――は次のようなものである。

すなわち、集団としての公衆によってではなく、選ばれた人々によって統治されるということ、政治的問題が、直接的であっても間接的であっても、無知な集団――それが有閑階級の集団であっても下層の人々の集団であっても――の判断や意志へ訴えることによってではなく、少数者、とりわけこのような任務のために特別な教育をうけた少数者の慎重に形成された見解によって解決されるということである。

これが、不運なことに私たちのものにおいてではなかったが、多かれ少なかれいくつかの貴族政治においてこれまで存在してきた良い統治の一要素であり、それらの統治が分別あり熟練している政権というあらゆる評価を享受してきた理由となっているような要素である。

明確にそうなっていない貴族政治においてはこれはほとんど見出されない。(イングランドやフランスのような)貴族制を装った君主制はほとんどつねに怠け者による貴族政であったのに対して、(ローマやヴェネツィアやオランダのような)別の貴族制は熟達し勤勉な人々による貴族制としてある程度はみなされうるだろう。

しかし、すべての現代の政府のなかでもっとも顕著にこの卓越性を有していたのはプロイセンの政府――王国のなかでもっとも高度な教育を受けた人々によるきわめて力強くしっかりと組織された貴族政――である。インドにおけるイギリスの統治は(大幅に修正された形で)同じような性質を帯びていた。

 この原理がその他の幸運な状況と結びつけられたときには、そして、とりわけ(プロイセンにおけるように)政府に対する人民の支持をその安定のためのほとんど必要条件とするような状況と結びつけられたときには、人民に対する明確な説明責任が課されていないときでさえも、きわめて優れた統治がなされたことがあった。

しかしながら、そのような幸運な状況はめったに期待することはできない。

しかし、そのために特別に育成されてきた人々による統治という原則は良い統治を生み出すのに十分なものではないだろうけれども、良い統治はそれなしにはありえない。

今後長い間にわたって政治学における重大な難問は、良い統治を左右する二つの重要な要素をどのようにしてもっともよく調停するかということであり、また、特別に教育を受けた少数者による独立した判断から得られる利点を、多数者に対する責任をその少数者に負わせることによって目的の公正さを最大限に保証することとどのようにしてもっともよく結びつけるかということになるだろう。

 しかしながら、二つの目的を完全に調停可能なものとするために必要なのは、最初に想定されたかもしれないものよりも些細なことである。

多数者自らが完全に賢明である必要はなく、優れた見識の価値を認めるのに足る分別があれば十分である。

政治的問題の大部分は、多数者およびその目的のために訓練されていないあらゆる人々が必然的にきわめて不完全な判定者であるような考慮に左右されるものであるということや、概して彼らの判断が、問題それ自体というよりも、彼らのために問題を解決するべく任命した人の性格や才能に基づいてなされてしまいがちであるということを認識していれば十分である。

そうすれば、彼らは知識人たちが全般的に《もっとも》教育あると考えているような人を自分たちの代表者として選びだすことになるだろうし、彼らの行為に公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかにならないかぎり、彼らを選び続けることになるだろう。

このことは、人民が十分に判断できるのはどのようなものであり、できないものはどのようなものであるかを知っているという、誰でももっているような分別さえもっていればよいということを含意している。

国民の大半がこの分別をかなりの程度共有しているとしたら、そのような人民に関するかぎり、普通選挙賛成論は反対しがたいものであろう。

というのは、年月を重ねた経験、とりわけあらゆる重大な国家的非常時における経験は、大衆は優れた知性をもった人が必要なことに本当に気づいているときにはいつでも、優れた知性をもった人を見分けそこなうことはほとんどないということを示しているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.362-364,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良い統治のための必要条件,選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月20日火曜日

「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

善には善を

【「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)へ追記。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて、人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと。
    (b.3.1)恩恵を受けた人は、その恩恵に対して返礼することが、自然で合理的なこととして期待されている。すなわち「善には善を」は習慣的に、十分に確信され信頼されている原理である。
    (b.3.2)相手が必要としているときに、恩恵に対する返礼を拒否することは、合理的な期待を裏切ることであり、相手に重大な危害を与える。
    (b.3.3)事例として、友情に背いたり、約束を破ったりすることは、重大な危害を与える。
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「善には善をというのも正義の命じていることである。そして、その社会的功利性は明らかであり、それは自然な人間の感情を伴っているが、これは一見したところ、正義・不正義のもっとも基本的な事例において存在し、正義の感情に特有の激しさの源泉となっている、危害や侵害とのはっきりとした結びつきをもっていない。しかし、この結びつきは明白でないけれども実在していないわけではない。恩恵を受けながら、必要とされているときにその恩恵に対して返礼をすることを拒否する人は、もっとも自然で理にかなっている期待のうちの一つを裏切ることによって、そしてその人が少なくとも暗黙的には抱くように仕向け、それがなければ恩恵がもたらされることはまずなかったと思われるような期待を裏切ることによって、実際に危害を与えている。人による害悪や不正のなかで期待を裏切ることが重要な地位を占めていることは、それが友情に背いたり約束を破ったりするという二つのきわめて不道徳な行為の主要な違反要件になっているという事実に示されている。習慣的に、また十分に確信して信頼しているものに必要としているときに裏切られることほど、人が受けうる危害が重大なものはほとんどないし、これ以上の大きな危害を受けるものはない。このように善を与えないだけのことであるが、これ以上に重大な不正はほとんどないし、これ以上に被害を受けた人や共感を抱いている傍観者に憤りを感じさせるものはない。したがって、各人にふさわしいものを与える、つまり悪には悪を与えるとともに善には善を与えるという原則は、私たちが定義した正義の観念に含まれているだけでなく、人を評価する際に正義を単なる便宜性よりも重視させる、あの激しい感情の適切な対象にもなる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.340-343,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:善には善を,正義の原理,合理的な期待,恩恵に対する返礼)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年8月18日日曜日

正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義と、便宜や機略

【正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2)正義の原理
  「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、全ての人に共通である。
   カントの道徳の根本原理「その行為の規則が、すべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」も、同じことを主張している。
  (b)行為の規則は、全ての人にとっての善を目的としたものである。
   仮に、規則が「行為者の善のみを目的とせよ」という完全に利己的なものであったとしたら、この規則は、すべての理性的存在によって採用されるという要請とは矛盾するだろう。
  (c)自分自身や、自分が共感している人びとに限定されることなく、全ての人びとに広げられている。
 (2.2)行為の規則を是認する感情
  (a)行為の規則を犯した人に、処罰を与えてよいという欲求がある。
  (b)行為の規則に違反することによって、被害を被る特定の人がいるという認識を伴う。
  (c)仮に、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害であっても、まず、全ての人にとっての善という目的に適っているかどうかが判断される。
  (d)逆、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害がない場合でも、社会全体に対する危害に対して憤慨の感情が生じる。
 (2.3)「権利」とは何か。
  (a)自分か他者かは問わず、自分が共感している人びとか否かを問わず、行為の規則を犯した人によって加えられた被害に対して、規則を犯した人を処罰し、被害者を救済することが、社会に対して正当に請求できるとき、被害者は「権利」を保持しており、その権利を侵害されていると表現する。
  (b)仮に、何らかの原因により特定の人が被害を被っていても、社会がその人に何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められれば、彼に「権利」はない。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「正義と便宜の間の違いは想像上の区別にすぎないのだろうか。正義は機略(policy)よりも神聖なものであり、正義が満足されてからはじめて機略は傾聴されるべきであると考えたのは、妄想にとりつかれていたということなのだろうか。

けっしてそうではない。私たちが正義の感情の性質や起源についておこなった説明によって真の区別がはっきりと示されている。

行為の帰結をその道徳性の一要素とすることにひどい軽蔑を示す人のなかに、私以上にこの区別を重要視している人はいない。

私は功利性に基礎づけられていない空想的な正義の基準を打ち立てているあらゆる理論の主張に対して異議を唱えるが、功利性に基礎づけられた正義があらゆる道徳の主要部分であり、飛びぬけて神聖で拘束力の強い部分であるとみなしている。

正義とはある種の道徳規則に対する名称であり、それは人生の指針となる他のあらゆる規則よりも人間の福利にとって不可欠なものにより緊密に関わるものであり、それゆえにより絶対的な拘束力をもっている。

私たちが正義の観念にとって本質的であるとみなした考え、つまり個人に属している権利という観念は、このより強い拘束力をもった責務を含意し、それを立証しているのである。

 人類が互いに危害を与えることを禁じている道徳規則(互いの自由への不当な干渉を禁じることがこのなかに含まれていることを忘れてはいけない)は、人間の福利にとって他のあらゆる格率よりも重要であり、他の格率はどれほど大切だとしても、人間事象のいくつかの部門をうまく扱うための最良の方法を明らかにしているにすぎない。

これらの道徳規則は人類の社会的感情の全体を左右する主要な要因であるという特性ももっている。

人類がこれらの規則を遵守することによってのみ、人々の間で平和が保たれる。もしこれらを遵守することが決まりごとではなく、遵守違反が例外的ではないとしたら、各人が他のすべての人を敵とみなし、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。

同じように重要なのは、これらの規則は、人類が他の人に対してこれらを認識させることにもっとも強く直接的な誘因をもった指針であるということである。

人々は慎重に指針や勧告を互いに与え合うだけでは、何も得ないか、何も得ないだろうと考える。人々は積極的な善行の務めを互いに教えあうことに明白な利益を持っているが、その程度はきわめて小さい。

人は他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。

このように、他者から直接的に危害を被るにせよ、自らの善を追求する自由を妨げられることによって被る危害にせよ、他者から危害を受けないように個々人を保護している道徳は、人がもっとも心から気にかけているものであると同時に、言葉や行動によって示し実行することにもっとも強い関心を抱いているものでもある。

この道徳を遵守するかどうかによって、人は人類という共同体の一員として生きていくのがふさわしいかどうかが試され判断される。というのは、人が関係をもつ人にとって厄介者になるかそうならないかはこのこと次第だからである。

だから、正義の責務を構成しているのは主としてこれらの道徳である。

もっとも際立った不正義の事例であり、この感情を特徴づけている反感の論調を決めている事例は、人に対する不当な侵害行為や不当な権力の行使である。これに続く事例は、人が受け取るべきものをその人に不当に与えないでおくことである。

どちらの事例においても、直接的な苦痛という形によるか、自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて人が見込んでいる何らかの善をその人に与えないという形によるかして、積極的な危害が人に対して加えられている。

 これらの主要な道徳を指令するのと同じような強い動機が、これらに違反した人を処罰することを要求する。

そして、それらの動機はすべて、自己を守るという衝動や他の人を守るという衝動、復讐の衝動として違反者に向けて呼びおこされるので、悪には悪をという報復は正義の感情と強く結びつくようになり、正義の観念のなかに一般的に含まれるようになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.337-340,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義,便宜や機略,正義の拘束性,危害,報復の感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年8月10日土曜日

できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的犯罪の自発的な性格

【できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(c)詳細化。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
    (b.1.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
    道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))
    (b.2.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相容れない法と道徳が併存する場合もある。
    (b.2.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更したり、高めたりすることもある。
    (b.2.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅することもある。
    (b.2.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。
  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   道徳的および法的犯罪が成立する諸条件。
   (c.1)道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
    基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
   (c.2)何が正しい行動なのかを知っている。
    (c.2.1)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか?
    (c.2.2)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。
   (c.3)できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができる。
    (c.3.1)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をしても、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
    (c.3.2)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
   (c.4)能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。
    道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
   (c.5)考察するための事例。
    (c.5.1)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
    (c.5.2)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
    (c.5.3)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
    (c.5.4)不注意や過失による殺人
    (c.5.5)故意の殺人
  (d)道徳的圧力の形態
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法



 「(3)道徳的犯罪の自発的な性格 法は「外面的」行動にのみ関与するのに対して、道徳はもっぱら「内面的」なものに関与するという古くからある考えは、すでに検討した二つの特徴を部分的に誤って言いあらわしたものである。しかし、この考えは道徳的責任と道徳的非難のある顕著な特徴を示すものとして極めてしばしば取り扱われている。もしある人の行動が《外部から》判断して道徳的ルールまたは原則を犯しているにもかかわらず、その者が自己の行為は故意によるものではなく、自己のできるかぎりの注意にもかかわらず生じたものであることを立証するのに成功したという場合、その者は道徳的責任を免れるし、このような事情の下で彼を非難することはかえって道徳的に問題があることになるであろう。ここにおいて、彼はできるだけのことをしたのであるから、道徳的非難を免れるのである。発達したいずれの法体系においても、ある点まで同じことが言えるのである。というのは、《故意》という一般的要件は刑事責任における一要素であって、それは、不注意によらず、無意識に、あるいは法に従う肉体的または精神的能力を欠く状態において罪を犯す者が免責されることを確保するために予定されたものだからである。もしもこういうことになっていなければ、法体系は、少なくも厳しい刑罰を伴う重罪の場合に、大きな道徳的非難にさらされることになるであろう。
 それにもかかわらず、すべての法体系にこのような免責をもち込むことはさまざまな方法によって制限されている。心理的事実の証明は本当に困難であり、あるいは困難であるといわれているので、法体系は特定の個人が現にもっている心理的状態ないしは能力の究明を拒み、その代わり「客観的テスト」を用いることになる。このテストによって、罪を問われている個人は、通常人とか「道理をわきまえた」人間のように自制の能力をもち、あるいは注意能力をもつものとみなされるのである。法体系のなかには「意思」能力の欠如と「認識」能力の欠如とを区別しないものがある。このような場合に、これらの法体系は罪の免責の範囲を意思の欠如または知識の欠陥に限ることになる。また法体系はある犯罪類型については、おそらく被告人が正常に身体をコントロールすることができなければならないという最低の要件は別にして、「厳格な責任」を課すことによって責任を《故意》とはまったく切り離しているのである。
 したがって、被告人が自分の違反した法について、それを順守しようとしてもできなかったであろうということを示すことによって、法的責任は必ずしも除かれるとはかぎらないということを明らかである。これとは対照的に、道徳上の行為においては「せざるをえなかった」ということは常に一つの弁解となるものであり、また道徳的責務は道徳上「べきである」ということがこの意味において「できる」ということを意味しない場合には、現にあるものとはまったく異なるものになろう。しかし、「せざるをえなかった」が(十分な弁解であるとしても)一つの弁解にすぎないということを理解し、弁解を正当化と区別することは重要なことである。というのは、すでにのべたように、道徳は外面的行動を要求するのではないという主張はこれら二つの観念の混同に起因するものだからである。もし善意というものが道徳的ルールの禁じる行為を正当化するものであれば、あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤って他人を殺した者の行為について嘆き悲しむことは何ひとつないであろう。このような行為は、正当防衛上必要な措置としてなされる他人の殺害と同じようにみられるべきである。後者が《正当なものとされる》のは、そのような状況における殺人が、たとえ殺人の一般的禁止の例外であることはいうまでもないとしても、法体系が防止しようとするものではなくむしろ奨励しさえするような性質の行為だからである。罪を犯した者が、故意によるのではないという理由で《弁解がいれられる》という場合、その根底にある道徳的観念は、この行為が法の政策上許容され、あるいは歓迎さえされるといった性質をもつものだからというところにあるのではない。むしろそれは、この場合犯罪人の精神状態を調べてみると、その者は法の要請に従う正常な能力を欠いていたとみられる、というところにある。このようにみてくると、この道徳の「内面性」という側面は、道徳が外面的行動に対するコントロールの形態ではないということを意味するのではなく、個人は自己の行動についてある種のコントロールをしなくてはならないというのが道徳的責任の一つの必要条件であるということである。道徳においてさえも、「彼は誤ったことをしなかった」ということと「彼はそれをせざるをえなかった」ということの間にはある相異が存在する。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.194-195,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的犯罪,法的責任,道徳的責任,せざるを得なかった)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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