2022年1月12日水曜日

中絶に反対する人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度を示さなければならない。死刑に反対し、貧者のためのより公正な医療政策の実現に向けて努力し、福祉政策を推進し、積極的な安楽死の合法化に反対すべきである。(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))

生命倫理の一貫性の主張

中絶に反対する人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度を示さなければならない。死刑に反対し、貧者のためのより公正な医療政策の実現に向けて努力し、福祉政策を推進し、積極的な安楽死の合法化に反対すべきである。(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))



ジョセフ・カーディナル・
バーナー ディン(1928-1996)













(a)生命倫理の一貫性(ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(1928-1996))
 この見解は、中絶に反対す る人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度 (consistent respect for human life)を示さなければならないと主張する。人間の生命を尊重するという観点から中絶を反 対するカトリック教徒達は、もしその主張を一貫させようとするならば、同時に死刑に反対し (少なくとも、その抑止的価値が疑われている現在において)、貧者のためのより公正な医療 政策(health-care policy)の実現に向けて努力し、人間の生命の質と長さを向上させる ことにつながる福祉政策を推進し、たとえ末期患者の場合であっても、その積極的な安楽死 (active euthanasia)の合法化に反対すべきであると主張している。  

(b)人間の生命の尊厳
 彼は、「(これらの)基本的な原理は、(中略)我々の国民生活の指導 理念の形成に決定的な役割を果たしてきたユダヤ教とキリスト教の伝統の中に見いだされる。 この宗教的伝統の中では、人間の生命の意義は、神がその起源であり尊厳であるが故に神聖な ものとされる、という事実の中に基礎づけられている」と主張する。

(c)個人の諸権利との緊張関係の中に存在し得る社会的善
 彼によると、尊厳死に対 する判断に際して、「(尊厳死は)患者の個人としての利益になるのか? あるいはそれを損 なうことになるのか?」という問題に目を向けるのみで、「個人の諸権利(person right)との緊張(tension)関係の中に存在しうる、社会的善(social good)を損なうことになるのか否か?」、というより深刻な問題に目を向けないことが何故 間違いであるのかということが、この原理によって説明されるのである。


「◇興味深い宗教上の発展――「生命倫理の一貫性」の主張  おそらくカトリックの教義は、明確でも自覚的でもないとしても、既にこの方向に動いてい るのである。今日最も興味深い宗教上の発展の一つは、一切の中絶に強硬に反対しているカト リック教徒とプロテスタントの中に現われてきた、「生命倫理の一貫性(Consistent Ethic of Life)と彼らの一部の者が呼ぶところの見解である。この見解は、中絶に反対す る人々は、他の社会的諸問題に関する見解においても、一貫した人命尊重の態度 (consistent respect for human life)を示さなければならないと主張するのであ る。シカゴのローマ・カトリック協会の大司教である、ジョセフ・カーディナル・バーナー ディン(Joseph Cardinal Bernardin)は、この主張を発展させ擁護してきたパイオニア である。彼は一連の重要な著作や演説の中で、人間の生命を尊重するという観点から中絶を反 対するカトリック教徒達は、もしその主張を一貫させようとするならば、同時に死刑に反対し (少なくとも、その抑止的価値が疑われている現在において)、貧者のためのより公正な医療 政策(health-care policy)の実現に向けて努力し、人間の生命の質と長さを向上させる ことにつながる福祉政策を推進し、たとえ末期患者の場合であっても、その積極的な安楽死 (active euthanasia)の合法化に反対すべきであると主張している。  私が知るかぎりでは、カーディナル・バーナーディンは、胎児は妊娠の瞬間から人であると いう現在のカトリック教会の公式見解に明確な疑問を投げかけたことはなかった。彼は最近の 演説の中で聴衆に対して、「やがて生まれてくる、我々の幾百万の兄弟姉妹の命を救う」ため の支援を訴えている。しかし彼の主張――一方では中絶を非難しながら、他方で死刑や尊厳死・ 安楽死を支持することは矛盾している――は、中絶に対する原理的な反対は、胎児が生きる権利 を持った人であるという推論に基礎をおくのではなく、生命の本来的価値に対する尊重に基礎 をおくべきである、ということを前提にしている。何故ならば、前者――胎児は生きる権利を有 している――を根拠として中絶を非難する場合には、同時に、(バーナーディンが考えたよう に)殺人者は生命を奪われない権利を放棄してしまっているのであると考えるならば、死刑を 是認することとは《矛盾しない》ことになるからである。同様に(この立場に立つならば)、 尊厳死・安楽死が何故間違いであるのかということに関するバーナーディンの見解を支持する としても、尊厳死を是認することとは矛盾しないことになるであろう。  バーナーディンが尊厳死に対する反対の理由を、派生的理由でなく独自的理由に基づいてい ることは明白である。彼は、「(これらの)基本的な原理は、(中略)我々の国民生活の指導 理念の形成に決定的な役割を果たしてきたユダヤ教とキリスト教の伝統の中に見いだされる。 この宗教的伝統の中では、人間の生命の意義は、神がその起源であり尊厳であるが故に神聖な ものとされる、という事実の中に基礎づけられている」と主張する。彼によると、尊厳死に対 する判断に際して、「(尊厳死は)患者の個人としての利益になるのか? あるいはそれを損 なうことになるのか?」という問題に目を向けるのみで、「『個人の諸権利(person right)』との『緊張(tension)』関係の中に存在しうる、『社会的善(social good)』を損なうことになるのか否か?」、というより深刻な問題に目を向けないことが何故 間違いであるのかということが、この原理によって説明されるのである。(バーナーディン の)中絶に対する反対意見は、不可避的にそれとパラレルな独自的見解を受け入れる場合には じめて、中絶に反対すると同時に尊厳死に賛成することが矛盾しているということになるであ ろう――(バーナーディン達の)この見解によれば、中絶はまた、仮に胎児が生きる権利を有し ているとするならばそれを理由として悪とされるだけでなく、仮に胎児が生きる権利を有して いないとしても、生命の尊重という「社会的善」を侮辱することを理由として悪とされること になるのである。もちろん私は、カーディナル・バーナーディンや彼の見解を支持する人々 が、同時に、胎児が本当のところは権利や利益を持つ人であるとは主張できないと言おうとし ているのではない。しかし彼らの一貫性を要求する興味深い主張は、中絶に反対する場合に は、全くその見解(胎児は生きる権利を有する)には立脚していないということを前提とする ものなのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第2章 中絶のモラリ ティ,宗教,信山社(1998),pp.77-78,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

(1)中絶はモラル上深刻な決定である、(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 、(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容、(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

中絶に関する理論

(1)中絶はモラル上深刻な決定である、(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 、(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容、(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


 中絶に関するリベラルな立場の理論的枠組(paradigm)は、4つの要素から構成されてい る。

(1)中絶はモラル上深刻な決定である
 第一は、中絶はモラル上何ら問題がないという極端な意見は排除され、反対に中絶は、遺 伝学上少なくとも胎児の自己同一性が確立され、子宮壁に無事着床した時期すなわち通常は、概ね懐 妊後14日を経過した時点以降には、常にモラル上深刻な決定とされるということである。

(2)胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容 
 第二は、中絶はそれにもかかわらず、いくつかの深刻な理由の場合、モラル上許容されることがある、ということである。中絶は母胎保護、レイプ、近親相姦の場合のみならず、例えば、 サリドマイド児やティ・サックス病などの深刻で致命的な胎児の異常──仮に出産に至ったとし ても、その胎児には、短命で苦痛に満ちたいらだたしい人生がもたらされることが予想される──が診断された場合も、正当化されるのである。

(2.1)中絶がモラル上、要求される場合
 この見解では、実際、胎児の異常が極めて深 刻で、今後の人生が悲惨なほどに不自由で短いものになることが不可避とされる場合には、中 絶はモラル上許容されるばかりでなく、モラル上要求されることが有り得るのであり、そのよ うな子供を故意に世に送り出すことが悪とみなされることがありえよう。  

(3)母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容  
 第三は、仮に出産の結果が、彼女自身又は彼女の家族の人生にとって永続的で深刻なものと なることが予想される場合には、女性自身の自らの諸利益に関する配慮(concern)が、中絶 を十分に根拠づける理由となるということである。

(3.1)判断が困難なケース
 多くの女性にとってはこれが最も困難なケースであり、したがって、中絶に対してリベラルな見解を持つ人々は、このよう な場合に妊娠中の女性が中絶を決意した場合、彼女が何らかの後悔で苦しむことを当然のこ とと考える。

(3.2)逆に出産が問題となるケース
 しかしながら、彼らは女性達の決定を利己的なものとして非難するので はなく、おそらくは逆に、女性達が出産の決定をすることがモラル上重大 な誤りとなるのかも知れない、と考えることが大いにありえよう。 

(4)刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限はない
 少なくとも、胎児が十分 に発達を遂げて独自の利益を持つに至る妊娠後期までは、州は、たとえモラル上許容できない 中絶を阻止することを目的とするものであっても、妊娠の判断に干渉する権限を持たない。

(4.1)他の人々はモラル上の判断を本人に強制できない
 何故ならば、中絶が正当とみなされるか否かの問題は、最終的には胎児を妊娠 している女性の決定に関する事柄だからである。なるほど、他者――家族、友人、世間――が中絶に反対しているかも知れず、しかも彼らの反対がモラル上正しいことがあるかもしれない。




 「私はこれから、このような見解の一つの例を分析することにしよう――もちろん私は、穏健 リベラル派の全ての人々がそれを認めている、と言おうというのではない。  
◇第一の要素――中絶の決定はモラル上深刻なものである  中絶に関するリベラルな立場の理論的枠組(paradigm)は、4つの要素から構成されてい る。第一は、中絶はモラル上何ら問題がないという極端な意見は排除され、反対に中絶は、遺 伝学上少なくとも胎児の自己同一性が確立され、子宮壁に無事着床した時期――通常は、概ね懐 妊後14日を経過した時点――以降には、常にモラル上深刻な決定とされるということである。そ の時点以降は、中絶は既に開始された人間の生命の消滅を意味し、その理由のみでモラル上深 刻なコストを伴うとされるのである。中絶はささいな(trivial)、あるいはつまらない (frivolous)理由では決して容認されるものではなく、ある種の重大な損害を回避する場合 を除いては、正当化できないものとされる。(この立場においては)女性が、出産によって待 望していたヨーロッパ旅行の機会を失わなければならないとか、別な時期に出産をした方がよ り快適であると感じるとか、本当は男子を望んでいたにもかかわらず女子の出産が判明した、 ということを理由とする中絶は悪とされるであろう。  
◇第二の要素――胎児、母親等の深刻な理由に基づく中絶の許容  第二は、中絶はそれにもかかわらず、いくつかの深刻な理由の場合モラル上許容されること がある、ということである。中絶は母胎保護、レイプ、近親相姦の場合のみならず、例えば、 サリドマイド児やティ・サックス病などの深刻で致命的な胎児の異常――仮に出産に至ったとし ても、その胎児には、短命で苦痛に満ちたいらだたしい人生がもたらされることが予想される ――が診断された場合も、正当化されるのである。この見解では、実際、胎児の異常が極めて深 刻で、今後の人生が悲惨なほどに不自由で短いものになることが不可避とされる場合には、中 絶はモラル上許容されるばかりでなく、モラル上要求されることが有り得るのであり、そのよ うな子供を故意に世に送り出すことが悪とみなされることがありえよう。  
◇第三の要素――母親の生活上の不利益に基づく中絶の許容  第三は、仮に出産の結果が、彼女自身又は彼女の家族の人生にとって永続的で深刻なものと なることが予想される場合には、女性自身の自らの諸利益に関する配慮(concern)が、中絶 を十分に根拠づける理由となるということである。仮に出産によって、彼女が退学を余儀なく されたり、昇進や満足のいく独立した生活を獲得するチャンスを放棄することを余儀なくされ る場合には、事情によっては中絶が許容されることがあろう。多くの女性にとってはこれが最 も困難なケースであり、したがって、中絶に対してリベラルな見解を持つ人々は、(このよう な場合に)妊娠中の女性が中絶を決意した場合、彼女が何らかの後悔で苦しむことを当然のこ とと考えるであろう。しかしながら、彼らは女性達の決定を利己的なものとして非難するので はなく、おそらくは逆に、(女性達が)反対(=出産する)の決定をすることがモラル上重大 な誤りとなるのかも知れない、と考えることが大いにありえよう。 
 ◇第四の要素――州は、刑罰法規で胎児の利益を擁護する権限を有しない  リベラルな見解の第四の構成要素は、彼らが、既に述べた中絶に関してモラル上保守的な見 解をもつ人々と、時として共有する政治的見解である。この見解は、少なくとも、胎児が十分 に発達を遂げて独自の利益を持つに至る妊娠後期までは、州は、たとえモラル上許容できない 中絶を阻止することを目的とするものであっても、妊娠の判断に干渉する権限を持たないとい うものである。何故ならば、中絶が正当とみなされるか否かの問題は、最終的には胎児を妊娠 している女性の決定に関する事柄だからである。なるほど、他者――家族、友人、世間――が中絶に反対しているかも知れず、しかも彼らの反対がモラル上正しいことがあるかもしれない。法 はある状況のもとで、妊婦に対して、中絶の決定について他者との協議を義務づけることが許 されることがあるかもしれない。しかし州は最終的には、妊婦が自らの判断で中絶の決定をす ることを認めなければならず、他の人々のモラル上の信念を彼女に強制することは許されない のである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第2章 中絶のモラリ ティ,保守派とリベラル派,信山社(1998),pp.52-54,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

妊婦は、喫煙を避けたりして胎児に悪影響を与え得る行為を避ける。傷つけるより亡き者にすることの方が悪なので、中絶は悪である。この議論のどこに誤りがあるのか。将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を、亡き者にする行為である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

中絶の問題

妊婦は、喫煙を避けたりして胎児に悪影響を与え得る行為を避ける。傷つけるより亡き者にすることの方が悪なので、中絶は悪である。この議論のどこに誤りがあるのか。将来利益が発生するが、現に利益を有さない対象を、亡き者にする行為である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)妊婦が喫煙を避けるのはなぜか
 中絶がモラル上許容されると信じている 多くの人々は、それにもかかわらず、妊婦が自ら出産しようとしている子供に対して、喫煙したり他の手段で危害を加えることは悪であると考えている。

(b)傷つけるより殺す方が悪である
 評者達 はその矛盾を見つけ出して、殺すことは傷つけることよりも一層悪なのだから、喫煙が悪で、同 時に中絶が悪でないということは成り立たないのではないか、と批判する。
(c)将来利益が発生するが現に利益を有さない対象
 中絶が胎児の利益に反するか否かということは、中絶が行なわれた時に、胎児がそれ自体して利益を有しているか否かということによらなければならないのであり、中絶が行なわれなければ利益が発生してくるか否かということによるのではないのである。  

(d)利益を害される人は出現しない
 しかし仮に彼女が中絶をするならば、彼女の行動によって利益が傷つ けられることになった人間は出現しないことになるのである。
(e)モラル上、問題ないことは示唆しない
 もちろんこのことは、中絶は悪 いことが何もないとか、ましてや、中絶は出生してくる子供の健康を危険にさらすことよりも モラル上悪ではない、ということを示唆するものではない。



「中絶が胎児の利益に反するか否かということは、中絶が行なわれた時に、胎児がそれ自体 として利益を有しているか否かということによらなければならないのであり、中絶が行なわれ なければ利益が発生してくるか否かということによるのではないのである。  この区別は、一部の評者達を困惑させている事柄――中絶がモラル上許容されると信じている 多くの人々は、それにもかかわらず、妊婦が自ら出産しようとしている子供に対して、喫煙し たり他の手段で危害を加えることは悪であると考えている――の説明に役立つであろう。評者達 はその矛盾を見つけ出して、殺すことは傷つけることよりも一層悪なのだから、喫煙が悪で同 時に中絶が悪でないということは成り立たないのではないか、と批判する。この批判の間違い は、我々が今まで分析を加えてきた主張の間違いそのものなのである。もし妊婦が妊娠中に喫 煙をするならば、後日出生する人間は、彼女の行動によってその利益が著しく傷つけられたも のになるかも知れない。しかし仮に彼女が中絶をするならば、彼女の行動によって利益が傷つ けられることになった人間は出現しないことになるのである。もちろんこのことは、中絶は悪 いことが何もないとか、ましてや、中絶は出生してくる子供の健康を危険にさらすことよりも モラル上悪ではない、ということを示唆するものではない。しかし仮に早期の中絶が悪である とするならば、それは、このことを根拠とする――中絶は、それによって生命が絶たれる胎児の 利益に反している――のではない、ということを示唆するものなのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第1章 生命の両端――中 絶と尊厳死・安楽死,決定的な相異,信山社(1998),pp.26-27,水谷英夫,小島妙子(訳)) 

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




生命倫理の問題では、(a)諸利益に関する権利の問題と、(b)人間の生命固有の価値に関する問題を、区別して考えることが必要である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

生命倫理

生命倫理の問題では、(a)諸利益に関する権利の問題と、(b)人間の生命固有の価値に関する問題を、区別して考えることが必要である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a) 中絶に対する派生的異議 (derivative objection)
 胎児は妊娠が開始された時から生存し続ける利益を必然的に伴う、それ自身の権利に関する諸利益を持った生命体なのであり、したがって胎児は、殺されない(not to be killed)権利を必然的に伴う。

(b)中絶 に対する独自的異議(detached objection)
 人間の生命は本来的で(intrinsic)固有の (innate)価値を有しており、それ自身神聖(sacred)なものであり、したがって人間の生 命が有する神聖な性質というものは、その生命体が人間としてそれ独自の運動や感覚や利益を 持つに至る前であっても、生物学的な生命が開始された瞬間に始まっているものとされる。

「中絶に対する派生的異議と独自的異議  第一の見解によるとこれらの言葉は、次のような主張として用いることが可能である。即 ち、胎児は妊娠が開始された時から生存し続ける利益を必然的に伴う、それ自身の権利に関す る諸利益を持った生命体なのであり、したがって胎児は、殺されない(not to be killed)権利を必然的に伴うこれらの基本的諸利益が全ての人によって擁護されるべきであ る、ということを要求する権利を有していることになる。この見解にしたがうと中絶は、人が 有する殺されない権利を侵害するが故に原理的に(in principle)悪とされるのである。そ れはあたかも成人者(adult)を殺すことは、その人が有する殺されない権利を侵害するが故 に通常は悪とされるのと同様なのである。私はこの見解を、中絶に対する《派生的》異議 (derivative objection)と呼ぶことにしよう。何故ならこの主張は、胎児を含む全ての 人間が有すべきものとされる権利と利益を前提とし、かつそれに由来するものだからである。 この異議を妥当なものとして承認し、政府がこの理由に基づいて中絶を禁止したり規制すべき であると信じている人々は、政府には胎児を保護すべき派生的責任があると考えているのであ る。  第二の見解はよく知られた表現で用いることができるものであるが、第一の見解とは非常に 異なったものである。第二の見解によると、人間の生命は本来的で(intrinsic)固有の (innate)価値を有しており、それ自身神聖(sacred)なものであり、したがって人間の生 命が有する神聖な性質というものは、その生命体が人間としてそれ独自の運動や感覚や利益を 持つに至る前であっても、生物学的な生命が開始された瞬間に始まっているものとされる。こ の第二の見解に従えば、中絶は人間の生命のどの段階・形態であろうと、その本来的な価値と 神聖な性質を無視し侮辱しているが故に原理的に悪とされるのである。私はこの主張を、中絶 に対する《独自的》異議(detached objection)と呼ぶことにしよう。何故ならこの主張 は、何ら特定の権利や利益に依存したり、それを前提としないからである。《この》異議を妥 当なものとして承認し、中絶は《この》理由故に法によって禁止若しくは規制されるべきであ ると主張する人々は、政府には生命の本来的価値を保護すべき独自の責任があると考えている のである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『ライフズ・ドミニオン』,第1章 生命の両端――中 絶と尊厳死・安楽死,決定的な相異,信山社(1998),pp.14-15,水谷英夫,小島妙子(訳))

ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月9日日曜日

財産に対する自然権を主張するリバータリアニズムに対して、諸個人の福利や幸福のため政府による財産の規制と分配を主張するいくつかの理論がある。このうち、功利主義、福利の平等論、実質的平等論は、自由な私的決定の原理と衝突する。資源の平等論は、どうだろうか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治理論の類型

財産に対する自然権を主張するリバータリアニズムに対して、諸個人の福利や幸福のため政府による財産の規制と分配を主張するいくつかの理論がある。このうち、功利主義、福利の平等論、実質的平等論は、自由な私的決定の原理と衝突する。資源の平等論は、どうだろうか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)自由主義(リバータリアニズム)
 人々には一定の仕方で 正当に獲得したあらゆる財産に対する「自然」権が認められており、政府が人々を平等な存在 として取り扱っていると言えるのは、このような財産の保持と享受を当の政府が擁護している ときである。

(2)福利に基礎を置く諸観念
 (a)財産に対するいかなる自然権をも否定 し、この代わりに、政府は諸個人の幸福や福利に関する何らかの特定化された関数により想定された結果を実現するように財産を生産し分配し規制しなければならない。
 (2.1)功利主義
 (2.2)福利の平等論
 (2.3)実質的平等論
 (2.4)資源の平等論
 (b)福利の平等、実質的平等、功利主義はすべて、私的選択と公的責任とを両立し難いものとする。すなわち、これらの理論は、なぜ政府は福利や富の既存の分配を掻き乱すような私的決定を避けるよう、人々に要求する何らかの一般的な法原理を強制してはならないの か、という問題に答えることが難しくなる。


(2.1)功利主義
 政府が財産権の体制に関して人々を平等な存在として扱っていると言えるのは、各個人が幸福 ないし成功を同一の方法で計算することにより、大雑把なやり方であれ政府の採用するルール が平均的福利を可能なかぎり最大化することを保証している場合である。

(2.2)福利の平等論
 あらゆる市民の福利 が可能なかぎりほぼ平等となるように財産について計画し、これらを分配するように政府に対 して要求する。
(2.3)実質的平等理論
 効用の言語ではなく財や機会その他資源の言語で定義さ れた結果を政府が目標にするよう要求する。この種の理論のあるものは、 あらゆる市民の実質的な富を彼らの生涯を通じて可能なかぎり平等に近づけるように政府に対 して要請する。


(2.4)資源の平等論
 (a)資源の平等
  各人が好きなように消費したり投資するために入手可能な資源の分け前を平等にするよう政府に対し要請する。
 (b)自由な私的選択
  実 質的平等理論とは異なり、資源の平等は、各人が投資や消費について異なった選択を行うに応 じて人々の富も異なるべきであると考える。この理論の想定によれば、もし人々が全く同一の 富その他の資源を与えられた状態から出発するならば、平等は市場取引を通じて彼らの間で維 持されることになり、たとえこの市場取引を通じてある人々が他の人々より裕福になったり幸 福になったとしても問題とはされない。
 (c)能力の相違も資源の相違
  資源の平等は、人々の能力の相違が資源の相違 となることを認め、これを理由として、能力のない人々に対しては市場が彼らに与える以上の ものを何らかの仕方で補償しようと試みる。 



「平等に関する自由主義(リバータリアニズム)的諸観念によれば、人々には一定の仕方で 正当に獲得したあらゆる財産に対する「自然」権が認められており、政府が人々を平等な存在 として取り扱っていると言えるのは、このような財産の保持と享受を当の政府が擁護している ときである。これに対して福利に基礎を置く諸観念は財産に対するいかなる自然権をも否定 し、この代わりに、政府は諸個人の幸福や福利に関する何らかの特定化された関数により想定 された結果を実現するように財産を生産し分配し規制しなければならないと主張する。すぐ前 で議論された形態の功利主義は福利に基礎を置く平等観念の一つであり、この立場によれば、 政府が財産権の体制に関して人々を平等な存在として扱っていると言えるのは、各個人が幸福 ないし成功を同一の方法で計算することにより、大雑把なやり方であれ政府の採用するルール が平均的福利を可能なかぎり最大化することを保証している場合である。また「福利の平等」 論は、これと同じクラスに属するもう一つ別の理論であり、この立場は、あらゆる市民の福利 が可能なかぎりほぼ平等となるように財産について計画し、これらを分配するように政府に対 して要求する。  第三のグループに属する諸理論は、効用の言語ではなく財や機会その他資源の言語で定義さ れた結果を政府が目標にするよう要求する。この種の理論のあるもの――実質的平等理論――は、 あらゆる市民の実質的な富を彼らの生涯を通じて可能なかぎり平等に近づけるように政府に対 して要請する。また私が資源の平等とこれから呼ぼうとする別の理論は、各人が好きなように消費したり投資するために入手可能な資源の分け前を平等にするよう政府に対し要請する。実 質的平等理論とは異なり、資源の平等は、各人が投資や消費について異なった選択を行うに応 じて人々の富も異なるべきであると考える。この理論の想定によれば、もし人々が全く同一の 富その他の資源を与えられた状態から出発するならば、平等は市場取引を通じて彼らの間で維 持されることになり、たとえこの市場取引を通じてある人々が他の人々より裕福になったり幸 福になったとしても問題とはされない。しかし資源の平等は、人々の能力の相違が資源の相違 となることを認め、これを理由として、能力のない人々に対しては市場が彼らに与える以上の ものを何らかの仕方で補償しようと試みる。  さて我々は、平等に関するこれら周知の諸観念の間に新たな区別を設けねばならない。ある 平等観念は、人々が自らの財産利用に関して追求しうる私的な企図と次のような意味で衝突す ることになる。いま、政府が平等に関する前記の諸観念の各々に基づく実現可能な最善の財産 権の体制を構築することに成功し、各々の体制の下で各国民が自らに割り当てられた財産をど のような仕方であろうと自由に利用し交換することを認めたと想定しよう。そして、人々には 万人の利益に対して平等の関心を示すべき責任がないとする。この場合、上に挙げた平等観念 のすべてではなくそのうちのある観念は、体制が当初に保証していた平等の形態をおそらく掘 りくずしていくことになるだろう。このことは、福利の平等及び実質的平等の両者について不 可避的にあてはまる。ある市民は、自らの決定や取引を通じて他者よりも大なる福利を達成 し、あるいは自らの富により一層多くのものを付加するに至り、この結果、福利ないし富にお ける当初の平等は次第に失われていく。また、平等の功利主義的観念も同様に掘りくずされて いくことは、不可避的とは言えないまでも充分ありうることだあろう。驚くほど完全な技能と 知識を備えた政府であれば、人々が各自にとって利益となるような仕方で現実に行なう自由な 選択が実際に社会全体の平均的効用の極大化を実現していくような体制を構築できるかもしれ ない。しかし、人々の趣味とか嗜好が変化するときには、彼らの行なう選択が前記の結果をも たらすことはもはやなく、当初達成されていた功利主義的結果を回復させるためには、更なる 再分配や従来のものとは異なる規制的ルールによって体制を変革していくことが必要となるだ ろう。このような意味において前記の三つの理論――福利の平等、実質的平等そして功利主義―― はすべて、私的選択と公的責任とを両立し難いものとするのであり、従ってこれらの理論の支 持者たちは私が前に提起した問題、すなわち、なぜ政府は福利や富の既存の分配を掻き乱すよ うな私的決定を避けるよう人々に要求する何らかの一般的な法原理を強制してはならないの か、という問題に答えることが難しくなる。彼らがこの問題を解決できるとすれば、それは、 彼らの支持する平等の形態はこの種の法原理に依るよりはこれを用いないほうが一層永続的か つ確実に達成されうることを立証することによってのみ可能であるが、これはとてもありえそ うなこととは思えないのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第8章 コモン・ロー,平等主義的解 釈,未来社(1995),pp.459-461,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

唯一の正しい解釈が存在するのか

およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.3.4.3)唯一の正しい解釈が存在するのか
(a.1)純一性の原理で唯一の解釈に到達できるのか
 事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は、一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 

(b.1)本質的に、選択しかないのではないか
 解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆することは誤りである。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない。

(c.1)従って、単に自らの政治的判断ではないのか
 明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。

(d.1)在る法ではなく在るべき法ではないのか
 彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということに過ぎないのではないのか。

(d.2)現に存在する責務
 純一性の精神は、同胞関係の基礎を持つ。すなわち、総体的な政治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択することは、裁判官が自分の属する共同体から現に負っている責務である。
(c.2)選択は責務に従っている
 全体としてより公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ずる解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。すなわち、自らの恣意的な道徳理念を持ち込んで判断しているのではない。
(a.2)判断は、純一性が許容し要求するもの
 およそ判断は、選択には違いない。しかし、純一性の理念は明確でそれが許容する選択肢は、恣意的なものではない。また、より適正と判断するのは裁判官個人には違いない。しかし、彼は自分の属する共同体への連帯責務を基礎に判断しており、恣意的なものではない。



「第二の反論はもっと洗練されている。今度は批判者は次のように主張する。「情緒的損害 の諸事例の解釈として何らかの唯一の正しい解釈が存在するという想定は不合理である。我々 はこれらの事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 ハーキュリーズは明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。確かに、この種の状況において彼に はそのような仕方で法を宣言する以外に選択の余地はない。しかしこの場合、彼が自らの政治 的選択によって何が《法》であるかを発見したのだと主張することは詐欺である。彼は、何が 法であるべきかについて自分自身の意見を示しているにすぎないのである」と。  この反論は多くの読者にとって強力なものに見えるだろう。そして我々も、この反論が実際 に主張している以上のことを主張していると思わせることによって、当の反論の説得力を弱め ないように注意すべきである。この反論は、慣例主義の考え方を、つまり、慣例が尽きたとこ ろで裁判官は立法の正しい規準に従って自由に法を改善することができる、という考え方を復 権しようと試みているわけではないし、ましてやプラグマティズムの考え方を、すなわち、裁 判官は常に法を自由に改善することができ、ただ戦略上の考慮によって抑制されるにすぎな い、という考え方を復権しようと試みるわけでもない。この反論は、適合性のテストを通過し た複数の解釈のどれか一つを裁判官が選択しなければならないことを認めている。ただそれ は、このテストを通過する解釈が複数あるときは最善の解釈など存在しえないと主張する。こ の反論は、上で私が構成したようなかたちをとるかぎり、純一性としての法という一般的な観 念の内部からの反論であり、純一性としての法という観念を詐欺による腐敗から守ろうとして いるのである。  この反論は正鵠を射ているだろうか。ハーキュリーズが自分の判断を法についての判断とし て提示することがどうして詐欺になるのだろうか。ここでも再び、少々異なる二つの答えが―― 反論を更に具体的に展開する二つの方法が――ありうるだろう。これら二つを区別し、それぞれ につき考察を加えないかぎり、我々は前記の反論の正しさを保証することはできない。まずこ の反論をより具体的に展開する一つのやり方は、次のように述べることである。「ハーキュ リーズの主張が詐欺的である理由は、(5)と(6)の解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆するからで ある。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない」と。これは私が第2章で詳しく論じた道徳的懐疑論からの挑 戦である。この挑戦については今ここで更に何がしかのことを付言しないわけにはいかない が、このために私は新しい批判者を利用することにし、この批判者について独自の一節をもう けて道徳的懐疑論の挑戦を考察することにしたい。これに対して、前記の反論を更に具体的に 展開する第二のやり方は、懐疑論には依拠しない。それは次のように主張する。「たとえ道徳 が客観的なものであっても、そして、ハーキュリーズが最終的に採用した予見可能性の原理は 客観的により公正であり、正義に一層かなっているという彼の見解が正しいとしても、彼は詐 欺師である。彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということにすぎず、それゆえ彼は詐欺師なのである」と。私がここで考察しよう と思うのは、この第二のタイプの反論である。」(中略)  「我々は純一性の精神を同胞関係の中に位置づけた。しかし、ハーキュリーズが総体的な政 治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択する方法をとらずに、何か別の方法を用いて判 決を下すべきことになれば、この精神は踏みにじられてしまうだろう。我々は自分たちの政治 共同体原理の共同体として取り扱うことを欲しており、だからこそ純一性を一つの政治理念と して受容するのである。そして、原理の共同体の市民は、あたかも画一性が彼らの望むすべてであるかのごとく、単に共通の原理を目指しているのではなく、政治が見出しうる最善の共通 原理を目指すのである。純一性は正義と公正から区別されるが、次のような意味でこれら二つ の価値と結合している。つまり、純一性以外に公正と正義をも欲する人々の間でのみ純一性は 意味をもちうる、ということである。それゆえ、ハーキュリーズが全体としてより適正と信ず る――より公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ず る――解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。彼は、まさに純一性がそれを許容すると同時に要求するような時点と方法にお いて当の選択を行う。それゆえ、まさにこの時点において彼は純一性の理念を放棄したのだ、 という主張は深い誤解に基づいていることになる。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,幾つかの周 知の反論,未来社(1995),pp.403-405,407小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月7日金曜日

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の諸部門と純一性について

法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。純一性としての法は、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論によって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)法の諸部門
 法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。

(b)事案の法部門への割当てとその影響
 通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。
(c)プラグマティズム法学の主張
 プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すれば、これが異なった法部門に属することを主張する。
(d) 純一性としての法の主張
 (i)純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれない。
 (ii)しかし他 方、純一性としての法は、解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。 
 (iii)諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みる。すなわち、なぜ諸部門へと区分されるのか自体も、諸原理によって解釈できるような理論をめざすことによって、純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方で難解な事案を解決する。


「法をそれぞれ別個の諸部門に分けることは法実務の顕著な特徴である。ロー・スクールは 教科過程を法の分野別に区分し、ロー・スクールの図書館も論文も同じく分野別に区分するこ とで、経済的ないし身体的損害から情緒的損害を区別し、非意図的な不法行為から意図的な不 法行為を、犯罪から不法行為を、契約以外のコモン・ローの諸分野から契約を、公法から私法 を、そして更に公法の他の諸分野から憲法を区別している。法をめぐる議論や司法上の議論は これらの伝統的な区別を尊重している。通常、判決に示された意見は当該事案を何らかの法部 門へと割当てることから始まり、考慮される先例や制定法はもっぱらこの法部門から引き出さ れるのが常である。そして、最初に行なわれるこの分類はしばしば異論の余地があると同時に 決定的に重要な意味をもつ場合がある。  法を諸部門へと区分することは、それぞれ異なった理由によるが慣例主義とプラグマティズ ムの両者の考え方に適合している。法の諸部門は伝統に基礎を置いており、これは慣例主義を 支持するように思われる。そして、これらの諸部門は、プラグマティストが例の高貴なる虚言 を語る際に操作可能な戦略を提供してくれる。つまり、プラグマティストは、自分の新しい法 理論が過去の判決と原理において整合する必要がない理由を説明するために、過去の判決を正 しく理解すればこれが異なった法部門に属することを主張できるからである。これに対して、 純一性としての法は、法を諸部門へと区分することに対してもっと複雑な態度をとる。その一 般的な精神は、このような区分を断罪する。なぜならば、純一性の司法上の原理は裁判官に対 して法を可能なかぎり総体として整合的なものにすることを要求するが、このことは、学問上 の境界線を無視し、法の幾つかの分野を根本的に修正してこれらを他の分野と原理において一 層整合的なものにすることによって、よりよく達成されるかもしれないからである。しかし他 方、純一性として法は解釈的な立場である。法が諸部門へと区分されていることが法実務の特 徴であれば、適格であることを目指すいかなる解釈もこの特徴を無視することはできない。  ハーキュリーズは、諸部門へと区分されている法の在り方について構成的解釈を試みること で、前記の競合する要請に答えようとする。彼は、法を諸部門へと区分する実践を説明する際 に、当の実践を最善の光のもとに示すような説明を見い出そうと努める。諸部門の間に設けら れた境界は、一般の人々の見解と普通は一致している。例えば、多くの人々は故意の加害行為 が不注意による加害行為よりも強い非難に値すると考えており、国家がある人間に対して彼が 惹起した損害の賠償金を支払うように要求する場合と、同じく国家がある人間を犯罪について 有罪と宣告する場合とでは、非常に異なった種類の正当化が必要となること、等々についても 同様である。この種の一般的な意見に合わせて法の諸部門を区別すれば予測可能性は促進さ れ、公職者が突然に解釈を変えて法の広汎な諸領域を根絶やしにしてしまうようなことも未然 に防げるわけであり、しかも純一性としての法が目指す深遠な目的を推進するような仕方でこ れを達成できるのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,法――情緒的 損害の問題,未来社(1995),pp.389-390,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務は連帯責務である

自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものを、ある人間が単に受け取っただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはあるだろうか。家族や隣人との関係における連帯責務がそれであり、政治的責務もまた同じである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)役割上の責務、連帯責務、共同責務
 ある種の生物学的ないし社会的集団のメンバーに対して、社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人たちの責任がこれにあたる。
(b)連帯責務は選択や同意によらない
 大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられている。
(c)互恵的でない場合の解除が可能
 他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を、集団の他のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服することを停止することもありうると考えている。
(d)政治的責務が選択や同意によらない連帯責務と考えることへの反発
 (i)連帯責務が情緒的な絆に依存しているという誤解
  共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。
 (ii)国家規模の連帯責務という理念の全体主義的なイメージへの反発
  大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には、国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。


 「自分が求めもせず、持つことを自分で決めたわけでもないものをある人間が単に受け取っ ただけで当の人間が道徳的な影響を被るようなことはありえない、という主張は本当に正しい だろうか。もし我々が、宣伝カーに乗った哲学者のような赤の他人によって我々に利益が押し つけられる場合を考えるならば、この主張は正しいと思われるだろう。ところが、我々が役割 上の責務としばしば呼ばれているような義務――私はこの義務を総称して連帯 (associative)責務ないし共同(communal)責務と呼ぶことにする――を念頭に置くとき は、我々の信念は全く異なったものになる。私が言っているのは、ある種の生物学的ないし社 会的集団のメンバーに対して社会的慣行が帰している特別の責任であり、家族や友人や隣人た ちの責任がこれにあたる。大抵の人々は、社会的慣行によって限定されたあるタイプの集団に 属しているだけで自分たちが連帯責務に服することになり、これは必ずも選択や同意の問題で はないと考えられているが、他方で彼らは、当の集団に属することから生ずる利益を集団の他 のメンバーが自分たちにまで及ぼしてくれないならば、自分たちがこの種の責務に服すること を停止することもありうると考えている。連帯的な責任についてのこのような共通の想定は、 政治的責務もこの種の責任の一つに数えられるかもしれないことを示唆しており、もしそうで あるならば、フェア・プレイによる論証に向けられた二つの反論はもはや正鵠を射たものとは 言えなくなるだろう。しかし、概して哲学者たちはこの可能性を無視してきており、私の考え ではこれには二つの理由がある。第一に、共同の責任というものは、社会の各メンバーが他の すべての人々と個人的な知り合いであることを前提とするような情緒的な絆に依存すると広汎 に考えられており、言うまでもなくこのようなことは、大規模な政治共同体には当てはまらな いからである。第二に、大規模で匿名的な政治共同体の中にも特別な共同の責任が存在すると いう考え方には国粋主義ないし更に人種差別主義じみたところさえあり、これら両者はともに 大いなる苦悩と不正の源となってきたからである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,共同体の責務,未来社 (1995),pp.308-310,小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的責務の基礎

政治的正当性の基礎は同胞関係にあり、政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(1)政治的正当性の基礎は同胞関係にある
 (a)政治的正当性、すなわち政治共同体がそのメンバーたちを共同体の集団的決定を理由に責務に服しているものとして取り扱う権利の最善なる擁護は、同胞関係や共同社会、そしてこれらに随伴する様々な責務の、より肥沃な地盤に見出されねばならない。
 (b)見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか正義の義務とかフェア・プレイの責務といったものではない。

(2)政治的責務は連帯責務である
 政治的責務というものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたことに基礎を持つ。
(3) 様々な同胞的共同体
 (a)我々に知られている様々な同胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。
 (b)移住の自由の意義
  移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。



「ついに我々は、我々の仮説を直接的に考察することができるようになった。つまり、政治 的正当性――政治共同体がそのメンバーたちを、共同体の集団的決定を理由に責務に服している ものとして取り扱う権利――の最善なる擁護は、見知らぬ人々の間でも妥当するような契約とか 正義の義務とかフェア・プレイの責務といった堅い地盤――哲学者たちは、このような地盤に政 治的正当性の最善の根拠を見い出そうと望んできた――の上ではなく、同胞関係や共同社会、そ してこれらに随伴する様々な責務のより肥沃な地盤に見出されねばならない。政治的責務とい うものは、家族や友人関係や、その他の形態のより局所的で親密な連帯的結合と同じように、 そこに生まれ落ち、子供のときにそこで育てられたにすぎない。我々に知られている様々な同 胞的共同体を、完全な選択によってメンバーになるものから、選択の余地が全くないものへと 及ぶスペクトルに沿って配置したとき、政治共同体はその中央部分のどこかに位置づけられ る。政治共同体は人々に移住を許しているのであるから、政治的責務は家族が負う数多くの責 務ほどには非意図的なものではない。そして、移住の選択の実際上の可能性はしばしばごくわ ずかでしかないが、それにもかかわらず移住の選択を否定する暴政を想起すれば分かるよう に、この選択はそれ自体において重要な意味をもつ。かくして、事実上の裸の政治共同体のメ ンバーである人々は、同胞関係の責務に必須な他の条件――これらの条件は、政治共同体に当て はまるように適切に再定義される――が充足されている場合には、政治的責務に服することにな る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,同胞関係と政治共同 体,未来社(1995),pp.322-324,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的理念としての純一性

正義と公正の理念は、その適用において(a)公正な手続の結果はすべて正義であるとする考えから、(b) 結果としての正義が公正であるとする考えまで幅があり、また困難な問題においては、公正と正義が時として衝突する。整合的な諸原理による純一性の理念は、このような場合の判断を導いてくれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(a) 公正な手続の結果はすべて正義である
 正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義である。
(b)結果としての正義が公正である
 政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり、公正な手続とは言えない。
(c)公正と正義は別の理念
 公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある。
(d)政治的理念としての純一性
 これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。


「理念の間の衝突は、政治においてはごくあたりまえのことである。たとえ我々が純一性を 拒否し、我々の政治活動を公正と正義と手続的デュー・プロセスだけに基づかせた場合であっても、公正と正義という二つの徳がしばしば相反する方向へと我々を導いていくことがあるだ ろう。ある哲学者たちは、正義と公正のうちの一方が終局的には他方から導出されると信ずる ことから、これら二つの徳の間の根本的な衝突の可能性を否定する。ある人々は、正義は公正とは別個に独立した意味をもちえず、政治においては、ちょうどルーレットにおけるように、 公正な手続を通じて生じた結果はすべて正義であると主張している。これが、公正としての正 義と呼ばれる理念の極端な形態である。また他の人々は、政治における公正の唯一のテストは 結果のテストであり、いかなる手続も、独立した何らかの正義のテストを充たすような政治的 決定を生みだす可能性の強いものでないかぎり公正な手続とは言えない、と考えている。これ は、正義としての公正という逆の理念の極端な形態である。また大抵の政治哲学者は――そして 私の考えるところでは大多数の人々は――公正と正義はある程度まで相互に独立した理念であ り、それゆえ、公正な制度でもしばしば不正な決定を生みだし、不公正な制度でも正しい決定 を生みだすことがある、といった中間的な見解を採っている。  もしそうであるならば、通常の政治において我々がどの政治的綱領を支持すべきかを決定す る際に、二つの徳のどちらかをしばしば選択しなければならないことになる。我々は、多数決 ルールこそ政治において機能しうる最も公正な決定手続であると考えるかもしれないが、同時 に我々は、時として――おそらく非常にしばしば――多数派が個人の権利に関して不正な決定を下 すことを知っている。それでは我々は、多数決ルールをそのまま適用したのではある経済的集 団にとって正当な量に満たない持ち分しか割当てないおそれがあるという理由で、当の集団に 対してそのメンバー数によって正当化される以上の特別な投票上の力を与えることによって、 多数決ルールに修正を加えるべきであろうか。また、言論の自由や他の重要な自由を多数派が 制限してしまうことを防止するために、民主主義的権力に憲法上の制約を加えることを我々は 受け容れるべきだろうか。これら困難な問題が生ずるのは、公正と正義が時として衝突するか らである。もし我々が純一性というものを――少なくとも前記の二つの理念の一つについて人々 の見解が対立するときは――第三の独立した理念として見なすのであれば、公正あるいは正義の どちらかを純一性のために時として犠牲にせざるをえないと我々が考えることも、充分うなず けるだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第6章 純一性,純一性は適合するか, 未来社(1995),pp.282-283,小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月5日水曜日

正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて、市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなければならない。これは、たとえ意見の違いがあっても互いに尊重しあい自らの信念に従って誠実に対応するという個人的な道徳理念と関連する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治理念としての純一性

正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて、市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなければならない。これは、たとえ意見の違いがあっても互いに尊重しあい自らの信念に従って誠実に対応するという個人的な道徳理念と関連する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「実際には、この政治道徳の特別な要求は、同様の事例は同様に取り扱わなければならない といった標語ではうまく言い表わされていないのである。私はこれにもっと厳めしい呼び名を 与えたい。すなわち、それを政治的純一性(integrity)の徳と呼ぶことにする。私がこの呼 び名を選んだのは、これとパラレルな関係にある個人的な道徳理念と当該の政治的な徳との連 関を示すためである。我々は隣人たちと日常生活において様々な交渉をもつとき、我々が正し いと思う仕方で行動してくれるように彼らに対し要求する。しかし、行動の正しい原則につい て人々の間である程度まで見解の不一致が存在することを我々は知っており、それゆえ、我々 はこの要求を別の(もっと弱い)要求から区別するのである。後者の別の要求とは、人々は重 要な事柄においては純一性をもって――すなわち、気紛れやむら気な仕方ではなく、彼らの生活 の総体に浸透し、これに形を与えるような信念に従って――行動しなければならない、というも のである。正義について人々の見解が異なることを知っている者たちの間で後者の要求が有す る実践的重要性は明白である。そして我々が、道徳的な行為者として理解された国家や共同体 に対して同じ要求をするとき、すなわち、正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなけ ればならないと我々が主張するときに、純一性は一つの政治理念となるのである。個人の場合と政治の場合の双方において我々は、公正さや正義や礼儀正しさに関する何らかの特定の観念 を外的に表現するものとして他人の行為を認めうること、そして、我々自身は当の観念を是認 しなくても他人の行為をそのようなものとして我々が認めうることを想定している。我々のこ のような能力は、他人を尊敬の念をもって扱う我々のより一般的な能力の重要な一部分であ り、それゆえ、文明の欠くべからざる条件なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第5章 プラグマティズムと擬人化,純 一性の要求,未来社(1995),p.265,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




実定法に最良の正当化を与え得る諸原理の体系が存在する。立法は諸原理に整合的であり(純一性の立法上の原理)、法の解釈は諸原理に基づき(公正観念の純一性)、司法もこれに従う(純一性の司法上の原理)。これら諸原理はより普遍的なものであるべきと考えられ(正義観念の純一性)、法の総体系を導き、純一性を与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

純一性としての法

実定法に最良の正当化を与え得る諸原理の体系が存在する。立法は諸原理に整合的であり(純一性の立法上の原理)、法の解釈は諸原理に基づき(公正観念の純一性)、司法もこれに従う(純一性の司法上の原理)。これら諸原理はより普遍的なものであるべきと考えられ(正義観念の純一性)、法の総体系を導き、純一性を与える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(6.3.1)公正観念の純 一性
 立法府が掌握すると想定された権威を正当化するため に必要な政治原理は、当の立法府が制定した法律が何を意味するかを決定する際にも充分な効 力を与えられるべきである。
(6.3.2)正義観念の純一 性
 立法府の諸決定の大部分を正当化するために必要な道徳原理は、それ以外の法においても認められねばならない。
(6.3.3)手続的デュー・プロセスの純一性
 法のある部分を執行する際に正確さと効率性を、正しく均衡のとれた仕方で調整するものと考えられた訴訟手続は、不正確な評決が 惹き起こす道徳的危害の種類と程度の相違を考慮に入れながら他のあらゆる場合にも同様に採用されねばならない。
(6.3.4) 原理の整合性と首尾一貫性
 これらの幾つかの要求は、原理の整合性や首尾一貫性をそ れ自体で価値あるものと見なし、このような整合性や首尾一貫性を信奉することを正当化する。

(6.3.5)純一性の立法上の原理
 立法行為によって法を創造する人々に対して、法を原理において整合的なものとして保持するように要求する。

(6.3.6)純一性の司法上の原理
 何が法であるかを決定する責任を負った人々に対して、前述の如く原理において整合的なもの として法を解釈し適用すべきことを要求する。

(6.3.7)プラグマティズム法学への批判
 (a)過去の効力を認めないのは誤り
  純一性としての法は、過去それ自体にある種の特別な効力を認めるべきではない、というプラグマティストの主張とは反対に、どのような仕方で、 またどのような理由で過去それ自体に対してこの種の効力を裁判所において認めるべきなのか を説明してくれる。
 (b)法をばらばらな個別的判決の集合と見るのは誤り
  純一性としての法は、なぜに裁判官たちは彼らが運用する法の総体を 一つのまとまった全体として考えねばならず、一つずつ自由に創造したり修正することがで き、他の部分については戦略的な関心をもつだけでいいような、ばらばらな個別的判決の集合として考えてはいけないのかを説明してくれる。


「私は、法的権利の観念に対するプラグマティストの挑戦にかこつけて、通常の政治及びこ れに内在する政治的徳の区別に関する前記の議論を開始した。もし純一性というものを正義及 び公正と並ぶ別個の政治的徳として我々がこれを受け容れるならば、このような権利を承認す るための一般的で非戦略的な論証が我々に与えられたことになる。ある共同体の公正観念の純 一性は次のことを要求する。すなわち、立法府が掌握すると想定された権威を正当化するため に必要な政治原理は、当の立法府が制定した法律が何を意味するかを決定する際にも充分な効 力を与えられるべきである、とそれは要求するのである。また、ある共同体の正義観念の純一 性は次のことを、すなわち、立法府の諸決定の大部分を正当化するために必要な道徳原理は、 それ以外の法においても認められねばならないことを要求する。そして手続的デュー・プロセ スという観念の純一性は次のことを要求する。すなわち、法のある部分を執行する際に正確さ と効率性を正しく均衡のとれた仕方で調整するものと考えられた訴訟手続は、不正確な評決が 惹き起こす道徳的危害の種類と程度の相違を考慮に入れながら他のあらゆる場合にも同様に採 用されねばならない、と要求する。これらの幾つかの要求は、原理の整合性や首尾一貫性をそ れ自体で価値あるものと見なし、このような整合性や首尾一貫性を信奉することを正当化す る。そしてこれらの要求は、私がこれから主張しようと思うこと、すなわち、優雅さの盲目的 崇拝ではなく純一性こそ我々が現に知っているような法の生命であることを示唆しているので ある。  純一性の諸要求を、二つのより実際的な原理へと分割するのが有益だろう。第一は純一性の 立法上の原理であり、これは立法行為によって法を創造する人々に対して、法を原理において整合的なものとして保持するように要求する。第二は純一性の司法上の原理であり、これは、 何が法であるかを決定する責任を負った人々に対して、前述の如く原理において整合的なもの として法を解釈し適用すべきことを要求する。第二の原理は、過去それ自体にある種の特別な 効力を認めるべきではない、というプラグマティストの主張とは反対に、どのような仕方で、 またどのような理由で過去それ自体に対してこの種の効力を裁判所において認めるべきなのか を説明してくれる。また、この第二の原理は、なぜに裁判官たちは彼らが運用する法の総体を 一つのまとまった全体として考えねばならず、一つずつ自由に創造したり修正することがで き、他の部分については戦略的な関心をもつだけでいいようなばらばらな個別的判決の集合と して考えてはいけないのかを説明してくれるのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第5章 プラグマティズムと擬人化,純 一性の要求,未来社(1995),pp.266-267,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



柔らかい慣例主義は、国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うということを慣例と考えることによって、純一性としての法の観念に近づく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

柔らかい慣例主義は、国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うということを慣例と考えることによって、純一性としての法の観念に近づく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.1.7) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うという慣例
 (a) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うこと
  柔らかい慣例主義者は、裁判官がどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。
 (b)何が最善の正当化なのか
  他の柔らかい慣例主義者は、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。


「しかし、憲法が基本法であるという合意さえ存在しないと想定してみよう。柔らかい慣例主義者は、もっと抽象的な合意を更に捜し求めることができるだろう。例として、私が第3章 で提示した示唆が正しいものと仮定しよう。つまり、法の窮極的な存在理由は個人や集団に対 する国家の強制を許可し正当化することにある、という暗黙ではあるが広汎な見解の一致が存 在する、という示唆が正しいとしよう。この極度に抽象的な合意の中に、柔らかい慣例主義者 は次のような慣例を、すなわち、裁判官はどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。そして更に彼は、前記の規準に照らして最善とされた何らかの観念を宣言する過程を踏んだうえ で、この抽象的な慣例が、その黙示的な外延の中に次の命題を含んでいることを主張しうるだ ろう。つまり、先例で提示された事実と現在の事案における事実との間に道徳的原理に関して 何らの相違も存在しないときには、先例は従われねばならない、という命題である。そして更 に彼は、ほんの少しばかり息をきらしながら、他人がどう考えようと、法はマクローリン夫人 に損害賠償を保証している、と言明するに至る。同じように柔らかい慣例主義を採用する他の 法律家や裁判官が、この見解に同意しないこともあるだろう。彼らは、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それ ゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の2種類の 形態,未来社(1995),pp.207-208,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


厳格な慣例主義は、法における「欠缺」を主張せざるをえない。これを避けるために慣例主義は、抽象的な慣例、法的慣例の黙示的外延という概念を用いて、より一般的な論証を展開するだろう。また、憲法を抽象的な慣例とみなして、より包括的な論証を展開するだろう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

柔らか い慣例主義

厳格な慣例主義は、法における「欠缺」を主張せざるをえない。これを避けるために慣例主義は、抽象的な慣例、法的慣例の黙示的外延という概念を用いて、より一般的な論証を展開するだろう。また、憲法を抽象的な慣例とみなして、より包括的な論証を展開するだろう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.1.6)柔らか い慣例主義
 (a)厳格な慣例主義は、法における「欠缺」(gap)を主張せざるをえない。
 (b)抽象的な慣例
  彼は、生起するかもしれないあらゆる事例を判決できるような仕方で、立法と先例の抽象的な慣例を解釈する 正しい方法が存在することを、それ相当の論 拠をもって主張することができる。
 (c) 法的慣例の黙示的外延
  彼は、法的慣例の黙示的外延にこれらの命題が含まれることを理由に当の命題を主張 する。すなわち、彼の法観念においてはこれらの命題が法であることを彼は主張し、それゆ え、法における欠缺というものを否定する。
 (d)抽象的な慣例としての憲法
  例えば、憲法が基本法であるという合意が人々の間で存在しているならば、この合意が抽象的な慣例を提供していると主張し、この慣例が黙示的な外延のなかに、憲法の最善なる解釈が要求するならば制定法は効力あるものとして適用されねばならないという命題が含まれる、と主張するか もしれない。


「厳格な慣例主義は、法における「欠缺」(gap)を主張せざるをえない。法の欠缺は、制 定法が漠然としていたり多義的であったり、他の点で難点のある場合は、そして、制定法をい かに解釈すべきかを解決してくれる更なる慣例が存在しない場合には常に、新しい法を形成す べく、法を離れて司法的な裁量を行使するよう要求するのである。また、一連の先例の効力範 囲が不確かで、その効力について法律家の見解が対立する場合も同様である。しかし、柔らか い慣例主義者は、このような事例において何らかの欠缺を認める必要はない。彼は、生起する かもしれないあらゆる事例を判決できるような仕方で、立法と先例の抽象的な慣例を解釈する 正しい方法――たとえこれが異論の余地あるものであっても――が存在することを、それ相当の論 拠をもって主張することができるのである。例えば彼は、慣例を具体的に正しく特定化するこ とにより、法によってスネイル・ダーターが救われる(ないし見棄てられる)べきこと、ある いは、マクローリン夫人に損害賠償を認めるべき(あるいは拒否すべき)ことを主張できる。このとき彼は、法的慣例の黙示的外延にこれらの命題が含まれることを理由に当の命題を主張 する。すなわち、彼の法観念においてはこれらの命題が法であることを彼は主張し、それゆ え、法における欠缺というものを否定するのである。  確かに、たとえ法律家たちがこのような抽象的な慣例について見解を異にしたとしても、ま た、制定法が法を形成すること、ないしは先例が後の判決に対して何らかの影響を及ぼすこと を多くの法律家が仮に否定したとしても、柔らかい慣例主義の立場をとる者は、法の欠缺が存 在することを否認することができるだろう。わずかな想像力を用いることによって柔らかい慣 例主義者は、すべての人々が容認するような更にもっと抽象的な何らかの命題を考案すること ができるであろうし、これによって、スネイル・ダーターについて一つの法命題を妥当なもの と認めうるような仕方で、この抽象的な命題を一層詳細なものにしていくことができるかもし れない。例えば、憲法が基本法であるという合意が人々の間で存在しているならば、この合意 が抽象的な慣例を提供していると主張し、この慣例が黙示的な外延のなかに、次のような命題 が、すなわち、たとえ多くの法律家がそれを否定していても憲法の最善なる解釈が要求するな らば制定法は効力あるものとして適用されねばならないという命題が含まれる、と主張するか もしれない。このようにして彼は、先と同様に、この中間的な命題から出発して、スネイル・ ダーターについて何らかの具体的な結論へと更に議論を進めていくこともできるだろう。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の2種類の 形態,未来社(1995),pp.206-207,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(6.1.5)慣例主義による難解な事例への対応
 慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか。
 (a)裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。
 (b)裁判官は、自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない。
 (c)これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである。

「慣例主義の消極的主張はまた別の仕方においても、一般に支持された前記の理念に仕えるものと考えられる。しかし、これについては、慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか、という点に関し一連の主張を付加する必要がある。既に述べたよう に、慣例主義の見解によれば、マクローリン事件のような事例においては法は存在せず、従っ て裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。しかし、状況をこのように説明しても、更な る条件として次のように定める余地は充分に残されている。すなわち、裁判官は自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない、という 条件である。慣例主義が主張するように、裁判官がこのような状況において新しい法を創造す ることが明らかにされたからには、彼は、そのときに権限を有する立法府が選択するであろう と彼自身が信じるルールを選択すべきであり、これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである、と考えることは一応正当な ものと思われる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.197-198,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


慣例主義
(a)期待保護の理念
 過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使される機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が、公正な忠告を人々に与えているからである。
(b)法的な論証とは慣例による論証
 裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。
(c)先例と類似している事例
 慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならないということである。
(d)より公正、より賢明への消極主義
 当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によって、その決定の内容が確定したならば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合でさえ、当の決定を尊重しなければならない。


「慣例主義であれ純一性としての法であれ、あらゆる積極的な法観念の中核は、なぜ過去の 政治的決定が現在の権利を確定するのか、という問いに対する返答の中に存する。ある法観念 が法的権利と他の形態の権利との間に、そして法的論証と他の形態の論証との間に設ける区別 を見ることによって、我々は、政治的決定が国家の強制に対して提供すると当の観念が見なし ている正当化の性格と限界を理解することができる。慣例主義は、この問題に対して一つの明 らかに魅力ある回答を与えている。過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使さ れる機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が公正な忠告を人々に与えているからであり、それゆえ逆にこの ような場合にのみ、過去の政治的決定は強制を正当化することになる。これは、期待保護の理念である。慣例主義が解釈に引き続く段階で提示する二つの主張のうち、第一の主張が明らか にこの理念に仕えるものである。慣例により許可された集団がひとたび明瞭な決定を下し、更 に、当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によってその決定の内容が確定したなら ば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合で さえ、当の決定を尊重しなければならないと第一の主張は唱えるのである。  慣例主義の第二の消極的主張もまた期待保護の理念に仕えるか否かは、それほど明白ではな い。しかし、これを肯定するそれなりに正当な根拠を示すことができるだろう。消極的主張は 次のように唱える。すなわち、裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。というのも、過去の政治的決定は、慣例が指示する権利義務以外の権利義務を生み出しうる、という考え方をすれば、前記の理念は無効にされてし まうからである、と。例えば、マクローリン事件において訴訟当事者のどちらを勝たせるかに つき慣例が返答を指示していないことが明らかであると想定しよう。すなわち、慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならない、ということであるが、いま、事故の現場に居合わせなかった人の情緒的損害 に対し損害賠償が認められるべきか否かについていかなる過去の事例も判決を下していないと しよう。このとき、ある裁判官が「純一性としての法」のスタイルに従って、先例が損害賠償 への権利を確立していることを宣言し、このような仕方で先例を読むことが、振り返ってみて 当該先例を道徳的により適正なものにすることをその理由として挙げたとしよう。これは、広 汎に支持された上述の理念の見地からすると危険なことである。道徳的な原理のようなもの が、慣例を反映してはいない根拠によって、ただそれが道徳的にみて説得力があるという理由 だけで法の一部となりうることが一度受け容れられてしまうと、たとえある種の原理が慣例により是認されたことと矛盾する場合でも、当の原理はその道徳的な説得力のゆえに法の一部とされる、という一層脅威ある見解に門戸を開けてしまうことになるからである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.194-196,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義、プラグマティズム法学、純一性としての法

法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6)法の3つの観念
(6.1)慣例主義(conventionalism)
 過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が、予測可能性と、この拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きる。
(6.2)プラグマティズム法学(legal pragmatism)
 裁判官は過去との整合性それ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきである。
(6.3)純一性としての法(law as integrity)
 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していくことで、市民の間に一種の 平等が生み出されていく。そして、この平等は市民の共同体をより真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。


 「第一に、法と強制の間に想定された結合関係はそもそも正当化されうるだろうか。公権力 は過去の政治的決定「に由来する」権利や責任に合致したやり方でのみ行使されるべきだ、と 要求することに何か意味があるのだろうか。第二に、もしこのことに意味があるとすれば、そ れは何か。第三に、「に由来する」という言葉をどのように理解すれば――過去の決定との整合 性をどのように観念すれば――前記の「意味」に最も善く奉仕することになるのか。法観念がこ の第三の問いに対してどんな解答を与えるかによって、当の観念が承認する具体的な法的権利 や責任が確定する。  以下に続く数章で我々は相互に対立し合う三つの法観念を区別し、これら三つの観念を、前 記の一連の問題に対する解答として考察するだろう。これら三つの法観念は私が前記のモデル に従って慎重に構成したものであり、それぞれ我々の法実務についての三つの抽象的な解釈を 示している。ある意味でこれらの観念は新奇なものと言えるかもしれない。これらの観念は、 私が第1章で説明した法理学の様々な「学派」に正確に対応しているわけではない。むしろ、 最初に考察される二つの観念に関しては、そのいずれについても、私の説明と精確に一致する ようなかたちで当の観念を擁護するような法哲学者は一人もいないだろう。しかし各々の法観 念は、たとえこれらが意味論的な主張ではなく今や解釈的な主張として再構成されていても、 法哲学の文献に顕著にみられるテーマや理念を充分に捉えており、私が提示する三つの観念の 間の議論のほうが、法哲学の文献によくみられる陳腐な論争より一層啓発的である。私はこれ ら三つの観念を「慣例主義」(conventionalism)、「プラグマティズム法学」(legal pragmatism)、そして「純一性としての法」(law as integrity)と呼ぶことにした い。後で私は、これらの観念のうち最初のものは、当初は一般市民の法理解を表現しているよ うに見えても、最も説得力のない観念であること、そして、第二の観念のほうがより有力な観 念であり、この観念は我々の議論の舞台を政治哲学をも含めるような仕方で拡張することに よってのみ論駁されうること、そして更に、第三の観念が万事を考慮したうえで最善の解釈と 言えること、すなわち、法律家や法学教師や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを最善の 仕方で解釈しているのは第三の観念であることを論ずるだろう。  法に関する我々の「概念的」な記述が提起する第一の問いに対し、慣例主義は肯定的な解答 を与えている。慣例主義は、法と法的権利の理念を是認する。更に第二の問いに対する解答と して慣例主義は、法による強制の趣旨が――すなわち、過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が――予測可能性に尽きること、そしてまた、 予測可能性という拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きることを主張する。――もっとも、 我々が後に見るように、法とこれらの価値(予測可能性や手続上の公正)との間の正確な関係 については、慣例主義者の間でも見解の分かれるところであるが――。次に、第三の問いに対す る解答として慣例主義は、我々が要求すべき過去の決定との整合性がとる形態に関し、厳密に 限定された説明を与えている。すなわち、権利や責任が過去の決定に由来すると言えるのは、 これらが過去の決定の中に明瞭に含まれているか、法職にある人々の全体が慣例的に重要視して いる方法ないし技術によって明瞭なものとされうる場合に限られる。慣例主義によれば、政治 道徳は、過去に対してこれ以上の敬意を払うよう要求することはない。それゆえ、慣例の効力 が尽きた場合、裁判官は何らかの完全に前向きな判決の根拠を捜し出さなければならない。  法概念に関して私が示唆した観点からすると、プラグマティズム法学は懐疑的な法観念であ る。私が右で挙げた第一の問いに対して、それは否定的な解答を提示する。すなわち、裁 判官の判決は過去に下された他の政治的決定と合致したものでなければならず、訴訟当事者に はこの種の合致を要求する何らかの権利があると想定され、判決はこのような権利によって チェックされねばならない、といった要請を行うことによって共同体に何か真の利益が生まれ るという考え方をそれは否認する。プラグマティズム法学は、我々の法実務に関してこのよう な要請とは非常に異なった解釈を与えている。この立場によると、裁判官は過去との整合性―― これがいかなる形態の整合性であれ――をそれ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきなのである。従って厳密に言うとプラグマティストは、法概念に関する私 の説明で展開されているような法や法的権利の観念を拒絶していることになる。もっとも、 我々が後で見るように、人々があたかも何らかの法的権利を有している「かのように」裁判官 が時として行動すべきことを、戦略上の理由が要求するのであるが。  純一性としての法は、慣例主義と同様に、法および法的権利を心底から受け容れている。し かし、第二の問いに対してそれは慣例主義とは非常に異なった解答を与えている。純一性とし ての法が想定するところによれば、法の拘束は、単に予測可能性や手続上の公正をもたらした り、その他何らかの道具的な仕方で社会の利益になるのではなく、むしろ、市民の間に一種の 平等を生み出すことによって社会の利益になるのである。そして、この平等は市民の共同体を より真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。第三の問いに対して純一性の立場が与える解答も――すなわち、法が要求 する過去の政治的決定との整合性とはどのような性格の整合性か、という点に関する説明も―― 前記のことと呼応して、慣例主義が与える解答とは異なっている。その主張によれば、権利と 責任が過去の決定に由来し、したがって法的なものと見なされるのは、単にそれらが過去の決 定の中に存在する場合だけに限られない。当の明示的な決定を正当化する際に前提とされてい るような個人的及び政治的な道徳から権利や責任が導出される場合も、これらを過去の決定に 由来する法的権利ないし法的責任と見なすべきである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第3章 法理学再論,法概念と法観念, 未来社(1995),pp.160-163,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




2022年1月2日日曜日

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

完全なる法

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)完全なる法
 このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体として実定法の最良の解釈を提供する。

(b)実定法の最良の解釈を与える諸原理
 一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  

完全なる法 → 解釈
(諸原理の体系)     ↓
実定法 → 実定法の最良の正当化


(c)解釈は解釈対象に適合していること
 解釈は、解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。
(d)最良の解釈であること
 競合する解釈のうち、より勝れた正当化を提 供する解釈であること。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。



「私の意図は、これから述べるような一般的性格をもつ裁判モデルの表現として上記の神秘 を把握すれば、神秘はそれほど神秘ではなくなり、リアリストの嘲笑的な攻撃にも耐えられる ものとなることを立証する点にある。このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。実定法とは書物に書 かれた法、すなわち制定法や過去の裁判所の判決において明確な形で宣言された法であるのに 対し、「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体 として実定法の最良の解釈を提供する。またこのモデルは「解釈」という観念に関して特定の 理解を要求する。すなわち一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  読者のうちのある人々は、解釈についてのこのような説明を奇妙なものと思うかもしれな い。というのもある人々によれば、解釈というものはその性質上、解釈されるテクストの歴史 上の著者が抱いていた「意図」を発見する過程と考えられるからである。それ故実定法とは、 様々な意図や目的により動かされた様々な時代の多くの公務担当者の残した産物であり、した がって、しばしば衝突しあうこれらの意図や目的を追体験することは、私がすぐ前に述べたよ うな企てとは全く異なるものである。しかし、解釈はまさにその性格上意図を再発見する過程 であるという想定は、解釈というものの性格が考察されうる異なる二つのレヴェルを混同して いる。」(中略)  「もし我々が解釈に関するこのようなより抽象的な説明を念頭に置き、解釈とは解釈対象か らその最良のものを引き出す試みであると考えるのであれば、その対象が何であれ、解釈は二 つの次元でテストされるべきことを我々は認めねばならない。第一に、解釈は解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。さもなければ その解釈は、《これらの》判決をその最良の光のもとで示していると主張することはできな い。」(中略)  「第二の要請は正当化の次元に属する。実定法の解釈は、それが当該の法の正当化を提供し ないかぎり適切な解釈とは言えない。そしてしばしば起こるように、二つの競合する解釈のい ずれもが適合性の第一の要請を十分に充足している場合、第二の要請はより勝れた正当化を提 供する解釈を優先させるが故に、二つの解釈の間に差別を設けることになる。もちろん法に関 して言えば、問題となる正当化は政治的倫理による正当化である。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,日本語版へのエピローグ,2,木鐸社 (2003),pp.329-330,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

目的と解釈

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「今や我々は、もっと重要な問題点に到達したのである。意図という観念の中には、芸術の 解釈と社会的実践の解釈を必然的に統合することになるような何ものかが存在するということ である。なぜならば、たとえ我々が創造的解釈とは歴史上現実に存在した何らかの意図を発見 しようと試みることであるというテーゼを拒絶したとしても、意図という概念があらゆる解釈 上の主張に当てはまる《形式的な》構造を提示していることに変わりはないからである。私が 言っているのは、解釈は本質的にある目的の報告である、ということである。すなわち、解釈 というものは解釈の対象――これが社会的実践や伝統であれ、文献とか絵画であれ――を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を――他ならぬある特定の「意味」や「趣旨」を――追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。どのような解釈であろうと、このような構造をもつ必要 がある。解釈される対象が社会的実践である場合や、歴史上の作者が存在せず作者の歴史上の 精神を理解することがそもそも問題にならないような場合であっても、解釈にはこの形式が必 要なのである。我々の想像上の物語における礼儀の解釈は、たとえ意図が特定の人間に属する ことがありえず、人々一般にさえ属することがありえなくても、意図の理解という形式的な体 裁をとることになるだろう。このような構造上の要請は――これは、解釈というものを特定の作 者の意図と結びつける何らかの更なる要請とは別個の独立した要請と考えられる――、興味をそ そる一つの挑戦を我々につきつけることになるが、後で我々は主に第6章でこの問題と取り組 むつもりである。我々が文献や法制度を説明する方法に関して前記のような目的の形式的構造 を主張することには、ある歴史上の現実的な意図を回復するという目標とは別にどのような意味 があるのだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,芸術と意図の性 格,未来社(1995),pp.98-99,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会的慣行からルールによる解釈、原理による解釈へ

社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


()社会的慣行からルールへの発展
 (1)社会的慣行
  農民は貴族に向かって帽子をとっている。
 (2)慣習的ルール
  農民は貴族に向かって帽子をとること。

慣習的ルール
 ↑ 正当化するために援用
社会的慣行
 皆んなが守っているからルールだ。

規範的ルール →解釈
         ↓
社会的慣行  →ルール通り
別の行動様式a→ルール違反
別の行動様式b→ルール通り

 (3)解釈的態度
  農民が貴族に向かって帽子をとることは、礼儀作法にかなっている。
  (a)利益、目的、原理 (意図)
   社会的慣行は、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるものである。
  (b)原理による社会的慣行の解釈
   原理が要求する行動やそれが正当化する判断は、当初の社会的慣行に限定されない。行動や判断は、原理によって付与された意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定され、限界づけられる。

原理(意図):礼儀作法 →解釈
農民が貴族に向かっ   ↓
て帽子をとること →礼儀正しい
帽子をとらない  →礼儀知らず
その他の行為a  →礼儀正しい
その他の行為b  →礼儀知らず



 (4)原理(意図、最善の光)によって制度に意味を付与し再構成を試みる
 ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に意味(meaning)を付与しようと、すなわち 制度をその最善の光のもとで捉えようと試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  

 (5)制度の変更
 (a)利益、目的、原理 (意図)と、(b)原理による社会的慣行の解釈は、相互に独立したものである。我々は、(a)の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができる。そして、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、制度の意味や趣旨へと訴えるのである。



「ある想像上の共同体で次のような歴史を思い描いてみよう。この共同体の成員たちは、一 定範囲の社会的状況において一組のルールに従っており、彼らはこのルールを「礼儀作法」と 呼んでいるとする。例えば、「農民が貴族に向かって帽子をとることを礼儀は要求している」 と彼らは述べ、この種の他の諸命題を主張し受け容れているとしよう。当分の間、この慣行は タブーとしての性格をもち続ける。ルールは、ただそこに存在するだけであり、疑問視される ことも修正されることもない。ところがこの後、おそらくはゆっくりとであろうが、これらの すべてが変化していく。各々の人間は礼儀作法に対して複雑な「解釈的」(interpretive) 態度をとりはじめる。そして、この態度は二つの要素を含んでいる。第一の要素は、礼儀の慣 行というものは単に存在するだけではなく価値を有し、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるもの――要するに、何らかの趣旨とか意味をもつもの――であり、 これらの利益や目的ないし原理は、当の慣行を構成しているルールを単に記述することとは独 立に明示されうる、という想定である。次に、第二の要素である更なる想定によれば、礼儀作 法が要請すること――すなわち、それが要求する行動やそれが正当化する判断――は、必ずしも、 あるいはもっぱら、かくかくしかじかであると常に考えられてきたものに限られる必要さはな い。むしろそれは、慣行が存在する意味というものに敏感に反応するものであり、従って、厳 格なルールは慣行のこのような意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定 され、限界づけられねばならない。ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に《意味》(meaning)を付与しようと―― 制度をその最善の光のもとで捉えようと――試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  解釈的態度の二つの構成要素は、相互に独立したものである。我々は、この態度の第二の構 成要素は採用しないで、第一の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができ る。例えば、ゲームとか競技を解釈するときに我々はこのようなやり方をとるだろう。つまり 我々は、これら実践的な活動のルールが現にどのようなものであるかについてではなく(非常 に限られた場合は別として)、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、当 の活動の意味や趣旨へと訴えるのである。というのもこの場合、ルールがどのようなものであ るかは歴史と慣例によって既に確定しているからである。それゆえ、ゲームや競技の場合に は、解釈は単に外的な役割を演ずるにすぎない。ところがこれに対して、礼儀作法に関する私 の説明にとっては、礼儀に従う市民たちが解釈的態度の第一の要素と同時に第二の要素をも採 用していることが、非常に重要なものとなる。彼らにとって解釈というものは、単に、礼儀作 法がなぜ存在するのかということだけでなく、適正に解釈したならばこの礼儀作法が現に何を 要求しているか、ということをも決定するのである。このとき、制度の価値と内容は分かち難 く絡み合うことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,想像上の事例, 未来社(1995),pp.82-84,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月31日金曜日

法には、内在的法則があるかのようであり、現存する法の同一性が深化し、純粋化していくように思われる。司法過程は、現存する法の深い真実の発見として理解することができる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の内在的発展

法には、内在的法則があるかのようであり、現存する法の同一性が深化し、純粋化していくように思われる。司法過程は、現存する法の深い真実の発見として理解することができる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)法の内在的法則
 法 の変化は、法自らによって規律されているのであり、法にはある種の人格が宿り、法は自らの内 的なプログラムやデザインを生み出していく。
(b)純粋化の傾向
 規律された変化は、同時に法の改善でもあり、法は純粋になればなるほどより善 いものになる。
(c)現存する法の同一性の深化
 変化は実は変化で はなく、むしろ逆に、基底に横たわる同一性の発見であり、それ故新しいルールを告知する裁 判官は、本当は既に現存する法をより正確に記述しているにすぎない。  

(d)法の内在的発展を表現する言葉
「法はそれ自体で純粋に作用する」「実定法の内部に、しかもこれを超えたとこ ろに高次の法というものが実在し、実定法はこの高次の法へと向かって成長していく」「法に は、目的を自ら実現しようとする固有の意図が存在する」といった表現がそうである。  

(e)現存する法の深い同一性の発見としての司法過程
 訴訟の過程を通じて、裁判官が法を変更す ることは不正と思われるだろう。しかし、もしこの変更が実は法の自己実現であり、表面的に は変更とみえるものが深い同一性の発見にすぎないとすれば、このような非難は的はずれなも のとなる。



 

「感傷的な法律家は今でもある種の比喩的表現を好んで用いている。この表現は現在大半の 法理論家にとり時代遅れで愚かなものと思われているが、かつては非常によく用いられていた ものである。「法はそれ自体で純粋に作用する」「実定法の内部に、しかもこれを超えたとこ ろに高次の法というものが実在し、実定法はこの高次の法へと向かって成長していく」「法に は、目的を自ら実現しようとする固有の意図が存在する」といった表現がそうである。  これらの比喩的表現には三つの神秘が内在している。これらはすべて次の明白な事実を認め ている。つまり、ある意味において法は、明示的な立法行為や判決行為を通じて変化する、と いう事実である。たとえば、しばしば裁判官は従来まで人々が法と考えてきたものとは異なる ものを法として記述し、この新しい法がはじめて告知される当の事案を判断するために、彼ら の新しい法記述を用いることがある。第一の神秘は次のように述べる。つまり、このような法 の変化は法自らによって規律されているのであり、法にはある種の人格が宿り、法は自らの内 的なプログラムやデザインを生み出していく。第二の神秘は次のように付け加える。つまり、 このようにして規律された変化は同時に法の改善でもあり、法は純粋になればなるほどより善 いものになる。第三の神秘ははるかに神秘の度をます。つまり、このような変化は実は変化で はなく、むしろ逆に、基底に横たわる同一性の発見であり、それ故新しいルールを告知する裁 判官は、本当は既に現存する法をより正確に記述しているにすぎないことになる。  これら三つの神秘の各々には政治的主張が含まれている。しかし、中でも第三の神秘は、難 解な事案において裁判官が行なっていることを政治的に正当化する際に登場し、それ故この神 秘に含まれる実践的主張は特に明白なものと言える。訴訟の過程を通じて裁判官が法を変更す ることは不正と思われるだろう。しかし、もしこの変更が実は法の自己実現であり、表面的に は変更とみえるものが深い同一性の発見にすぎないとすれば、このような非難は的はずれなも のとなる。むしろ逆に、もし裁判官が表面に現われた変化を認めず、これを強制しないのであ れば、彼はこの非難が想定するような仕方で――合法性の理念に反する仕方で――不正に行動して いることになるだろう。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,日本語版へのエピローグ,1,木鐸社 (2003),pp.325-326,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法それ自体に従うということ

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(1)法それ自体に従うということ
 たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信である。疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分に説明できない。

(2)法の発展と検証が目的である
 根本的な諸目的は、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証である。我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。

(3)制度を支える基本的倫理
 (a)何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて、社会の内部に 十分な一致がある。
 (b)したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったりしない。
 (c)自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもない。




「これらの慣行は、疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分表現されていない。このような理論を主張する人々も、現にこれらの慣行があるという 事実を否定することはできない。おそらくこれらの論者が言わんとすることは、そうした慣行 は脆弱な諸仮説に基づいているが故に、またその他何らかの理由により、合理的なものではな いということであろう。しかし、このことは彼らの異論を不可解なものにする。何となれば、 彼らは、自分達がこれらの慣行の根底にある諸目的をいかなるものと考えているのかを決して 明言していないからである。そして、これらの目標が明言されなければ、問題の慣行が合理的 なものかどうかを決定することはできないのである。私は、これらの根本的な諸目的とは、私 が前に記述したようなものであると理解している。すなわち、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証がそれである。  我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。もっとも、そうしたことが市民に許されるといっても、それは裁判所が同意しない 場合の危険負担を伴うものであるが。この戦略が成功するかどうかは、次の点にかかっている のである。すなわち、何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて社会の内部に 十分な一致があり、したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったり、あるいは自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもないかどうか、にかかっているのであ る。私は、論証の当否を判定する規準についてこうした陥穽を避けるのに十分な一致があると 信ずる。もっとも、法哲学の主要な任務の一つは、これらの規準を公然と提示し明確にするこ となのであるが。いずれにせよ、私が記述してきた慣行は未だ誤っていると証明されたことは ないのであり、それ故、他者が法と考えるものを破る人々に寛大であることが正当かつ公正で あるかどうかを決定するにあたっては、これらの慣行が考慮されなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.290-291,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



争点が基本的な個人的あるいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範囲内のこととして許される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法それ自体に従うこと

争点が基本的な個人的あるいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範囲内のこととして許される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「かくして第三のモデルないしは何らかそれに近いものが我々の社会における人の社会的義 務の最も公正な陳述であるように思われる。市民は法それ自体に従うのであって、何が法であ るかに関するいかなる特定個人の見解にも従うわけではない。そこで彼が法の要求するものに 関する自己自身の熟慮された合理的な見解に基づいて進むかぎり、彼は不公正に行動するもの ではない。(きわめて重要なので)繰り返し言わせてもらえば、このことは、個人が裁判所の 述べたことを無視してよいと言うのと同じではない。先例の法理は我々の法制度のほとんど核 心部分を成しており、何人も判決によって法を変更する一般的な権限を裁判所に認めなけれ ば、法に従う合理的な努力を行うことはできないのである。しかし、争点が基本的な個人的あ るいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範 囲内のこととして許されるのである。  我々は、これらの所見を徴兵制に対する反抗の諸問題に直ちに適用することはできない。そ の前に検討されるべき大きな問題が一つ残されている。私は、法とは他の人々が法と考えるこ とや裁判所が法と判示したことではない、と信ずる者の立場について語ってきた。この記述 は、良心に基づいて徴兵法に服従しない人々の幾人かには適合するかもしれないが、彼らの大 部分には適合しないのである。反対意見者達の大部分は法律家や政治哲学者ではない。彼ら は、定立された法律が不道徳であり、自分達の国家の法理念に反すると信ずるが、また一方、 それらの法律が無効であるかどうかという問題は考慮したことがないのである。それでは、人 は法に関する自己自身の見解に従ってよいし、それが適切である、という命題は、彼らの立場 にとってどのような意味をもつであろうか。  この問いに答えるためには、私は以前に示唆した点に立ち戻らねばならないであろう。憲法 典は、デュー・プロセス条項、平等保護条項、第1修正及び私が言及したその他の諸条項を通 じて、ある法律が有効であるかどうかという争点にきわめて広範囲にわたる我々の政治道徳を 注ぎ込んでいるのである。それ故、徴兵制に反対の人々の大部分は法律が無効であることを意 識していないという陳述は、若干の注釈を必要とする。彼らは諸々の信念を保持しており、そ れらは、もし正しい信念であれば、法が彼らの側にあるという見方を強く支持するのである。 彼らが、当該法律は無効であるという一歩突っ込んだ結論に達しなかったとしても、それは、 少なくとも大抵の場合、彼らには法的な素養が欠けていたというだけのことである。もし我々 が、法律が疑わしい場合には人々は法に関する自己自身の判断に従ってよいし、それは適切な 行為である、と信ずるならば、この見解を前記の反対意見者達に押し及ぼさないことは誤って いるとみられるであろう。これらの人々の判断は結局他の反対意見者達のそれと異なるところ はないからである。私が第三のモデルのために行なった論証のいかなる部分によっても、彼ら をより有識な彼らの同胞市民から区別することは許されないであろう。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.287-288,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


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