意識現象と量子力学
【可能性の領域である新しい観念は、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。(カール・ポパー(1902-1994))】量子力学が、意識現象に関わると思われる理由
(1)古典物理学の決定論においては、自由意志が存在する余地がないように思われた。
(2)量子力学は、確率論的な時間発展と、一回の観測における不確定性、非決定性を与える。
(3)しかし、自由意志の問題は、偶然的で確率論的な事柄であるとは思えない。
(4)この偶然性と、自ら選択し決定するという自由意志は、どのように関係するのか。
(4.1)可能性の領域である新しい観念は、遺伝における突然変異のように、確率的な法則に従って、非決定論的に発生する。
(4.2)新しい観念は、世界3につなぎ止められ、検討され、テストされ、不適切なものは消去され、最適なものが生き残る。
(再掲)
(b2.4.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。
時間1 世界1・P1 (世界3・C1⇔世界2・M1)
│ │ │┌───┘
↓ ↓ ↓↓
時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
│ │ │┌─────────┘
↓ ↓ ↓↓
時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)
「P――もちろん、それはたいへん難解な問題です。それに関連して多くの考えをもっていますが、それらはまだまだ練り上げられていません。
まず第一に、量子論的な不確定性が、ある意味で助けにはならないことにもちろん同意しますが、それは単に確率法則に導くだけだからであり、自由な決定のようなものが確率的事柄であるとは言いたくないのです。
量子力学的な不確定性の困難は二つの部分からなっています。第一に、それは確率的です。このことは、偶然的事柄ではない自由意志の問題にそれほど助けにはならないのです。第二に、それはわれわれに非決定論しか与えず、世界2への開放性を与えません。
しかし、遠回りの仕方で、自由意志の決定が確率的事柄であるという誤ったテーゼに身をゆだねることなしに、量子論的な不確定性を用いることができる、とは考えます。
この文脈では一点についてだけ述べましょう。新しい観念は遺伝的な突然変異に著しく似ています。そこで、しばらく遺伝的な突然変異についてみてみましょう。突然変異は(放射線効果を含む)量子論的な不確定性によってもたらされるようです。したがって、それらもまた確率的で、それら自身元来選択されたものでもなく、または適切なものでもないが、不適切な突然変異を取り除く自然淘汰が次に働くのです。
さて、われわれは新しい観念、自由意志の決定、そして類似のことに関して同様の過程を考えることができます。すなわち、可能性の領域は、提案の――いわば大脳によってもたらされた可能性の――確率論的、量子力学的特徴をもつ集合によってもたらされるのです。
これらの上へ、一種の淘汰圧が働き、世界3につなぎ止められ、そこで検討し、そこの基準でテストするところの心に受け入れられないような提案と可能性を消去するのです。これが、それらのことの起こる仕方でしょう。
そして、彫刻家が像を作るために石を刻み、不要部分をすてるように働く抑制ニューロンの示唆を私がたいへん好むのは、この理由からでした。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DX章、(下)pp.767-768、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:意識現象,量子力学)
(出典:wikipedia)
「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる。
9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
カール・ポパー(1902-1994)
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