2021年12月14日火曜日

客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))

客観的科学の経験的基礎

客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))


「客観的科学の経験的基礎は、したがって、科学についてなんら「絶対的」なものをもたな い。科学は岩底に基礎をおくものではない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。杭は上から沼 地のなかに打ち込まれるが、いかなる自然的なまたは「既定の」基盤にも達しない。そしてわ れわれがより深い層に杭を打ち込もうとする企てをやめる時でも、それはわれわれが堅固な基 礎に達したからではない。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,30 理論と実験,p.139,恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博 (訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))

科学と独断論、心理主義

科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))


(a)科学は独断論なのか
 理論が確証されていない仮説にとどまるという意味で独断論というなら、そうである。しかし科学における理論は全てこのようなものであり、また必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストを続行できるようなものである。
(a)科学は心理主義なのか
 理論が予測する結果の確認が、我々の知覚的経験に依存しているという意味で、心理主義というなら、その通りである。しかし科学においては、その知覚的経験によってある言明が事実であることを正当化するのではない。その知覚的経験の情報によって、言明の受け入れまたは拒否の判断の材料として使われるだけである。


「それではフリースのトリレンマ――独断論・無限後退・心理主義からの――三者択一(第25 節を参照)に関し、われわれはいかなる立場にあるのか。われわれが、満足すべきものとし て、また十分にテストされたものとして、受容れることを決定し、そこでストップするところ の基礎言明は、それらをわれわれがさらなる論証によって(あるいはテストによって)、正当 化するのを止めてよいというかぎりにおいてだけであるが、確かにドグマの性格をも つ。しかしこの種の独断論は無害である。なぜなら、必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストをさらに続行できるからである。これはまた、演繹の連鎖を原則上無限なものにさせ るものであることを、私は認める。しかしこの種の無限後退もまた、無害である。なぜなら、 われわれの理論にあっては、なんらかの言明を立証しようとすることなど全然問題でないから である。そして最後に、心理主義について:基礎言明を受容れそれで満足するという決定が、 われわれの経験――とりわけわれわれの知覚的経験と因果的に結びついていることを、 私はふたたび認める。しかしわれわれは、これらの経験によって基礎言明を正当化し ようとは企てない。経験は決定を動機づけることはでき、したがって言明の受容れま たは拒否を動機づけうる、しかし基礎言明は経験によって正当化されえない――テーブルをた たくことによって正当化できぬのと同様に。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,29 基礎言明の相対性、フリースの三者択一の解決,pp.130-131, 恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博(訳))


科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月13日月曜日

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))

相互主観的テスト可能性

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)相互主観的テスト可能性
 科学的言明が客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならない。
(b)科学にはテスト不能な言明は存在しない
 なぜなら、そのその言明が理論において意味があるのなら、演繹の連鎖の中で、その言明が前提条件として登場するような、別の言明があることになるが、その言明がテスト可能なら元の言明もテスト可能だからである。
(c)演繹結果によるテストには、無限後退の困難は存在しない
 ある言明が真であるかどうかを、明らかに真である言明にまで遡らせようとする方法論には、無限後退の困難がある。しかし、テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな い。従って、無限後退の困難はない。
(d)無限のテスト可能性について
 しかし、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできない。これは問題ないのか。問題ない。なぜなら、無限のテスト可能性の要求は、受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬという条件とは異なるからである。


「経験的基礎の問題にたいするわれわれの最終的な答えがどんなものであるにせよ、次の一 事は明らかなはずである。すなわち、科学的言明は客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならないということ、これである。相互主観的なテスト可能性とは、テストさ れるべき言明から他のテスト可能な言明が導きだせることを意味する。したがって、もし基礎 言明が立替って相互主観的にテスト可能にならなければならぬとすれば、科学においては 究極的な言明はありえない。すなわち、科学にはテストすることのできぬいかなる言明も ありえない。それゆえ、それらの言明から導出されうる諸結論のあるものを反証することに よって、原理上、論破することのできぬ言明はひとつもないのである。  こうして、われわれは次のような見解に達する。諸理論の諸体系は、それから普遍性のレベ ルのより低い言明を演繹することによってテストされる。それらの言明は、相互主観的にテス ト可能であるはずのものだから、翻ってまたそれ自体が同様の仕方でテスト可能でなければな らない。――これが無限に続いていく。  この見解は無限後退に導くものであり、それゆえ支持しがたいものだと考えられるかもしれ ない。第1節で帰納を批判したさい、私は帰納が無限後退をもたらすものだという反論を提起 した。ところが、それとまったく同じ批判が私の提唱する演繹的テストの手続にたいしてもあ てはまる、と読者は思うかもしれない。しかし、そうはならないのである。テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな いのだ。だから、そこには無限後退の危険はない。しかし私が注意を喚起した状況――無限 のテスト可能性、およびテストの必要のない究極的言明は存在しないということ――が、 ある問題を生みだすことは認めなければならない。なぜなら、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできないからである。遅かれ早かれ、われわれは中止せざるをえな い。ここではこの問題を詳しく論じないで、次のことを指摘するだけにとどめたい。すなわ ち、テストをいつまでも続けていけないという事実は、すべての言明がテスト可能でなければ ならないという私の要求と矛盾するものではない、ということである。なぜなら、すべての科 学的言明は、それが受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬ、と私は要求しているのではないからである。私はただ、すべての科学的言明はテスト されうるものでなければならない、と要求しているだけなのである。いいかえれば、 テストすることが論理的理由から可能とは思われぬというただそれだけのことで、あきらめ て、真として受容れなければならない言明が科学には存在するのだという見解を、私は拒否す るのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.57-58,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))

確実に思える経験と科学的事実

いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)いかに確実に思える経験でも科学的事実ではない
 確信の感情がいかに強烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性をまったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理由にはならない。
(b)経験を表示する言明は心理学的な仮説
 経験を表示する言明(我々の知覚を叙述している言明、プロトコル文とも呼ばれるれる)は、科学においては心理学的言明であり、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。
(c)経験への還元主義は誤りである
 従って、科学的言明の客観性を、経験を表示する言明に還元することによって基礎付けようとする理論は、誤りである。



「ここで、前節でとりあげられた問題点、つまり主観的経験または確信の感情は、けっして 科学的言明を正当化しえず、また科学の内部において経験的(心理学的)研究の対象として以 外のいかなる役割をも演じえないという私のテーゼ、に立ちもどろう。確信の感情がいかに強 烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性を まったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理 由をいささかでも提供するであろうか。カール・ポパーが真なることを確信しているという事 実によって、なんらかの言明が正当化されうるであろうか。答は「否」である。これ以上のど んな答も、科学的客観性の観念と両立しえまい。私がこの確信感情を経験しているという事実 は、私にとってはきわめて堅固に確立されているにしても、客観的な科学の分野の内部では 心理学的仮説(もちろん相互主観的テストを要する)の形においてしかあらわれえな い。私がこの確信感情をもっているということから推測して心理学者は、心理学的その他の理 論の助けをかりて、私の行動について一定の予測を導きだせよう。そしてそれらの予測は実験 的テストの過程で裏付けられ、あるいは反駁されるかもしれぬ。しかし認識論の観点からすれ ば、私の確信感情が強いか弱いか、それが疑いをいれぬ確実性(あるいは「自己明証」)の強 いあるいは抗しがたい印象からきたのか、たんに疑わしい憶測からのものであるかということ は、まったくかかわりのないことである。いずれにしても、それらのことは科学的言明がいか にして正当化されうるかという問題には、いささかの意義ももたない。  このような考察は、もちろん、経験的基礎の問題に回答を提供するものではない。しかし、 少なくとも、問題の主な難所がどこにあるかを理解する助けになる。他の科学的言明にたいす るのと同じく、基礎言明にたいする客観性の要求において、われわれは科学的言明の真理性を われわれの経験に還元させようとするいかなる論理的手段をもみずから拒否する。さらにわれ われは、経験を表示する言明――われわれの知覚を叙述している言明(それらは時として「プロ トコル文」とよばれる)のごとき――に、いかなる特権的地位をも与えてはならない。これらの ものは、科学においては心理学的言明としてのみあらわれるのであって、このことは(心理学 の現状から考えて)相互主観的テストの基準が非常に高いとは明らかにいえない種類の仮説と してしか通用しないことを意味する。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.56-57,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月12日日曜日

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))

科学的方法

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))


(1)知識の究極的根源は存在しない
 知識の究極的根源など存在しない。事実かどうかが問題なのであって、情報の根源(出所)が問題なのではない。
(2)事実との一致
 言明が事実と一致しているかどうか、直接テストしたり、その諸帰結をテストする。
(3)観察結果との一致、内部無矛盾性
 典型的な手続きは、観察結果との一致を確認したり、内部に相互の矛盾がないかの確認したりする。
(4)知識の源泉としての伝統
 知識の重要な源泉は、伝統である。知識の内容だけでなく、知識の習得方法や態度なども、伝統を通じて獲得される。
(5)批判的検討
 伝統が無ければ知識の習得があり得ないにもかかわらず、全ての知識は批判的検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもあり得る。
(6)知識の進歩
 知識の進歩は、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。観察から始まるのではない。白紙から始まるのでもない。
(7)誤謬や虚偽は知ることができる
 真理の基準は、われわれの手の内にはない。しかし、誤謬や虚偽を認知させてくれるような規準がある。不明瞭や混乱、不整合や矛盾である。
(8) 観察も理性も権威ではない
 観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力も非常に重要であるが、真理の決め手ではない。真理の基準は、われわれの手の内にはない。
(9)明瞭さと精密さは異なる
 明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がない。
 言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けである。
(10) 世界の謎は汲み尽くされることはない


「さて、以上の議論の認識論的帰結を整理しておくべき段階に達しているように思う。以下 それらを10のテーゼの形で述べてみよう。  1、知識の究極的根源など存在しない。どのような根拠、どのような提案も提示されてよい が、どのような根拠、どのような提案も、批判的検討を受けなくてはならない。歴史の場合を 除いて、われわれは通常、事実そのものを検討するのであって、その情報の根源(出所)を検 討するのではない。  2、関わるべき認識論の問題は、根源に関するものではない。むしろ、われわれは、なされ た言明が真であるか否か――すなわち、その言明が事実と一致しているか否か――を問う。(事実 に対応しているという意味での客観的真理という概念を、矛盾に陥ることなく操作しうること は、アルフレッド・タルスキーの労作によって示されている。)そして、われわれは、言明そ のものを検討したりテストしたりすることによって、すなわち、直接にか、あるいはその諸帰 結かを検討し、テストすることによって、できるかぎり、この一致ないし対応を見出そうとす るのである。  3、こうした検討に関しては、あらゆる種類の議論が関係してくるであろう。その典型的な 手続は、われわれの論理が観察結果と矛盾していないかどうかを調べることである。しかし、 また、たとえばわれわれの歴史資料(根源)が相互に内的に無矛盾であるかどうかを調べるこ ともできる。  4、量的かつ質的に、われわれの知識のはるかに重要な源泉と言えば、それは――生得の知識 を別にすれば――伝統である。われわれの知っている事柄の大部分は、範例を示されたり、こと ばで教えられたり、あるいは、批判のしかたや、その批判の受けとりかたや、真理に対する敬 意の払いかたを学んだりすることによって習得したものである。  5、われわれの知識の根源のほとんどが伝統に由来するという事実は、反伝統主義を無益の わざと見なす。しかし、この事実が伝統主義的な態度を支持するものと考えられてはならな い。われわれの伝統的な知識の一つ一つ(さらにはわれわれの生得的知識さえも)が、批判的 検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもありうるのである。にもかかわら ず、伝統がなければ、知識は不可能となろう。  6、知識は無から――白紙の状態から――出発するものでもなければ、観察から出発するのでも ない。知識の進歩というものは、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。時に は、たとえば考古学においては、偶然の観察によって知識が進展することがあるけれども、その発見の意義は、通常、それによってそれ以前の理論を修正できるかどうかによって決まるの である。  7、悲観的な認識論も、楽天的な認識論も、ともに同じくらい間違っている。プラトンの悲 観的な洞窟の比喩は真理であるが、その楽天的な想起説はそうでない(たとえすべての人間 が、他のすべての動物とか、場合によってはすべての植物と同様に、生得的な知識を所有して いるということを認めるとしても)。なるほど見かけの世界は、洞窟の壁に映った単なる影の 世界なのであろうが、しかし、われわれは、すべて不断にその世界を超え出ようと努めてい る。デモクリストが言ったように、真理は奥深く隠されているものであるが、われわれはその 深みへさぐりを入れることができる。真理の基準は、われわれの手の内にはない。そして、そ の事実がペシミズムを支えている。しかし、われわれには、《運さえよければ》、誤謬や虚偽 を認知させてくれるような規準がある。明瞭性や判然性は真理の基準ではないが、不明瞭や混 乱のような事柄は誤りのしるしで《ありえよう》。同様にして、整合性があるからといって真 理が確定するわけではないけれども、不整合や矛盾があれば虚偽が確定する。そして、それら が認識されたときには、われわれ自身の間違いがおぼろげながらも赤信号となり、われわれが 洞窟の闇から手さぐりで抜け出す手助けになってくれるのである。  8、観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力は非常に重要であるが、それらも頼りに ならない。それらは事物を極めて明白に示してくれるだろうが、われわれを過たせもする。そ れらはわれわれの理論の主たる根源として不可欠ではあるが、われわれの理論の大部分は、と もかくも真理であるとは言えない。観察と理性能力、さらには直感と想像力の、最も重要な機 能は、われわれが未知の事柄をさぐる際の手段となるような、思い切った推測を批判的に検討 するのに役立つということである。  9、明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわ ち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がないのである。言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。だから既述の観 念表(33ページ)は、その対称性にもかかわらず、重要な半分と重要でない半分に分たれ る。」

(33ページ、再掲)
        観念(IDEAS)
指示記号          陳述
ないし名辞      ないし判断
ないし概念      ないし命題
     が表現されるのは
語                      断定文
     によってであり、これらは
有意味              真
     であり得、その
意味                  真理
     は、
定義                  導出
     という手段を介して、
未定義概念      原始命題
     の意味ないし真理へ還元し得る。
     こうした方法によって、
意味                 真理      を還元しようとせず、むしろこれらを確定しようとする試みは、無限後退に陥る。

 「すなわち、左側(ことばとその意味)が重要でないのに対して、右側(理論とその真偽に 関わる諸問題)のほうは全部重要なのである。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けであって、ことばの問題は万難を排して回避すべきである。  10、一つの問題を解決しても、必ず未解決の問題が生じてくる。そうであればあるほど、元 の問題は深みを増し、その解決は一層大胆になる。われわれが世界について学べば学ぶほど、 われわれの学問が深くなればなるほど、自分の知らないことに関するわれわれの知識、すなわ ち自己の無知に関する知が、もっと意識され、明細になり、はっきりしてくるであろう。なぜ なら、このこと――すなわち、われわれの知識は有限でしかありえないのに、われわれの無知は 必然的に果てしがないという事実――こそ、われわれの無知の主たる根源なのだからである。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,序章 知識と無知の源泉について,16,pp.48-50,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))

カール・ポパー
(1902-1994)









社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))

実在するものとしての思想

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
(b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
(c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
(d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。


「第二は経済学主義(もしくは「唯物論」)であり、社会の経済組織、われわれと自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度、特に制度の歴史的発展にとって基礎的であるという 主張である。私の信じるところでは、この主張は、「基礎的」という用語が日常的な漠然とし た意味で受け取られ、過度に強調されることがない限り、完全に健全である。換言すれば、実 際上あらゆる社会研究は、制度的な研究であるにせよ歴史的な研究であるにせよ、社会の「経 済的諸条件」を顧慮に入れて遂行されるならば、有益なものになりうることには何の疑問も挟 みようがないのである。数学のような抽象的科学の歴史でさえ例外ではない。この意味で、マ ルクスの経済学主義は社会科学の方法に極めて価値のある前進を示していると言えるのであ る。  しかし、私が前に言ったように、われわれは「基礎的」という用語をあまり重大に受けとるべきではない。マルクス自身は疑いもなくそうしたのである。マルクスはヘーゲル主義の下で 育ったから、「実体」と「現象」との古代の区別、またそれに対応している「本質的」なもの と「偶然的」なものとの区別によって影響されていた。マルクスは、自分がヘーゲル(そして カント)に加えた改良は、「実体」を(人間の物質交代を含む)物質界と同一視したこと、そ して「現象」を思想や理念の世界と同一視したことにある、と見がちであった。それゆえ、す べての思想や観念は、基礎になっている本質的な実体、すなわち経済的諸条件に還元されて説 明されねばならないということになろう。こうした哲学的見解が他の何らかの形態の本質主義 より格段に優れているわけではないのは確かである。そしてそれが方法の領域に及ぼす効果 は、経済学主義の過度の強調とならざるをえないのである。なぜなら、《マルクスの経済学主 義の一般的重要性はいくら評価してもまず評価しきれるものではないが、個々の特殊的な事例 では、経済的諸条件の重要性が過大に評価されやすいからである》。経済的諸条件についての ある知識は、例えば数学の問題史にかなり寄与するであろうが、しかし数学の問題の知識その ものの方が、こうした目的にとってははるかに重要である。つまり、数学上の問題の「経済的 背景」にいっさい言及せずとも、十分に行き届いた数学の問題史を著述することさえ可能なの である(私見によれば、科学の「経済的諸条件」もしくは「社会的諸関係」というのは、すぐ 使いすぎになって陳腐に堕しやすいテーマである)。  しかし、これは、経済学主義を過度に強調する危険の矮小な例でしかない。経済学主義は、 しばしば十把一からげにされて、すべての社会的発展は経済的諸条件の発展とりわけ物理的生 産手段の発展に依存するのだ、という学説であると解釈されている。しかしこうした学説は明 白に誤りである。経済的諸条件と思想には相互作用が存在するのであって、単純に後者が前者 に一面的に依存するのではない。それどころか、われわれは、以下の考察から知ることができ るように、ある種の思想、われわれの知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。あらゆる機械やあらゆる社会的組織 も含めて、われわれの経済体制がある日壊滅させられたと、だがしかし技術上の知識は科学上 の知識は保存されたと想像してみよ。こうした場合でも、(多数の人々が餓死してしまった後 で小規模に)経済体制が再建されるまでに相当に長い期間が費やされることはおそらくないで あろう。だが、これらの事柄についての《すべての知識》が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ! このことは、未開民族が高度に産業化されてはいるが人々のいなくなっ た国を占領した場合に生じることに等しいであろう。それはすぐさま文明のあらゆる物質的残 存物の完璧な消滅につながるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第15章 経済学的歴史信仰,第3節,pp.102-104,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。「人間の本性にかなう、本性を害する」も、一つの選択であり規範概念である。前提となる価値を選択すれば、我々が何をなすべきかは合理的な議論の対象となる。それでもなお、私が何をなすべきかは、完全に私に任されている。(カール・ポパー(1902-1994))

道徳判断、倫理的決定

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。「人間の本性にかなう、本性を害する」も、一つの選択であり規範概念である。前提となる価値を選択すれば、我々が何をなすべきかは合理的な議論の対象となる。それでもなお、私が何をなすべきかは、完全に私に任されている。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
 (a)我々によって可能なすべての行為は人間本性に基づくものである。不可能な行為であれば、もとより考慮外でよい。従って、意味のある問い方は次のとおりである。
 (b)人間本性のうちで、どの要素に従って、それを発展させるべきであるのか。
 (c)人間本性のうちで、どの側面を抑圧ないし制御すべきであるのか。
 (d)すなわち、これは規範概念である。簡単な例で考えよう。美味しいものと、まずいもの。美味しいからといって身体に良いとは言えない。情動が、規範概念を直接定義するわけではない。そこで、健康に良い食べものとして再定義してみる。すると、経験と理性と他者との批判的な議論によって、真偽の区別ができる概念になる。しかし、この概念は我々が選択したものである。また、その食べ物が健康に良いものかどうかにかかわらず、我々はどの食べ物も食べることができるし、食べないこともできる。また、真偽の判断は区別はできても、判断の難しい対象もあるし、そもそも私は、健康に良いという基準では食べ物を選ばないかもしれない。
(2)我々は、いかに行為すべきか
 (a)法規範
 (b)慣習としての道徳規範
 (c)宗教的信念
 (d)医療的知識
 (e)一般にあらゆる工学的知識
 (f)科学も一定の規範に支えられている
 (g)美的規範
(3)私はいかに行為すべきか
 (a)道徳判断、倫理的決定という意味が、この意味だとすれば、仮に法規範に反することでも、私は自分の考えに従って、自分で行為を選択できる。
 (b)人の決定を「裁くな」というのは、人道主義倫理の根本法則の一つである。
 (c)たとえ善、悪という言葉を使ったとしても、善という言葉の意味が「私がなすべきこと」という意味を持たない限り、私のなすべきことは導出できない。


「(1)私の考えでは、われわれの責任を分け合うための何らかの論拠ないし理論を得たいと いう希望が、「科学的」倫理学の基本的動機の一つである。「科学的」倫理学は、その絶対的な不毛性の点で、社会現象の中でも最も驚くべきものの一つである。それは何を目指すのであ ろうか。われわれが何をなすべきかを教えること、すなわち科学的土台の上に規範法典を建設 し、われわれが困難な道徳的決定に直面した場合に法典の索引を見さえすればいいようにする ことを目指すのであろうか。これは明らかにばかげたことであろう。もしこんなことができる ものだとしても、それはすべての個人的責任、およびそれゆえにすべての倫理を破壊すること になる、という事実は全く別にしてもである。それともそれは道徳的判断、すなわち「善」と か「悪」という用語を含む判断の真偽の科学的認定規準を与えようとするのであろうか。だが 道徳的《判断》が絶対的に的はずれなものであることは明らかである。人々やその行為を裁く ことに興味をもつのは悪口屋だけである。「裁くな」というのは、われわれのうちのある者に とっては、人道主義倫理の根本法則の一つであるとともにまたあまりにも評価されることの少 ない法則であるように思われる(われわれは犯罪者が犯罪を繰り返すのを防ぐために、彼の武 器を奪い投獄しなければならないかもしれないが、あまりにも多くの道徳的判断をすること、 とくに道徳的義憤をすることは、常に偽善とパリサイ主義のしるしである)。こうして、道徳 的判断の倫理学は、的はずれであるばかりでなく、実際に不道徳なことである。道徳問題の最 も重要な点は、もちろん、われわれが知的予見をもって行為することができ、またわれわれが 自分の目標は何であるべきか、すなわちわれわれはいかに行為すべきかを自問することができ るという事実によるのである。  われわれがいかに行為すべきかという問題を扱ったほとんどすべての道徳哲学者たち (ひょっとするとカントは例外となるが)は、「人間本性」への言及(カントでさえ、人間理 性に言及するときにはやっていることだが)によってか、または「善」の本性への言及によっ て、それに答えようとしてきた。これらのうちで第一の道はどこへも通じない。なぜならば、 われわれによって可能なすべての行為は「人間本性」に基づくものであり、それゆえ倫理の問 題は、人間本性のうちでどの要素に私は従ってそれを発展させるべきであるのか、またどの側 面を抑圧ないし制御すべきであるのかと問うことでも設定できるだろうからである。だがこれ らのうちの第二の道もまた、どこへも通じない。というのは「善」の分析が「善とはこれこれ のものである」(ないし「これこれのものが善である」)のような文の形で与えられるとすれ ば、われわれは常に、それがどうしたのか、これが私に何の関わりがあるのか、と問わなけれ ばならないからである。「善」という言葉が倫理的な意味で、すなわち「私がなすべきもの」 を意味するために用いられるときにのみ、「Xは善である」という情報から、私はXをすべきだ という結論を導出することができよう。換言すれば、善という言葉がいやしくも何らかの倫理 的意義をもつべきであるとすれば、それは「私(ないしわれわれ)がなすべき(ないし促進す べき)もの」として定義されなければならない。だがもしそのように定義されるならば、その 意味のすべては定義句で尽くされ、あらゆる文脈においてこの句によって置き換えることがで きる、すなわち「善」という用語の導入は実質的にわれわれの問題に寄与しえないのであ る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,註(18),pp.248-250,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









2021年12月11日土曜日

歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、我々は歴史に意味を与えることができる。我々は、権力政治史を、開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治に向けての我々の闘争という観点から解釈することができる。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、国際的犯罪の統治

歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、我々は歴史に意味を与えることができる。我々は、権力政治史を、開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯罪の統治に向けての我々の闘争という観点から解釈することができる。(カール・ポパー(1902-1994))


「私は、歴史は如何なる意味をも持っていない、と主張する。しかし、この主張の含意は、 われわれはせいぜいのところ唖然として権力史に見とれるだけか、或いは歴史を残虐なジョー クとして見つめざるをえない、ということではない。なぜなら、われわれの時代に解決すべく 選択された権力政治上の諸問題を視野に収めつつ、われわれは歴史を解釈しうるからである。 われわれは、権力政治史を、開かれた社会、理性の支配、正義、自由、平等、そして国際的犯 罪の統治に向けてのわれわれの闘争という観点から解釈することができる。歴史は如何なる目 的も持たないにせよ、われわれは歴史にこのようなわれわれの諸目的を課することができる。 《歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、われわれは歴史に意味を与えることができるの だ》。  われわれがここで再び出会うのは、自然と規約の問題である。自然も歴史もわれわれに、何 を為すべきかを告げることはできない。自然の事実であれ歴史の事実であれ、諸多の事実はわ れわれのために決定を下すことはできない。それらは、われわれが選択しようとしている諸目 的を決定することはできないのである。自然と歴史に目的と意味を導入するのはわれわれであ る。人間は平等ではない。しかし、われわれは、平等の権利に向けて闘おうと決定することは できる。国家のような人間の作った諸制度は合理的ではないが、しかし、われわれは、それら のいっそうの合理化を目ざして闘うべく決定しうるのである。われわれ自身とわれわれの日常 言語は、全体としてみれば、合理的であるというよりも感情的である。だが、われわれはほん の少しでも合理的になるべく努力できるし、われわれの言語を(われわれのロマンチックな教 育者が言うところの)自己表出の道具としてではなく、合理的な意思疎通のための道具として 使用すべく自己を訓練することもできるのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第25章 歴史は意味を持っているか,第4節,pp.257-258,未来社 (1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









歴史は、歴史解釈のみが存在しうるのだが、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成する権利を持っているとともに、義務も負っている。自らの実践的な課題の理解と解決のために、歴史解釈がある。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史解釈とは何か

歴史は、歴史解釈のみが存在しうるのだが、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成する権利を持っているとともに、義務も負っている。自らの実践的な課題の理解と解決のために、歴史解釈がある。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)歴史は、歴史解釈のみが存在しうるのだが、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成する権利を持っているとともに、義務も負っている。
(b)我々の諸困難事が過去とどのように関わっているのか。その問題は、どのようにして生じたのか。
(c)我々の選択した諸問題の解決に向かって、どのような道筋を見つけていけば良いのか。

「要約しておこう。「実際に生じた通りの過去」の歴史は存在しえない。歴史解釈のみが存 在しうるのだが、それらのどれ一つとして最終的なものではなく、各世代は彼ら自身の歴史解 釈を形成する権利を持っているのである。しかしながら、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成 する権利を持っているのみならず、一種のそうする義務も持っている。なぜなら、実際、応答 されるべき緊急の必要が存在するからである。われわれは、われわれの諸困難事が過去とどの ように関わっているのかを知りたいのであり、また、われわれの主要な課題と感じられ、選択 されもした諸問題の解決に向かって、われわれが進歩していけるような道筋を見たいのであ る。このような欲求が、合理的手段と公正な手段とによって答えられない場合に、歴史信仰的 解釈を産み出すのである。この圧力に促されて、歴史信仰者は、「われわれの最も緊迫せる問 題としてわれわれは何を選ぶべきか、それらの問題はどのようにして生じたか、われわれはそ れらの問題をどんな方向に沿って解決するのか」という合理的な問題に替えて、「われわれは どちらの道を進んでいるのか、本質上、歴史がわれわれに演じるように決めた役割は何か」と いう非合理で外見上事実的な問題をたてるのである。  ところで、私は、歴史信仰者の、彼ら自身の方法で歴史を解釈する権利を拒否したが、私は 正当なのだろうか。私は、誰でもそのような権利を持っていると宣言したのではなかったか。 この問題に対する私の回答は、歴史信仰的解釈は奇妙な種類のものだ、というものである。必 要でもあり正当化されてもいる解釈や、われわれが採用せざるをえないあれこれの解釈は、私 が既に述べておいたように、探照燈に比較できる。われわれはそれをわれわれの過去に投げか け、その反射によって現在を照らし出そうと望む。これとは反対に、歴史信仰的解釈はわれわ れ自身に向けられる探照燈に比較されよう。それは、われわれの周囲の何物かを見ることを、 不可能ではないにせよ、困難にし、われわれの行動を麻痺させる。この隠喩を翻訳すれば、歴 史信仰者は、歴史の諸事実を選択し、整序しているのがわれわれであることを承認しないので あり、「歴史そのもの」或いは「人類の歴史」が、その固有の法則によって、われわれ自身、 われわれの諸問題、われわれの未来、あまつさえわれわれの観点までをも規定していると信じ ているのである。歴史解釈は、われわれが直面している実践的諸問題と実践的諸決定とから生 じる必要に答えるべきだ、ということを承認する代わりに、歴史信仰者は、われわれの歴史解 釈への欲求には、歴史の観想を通じてわれわれは人間の運命の秘密、本質を発見できるかもし れないという深遠な直感が表現されている、と信じているのである。歴史信仰は、人類が歩む べく運命づけられている道を見出そうと探索している。すなわち、歴史信仰は、(J・マクマ レイが呼ぶところの)歴史への導きの糸、あるいは歴史の意味を発見すべく探索中である。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第25章 歴史は意味を持っているか,第3節,pp.249-249,未来社 (1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








合理主義的態度の放棄、理性や論証や他人の観点に対する敬意の放棄は、感情と情熱の重視を通じて人々を分断し、政治的平等主義を実践的に不可能としてしまう。友と敵、我々の部族とよそ者、信仰者と非信仰者、同国人と外国人、階級的同志と階級的敵、指導者と非指導者。(カール・ポパー(1902-1994))

合理主義と平等主義との関係

合理主義的態度の放棄、理性や論証や他人の観点に対する敬意の放棄は、感情と情熱の重視を通じて人々を分断し、政治的平等主義を実践的に不可能としてしまう。友と敵、我々の部族とよそ者、信仰者と非信仰者、同国人と外国人、階級的同志と階級的敵、指導者と非指導者。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)思想は非合理的な深層の反映なのか
 合理主義的態度の放棄、理性や論証や他人の観点に対する敬意の放棄、人間本性の「より深い」層の強調、こうした類のことは、思想はこれら非合理的な深層に内在するものの幾分表層的な現われに過ぎない、という見解を導く。
(b)思想か人格か
 思想家の思想ではなく、人格を重視する態度は、誤りである。なぜなら、思想を思想自身のメリットから判断してはいないからである。
(c)感情と情熱の強調は分断を生む
 我々は、抽象的に愛することはできず
知っている者を愛し得るのみである。従って、感情と情熱の強調は、人々を分断する。友と敵、我々の部族とよそ者、信仰者と非信仰者、同国人と外国人、階級的同志と階級的敵、指導者と非指導者。



「私は、不合理主義的態度は反平等主義的態度との関り合いをほとんど避けえないという事 実を強調しておきたい。この事実は、非合理主義が感情と情熱を強調することと関連してい る。なぜなら、われわれは万人に対して同じ感情を持つことはできないからである。感情的 に、われわれのすべては、人間を、自分たちにとって親密である者と、自分たちから離れてい る者とに分ける。友と敵とへの人類の分割は紛う方なく感情的分割である。そして、この分割 は、「汝の敵を愛せ」というキリスト教の命令で承認されもしている。実際にこの命令に従っ て生きている最良のキリスト教徒(「唯物論者」や「無神論者」に対する善良な平均的キリス ト教徒の態度に示されているように、その数は多くはないのだが)でさえ、万人に対する平等 な愛を感じることはできないのである。実際われわれは、「抽象的」に愛することはできな い。われわれは、われわれが知っている者を愛しうるのみである。それゆえ、われわれの最良 の感情である愛と憐憫への訴求でさえ、人類を様々なカテゴリーに分割するようになりうるの みである。そしてこのことは、劣等な感情や情熱に訴えが向けられるならば、一段とあてはま ることであろう。われわれの「自然」な反応とは、人類を友と敵とに、われわれの部族つまり われわれの感情的共同体に属する者とその外部に立つ者とに、信仰者と非信仰者とに、同国人と外国人とに、階級的同志と階級的敵とに、指導者と非指導者とに分割するということであろ う。  私は、われわれの思想や考想はわれわれの階級状況あるいは国家的利害に依存している、と いう理論が非合理主義を導かざるを得ないという点をすでに指摘した。今や私は、その反対が 真理であるという事実を力説したい。合理主義的態度の放棄、理性や論証や他人の観点に対す る敬意の放棄、人間本性の「より深い」層の強調、こうした類のことは、思想はこれら非合理 な深層に内在するものの幾分表層的な現われにしぎない、という見解を導かざるをえない。そ れは、私見によれば、ほとんどいつでも、思想家の思想ではなく、人格を重視する態度を産み 出さざるをえない。それは、「われわれはわれわれの血とともに」とか「われわれの民族的遺 産とともに」とか「われわれの階級とともに考える」といった信念を産み出さずにはおかない のである。このような見解は、唯物論的形態あるいは高度に精神的な様式で表現されることも ある。すなわち、われわれは「われわれの人種とともに考える」という思想は、おそらく、 「神の恩寵によって考える」という選ばれた或いは啓示された魂という思想によって、置き換 えられるかもしれないのである。私は、道徳上の理由からこうした相違に気をとめることを拒 否する。というのは、こうした知的に不遜極まる見解一切の間にある決定的な類似性は、それ らが思想を思想自身のメリットから判断してはいないということだからである。このように理 性を放棄することにより、それらは、人類を友と敵とに分裂させる、つまり、(プラトンが 言っているように)神と等しく理性を所有している少数者とそうでない多数者とに、さらには 近くにいる少数者と遠くにいる多数者とに、さらにはわれわれ自身の感情と情熱との他国語に は訳せない言葉を語る人々と国語を異にする人々とに分裂させるのである。ひとたびこうした 分裂が生じてしまうと、政治的平等主義は実践的に不可能となる。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第24章 神託的哲学と理性への叛逆,第3節,pp.216-217,未来社 (1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2021年12月10日金曜日

政策への科学的な方法が、つねに事象の原因の研究から始まるというのは、錯覚である。戦争の原因としての経済的利害の衝突、諸階級の衝突、自由対専制といった諸イデオロギーの衝突、諸人種、諸民族、帝国主義、軍国主義体制の衝突、憎悪、恐れ、羨望、復讐願望。では、どうするのか?(カール・ポパー(1902-1994))

科学的方法とは?

政策への科学的な方法が、つねに事象の原因の研究から始まるというのは、錯覚である。戦争の原因としての経済的利害の衝突、諸階級の衝突、自由対専制といった諸イデオロギーの衝突、諸人種、諸民族、帝国主義、軍国主義体制の衝突、憎悪、恐れ、羨望、復讐願望。では、どうするのか?(カール・ポパー(1902-1994))



「(3)だが平和の問題に対するこのような工学的態度は科学的なものであろうか。私は確信 するが、多くの人々は戦争と平和の問題に対する真に科学的な態度は異なったものでなければ ならないと主張することであろう。《われわれはまず戦争の原因を研究しなければならな い》、と彼らは言うであろう。われわれは戦争へ導く諸力と、また平和へ導きそうな諸力を研 究しなければならない。例えば最近、戦争ないし平和を生むかもしれない、社会の「根底にあ る力学的諸力」を十分に考慮する場合にのみ「永続的な平和」をもたらすことができるという 主張がなされてきた。これらの諸力を発見するためには、もちろん歴史を研究しなければなら ない。換言すれば、われわれは歴史信仰の方法によって平和の問題と取り組まなければなら ず、技術的な方法によってではない。これが唯一の科学的態度だと主張されるのである。  歴史信仰者は歴史の助けを借りて、戦争の原因は経済的利害の衝突、ないし諸階級の衝突、 ないし例えば自由対専制といった諸イデオロギーの衝突、ないし諸人種、または諸民族、また は帝国主義、または軍国主義体制の衝突、ないし憎悪、ないし恐れ、ないし羨望、ないし復讐 願望、ないしは以上の事柄のすべて、また他の無数のものに発見できることを示すかもしれな い。彼はまたその際、これらの原因を除去する仕事は極度に困難であることを示すであろう。 また彼は、われわれが戦争の諸原因、例えば経済的諸原因等を除去してしまわない限り、国際 機関を建設することには何の意味もないことを示すであろう。  同様に、心理主義は戦争の原因を「人間本性」、ないしもっと特殊的に言えばその攻撃性に 見出すべきであると論じ、また平和への道は攻撃の別のはけ口を用意することだと論じるかも しれない(スリラーものを読むことが大まじめに提案されてきた――われわれの最近の独裁者た ちの中にはそういうものにふけった者がいたという事実にもかかわらず)。  私はこの重要な問題を扱うこれらの方法があまり有望だとは思わない。またもっと詳しく言 えば、平和を確立するためには戦争の原因ないし諸原因を突き止めなければならないという もっともらしい議論を私は信じない。  疑いもなく、ある悪の原因を探し出してそれを取り除くという方法が成功しそうな場合は存 在する。もし私が足に痛みを感じるならば、それが小石によって引き起こされたことが分かってそれを取り除くかもしれない。だがわれわれはこれから一般化してはならない。小石を取り 除くという方法は、私の足が痛む場合のすべてをさえも覆いはしない。ある場合には「原因」 を発見しないかもしれないし、またある場合にはそれを取り除くことができないかもしれな い。  一般には、ある望ましくない事象の原因を除去するという方法が適用可能であるのは、われ われが必要条件の短い表(すなわち、その表に載っている諸条件のうちの少なくとも一つが存 在しないならば当該の事象は決して起こらないといった諸条件を記載した表)を知り、かつこ れらの条件のすべてを統制することができる場合、ないしもっと詳しく言えば防止できる場合 だけである(必要条件とは、「原因」というあいまいな用語で記述されているようなものでは ないこと、それらはむしろ普通「副次的原因」と呼ばれているものであること、われわれが 「原因」について語るときには、概して一組の十分条件を意味していること、を述べておくの がよいあろう)。だが私は、このような戦争の必要条件の表を作り上げることを望むことがで きるとは思わない。戦争は極めて多様な状況の下で起こってきた。戦争は、おそらくは雷雨の ような、単純な現象ではない。われわれが巨大な多様性をもつ現象を「戦争」と呼ぶことで、 それらがすべて同じ仕方で「引き起こされる」と保証しているのだと信じる理由はない。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(7),pp.327-328,未来社(1980),内田詔夫(訳),小 河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








政策への科学的な方法が、つねに事象の原因の研究から始まるというのは、錯覚である。原因はわかないかもしれないし、制御できないかもしれない。犯罪の抑止であれば、法律と警察力の導入の研究が先だろう。(カール・ポパー(1902-1994))

科学的方法とは?

政策への科学的な方法が、つねに事象の原因の研究から始まるというのは、錯覚である。原因はわかないかもしれないし、制御できないかもしれない。犯罪の抑止であれば、法律と警察力の導入の研究が先だろう。(カール・ポパー(1902-1994))



「以上のすべてが示すことは、一見公平で科学的に見える態度、すなわち「戦争の原因」の 研究が、実は偏見をもっているばかりでなく、合理的解決への道を閉ざしがちだということで ある。それは、実際には疑似科学的なものである。  もし法律と警察力の導入をする代わりに、犯罪の問題に対して「科学的に」、すなわちまさ に犯罪の原因であるものを発見しようとすることによって取り組むとしたら、われわれは一体 どこまで進めるであろうか。われわれは犯罪ないし戦争に寄与する重要な要因をそこここで発 見することができないとも、またわれわれはこの方法では多くの害を避けることができないとも、私は言うつもりはない。だがこのことは、われわれが犯罪を統制下に置いた後に、すなわ ち警察力を導入した後にはじめてできることである。他方、犯罪の経済的、心理的、遺伝的、 道徳的等の「原因」の研究とこれらの原因を除去しようとする試みでは、とても警察力(これ は原因を取り除くものではない)が犯罪を統制下に置くことの発見へとわれわれを導くことは なかったであろう。「戦争の原因」というような語句のあいまいさは別としても、その態度全 体がとても科学的とは言えない。それはあたかも、寒いときに外套を着ることは非科学的であ り、むしろ寒い天候の原因を研究してそれを取り除くべきだと主張するようなものである。あ るいはおそらく、注油することは非科学的である、というのもわれわれはむしろまさつの原因 を発見してそれを取り除くべきなのだから、と主張するようなものである。後者の例は、私の 考えでは、一見科学的な批判の不合理さを示すものである。というのは、注油が確かにまさつ の「原因」を減少するのと同様に、国際警察力(ないしこの種の別の武装体)は戦争の重要な 「原因」、すなわち「罰を受けずに戦争をやり遂げる」という希望を減少するかもしれないか らである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(7),p.328,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))

カール・ポパー
(1902-1994)









民主主義は、あらゆる権利が依存する基礎であり、また、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しており、民主主義の保護は常に闘いの最優先課題とすべきである。(カール・ポパー(1902-1994))

民主主義を守る闘い

民主主義は、あらゆる権利が依存する基礎であり、また、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しており、民主主義の保護は常に闘いの最優先課題とすべきである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)多数者支配は民主主義の本質ではない
 普通選挙制度が最も重要であるとはいえ、民主主義は多数者の支配として完全に性格づ けられうるものではない。なぜなら多数者が専制政治的に支配することもありうるからである。
(b)民主主義かどうかの認定規準
 支配者、政府を、流血の惨事なしに非支配者によって解職できること。これが民主主義の本質であり、民主主義と専制政治の区別が最も本質的である。それゆえ、権力の座にある者が、平和的変革運動の可能性を少数者に保証する諸制 度を保護しないならば、彼らの支配は専制政治なのである。
(c) 民主主義的憲法の改正限界
 整合的な民主主義的憲法は、法体系の変革のうち一つのものだけは、すなわち、憲法の民主主義的性格を危険にさらすであろうような変革だけは排除すべきである。 
(d)寛容の限界
 民主主義の暴力的転覆を他人に教唆するような者たちに、保護される権利は存在しない。
(e)民主主義を保護する制度
 民主主義を保護すべき諸制度をたてる政策は、いつでも、被支配者のうちにも支配者のうちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しているという仮定に基づいて進められねばならな い。 
(f)経済的諸利益が依存するもの
 民主主義が破壊されるならば、すべての権利が破壊されることになる。万一、被支配者が或る種の経済的諸利益を享受しているなら、それらは黙許によってのみ存続しているのであ ろう。
(g)全ての闘いにおいて民主主義の維持が最優先である
 民主主義は、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦場を提供する。しかし、この戦場で戦われるすべての個別的戦闘において民主主義の維持が第 一に考慮されないならば、その時には、常に存在している潜在的な反民主主義的傾向は、民主主義の崩壊をもたらすであろう。



「私がこの批判の基礎としているのは、民主主義は主要な諸政党の諸機能についての次のよ うな見解を固守する時にのみ機能しえるという主張である。その見解は以下の如き若干の規則 として要約できるであろう。  1、普通選挙制度が最も重要であるとはいえ、民主主義は多数者の支配として完全に性格づ けられうるものではない。なぜなら多数者が専制政治的に支配することもありうるからである (身丈6フィート以下の者は多数者を構成するが、これら多数者は身丈6フィート以上の者は全 員税金を支払うようにと決定するかもしれない)。民主主義においては、支配者の権力は制限 されねばならない。そして、民主主義〔であるか否か〕の認定規準は、民主主義下であるなら ば、支配者――すなわち政府――は、流血の惨事なしに非支配者によって解職されうる、というこ とである。それゆえ、権力の座にある者が、平和的変革運動の可能性を少数者に保証する諸制 度を保護しないならば、彼らの支配は専制政治なのである。  2、二つの統治形態、つまり、この種の諸制度を有する統治形態とそうでない一切の統治形 態、すなわち、民主主義と専制政治だけを区別する必要がある。  3、整合的な民主主義的憲法は法体系の変革のうち一つのものだけは、すなわち、憲法の民 主主義的性格を危険にさらすであろうような変革だけは排除すべきである。  4、民主主義においては、少数者の完全な保護が、法を暴力で破壊するような者たち、なか んずく、民主主義の暴力的転覆を他人に教唆するような者たちにまで拡張されるようなことが あってはならない。  5、民主主義を保護すべき諸制度をたてる政策は、いつでも、被支配者のうちにも支配者の うちにも反民主主義的傾向が潜在的に存在しているという仮定に基づいて進められねばならな い。  6、民主主義が破壊されるならば、すべての権利が破壊されることになる。万一、被支配者が或る種の経済的諸利益を享受しているなら、それらは黙許によってのみ存続しているのであ ろう。  7、民主主義は、暴力なき改革を許容するから、すべての合理的な改革にかけがえのない戦 場を提供する。しかし、この戦場で戦われるすべての個別的戦闘において民主主義の維持が第 一に考慮されないならば、その時には、常に存在している潜在的な反民主主義的傾向(これは また、われわれが第10章で文明の圧迫と名付けたものから苦しみを受けている人々に訴えるも のである)は、民主主義の崩壊をもたらすであろう。これら諸原則についての理解がまだ発展 させられていないならば、その発展が闘いとられねばならない。これと正反対の政策は致命的 であることが明らかになろう。すなわち、その政策は最も肝要な戦闘、民主主義それ自体のた めの戦闘の敗北をもたらすであろう。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第19章 社会革命,第5節,pp.150-151,未来社(1980),内田詔夫(訳), 小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








経済力が一切の悪の根源にあるという考えは真実ではない。経済力は、政治的、物理的な力に全面的に依存している。国家の能動的な干渉、物理的制裁に裏づけられた法による財産の保護のみが、富を権力の潜在的源泉にするのである。(カール・ポパー(1902-1994))

政治的、物理的制裁の力

経済力が一切の悪の根源にあるという考えは真実ではない。経済力は、政治的、物理的な力に全面的に依存している。国家の能動的な干渉、物理的制裁に裏づけられた法による財産の保護のみが、富を権力の潜在的源泉にするのである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)政治的、物理的制裁の力
 経済力は、政治的ならびに物理的力に全面的に依 存している。国家の能動的な干渉、物理的制裁に裏づけられた法による財産の保護のみが、富を権力 の潜在的源泉にするのである。

(b)経済力
「国家内での経済力は、究極的には法や世論から引き出されたものであるにせよ、たやすくある種の独立性を獲得する。それは 賄賂によって法律に影響を与えうるし、宣伝によって世論に影響を与えることもできる。それ は政治家に自らの自由と抵触するような義務を負わせることができる。それは財政危機を惹き 起こすと脅迫することができる。しかし経済的力がなしうることには、はっきりした一定の 限界が存在する」(ラッセル)

(c)法体系を道具とした政策
 ひとたび、物理的制裁力に支えられた形式的自由を達成してしまうならば、 我々は法体系を強力な道具とて、あらゆる政策を実施できる。あらゆる形態の票の買収の統制、選挙運動の経費の制限、世論に影響を与えることもできるし、政治的諸問題に更にずっと厳格な道徳的慣例を強いることもできる。


「以上の考察は、経済力が物理的あるいは国家権力よりもいっそう基本的であるという独断 的な学説を論破するに十分なものであろう。しかし、これとは異なった考察もある。様々な著 作家たち(中でもバートランド・ラッセルやウォルター・リップマン)が正しく強調したのだ が、国家の能動的な干渉――物理的制裁に裏づけられた法による財産の保護――のみが、富を権力 の潜在的源泉にするのである。なぜなら、この干渉が存在しないならば、人はみるまにその富 を失ってしまうであろうからである。それゆえ経済力は政治的ならびに物理的力に全面的に依 存している。ラッセルは、富のこうした依存性、さらには時としてその頼りなさを説明するよ うな歴史上の事例を挙げている。「国家内での経済力は」と彼はこう書いている、「究極的に は法や世論から引き出されたものであるにせよ、たやすくある種の独立性を獲得する。それは 賄賂によって法律に影響を与えうるし、宣伝によって世論に影響を与えることもできる。それ は政治家に自らの自由と抵触するような義務を負わせることができる。それは財政危機を惹き 起こすと脅迫することができる。《しかし経済的力がなしうることには、はっきりした一定の 限界が存在する》。シーザーは、彼の成功以外には返済のあてはないと見た債権者たちに助け られて権力をえた。だが彼は成功してしまうと、債権者たちを公然と無視してしまうほど強力 になった。チャールズ5世は皇帝の地位を買い取るに必要な金をフッガー家から借りたが、皇 帝になってしまうとフッガー家の人々を無視したから、彼らは貸したものを失った」。  経済力が一切の悪の根源にあるという独断は破棄されねばならない。その代わりに、《如何 なる》形態にせよ、無拘束の権力のもつ一切の脅威が洞察されねばならない。金そのものが特 に危険であるのではない。金が危険なものとなるのは、それが直取引で、あるいは生きるため に自分自身を売らざるをえない経済上の弱者を奴隷とすることで、権力を買うことができる時 のみである。  われわれは、こうした問題では、いわばマルクス以上に唯物論的な観点から考察せねばなら ない。われわれは、物理力と物理的搾取の統制が依然として中心的な政治問題であることを自 覚する必要がある。この統制を確立するために、われわれは「単なる形式的自由」を確立せね ばならない。ひとたびこれが達成され、政治権力の統制のためのその使用方法が学ばれるなら ば、一切がわれわれのもとに属するのである。もはやわれわれは、誰か或る人を咎める必要も なければ、舞台裏の邪悪な経済的悪魔に悲鳴をあげる必要もない。なぜなら民主主義の下で は、われわれは悪魔を制御する鍵を握っているからである。われわれは悪魔を飼い馴らすこと ができる。われわれはこれを自覚すべきであり、鍵を用いるべきである。われわれは、経済力 を民主的に統制する諸制度ならびに経済的搾取からわれわれを保護する諸制度を確立せねばな らない。  マルクス主義者たちは、直接的に、或るいは宣伝手段の買収を通じて間接的に、票を買収す る可能性について多くのことを語ってきた。しかし、詳細に考察すると、ここに上述で分析し た権力政治状況の好例があることがわかる。ひとたび、形式的自由を達成してしまうならば、 われわれはあらゆる形態の票の買収を統制することができる。選挙運動の経費を制限する法律 が存在するし、この種のもっと厳格な法律を導入するか否かは一にかかってわれわれ次第であ る。法体系を強力な道具とし、それ自身を守らせることができる。付け加えるに、われわれは 世論に影響を与えることができるし、政治的諸問題に更にずっと厳格な道徳的慣例を強いるこ ともできる。以上のことはすべてわれわれがなしうることである。しかし、われわれはまず第 一に、この種の社会工学がわれわれの課題であること、この課題はわれわれの力の及ぶ範囲内 にあること、経済上の地震が奇蹟の如く新しい経済的世界を産み出すから、われわれは古い政治的外套を取り払い、それを露わにするだけでよいであろう、と期待してはならないというこ と、これらのことを自覚しなければならないのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第17章 法体系と社会体制,第5節,pp.120-121,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月9日木曜日

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。中間的な結果が悪くても最終結果が良ければいいというのは、錯覚である。最終結果とは何か。そこで何かが終わるのか。中間結果も最終結果も、全てかけがえのない現実である。我々が比較対照しなければならないのは、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と、別の行為の進路の全結果である。(カール・ポパー(1902-1994))

ある行為の全結果の比較

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。中間的な結果が悪くても最終結果が良ければいいというのは、錯覚である。最終結果とは何か。そこで何かが終わるのか。中間結果も最終結果も、全てかけがえのない現実である。我々が比較対照しなければならないのは、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と、別の行為の進路の全結果である。(カール・ポパー(1902-1994))



「(c)第三の重要な点は、最終結果としてのいわゆる「目的」が中間的な結果である「手 段」よりも重要だと考えてはならないということである。「終わり良ければすべて良し」とい うことわざに示唆されているこの考えは、極めて誤解を招きやすいものである。第一に、いわ ゆる「目的 end」はとても事柄の終局 end とは言えない。第二に、目的が成就してしまえば 手段がいわば免責されるのではない。例えば、戦争での勝利のために使われた新しい強力な武 器のような「悪い」手段は、この「目的」が達成された後に、新しい困難を創造するかもしれ ない。換言すれば、あるものをある目的への手段として記述することが正当でありうるとして も、それは非常にしばしば手段以上のものである。それは当該の目的とは別の他の諸結果を生 む。そこでわれわれが比較対照しなければならないのは、(過去ないし現在の)手段と(未来 の)目的ではなく、ある行為の進路の予見しうる限りの全結果と別の行為の進路のそれとであ る。これらの結果は中間的な諸結果を含む時期にもわたるし、また企図された「目的」は考慮 すべき最後のものではないであろう。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),p.323,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。手段と目的のあいだの因果関係が成り立ち、それが合理的であると仮定すると、企図された手段の悪と、これらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪のうちの軽い方を選ぶという問題になる。(カール・ポパー(1902-1994))

大きな悪を避けるための手段として悪

善い目的は悪い手段を正当化するかどうか。手段と目的のあいだの因果関係が成り立ち、それが合理的であると仮定すると、企図された手段の悪と、これらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪のうちの軽い方を選ぶという問題になる。(カール・ポパー(1902-1994))


「だが、想定された因果連関が成り立つ、換言すれば手段と目的について語ることが適切で あるような状況が存在する、と仮定しよう。その場合、われわれはもう二つの問い、(b)と (c)を区別しなければならない。  (b)因果関係が成り立ち、またわれわれがそれを確信することが合理的であると仮定する と、問題は主として二つの悪――企図された手段の悪とこれらの手段が採用されない場合の生ず るに違いない悪――のうちの軽い方を選ぶという問題になる。換言すれば、目的のうちの最善の 要素がそれ自体として悪い手段を正当化するのではないが、一層悪い結果を避けようとする試 み、それ自体としては悪い結果を生み出す行為を正当化するかもしれない(われわれは大抵、 ある人の生命を救うためにその人の手足を切断することが正しいことを疑わない)。  これとの関連では、われわれが実際には当該の諸悪を評価することができない、ということ が非常に重要になるかもしれない。例えばあるマルクス主義者たちは、暴力的社会革命に含ま れる苦悩は彼らが「資本主義」と呼ぶものに内在する慢性の悪に含まれるものよりもはるかに 少ないと信じている。だがこの革命がより良い事態へ導くと仮定してさえも――彼らはどうして ある状態での苦悩と他の状態での苦悩を評価することができるのだろうか。ここでまた事実問 題が生じるのであり、事実的知識を過大評価しないことがまたしてもわれわれの義務なのであ る。その上、企図された手段が結局状況を改善することを容認したとして――われわれは他の手 段がもっとましな結果をもっと少ない代価で達成しないものかどうか、確かめたのであろう か。  だが同じ例はもう一つの非常に重要な問いを引き起こす。再び「資本主義」下の苦悩の総和 が、もしそれが数世代の間続いた場合には内乱の苦悩を上回ると仮定しても――われわれは後の 諸世代のためにある世代に苦しむように宣告することができるのであろうか(自分自身を他の 人々のために犠牲にすることと他の人々――ないし自分自身《および》他の人々――をそのような 目的のために犠牲にすることの間には大きな相違がある)。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),pp.322-323,未来社(1980),内田詔夫(訳),小 河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題である。すなわち、一層確実な結果である悪い手段にもかかわらず、期待された目的に通じているのかどうか。自分の因果理論に対する懐疑的な態度は、最も重要な道徳的義務の一つである。 (カール・ポパー(1902-1994))

善い目的は悪い手段を正当化するか

善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題である。すなわち、一層確実な結果である悪い手段にもかかわらず、期待された目的に通じているのかどうか。自分の因果理論に対する懐疑的な態度は、最も重要な道徳的義務の一つである。 (カール・ポパー(1902-1994))


「善い目的は悪い手段を正当化するかどうかという問題が生じるのは、病人の心を平静にす るために彼にうそをつくべきか、また人々を幸福にするために彼らを無知のままにしておくべ きか、また平和と美の世界を建設するために長くて血なまぐさい内乱を開始すべきかというよ うな場合からであるように思われる。  これらすべての場合において、企図されている行為は、善であると見なされている二次的な 結果(「目的」と呼ばれる)を引き起こすために悪であると見なされている一層直接的な結果 (「手段」と呼ばれる)をまず引き起こすことである。  私はこのような場合すべてにおいて、三つの異なった種類の問題が生じると思う。  (a)われわれは手段が実際に期待された目的に通じるということをどこまで想定する資格が あるか。手段は一層直接的な結果なのだから、それらは大抵の場合企図された行為の一層確実 な結果であろうし、またもっと間接的である目的は確実性が一層少ないであろう。  ここで提起されている問題は、道徳的評価の問題というよりはむしろ事実に関する問題であ る。それは、事実問題として、手段と目的の間にあると想定された因果連関が当てにできるも のかどうかという問題である。そこで、もし想定された因果連関が成り立たない場合には、そ れは手段と目的という場合ではなかったのであり、それゆえ実際はこの標題で考えるべきでは なかったのだと言うこともできよう。  これは真実であるかもしれない。だが実際上、ここで考慮されている論点はおそらく最も重 要な道徳的問題を含んでいる。というのは、その問題(企図された手段は企図された目的を引 き起こすかどうかという)は事実的な問題であるけれども、《この問題に対するわれわれの態 度は幾つかの最も根本的な道徳的問題》――われわれはこのような場合に、そうした因果連関が 成り立つという確信に依存すべきかどうかという問題、また換言すれば、われわれは独断的に 因果理論に依存すべきか、それとも、とくにわれわれの行為の直接の結果がそれ自体悪である と見なされる場合には、因果理論に対して懐疑的な態度を採るべきかという問題――《を引き起 こすからである》。  この問題はおそらくわれわれの挙げた三つの例のうちの初めのものの場合にはあまり重要で はないが、他の二つの場合には重要である。ある人々は、これら二つの場合において、想定さ れた因果連関が成り立つことは非常に確実なことだと感じるかもしれない。だがその連関は非 常に間接的なものであるかもしれない。また彼らの信念の情緒的な確実性でさえも、それ自 体、彼らの疑いを阻止しようとする試みの結果であるかもしれない(換言すれば、問題は狂信 者とソクラテスの意味での合理主義者――自分の知的限界を知ろうとする者――の間の問題であ る)。「手段」の悪が大きいものであればあるほど、問題は一層重要になる。それはともか く、自分の因果理論に対する懐疑の態度を採るように自己教育することは、疑いもなく最も重 要な道徳的義務の一つである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,註(6),pp.321-322,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2021年12月8日水曜日

最初に掲げた思想や理想、目標は、いったいどこから手に入れたのか。もともと合理的であろうとして目標を決めたが、それは直感で手に入れたのではないか。また思想や理想、目標は不変なのか。仮に私たちがそう信じても、未来の後継者たちは、そう思わないかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア主義への批判

最初に掲げた思想や理想、目標は、いったいどこから手に入れたのか。もともと合理的であろうとして目標を決めたが、それは直感で手に入れたのではないか。また思想や理想、目標は不変なのか。仮に私たちがそう信じても、未来の後継者たちは、そう思わないかもしれない。(カール・ポパー(1902-1994))


「この論点を一般化すると、ユートピア的態度への更に進んだ批判になる。この態度が実践 的価値をもちうるのは、おそらく若干の修正は加わるとしても、もとの青写真が完成に至るま での作業の基礎であり続けると仮定する限りにおいてであることは明らかである。だがこれに は時間がかかる。それは政治的にも精神的にも革命の時期であろうし、政治の分野での新しい 実験や経験の時期であろう。それゆえ思想や理想も変化することが予想される。もとの青写真を作成した人々にとって理想国家と思えたものが、その後継者たちにはそうは見えないかもし れない。このことを承認すれば、この態度全体が崩れ去る。最初に究極の政治的目標を確立し その後にそれに向かって動き始めるという方法は、その実現過程の間に目標がかなり変化しう るということを認めるならば、空しいものとなる。いままでとってきた措置が新しい目標の実 現から現実には逸れるものであることが、いつ何時明らかになるかもしれない。またわれわれ が新しい目標に合わせて方向を変えるならば、再び同じ危険に身をさらすことになる。われわ れが払ったすべての犠牲にもかかわらず、どこにも到達しないかもしれない。ピースミールな 妥協の実現よりも遠い理想へ向かう一歩を好む人たちは、その理想が非常に遠い場合には、その一歩が理想に近づく一歩であるのかそこから遠ざかる一歩であるのかを言うことさえ困難 になるかもしれないということを常に記憶すべきである。このことは、ジグザグの歩みをとっ て進まねばならない場合や、ヘーゲルの隠語によれば「弁証法的に」進まねばならない場合、 また進路が全然明瞭には計画されていない場合にはとりわけそうである(この問題は、目的は どの程度まで手段を正当化できるかという、古くまた幾分子供っぽい問題と関連する。いかな る目的も決してすべての手段を正当化することはできないという主張は別としても、私はかな り具体的で実現可能な目的は、もっと遠い理想では決してなしえないような一時的手段の正当 化をなしうると考えている)。  いまや、ユートピア的態度を救うことのできる道は、プラトンのように唯一の絶対不変の理 想を信じることとともに、更に二つの仮定、即ち(a)この理想が何であるか、および(b)その 実現のための最善の手段は何であるかをきっぱりと決定する合理的方法が存在するという仮 定、を付け加える以外にはないことが分かる。ユートピア的方法論が全く空しいという宣言を 阻止できるためには、このような遠大な仮定をする他ない。だがプラトン自身や最も熱烈なプ ラトン主義者でさえ、(a)は確かに真ではないこと、究極目的を決定する合理的方法は存在せ ず、あるとすればある種の直感以外のものではないことを認めるであろう。それゆえ、ユート ピア工学者たちの間に何らかの意見の相違があれば、合理的方法が存在しない以上、理性の代 わりに力の使用、すなわち暴力に行き着くに違いない。ある一定の方向において何らかの進歩 があるとすれば、それは採用された方法にもかかわらずなされるのであって、その方法のゆえ にではない。その成功は、例えば指導者の卓越性によるものかもしれない。だがわれわれは、 卓越した指導者というものは合理的方法によっては生み出すことができず、運による他ないと いうことを決して忘れてはならない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,pp.159-160,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









合理的な行為は一定の目標を持つ。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、この目的に適うようにその手段を決定する。それゆえ我々が合理的に行為したいと思うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。これは正しいのか。何が問題になるのか。(カール・ポパー(1902-1994))

ユートピア的態度

合理的な行為は一定の目標を持つ。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、この目的に適うようにその手段を決定する。それゆえ我々が合理的に行為したいと思うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。これは正しいのか。何が問題になるのか。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)ユートピア的態度
(i)合理的な行為はどれも、一定の目標をもつ はずである。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、またこの目的に適うようにその手段 を決定する程度において合理的なものとなる。
(ii)それゆえ、われわれが合理的に行為したいと思 うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。そして、真実の究極の目的を決定す るに当たっては注意深くなければならない。以上 の原則を政治活動の領域に適用すれば、何らかの実践活動をする前に、われわれの究極の政治 目標、すなわち理想国家を決定しなければならない、という要求となる。

(b)ピースミール工学
(i)この方法を採用する政治家は、社会の青写真を心にもっていてもよいしもっていなくて もよい。
(ii)完全というものは仮に達成可能だとしても はるかに遠いものであり、人類の各世代、それゆえ現在の世代もまたある要求をもっている。
(iii)社会の最大で最も緊急な悪を探してそれと闘うという方法を採用する。

「ユートピア的態度は次のように記述できよう。合理的な行為はどれも、一定の目標をもつ はずである。それは、目標を意識的かつ整合的に追求し、またこの目的に適うようにその手段 を決定する程度において合理的なものとなる。それゆえ、われわれが合理的に行為したいと思 うなら、最初にやるべきことは目的の選択である。そして、真実のないし究極の目的を決定す るに当たっては注意深くなければならない。それは、中間的ないし部分的な目的、すなわち現 実には究極目的のための手段ないし一段階にすぎないもの、から明白に区別しなければならな い。もしこの区別を無視すれば、これらの部分的目的が究極目的を促進しそうかどうかとの問 いも無視することになり、それゆえ合理的に行為できないことになってしまうのである。以上 の原則を政治活動の領域に適用すれば、何らかの実践活動をする前に、われわれの究極の政治 目標、すなわち理想国家を決定しなければならない、という要求となる。この究極目標が少な くとも大ざっぱな輪郭においてだけでも決定され、われわれの目指す社会の青写真のようなも のを所持するに至ったときにはじめて、その実現のための最善の方法や手段の考察を開始し、 実践活動のための計画を作成しはじめることができるのである。これは合理的と呼ぶことので きるどんな実践的政治活動にとっても必要な準備であり、とりわけ社会工学にとっては必要な 準備である。  以上が、簡単に言って、私がユートピア工学と呼ぶものの方法論的態度である。それは説得 力があり、魅力的である。事実、歴史信仰的偏見に感化されないか、またはそれに反発する 人々をもすべて惹きつけているのは、まさにこの種の方法論的態度なのである。このために、 その態度は一層危険であり、その批判が一層肝要になる。  ユートピア工学の詳細な批判に立ち入る前に、社会工学へ向うもう一つの態度、すなわちピースミール工学の態度を概観しておきたい。この態度は私が方法論的に健全だと思う態度で ある。この方法を採用する政治家は、社会の青写真を心にもっていてもよいしもっていなくて もよい。人類がいつの日か理想国を実現し、地上に幸福と完全とを達成するという希望をもっ ていてもよいしもっていなくてもよい。だが彼は、完全というものは仮に達成可能だとしても はるかに遠いものであり、人類の各世代、それゆえ現在の世代もまたある要求をもっているこ とに気付くであろう。人を幸福にするような制度的手段は存在しないのだから、その要求はお そらく幸福にして欲しいという要求であるよりも、不幸が避けられる場合には不幸にしないで 欲しいという要求であろう。彼らは、自分が苦しんでいる場合には可能な限りの援助が与えら れることを要求するのである。それゆえピースミール工学者は、社会の最大の究極的善を探し てその獲得のために闘うよりも、社会の最大で最も緊急な悪を探してそれと闘うという方法を 採用するであろう。この違いは単に言葉上の違いなどというものではない。事実、極めて重要 な違いである。それは、人間の運命を改善するための合理的方法と、本気でやった場合には容 易に人類の苦悩を耐え難いほどに増大させかねない方法との違いである。それは、いつでも適 用可能な方法と、その唱導が容易に諸条件がもっと好転する日まで行動を絶えず延期する手段 になりかねない方法との違いである。それはまた、これまでいつでもどこでも(後に見るよう にロシアをも含めて)本当に成功を収めていた唯一の事態改善方法と、それが試みられたと ころでは理性の代わりに暴力の使用に至るだけであったか、さもなければ方法そのものの放 棄、少なくとももとの青写真の放棄に至ったような方法との違いでもある。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,pp.157-158,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))

カール・ポパー
(1902-1994)









制度による選抜は、常に自発性と独創性、より一 般的に言えば異常な性質や予期されない性質を排除しがちである。これが教育制度に適用されると、学生には個人的経歴と選抜に必要な知識習得のみが奨励されることになる。知的指導者の選抜という要求は、科学と知性の生命そのものを危地に陥し入れるのである。(カール・ポパー(1902-1994))

制度による選抜の弊害

制度による選抜は、常に自発性と独創性、より一 般的に言えば異常な性質や予期されない性質を排除しがちである。これが教育制度に適用されると、学生には個人的経歴と選抜に必要な知識習得のみが奨励されることになる。知的指導者の選抜という要求は、科学と知性の生命そのものを危地に陥し入れるのである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)制度による選抜の弊害
 制度による選抜は、常に自発性と独創性を排除し、またより一 般的に言えば異常な性質や予期されない性質というものを排除する。
(b)教育制度による選抜の弊害
 教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能 な課題を負わせようとする傾向は、教育体系を競争場に変え、学科過程を障害物競争に 変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますの ではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければ ならない障害を超すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。
(c)特に知的指導者の選抜
 知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥し入れるのである。

「われわれはここで若干の重要性をもつ、また一般化できる結果に導かれた、と私は信じ る。傑出した者を選抜するための制度などというものを考案することはほとんど不可能であ る。プラトンが念頭に置いた目的、すなわち変化を阻止する目的のためには、制度による選抜 も極めてうまくいくかもしれない。だがわれわれがそれ以上を要求するならば、決してうまく いかないであろう。というのは、制度による選抜は常に自発性と独創性を排除し、またより一 般的に言えば異常な性質や予期されない性質というものを排除しがちだからである。これは政 治上の制度主義の批判ではない。それは以前に言ったこと、われわれは当然最善の指導者を得 るように努力すべきではあるが、常に最悪の指導者に備えるべきであるということを追認して いるにすぎない。だがそれは制度、とくに教育制度に対して、最善者を選抜するという不可能 な課題を負わせようとする傾向に対する批判《である》。このようなことは決して制度の課題 とされるべきではない。このような傾向は教育体系を競争場に変え、学科過程を障害物競争に 変えてしまう。学生が研究のための研究に没頭し自分の主題と研究を真に愛するのを励ますの ではなく、彼は個人的経歴のための研究を奨励される。彼は自分の昇進のために越えなければ ならない障害を超すのに役立つ知識のみを得るように誘導される。換言すれば、科学の分野に おいてさえも、われわれの選抜の方式というものは、やや粗野な形の個人的野心への呼びかけに基づいているのである(熱心な学生が仲間から疑いの目で見られるというのもこの呼びかけ に対する自然な反応である)。知的指導者を制度によって選抜するという不可能な要求は、科 学の生命ばかりか知性の生命そのものをも危地に陥し入れるのである。」

 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第7章 指 導者の原則,第5節,pp.138-139,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))

カール・ポパー
(1902-1994)









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