2018年8月27日月曜日

10.両方の海馬構造が損傷している患者は、顕在記憶を失っているが、意識経験があることは、自覚ある想起の証拠を必要としない心理認知テストで確認できる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

海馬を損傷した患者の意識経験

【両方の海馬構造が損傷している患者は、顕在記憶を失っているが、意識経験があることは、自覚ある想起の証拠を必要としない心理認知テストで確認できる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(3)両方の海馬構造が損傷した患者の事例
 (3.1)今起こったばかりの出来事について、実際想起できるアウェアネスがまったく無い。
 (3.2)しかしながら、今現在と、自身について自覚する能力を維持している。起こったばかりのことを覚えられない自分の能力の欠陥についても自覚しており、これが生活の質に深刻な損害を与えている、と苦痛さえ訴える。また、潜在的なスキルの学習能力もある。
 (3.3)顕在記憶とは関係なく意識経験が発生するとしても、意識に必要な最低0.5秒間持続する活動についての、短期記憶がなければ意識経験は発生しないのではないか。「どのような短命の記憶であっても、依然としてそれはアウェアネスが生じる潜在的な基盤となる」。実際、両方の海馬を損傷した患者でも「1分程度だったら、この患者はものを覚えている」。

          記憶の想起と内観報告に代えて、
          自覚ある想起の証拠を必要としない
          心理認知テスト
            ↑
意識的な皮膚感覚──この感覚の短期記憶があるはず
 ↑
アウェアネスに必要な0.5秒間の活動持続時間
 ↑(これが、顕在記憶そのものではあり得ない。)
 │
単発の有効な皮膚への刺激パルス

 「両方の海馬を喪失していても、ある事象の後、最低でも0.5秒間存続する宣言記憶が形成されるのかということについては、まだ疑問があります。

どのような短命の記憶であっても、依然としてそれはアウェアネスが生じる潜在的な基盤となるからです。

先ほど述べた患者を研究した研究者であるロバート・ドーティは、「1分程度だったら、この患者はものを覚えている」と自信を持って言います。

その一方、同様の患者に対しては通常、自覚ある想起の証拠を必要としない心理認知テストが使われます(たとえば、ドラックマンとアービット(1966年))。

したがって、実際に観察される短期記憶は、ある非宣言的な潜在記憶の証拠に実質的になり得るのです。

だとすれば、(短期記憶はたとえ患者で観察されたとしても)意識経験の遅延に記憶が果たす役割、という疑問とは関係がなくなります。

〔訳注=このあたり、著者の論旨がわかりにくいかもしれない。海馬損傷による記憶障害の患者は、健常な潜在記憶を持ち、また日常生活でのアウェアネスにも異常がない。

したがって患者の潜在記憶がアウェアネスを支えている、という議論が成立しそうに思えるかもしれない。

しかし、アウェアネスに関係するのは(定義上)顕在記憶のほうだから、こうした記憶障害のケースを根拠に、0.5秒以上の神経活動というアウェアネスの必要条件が「意識経験は記憶に依存する」ことの反映にすぎないと結論はできない、と著者は言っている。〕

いずれにせよ、記憶プロセス分野の指導的研究者であるラリー・スクワイアは、意識経験は記憶形成プロセスとは無関係である(私信)、という意見を主張しています。

すると、新たな顕在記憶を形成する能力を深刻に損なった人がアウェアネスを保持できるということは、アウェアネスの現象は記憶プロセスの機能では《ない》ことを示していると思われます。この基本的な考え方は、アウェアネスは記憶形成に関係があるとしているすべての仮説と矛盾することになります。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.72-73,下條信輔(訳))
(索引:海馬を損傷した患者の意識経験)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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8.心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カール・ポパー(1902-1994))

心身問題のまとめ

【心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カール・ポパー(1902-1994))】

 (c1)徹底的唯物論、(c2)同一説(中枢状態説)、(c3)随伴現象論(epiphenomenalism)などの考え方の違いにもかかわらず、もし、物理的世界の諸法則が全てを支配しているのであれば、(c4)汎心論のような意識的な思考過程が、どのように生じて、どのように物理的世界に影響を及ぼし得るのか、というのが心身問題である。(b2)が、それを「理解するのを少しは容易にしてくれる」。

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b)世界3と世界1の相互作用
 世界3は、確かに世界1の対象としても存在してはいるが、世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。これは、すなわち新たに生成された世界1でもある。

(b1)世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。

 時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
  ↓    ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2と世界1の相互作用(心身問題)
(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

(c2)同一説(中枢状態説)
 世界1は、次の2つの世界に区別することができるとする。意識的過程と同一である物理過程の世界 1mと、それ以外の世界 1pである。世界 1mと、世界 1pには、相互作用が可能である。
 徹底的唯物論とは異なり、心的世界2も実在すると考える。心的世界2と、身体・大脳の物理的過程 1m とは、世界1のなかの同一の実体についての、異なる二つの記述方法である。したがって、随伴現象論とは異なり、心的世界2も、世界1の実体として物理過程と相互作用することができる。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 1m・状態1
  │   │     =世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 1m・状態2
            =世界2・M2

(c3)随伴現象論(epiphenomenalism)
 精神状態は、脳内のプロセスに随伴する。ただし、因果関係にはかかわらない。
 また、汎心論とは異なり、生命のある対象のみが、内的または主観的経験を持つと考える。

 時間1 世界1・P1 ⇒ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⇒ 世界2・M2

 しかし、次の疑問がある。例えば、視覚による知覚は無意識的な神経生理学的過程に支えられているとしても、そこには、能動的で生産的なものが存在している。

(c4)汎心論
 純粋な物理的対象も、多かれ少なかれ我々自身の内的意識に類似の内面を持っている。

 時間1 世界1・P1 世界2・M1
  ↓   ↓    ↓意識的な思考過程
 時間2 世界1・P2 世界2・M2


 「既に10節で、私は歯医者を訪れるという例を手短に論じることで、そのような行為が物理状態(世界1)、われわれの意識的な自覚(世界2)、計画と制度(世界3)のすべてを含む仕方を明らかにした。われわれの四つの唯物論的理論の性格は、それらがこのような出来事を説明する仕方によって明らかにできるであろう。この出来事は、例えば、われわれが歯を悪くし、歯痛が起こり、歯医者に予約の電話をし、その後治療を受けるために歯医者に行くというようなことを含んでいるであろう。
 (1)徹底的唯物論の解釈:私の歯の中には私の神経系の過程に通じる過程が存在する。起こることすべては世界1に制限された物理過程から成立している(この過程には私の言語行動――電話で話すこと――も含まれている)。
 (2)汎心論的解釈:(1)と同様に、物理過程が存在する。だが、これに対してまた別の側面がある。すなわち、われわれが経験するがままのことを語る《平行的な》説明(種々な汎心論者が異なる仕方で説明する)がある。われわれの経験はある仕方で(1)で与えられたような物理的説明に《対応している》ばかりでなく、そこに含まれる(電話のような)明らかに純粋な物理的対象もまた、多かれ少なかれわれわれ自身の内的意識に類似の《内面》をもっている、と汎心論は説く。
 (3)随伴現象論の解釈:(1)と同様に、物理過程が存在する。その他の側面も(2)と異なっていない。だが、次のような(2)とは異なる点がある。
  (a)《生命のある》対象のみが《内的》または主観的経験をもつ。
  (b)(2)ではわれわれは二つの異なった、しかし同等に妥当な説明をもてたが、随伴現象論者は物理的説明に優位性を与えるばかりでなく、主観的経験は因果的に余分なものであることを強調する。私が感じた痛みは話の中では何の因果的役割も演じないし、私の行為の動機とはならないのである。
 (4)同一説:(1)と同様であるが、しかしここではわれわれは、意識経験と同一でない世界1の過程(世界 1p:下に書いたpは《純粋に物理的》を示す)と、経験された過程ないし意識的過程と同一である物理過程(世界 1m:下に書いたmは《心的を示す》)とを区別できる。世界1の二つの部分(つまり、部分世界 1pと 1m)はむろん相互作用が可能である。したがって、私の痛み(世界 1m)は私の記憶の蓄積に作用して、電話番号を調べさす。すべてのことは相互作用論者の分析と同じように生起する。(私の考えでは、これがこの見解を魅惑的なものにしている)。ただ、(主観的な知識を含んだ)私の世界2だけが世界 1m、すなわち世界1の部分と同一視され、世界3は世界1の他の部分と、すなわち、電話帳や電話のような《道具ないし装置》と同一視される(あるいは、おそらく大脳過程と同一視される。というのは、同一論者にとっては、私の世界3の核心となる《抽象的な知識内容》は存在しないからである)。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、16――4つの唯物論的あるいは物理主義的な立場(上)pp.91-92、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:)
 「(3)随伴現象論(epiphenomenalism)は汎心論の修正の一つとして解釈できる。

そこでは《汎》という要素は消去され、《心論》は心を持っている生物に制限される。

汎心論と同様、それは通常の形態では一種の平行論である。つまり、心的過程はある物理過程と平行してある、という見解である――つまり、平行であるのは、それらの過程はある(未知の)第三の存在者を内面と外面とから見た二つの眺めだからである。
 しかし、平行論でない形態をとる随伴現象論もある。

私が随伴現象論において本質的とみなすものは、物理過程《のみ》がそれ以後の物理過程に《因果的に関連》しており、心的過程は存在するにしても因果的にはまったく無関係であるというテーゼである。

 (4)同一説または中枢状態説は、心身問題に答えようと展開された理論の中では現在最も有力なものである。

これは汎心論と随伴現象論の修正の一つとみることができる。

随伴現象論のように、《汎》のない汎心論とみることができる。だが、随伴現象論とは反対に、心的事実を重要で因果的に効果のあるものと考える。

この理論は、心的過程と一定の大脳の過程の間に、ある種の《同一性》(identity)が存在する、と主張する。

この同一性は理論的意味での同一性ではなく、金星という唯一の惑星の別の名前である《宵の明星》と《明の明星》の間にあるような同一性である。この二つの名前は金星の異なる外観をも示している。

M・シュリック(Schlick)とファイグルによる同一説の形式では、心的過程は(ライプニッツ同様)内側から感得的に(by aquaintance)知られる物自体として考えられている。

一方、われわれの大脳過程――理論的記述によってのみ知られる過程――に関する理論は同じ物を外側から記述することになる。

随伴現象論とは対照的に、同一論者は心的過程は物理過程と相互作用するということができる。なぜならば、心的過程は単に物理過程《であり》、より正確には、特殊な大脳過程にすぎないからである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、16――4つの唯物論的あるいは物理主義的な立場(上)pp.90-91、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:心身問題,徹底的唯物論,同一説,中枢状態説,随伴現象論,汎心論)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月26日日曜日

7.言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

言語と心身問題

【言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))】

心身問題における言語の役割の考察。

世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
 言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
 言語を学習する能力

世界3:種々の言語と、その文化的進化
 様々な差異を持った数多くの言語が存在する。

世界2:個々の言語を実際に学習する過程
(1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
(2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
(3)言語は、以下に対して強いフィードバック効果を持っている。
 (3.1)自らの物質的環境への精通
 (3.2)他者との関係
 (3.3)自我、人格の形成
(4)すなわち、自我、人格とは、
  (4.1)能動的な学習と探究の成果の所産である。
  (4.2)世界3の所産である。
  (4.3)物質的環境との相互作用の所産である。
  (4.4)他者との相互作用の所産である。

(再掲)

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)


 「心身問題に関係した第三の論証は人間言語の地位と結びついている。

 言語を学習する能力は――そして言語を学習する強い必要性さえも――人間の遺伝的構造の一部であるようにみえる。

これとは対照的に、個々の言語を実際に学習することは、無意識の生得的な必要性と動機に影響されるとはいえ、遺伝子に制御された過程、したがって自然的過程ではなく、世界3に制御された、文化的過程である。

したがって、言語学習は自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ性質が、文化的進化に基づく探究と学習の意識過程といくらか入り組み合い、相互作用する過程である。これは世界3と世界1の相互作用という考えを裏づけており、さらにわれわれの以前の論証から、それは世界2の存在をも裏づけている。」(中略)

「種々の言語は、その数と差異が示しているように、人間が作ったものである。それらは文化的な世界3の対象である。

もっとも、それらは遺伝的に確立された能力、要求、目的によって可能となるものである。普通の子供はみな、楽しくそしてたぶん苦痛でもあるきわめて能動的な勉強によって、一つの言語を習得する。言語に伴う知的成果は多大なものである。

もちろん、この努力は子供の人格、他人への関係、自らの物質的環境への関係に対して強いフィードバックの効果をもっている。

 こうして、子供は部分的には彼自身の成果の所産であると言うことができる。

彼は自分自身ある程度まで世界3の所産である。子供の物質的環境への精通とその意識が、自分の新しく習得した話すという能力によって拡大されるが、それと同じことが彼自身の意識についても言える。

自我、人格は、他我、彼の環境内の人工物ならびに他の対象との相互作用から生じる。これはすべて言語の習得に深く影響を与える。

その影響が強いのは、特に、子供が自分自身の名前に気づく時、彼の身体の種々の部分の名称を学ぶ時、そして最も重要な、彼が人称代名詞を用いることを学ぶ時である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)pp.80-82、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:言語,心身問題,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月20日月曜日

模倣は、個人と個人を感情的に通じあわせるものであり、それはミラーニューロンが実現していると思われる。また模倣は、自閉症児に社会的問題を克服させる非常に有効な方法かもしれない。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

模倣と自閉症

【模倣は、個人と個人を感情的に通じあわせるものであり、それはミラーニューロンが実現していると思われる。また模倣は、自閉症児に社会的問題を克服させる非常に有効な方法かもしれない。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

 次の事実が存在する。
(a)セラピストが、自閉症患者とコミュニケーションがとれなくて困っているときに、患者の反復的で定型的な動きの真似をする。「するとほとんど即座に私を見るので、そこでようやく私たちのあいだに相互作用が生まれ、私は患者の治療が始められる」。
(b)自閉症の少年を、彼をよく知っている少女が訪れる。そして、二人は部屋にあったおもちゃで、模倣ごっこで遊び始める。少年の「常同的な衒奇的運動」は、急速に消えていく。少女が部屋を出ていくと、少年はほとんど即座に引きこもり、例の手をばたばたさせる動きを再開する。少女が戻ってくると、その身ぶりは消滅する。
 模倣が誘発する即座のつながりとは何なのだろう? 模倣は、個人と個人を感情的に通じあわせるものであり、それはミラーニューロンが実現していると思われる。模倣は、自閉症児に社会的問題を克服させる非常に有効な方法かもしれない。

 「サリーのビデオの話をすると思い出すのが、2001年に〈キュア・オーティズム・ナウ〉という自閉症治療のための研究支援財団が主催した会議でのエピソードだ。私はそこで、ミラーニューロン、模倣、および自閉症におけるミラーニューロン機能の障害の可能性をテーマにした講演を行っていた。質疑応答を終えて舞台を降りたとき、自閉症患者の治療をしているという男性が近づいてきて、私にこう言った。「模倣がなんらかの治療になりうるというあなたのご意見、とてもよくわかります。私が診ているのは症状の重い患者なのですが、この人たちとはどうやっても通じあえないのではないかと、ときどき本気でそう思うことがあります。ですが、なにをやっても失敗したとき、私には最後の戦略があります。それはたいてい、とてもうまくいくんです。私の患者のほとんどは、反復的な、定型化した動きをします。どうしても通じあえなくて、もうどうしたらいいかわからなくなると、私はその定型化した動きを真似するんです。するとほとんど即座に私を見るので、そこでようやく私たちのあいだに相互作用が生まれ、私は患者の治療が始められるわけです」
 人間が互いを模倣し、動きを同調させる傾向があること、そのような同調した運動行動が総じて社会的つながりを育てることは、すでに見てきたとおりである。この模倣が誘発する即座のつながりとはなんなのだろう? こうした自然発生的な模倣についての正確なデータは皆無だが、ミラーニューロンが関わっている可能性は充分にある。セラピストが患者を模倣するとき、セラピストは患者のミラーニューロンを活性化させているのかもしれず、その活性化が患者に文字どおりセラピストを《見る》ようにさせているのかもしれない。これは私の仮説にすぎないが、現在ミラーニューロンについてわかっていることからすると、この仮説にはある程度の妥当性がある。以前、パリのジャクリーン・ネーデルが12歳の自閉症の男児を記録した驚くべきビデオを送ってきてくれた。その少年はかなり引きこもっていて、一般に自閉症と関連づけられる特定の行動を示している。つまり定型化した不自然な手の動き、専門的に言えば手の「常同的な衒奇的運動」をするのである(衒奇的運動はさまざまなかたちをとるが、この事例では手をばたばたさせること)。彼は病院の一室にいて、一人きりだが、玩具などの遊ぶものはたくさんある。いや、正確には、すべてのものが二つずつ揃えてある。そこに別の子供が入ってくる。知能指数は低いが自閉症ではない少女で、少年もよく知っている相手である。彼女は部屋にあったいくつかのもので遊びはじめ、基本的に少年にも同じことをするように誘う。少女はカウボーイハットをかぶると、二個めのカウボーイハットを少年の頭にかぶせる。少年にサングラスを持たせて目にかけさせると、自分の二個めのサングラスをかける。二人は握手をして笑いあう。自閉症の少年の定型化した身ぶりは急速に消えていく。少女は次に傘を取り上げ、開いて、部屋を行進してまわる。自閉症の少年も自発的に彼女を模倣する。定型化した身ぶりは《完全に》消え去っている。いまの彼は、仲間との交流にすっかり夢中な子供だ。二人はしばらくのあいだ、さまざまな模倣ごっこをする。ときには少女が少年を模倣する。ある時点で少女が部屋を出ていくと、少年はほとんど即座に引きこもり、例の手をばたばたさせる動きを再開する。少女が戻ってくると、その身ぶりは消滅する。まるで魔法のごとき効果だ。もちろん、それは魔法などではない。社会的ミラーリングは個人と個人を感情的に通じあわせるのであり、それはひょっとすると自閉症児に社会的問題を克服させる非常に有効な方法かもしれない。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第6章 壊れた鍵,早川書房(2009),pp.220-223,塩原通緒(訳))
(索引:模倣,自閉症)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

マルコ・イアコボーニ(1960-)
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眼を閉じて手に書かれた7や、聴覚からの情報も、数字を想起して視覚化すると色が見える。7の数字そのものに赤色があり、黒地に白の数字だと赤がはっきりする。また、緑の数字だと緑と赤が同時に見える。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

共感覚

【眼を閉じて手に書かれた7や、聴覚からの情報も、数字を想起して視覚化すると色が見える。7の数字そのものに赤色があり、黒地に白の数字だと赤がはっきりする。また、緑の数字だと緑と赤が同時に見える。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】

 『「だいじょうぶ」と私は言った。「じゃあ今度は眼を閉じて手を出してください」
 彼女はちょっと驚いた様子だったが、指示にしたがってくれた。私は彼女の手のひらに数字の7を書いた。
 「私は何と書きましたか? いいですか、もう一度書きますよ」
 「7です!」
 「色はついていますか?」
 「いいえ、全然。えーっと、言いかたを変えます。最初は、7だと〈感じている〉のに赤が見えません。でもその7を視覚化すると、それはちょっと赤みを帯びています」
 「オーケイ、スーザン、では私が〈七〉と言ったらどうだろう? やってみましょう。セブン、セブン、セブン」
 「最初は赤くなかったのですが、赤が見えてきました……その形を視覚化しはじめると、赤が見えるんです。視覚化する前は見えません」
 私はふと思いついて言った。「七、五、三、二、八。今度は何が見えましたか?」
 「なにこれ……おもしろいです。虹が見えます!」
 「どういうことですか?」
 「それぞれの色が、目の前に虹のように広がって見えるんです。数字と結びついた色が先生の言った順番にならんで。とてもきれいな虹です」
 「もう一つ質問をしていいですか、スーザン。これはさっきの7ですが、色は数字の上にありますか、それともまわりに広がっていますか」
 「数字の上にあります」
 「黒い紙に白い字だったらどうでしょう。これです。どんなふうに見えますか?
 「黒い字のときより、もっと赤がはっきりしています。なぜだかわかりませんが」
 「二桁の数字だったらどうでしょう」。私はメモ用紙に太く75と書いて彼女に見せた。彼女の脳は色を混ぜるだろうか? それともまったく新しい色が見えるのだろうか?
 「それぞれの数字にそれぞれいつもの色がついて見えます。そうなるのは自分でも気づいていました。数字と数字があまりにも近すぎなければですが」
 「ではやってみましょう。これは7と5をもっと近づけてあります。どんなふうに見えますか?」
 「まだ、いつもの色が見えます。でも色どうしが争っているというか、打ち消しあっているというか、そんな感じです。ぼんやりして見えるんです」
 「7を違う色で書いてみたらどうなるでしょうね」
 私はメモ用紙に緑色で7と書いて彼女に見せた。
 「うわ。すごく嫌な感じです。どこかがおかしいという不快感があります。実際の色と心の色が混ざっているわけではなくて、両方の色が同時に見えるのですが、その見えかたが嫌な感じなのです」
 私はスーザンの言葉で、色の体験にはしばしば情動が付帯しており、不適切な色は強い嫌悪感を生じさせる場合があると共感覚の文献に書いてあったのを思い出した。』
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第3章 うるさい色とホットな娘――共感覚,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.124-126,山下篤子(訳))
(索引:共感覚)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
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26.社会的情動のうち支配と従順も、人間のコミュニティにおいて不可欠な役割を果たすとともに、同時にまた、集団全体の破滅を早めてしまうようなネガティブな作用を及ぼすこともある。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

社会的情動、支配と従順

【社会的情動のうち支配と従順も、人間のコミュニティにおいて不可欠な役割を果たすとともに、同時にまた、集団全体の破滅を早めてしまうようなネガティブな作用を及ぼすこともある。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

 「そして、取り組むべきもう一つ別の自然の闇がある。

「支配」という形質は、その対である「従順」同様、社会的情動の重要な要素である。支配的な人間はコミュニティの問題に解決をもたらそうとする傾向があるから、支配にはポジティブな顔がある。支配的な人間は交渉し、戦いを先導する。支配的な人間は、水、果物、住み処へと通じる道に、あるいは予言と知恵に、救いの道を見いだす。

しかしそういった支配的な人間は、乱暴なごろつき、暴君、圧制者にもなりうる。とくに、支配が「カリスマ」という悪の対と結びつくときはそうだ。不適切に交渉し、他者を誤った戦いへ仕向ける。

そういう人間においては、親切な情動の表示は、彼ら自身と彼らにもっとも近い支援者からなるきわめて小さい集団のために取ってある。

同様に、紛争をめぐる同意や合意の形成にきわめて有用な役割を果たすはずの従順という形質が、暴君のもとでは人間を畏縮させ、あるのはひたすら服従ばかりで、それが集団全体の破滅を早める。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、p.215、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))
(索引:社会的情動,支配と従順)

感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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9.意識経験を生み出す0.5秒間の脳の活性化は、海馬が媒介する顕在記憶や、非宣言的記憶や潜在記憶と同じものではない。すなわち、意識経験と記憶とは別の現象である。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

意識経験と記憶

【意識経験を生み出す0.5秒間の脳の活性化は、海馬が媒介する顕在記憶や、非宣言的記憶や潜在記憶と同じものではない。すなわち、意識経験と記憶とは別の現象である。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(1)宣言記憶、顕在記憶
 意識的な想起や報告が可能で、側頭葉の海馬組織が生成を媒介している。
(2)非宣言的記憶、潜在記憶
 事象についての意識的なアウェアネスがまったくなくても形成され、想起や報告ができない。
(3)両方の海馬構造が損傷した患者の事例
 (3.1)今起こったばかりの出来事について、実際想起できるアウェアネスがまったく無い。
 (3.2)しかしながら、今現在と、自身について自覚する能力を維持している。起こったばかりのことを覚えられない自分の能力の欠陥についても自覚しており、これが生活の質に深刻な損害を与えている、と苦痛さえ訴える。また、潜在的なスキルの学習能力もある。

(b)疑問:アウェアネスに必要な0.5秒間の活動持続時間というのは、単にある事象の短期記憶を生み出すのにかかる時間を反映しているだけではないか。
(c1)可能な仮説1:記憶痕跡の発生そのものが、アウェアネスの「コード」である。
 (c1.1)潜在記憶の生成そのものが、意識経験を生み出しているわけではない。なぜなら、潜在記憶は想起や報告ができないからだ。

          これは想起できない
            ↑
意識的な皮膚感覚    │
 ↑          │
アウェアネスに必要な0.5秒間の活動持続時間
 ↑(これが、潜在記憶そのもの?)
 │
単発の有効な皮膚への刺激パルス

 (c1.2)顕在記憶の生成そのものが、意識経験を生み出しているわけではない。なぜなら、両方の海馬を損傷して顕在記憶を失った患者でも、意識的な経験を確かに持っているからだ。

意識的な皮膚感覚
 ↑
アウェアネスに必要な0.5秒間の活動持続時間
 ↑(これが、顕在記憶そのもの?)
 │
単発の有効な皮膚への刺激パルス

(c2)可能な仮説2:ある事象のアウェアネスは遅延無しに発生するが、それが報告可能になるには、0.5秒間の長さの活性化が必要である。


 「人間の被験者を観察した報告が、アウェアネスを生み出す上での記憶形成の役割について大きな論争を提供します。

人間も、それ以外の動物でも、いわゆる宣言記憶、または顕在記憶の形成の媒介機構として、大脳半球の側頭葉の中にある特定の構造が必要になります。こうした種類の記憶は、意識的な想起や報告が可能です。

これらは、非宣言的記憶や潜在記憶と区別されています。潜在記憶は、事象についての意識的なアウェアネスがまったくなくても形成されますが、想起や報告ができません。

これらは機械的・知的両方のスキルを習得する際に主に機能します。

〔訳注=宣言記憶とは命題の形で書けるような知識の記憶を指す。たとえば歴史上の事実についての記憶がそれである。それ以外の記憶を非宣言的記憶といい、手続き記憶やプライミング、条件づけなどがこれに含まれる。

手続き記憶とは、自転車の乗り方やチェスのプレーの仕方など、またプライミングとは、一度経験すると後の同じ刺激の処理がより効率的になる効果を指す。〕

 側頭葉の海馬組織は、顕在記憶の生成を媒介するために必要な神経コンポーネントです。片半球の海馬が損傷しても、損なわれていない反対半球の構造が、記憶プロセスを実行できます。

しかしもし、両方の海馬構造が損傷すると、その人は新しい顕在記憶を形成する能力の深刻な喪失に陥ります。このような人には、今起こったばかりの出来事について、実際想起できるアウェアネスがまったくありません。ある事象が起こった直後でも、その事象の内容をこの人は語ることができないのです。

 このような喪失は、両方の側頭葉の病的な損傷が原因です。より厳密に言うと、この左右相称の喪失は海馬内のてんかん病巣を除去する外科手術で、間違って健常な海馬部位まで除去してしまった場合に起こりました。この手術ミスが起こった当時は、どちら側の海馬に欠陥があるかを判断するのは難しいことでした。そのため、患者の良いほうの部分を除去してしまい、もう片方の機能していない病巣構造を残してしまったのです。

この間違いが、顕在記憶の形成における、海馬構造の役割の発見につながりました。

 ここで、私たちの現在の目的に見合った、以下のような興味深い観察ができます。

両方の海馬構造を喪失した人は、事実上、今起こったばかりのどのような事象や感覚像についても、まったく想起可能なアウェアネスがありません(一方、損傷を受ける前に形成された長期記憶は、失われることはありません)。

しかしながら、このような人は今現在と、自身について自覚する能力を維持しています。

 このタイプの喪失を持つある患者についての映画を観ると、この人は機敏で話好きです。彼は自分の周囲の環境と、自分をインタヴューしている心理学者をはっきり自覚しています。またさらに彼は、起こったばかりのことを覚えられない自分の能力の欠陥についても自覚しており、これが生活の質に深刻な損害を与えている、と苦痛さえ訴えました。

 この患者は、実際にはすべての記憶機能を喪失したわけではありませんでした。彼はコンピュータの前に座って、スキルを競うゲームの遊び方を覚えることができました。

しかし、どのようにそのスキルを覚えたのかは、彼には説明ができませんでした。学習したスキルの記憶は明らかに、潜在タイプであり、海馬構造の機能を必要としません。つまり、これは海馬とはまた別の神経経路の働きであるに違いありません。

しかし(当然のことながら)潜在記憶と結びついたアウェアネスはありません。したがって、記憶にはアウェアネスを生み出す役割がある、という主張に潜在記憶を利用することはできないわけです。」

(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第2章 意識を伴う感覚的なアウェアネスに生じる遅延,岩波書店(2005),pp.69-71,下條信輔(訳))
(索引:意識経験,記憶,顕在記憶,潜在記憶)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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6.意識的思考が、世界1の諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き世界1に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、世界2が世界3を把握して新たな世界3を生成するという事実が、重要なヒントを与える。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3と心身問題

【意識的思考が、世界1の諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き世界1に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、世界2が世界3を把握して新たな世界3を生成するという事実が、重要なヒントを与える。(カール・ポパー(1902-1994))】

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b)世界3と世界1の相互作用
 世界3は、確かに世界1の対象としても存在してはいるが、世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。これは、すなわち新たに生成された世界1でもある。

(b1)世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。

 時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
  ↓    ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2と世界1の相互作用(心身問題)
(c1)精神状態は脳内のプロセスから生じるとすると?

 時間1 世界1・P1⇒世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界2・M2

 しかし、世界2は、世界1の対象を視覚により知覚する場合であっても、能動的で生産的な方法により知覚を作り出す。これは、無意識的な神経生理学的過程に支えられている。

(c2)意識的な思考過程は、どのように理解すればよいのだろうか。

 時間1 世界1・P1 世界2・M1
  ↓   ↓    ↓意識的な思考過程
 時間2 世界1・P2 世界2・M2

 もし物理的世界の諸法則が全てを支配しており(c1)が正しいとすると、(c2)のような意識的な思考過程が、どのように生じて、どのように物理的世界に影響を及ぼし得るのか、というのが心身問題である。(b2)が、それを「理解するのを少しは容易にしてくれる」。

 「第二の論証は第一のものに部分的に依存している。もしわれわれが三つの世界の相互作用を認め、したがって、それらの実在性をも認めるならば、いくぶんかはわれわれが理解できる世界2と世界3の相互作用は、心身問題の一部である、世界1と世界2の相互作用の問題をよりよく理解するためにわずかとはいえ、おそらく助けとなるであろう。

 なぜなら、われわれは、世界2と世界3の相互作用の一つ(《把握作用》)は、世界3の対象を作り出す働きとして、そして批判的な選択によってそれら対象を照合する働きとして解釈できるということをみてきた。

同じようなことは世界1の対象の視覚による知覚についても正しいように思われる。このことは世界2を能動的――生産的で批判的(製作的と調合的)――とみるべきであることを示唆している。

だが、ある無意識的な神経生理学的過程がまさにそれを行っているのだ、と考えるべき理由をわれわれはもっている。このことはおそらく、意識過程も同じ仕方で行なわれていることを《理解する》のを少しは容易にしてくれる。すなわち、神経過程によって意識的過程が行なわれていることは、行なわれているのと同じような仕方である程度まで《理解できる》。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)p.80、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:心身問題,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月19日日曜日

5.世界3についての考察は、心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3と心身問題

【世界3についての考察は、心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(再掲)
1 人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))
1.1【世界3は、世界1の対象でもある。】
1.2【世界3は、個々の世界2の集まりを超える、何ものかである。】
1.3【世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する。】
1.4【世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。】
2【世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である。】
  人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
3【世界3の自律性】
  世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))

 「世界3についての考察が心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる、というのが本書で提起される主要な推測の一つである。三つの論証を簡単に述べてみよう。
 第一の論証は次のようである。
(1)世界3の対象は抽象的である(物理的な力よりもいっそう抽象的である)が、それにもかかわらず実在的である。なぜなら、それらは世界1を変革する強力な手段なのである。(私はこのことが世界3の対象を実在的と呼ぶ唯一の理由であるとも、またそれらは手段以外の何物でもないとは思わない。)
(2)世界3の対象は人間がそれらの製作者として介在することを通してのみ世界1に影響を及ぼす。とりわけ、世界3の対象が把握されるということを通して世界1に影響を及ぼす。そして、把握とは、世界2の過程、または心的過程であり、より正確には世界2と世界3が相互作用する過程である。
(3)したがって、われわれは世界3の対象と世界2の過程がともに実在的であることを認めねばならない――たとえ唯物論の偉大な伝統への尊敬から、これを認めることを好まなくともである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)p.79、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3,心身問題)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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