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2019年8月31日土曜日

難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法全体に内在する拘束力

【難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.3.5)追記。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (3.1.1)権利は、制定法により創出される。
  (3.1.2)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (3.2.1)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (3.2.2)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (3.3.1)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (3.3.2)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (3.3.3)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (3.3.4)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (3.3.5)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
   (a)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (b)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (3.3.6)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利


 「裁判官達は、以前の判決が解釈以外の何らかの仕方で、論争の対象となる新たな法準則の定式化に寄与することを認める点では同意しているように思われる。彼らは以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。これに対し、ある問題に関してどのような投票を行うべきかを決定する際、立法者はきわめてしばしば背景的倫理や政策上の諸問題にしか関心を払わない。立法者は、その投票が議会の同僚議員のそれと、あるいは過去の議会のそれと矛盾しないことを示す必要はない。しかし裁判官が、このような独立的な性格をもつことは非常に稀である。裁判官は、自己の法創造的判決に対して自ら与える正当化を他の裁判官や公務担当者が過去において下した判決と関連づけようと努めるのが常である。
 事実、有能な裁判官は、彼らの職務を一般的な方法で説明しようとする場合、彼らが新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、そして彼らが立法者であれば適切ではないような拘束を表現するために、何らかの比喩的表現を探そうとする。たとえば彼らは、法全体に内在する新たな法準則を見出したと述べてみたり、政治よりは哲学に属するような方法を通じて、法の内在的論理に拘束力をもたせるとか、裁判官は法それ自体が純粋に作用するための機関であるとか、あるいはたとえ法の生命は論理よりは経験に属するものであっても、法にはそれ固有のある種の生命が認められるなどと述べたりする。ハーキュリーズは、これら周知の比喩や擬人的表現に満足してはならないが、同時にこれらの表現に含まれた最良の法律家へと訴えかける含蓄ある内容を無視するようないかなる司法過程の記述にも満足してはならない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.139-140,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法全体に内在する拘束力,法に固有の生命)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2019年8月25日日曜日

裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治的権利と法的権利

【裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3)追加。

(1)法準則と先例
 (1.1)法準則
  法準則は、権限を有する特定の機関が制定したことにより妥当性を有する。
 (1.2)先例
  裁判官は、特定の事案を裁定すべくこれらを定式化し、将来の事案に対する先例として確立する。
(2)法準則と先例を支持する諸原理
  そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。(a)特定の法準則を肯定的に支持する諸原理、(b)立法権の優位の理論、(c)先例の理論。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 そもそも、特定の法準則が「拘束力を有する」こと自体が、諸原理の存在を示している。そして、これらの諸原理は、法準則と同等の意味で法として捉えられており、社会で法適用の任務に当たる者を拘束し、法的権利義務に関する彼らの裁定を規制する規準と考えられている。
 (2.1)当該特定の法準則を肯定的に支持する諸原理
  これらの諸原理は、当該法準則の変更を支持するかもしれない他の諸原理よりも、重要であることを意味している。
 (2.2)既に確立された法理論からの離反に対抗する、幾つかの重要な諸原理
  (2.2.1)立法権の優位の理論
   裁判所は、立法府の行為に対しそれ相応の敬意を払うべきであると主張する諸原理
  (2.2.2)先例の理論
   判決の一貫性が、衡平に適い、実効性のあることを主張する諸原理

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (a)権利は、制定法により創出される。
  (b)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (a)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (b)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (a)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (b)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (c)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (d)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (e)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
  (f)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利

(4)諸原理
 (4.1)諸原理は、ハートが言うように「提示されたあるルールが有する特徴で、それが真の法準則であることを確定的かつ肯定的に示すと考えられる一定の特徴ないし諸特徴」を明示できるような、承認のルールを持っているわけではない。また、重要性の等級づけについても、単純な定式化が存在するわけではない。
 (4.2)諸原理は、相互に支えあって連結しており、これら諸原理の内在的意味により、当該原理を擁護しなければならない。
   原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
  (4.2.1)原理の制度的な支え
   (a)当該原理を具体的に表現していると思われる制定法
   (b)当該原理が援用されたり論証中に登場しているような過去の事案
   (c)当該原理を引用している制定法の序文
   (d)当該原理を引用している委員会報告、その他の立法関係書類など
  (4.2.2)推移し、発展し、相互に作用しある様々な規準の総体
   (a)制度的責任
   (b)法令解釈の一定の技術
   (c)各種判例の特定の理論と、その説得力
   (d)これらの慣行を支えている、何らかの一般的諸原理
   (e)これらすべての問題と、現在の道徳的慣行との関連性
  (4.2.3)一般市民が適正と感じ、公正と思うような、何らかの役割を演じている道徳的慣行



 「難解な事例における法的論証は、その意味内容に関し複数の解釈が可能な諸概念をめぐって展開されるが、この概念の性質及び機能はゲームの性格を示す概念にきわめて類似している。これらの概念には契約や財産といった法的陳述の構成要素となる幾つかの実体的概念が含まれるが、これには更に我々の当面の論証にとってはるかに関連性をもつ二つの概念が含まれている。第一の概念は、ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」という概念であり、この概念の機能は、権利は制定法により創出されるという一般的見解の政治的正当化と、特定の制定法により如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案とを架橋する点にある。第二の概念は、判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理という概念であり、この概念の機能は同様の事例は同様に判決されるべしとする法理の政治的正当化と、この一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案とを架橋する点にある。これら二つの概念が結合されることにより、法的権利は政治的権利のある種の函数――きわめて特殊な函数ではあるが――として定義されることになる。ある裁判官が法体系において既に確立された慣行を受容すれば――たとえば法体系の明確な構成的及び規制的法準則が彼に認めている自律性を彼が受容すれば――彼は、政治的責任の原則の要請に従い、この種の慣行を正当化する一定の一般的政治理論を受容しなければならない。立法趣旨及びコモン・ロー上の諸原理という概念は、法的権利につき争いのある争点に対し、このような一般的政治理論を適用するための装置なのである。
 さて、ここである哲人裁判官を想定し、然るべき事案において、立法趣旨及びコモン・ローの原理が具体的に何を要請するかにつき彼がいかなる諸理論を展開するかを検討してみるのがよいだろう。このとき、我々は哲人審判員がゲームの性格を理論構成するのと同じやり方で、彼がこれらの理論を展開することに気づくだろう。この目的のために私は超人的な技能、学識、忍耐、洞察力をもつ法律家を想定し、彼をハーキュリーズと呼ぶことにする。更にこのハーキュリーズはアメリカの代表的なある法域(jurisdiction)に属する裁判官であり、彼の法域で明白に効力を有する主要な構成的及び規制的法準則を受容しているとしよう。すなわち彼は、制定法が法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有することを認め、当該裁判所や上位裁判所の先例――法律家が先例の判決理由を呼ぶものが当該事案を拘束するのであるが――に裁判官が従う義務が一般的に存在することを認めているとしよう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,A 立法,木鐸社(2003),pp.130-131,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:立法趣旨,コモン・ローの原理,政治的権利,法的権利)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2019年4月4日木曜日

政策の問題は、諸個人の利益や選好の比較衡量、調整を伴う政治的判断であり、民主的に選挙された代表者が行なう。司法判断は、新たな法の創造ではなく原理の問題であり、論証された権利は、多数派の利益に優越する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政策の問題、原理の問題

【政策の問題は、諸個人の利益や選好の比較衡量、調整を伴う政治的判断であり、民主的に選挙された代表者が行なう。司法判断は、新たな法の創造ではなく原理の問題であり、論証された権利は、多数派の利益に優越する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(4)、(5)追記。

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
  法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準には、法準則の他に、法準則とは異なった仕方で作用する正義や公正などの諸原理と、経済的、政治的、社会的目標と結びついた政策などの諸規準がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)(狭義の)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)原理と政策を区別する理由
 広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。
(4)立法府は、政策の論証を追求し、立法措置を採択する権限を有する。
 政策の問題:社会全体の福祉を追求しつつ、個人の目標や目的を調整する問題。
 (4.1)この調整は、個々人の利益や選好を相互に比較衡量することにより客観的になされるが、この種の比較衡量が、原理の問題として理論的に実行可能かどうかは大いに疑問である。
 (4.2)むしろ、考慮さるべき様々な利害関係を正確に表現することを目的とする何らかの政治過程の作用を通じてなされねばならない。
 (4.3)社会の統治は、大多数の人々により選挙され彼らに対し責任を負う代表者によって遂行されるべきである。裁判官は多くの場合、選挙によらず任命され、立法者のように選挙人に対し事実上責任を負わない。
 (4.4)ある裁判官が新たな法を創造し当面の事案にこれを遡及的に適用すれば、敗訴者は、彼が既に負っていた義務に違背したからではなく、訴訟の後に創られた新たな義務に違背したが故に処罰されることになる。これは、不正である。
(5) 裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 原理の問題:原理の論証は、論証で述べられた権利を主張する者に認められる一定の利益に着目する。
 (5.1)原理により論証される利益は、より効率的な利益配分を追求する政策の論証を無意味にする。すなわち原理により論証される権利は、政治的多数派の利益よりも優先する。
 (5.2)多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 (5.3)原理により論証される権利は、新たな法の創造ではない。
  原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。

 「司法は立法に服するべきである、という人口に膾炙した考え方は、司法の法創造性を否定する二つの反論により与えられている。第一の反論は、社会の統治は大多数の人々により選挙され彼らに対し責任を負う代表者によって遂行されるべきことを主張する。裁判官は多くの場合、選挙によらず任命され、立法者のように選挙人に対し事実上責任を負わないが故に、裁判官が法を創造することは上記の主張に違背することになる。更に第二の反論は次のように主張する。すなわち、ある裁判官が新たな法を創造し当面の事案にこれを遡及的に適用すれば、敗訴者は、彼が既に負っていた義務に違背したからではなく、訴訟の後に創られた新たな義務に違背したが故に処罰されることになる、と。
 これら二つの反論は相俟って、司法は可能なかぎり法創造的機能をもつべきでない、という伝統的な理念を支持することになる。しかし、これらは確かに政策から生ずる判決に対しては有力な反論と言えても、原理から生ずる判決に対してはそれほどの効力を持ち得ない。第一の反論、すなわち法は選挙により選出され選挙人に対し責任を負う公的な代表者により創られるべきであるとする反論は、法を政策の問題、つまり社会全体の福祉を追求しつつ個人の目標や目的を調整する問題として捉えるかぎり、全く異論の余地のないものと思われる。この調整は、個々人の利益や選好を相互に比較衡量することにより客観的になされうるであろうが、この種の比較衡量が理論上でさえ意味をもちうるかどうかは、甚だ疑問である。しかしいずれにしても、この点に関し正確な計算などは現実に不可能である。したがって政策的な決定は、考慮さるべき様々な利害関係を正確に表現することを目的とする何らかの政治過程の作用を通じてなされねばならない。代表民主制の政治体制は様々な利害関係に対しただ中立的に作用するが、選挙によらず選出され、郵便袋やロビイストや圧力団体を有していない裁判官が、裁判官室で相競合する様々な利害を調整することを認める体制よりは、この種の代表民主制の方がより良い結果を生むであろう。
 第二の反論が説得力をもつのも、政策から生じた決定に対してである。訴訟の後に創出される何らかの義務の名のもとに無実の人間の権利が犠牲にされることを、われわれは不正と考えている。」(中略)「裁判所が原理につき判断を下すかぎり、第一の反論はそれほど当を得たものとはいえなくなる。とういのも、原理の論証は、相互に異なる様々な要求や関心がいかなる性格を有し、どの程度の強さで社会全体に分散しているかに関する想定には依拠しないことが多いからである。逆に原理の論証は、論証で述べられた権利を主張する者に認められる一定の利益に着目する。そしてこの利益は、政策の論証によりこの利益を否定して、より効率的な利益配分を追求すること自体を無意味にするようなものとして捉えられている。それ故、政治的多数派の利益よりも権利が優位する場合、このような多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 司法が法創造的機能を有することに対する第二の反論は、原理の論証に対しいかなる効力をももちえない。原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,2 権利のテーゼ,B 原理と民主制,木鐸社(2003),pp.101-103,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:政策の問題,原理の問題)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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2018年11月22日木曜日

裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

原理の論証と政策の論証

【裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(4)、(5)追加記載。

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。
(4)立法府は、政策の論証を追求し、立法措置を採択する権限を有する。
(5)裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。

 「政策の論証は、政治的決定を、これが社会全体のある種の集団的目標を促進し保護することを立証することにより、正当化する。飛行機製造会社への補助金助成措置が、補助金により国防が促進されることを理由に正当化される場合、これは、政策の論証である。これに対し原理の論証は、ある政治的決定が個人や集団の権利を尊重し保証することを示すことにより、当の決定を正当化しようとする。たとえば、人種差別禁止の法律を正当化するために、少数派にも平等の尊重及び配慮を受ける権利が存在すると主張することは、原理の論証である。政治的論証は、これら二種類の論証に尽きるわけではない。たとえば、盲人に所得税の特別控除を認める決定のごとく、政治的決定は政策や原理を根拠とするよりはむしろ公的な寛大さや徳の行為として擁護されることもある。しかし、原理と政策が政治的正当化の主要な根拠であることは確かである。
 複雑な立法措置は、これら二種類の論証による正当化を必要とするのが通例である。」(中略)
 「立法府が政策の論証を追求し、この種の論証から生まれた立法措置を採択する権限を有することは、明らかである。もし裁判所が代理立法府であれば、裁判所も同様の権限をもつと考えなければならない。これに対し、判決が法創造的な機能をもたず、明らかに有効な法令の明確な文言を単に適用するだけの場合は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。」(中略)
 「しかし、当該事例が難解な事案であり、既成の法準則からはいかなる判決を下すべきかが不明確な場合には、適切な判決は政策から生じることも、原理から生じることもありうるであろう。」(中略)
 「しかし、それにもかかわらず、私はスパータン・スティール事件のような難解な事案においてすら、民事事件の判決は政策ではなく原理によりなされることを特徴とし、また現にそうあるべきことを主張したい。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,2 権利のテーゼ,A 原理と政策,木鐸社(2003),pp.99-100,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理の論証,政策の論証)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月19日月曜日

互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法準則と原理

【互いに抵触しあう諸原理が並立し得るのに対して、例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(2.2)追記

 参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

(1)原理には、重みとか重要性といった特性がみられ、それを有意味に問題にし得る。
 (1.1)複数の原理が抵触しあうとき、相対的な重みを考慮に入れる必要がある。
 (1.2)ただし重みには、精確な測定などあり得ず、特定の原理や政策が他より重要であるという判断は、しばしば議論の余地あるものとなる。
(2)これに対して、二つの法準則が抵触することはあり得ない。
 (2.1)見掛け上抵触する場合にも、法体系にはこの種の抵触を規律する別種のルールが存在する。
  (a)高次の権威が制定した法準則の優先
  (b)後に確立された法準則の優先
  (c)あるいは、より特殊な法準則の優先
  (d)その他の類いの法準則の優先
  (e)法体系によっては、より重要な原理に支持された法準則を優先
 (2.2)例外的準則は、法準則が互いに抵触しあっているわけではない。法準則の完全な陳述には、当該準則に対する例外的準則も含まれる。法準則が、ある例外的事案と抵触しあっているように見えるとき、例外的準則を含まない法準則は、不完全なのである。

 「私の主張は、ある法準則の「完全な」陳述には当該準則に対する例外的準則も含まれるということ、そしてこのような例外的準則を無視した法準則の陳述は「不完全」である、ということであった。もし私がラズの反論に予め気づいていれば、このようなかたちで私の見解を提示することはなかっただろう。すなわち私は、例外的法準則は本来の法準則を修正したかたちで提示されることも、また自己防衛に関する法準則のように別個の法準則として提示されることもありうると、明言していただろう。しかしたとえそうだとしても、同時に私は両者の相違が主として記述の問題にすぎないことをも明言したはずである。したがって法準則と原理の区別は損なわれることなく維持されることになる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),pp.90-91,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月18日日曜日

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳や倫理的規準と、ルールと原理

【道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。

参照: 論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「確かに道徳的な人間は、嘘をつくか約束を破るかを選択しなければならない場合、困難な状況に置かれることになるだろう。だからといって、当該問題に関し衝突するに到った両者をルールとして彼が容認していたことにはならない。単に彼は嘘言と約束違反を両者とも原則として不正なものとみなしたにすぎない、と考えられるのである。
 もちろん我々は、彼が置かれている状況を二つの倫理的規準のいずれかを選択せざるを得ない状況として記述し、たとえ彼自身は当該状況をこのように表現しなくとも我々はこれを正しい記述と考えるかもしれない。しかしむしろこの場合、既に私が使用した区別を用いれば、彼は競合する二つのルールではなく、二つの原理について解決を見出すように迫られていると考えるべきなのである。何故ならば、この法が彼の状況をより正確な仕方で記述していると考えられるからである。彼はいかなる倫理的考慮もそれ自体では圧倒的に優勢な効力をもちえないこと、そしてある行為を禁ずるいかなる根拠も状況によってはこれと競合する別の考慮に屈せざるをえないことを認めている。それ故、彼の倫理的実践を社会規準のコードを用いて説明しようとする哲学者や社会学者は、彼にとり道徳がルールの問題ではなく原理の問題であることを認めざるをえないのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),p.86,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:道徳,倫理的規準,ルール,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月14日水曜日

刑罰の上限と下限を定めた刑法規定のもとで、一定の判決を下す場合や、衡平を顧慮しつつ判決にニュアンスをつける場合も、裁判官は義務排除的な裁量を持つわけではなく、最善の判決を選定すべき任務に導かれている。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

裁判官のもち得る裁量

【刑罰の上限と下限を定めた刑法規定のもとで、一定の判決を下す場合や、衡平を顧慮しつつ判決にニュアンスをつける場合も、裁判官は義務排除的な裁量を持つわけではなく、最善の判決を選定すべき任務に導かれている。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(2.1)~(2.2)追記

(1)「裁量」の3つの意味
 (a)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、合理的に解釈しても幾つか異なった判断、裁定の可能性を導く場合、彼は裁量をもつ。
 (b)ある人の特定の判断、裁定が最終的であり、上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつ。
 (c)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、特定の判断に関して事実上いかなる義務をも課していない場合、彼は裁量をもつ。
(2)裁判官は、(a)と(b)の意味での裁量を有し得るにもかかわらず、(c)の意味での裁量は持ちえない。すなわち彼は、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、自らに対し要求されていることを反省し、裁判官としての義務の何たるかが問題とされるようなものとして、自らの判決を受けとめる。
 (2.1)参照:諸原理が「法」かどうかは以下の違いを導く。(a)法である諸原理の顧慮が裁判官の義務か単なる慣行か、(b)顧慮すべき諸原理の無視が不正か否か、(c)判決は既存の法的権利義務の解明か裁量か、(d)「誤った」判決ということの意味の有無。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (2.2)以下のような場合においても、裁判官は、すべてを顧慮した上で全体として最善と思われる判決を選定することを自らの任務と理解し、この際彼らの任務は、彼らが遂行する「義務のあるもの」ではなく、遂行する「はずのもの」と考えられている。
  (a)刑罰の上限と下限を定めた刑法規定のもとで、一定の判決を下す場合。
  (b)一般的衡平に基づく裁判権のもとで、衡平を顧慮しつつ判決にニュアンスをつける場合。

 「我々の見解では、裁判官はある特定の問題に関し第三の意味での裁量をもつという主張は、論拠もなく頭から肯定されるべきではなく、論拠の比較考量によりはじめて肯定されるべきものである。確かにしばしば裁判官はこのような結論に到達することがある。たとえば刑罰の上限と下限を定めた刑法規定のもとで一定の判決を下す場合や、一般的衡平に基づく裁判権のもとで衡平を顧慮しつつ判決にニュアンスをつける場合がそうである。この種の場合に裁判官は、何らかの特定の判決を要求する権利を当事者が有しているとは考えない。裁判官は、すべてを顧慮した上で全体として最善と思われる判決を選定することを自らの任務と理解し、この際彼らの任務は彼らが遂行する義務のある(must)ものではなく、遂行するはず(should)のものと考えられているのである。しかしこれに対し、難解な事案の大部分において裁判官は、既に私が説明したように、これとは異なった態度で判決にのぞむ。すなわち彼ら相互に見解の対立があるとき、この対立は、考慮に入れることを彼らが禁じられあるいは考慮すべく彼らが義務づけられる規準は何か、そして各々の規準にどの程度の相対的重要性を与えるべく彼らが義務づけられているかについての対立として理解されており、しかも彼らの議論は、前節で制度的支えの理論を説明する際に私が述べたような論証を基礎として行なわれるのである。このような場合、ある裁判官は私が指摘した第一の裁量の余地を認め、また他の裁判官は第二の裁量の余地を認めるであろうし、あるいは更に、この点につき判断を下しえないと考える裁判官も居るだろう。しかし第三の裁量はすべての裁判官により否定されている。それ故単に判断を必要とするにすぎない裁量を、義務排除的な裁量として解釈することを許すいかなる社会的ルールの端緒さえも明らかに存在してはいないのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,4 裁判官は裁量を行使する必要があるか,木鐸社(2003),pp.83-84,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:裁量)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月10日土曜日

裁判官は、自らに課された義務に従いつつも、合理的な幾つか異なった判断の可能性に導かれる場合の裁量、裁定が最終的なものであるという意味での裁量をもつが、事実上いかなる義務も課されていない裁量はもたない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

「裁量」の3つの意味

【裁判官は、自らに課された義務に従いつつも、合理的な幾つか異なった判断の可能性に導かれる場合の裁量、裁定が最終的なものであるという意味での裁量をもつが、事実上いかなる義務も課されていない裁量はもたない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(1)「裁量」の3つの意味
 (a)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、合理的に解釈しても幾つか異なった判断、裁定の可能性を導く場合、彼は裁量をもつ。
 (b)ある人の特定の判断、裁定が最終的であり、上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつ。
 (c)ある人の特定の判断、裁定を規律している義務を規定している規準が、特定の判断に関して事実上いかなる義務をも課していない場合、彼は裁量をもつ。
(2)裁判官は、(a)と(b)の意味での裁量を有し得るにもかかわらず、(c)の意味での裁量は持ちえない。すなわち彼は、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、自らに対し要求されていることを反省し、裁判官としての義務の何たるかが問題とされるようなものとして、自らの判決を受けとめる。

 「私は前章でこの主張が実は裁量概念の一種の多義性に基づいていることを明らかにしようとした。我々は義務に関する議論においてこの概念を三つの異なった意味で使用する。第一に、ある人間の義務が、合理的に解釈しても幾つか異なった解釈の可能な規準により規定されている場合、その人間には裁量が認められると我々は考える。最も経験豊かな五人の人間を巡視に選ぶよう命じられた軍曹の例がこれにあたる。第二に、ある人間の裁定が最終的であり上位の権威がそれを再検討したり無効にすることができない場合、彼は裁量をもつと我々は考える。たとえば選手がオフサイドを犯したか否かの判定が線審の裁量に委されている場合がそうである。第三に、ある人間に義務を課する一連の規準がその趣旨からして特定の判断に関しては事実上いかなる義務をも課していない場合、その人間は裁量を有すると言われる。たとえば借家契約の条項が借家人に対し裁量により契約を更新する選択権を認めている場合がそうである。
 特定の判決を一義的な仕方で要求するいかなる社会的ルールも存在せず、いかなる判決が事実上要求されているかにつき裁判実務が分裂していることが明らかな場合、裁判官には上記の第一の意味での裁量が認められることになる。というのもこの場合、裁判官は既存のルールの適用を超えてイニシャティヴを行使し判断を下さねばならないからである。またこれらの裁判官が最終審の裁判所の成員であるとき、彼らに第二の意味の裁量が認められることも明らかである。しかし我々が最も強い形態の社会的ルール理論を採用し、義務や責任は社会的ルールのみから生成すると考えないかぎり、これらの裁判官が第三の意味での裁量をもつと結論することはできない。これらの裁判官が第一と第二の意味での裁量をともに有していながら、それにもかかわらず、裁判官としての彼の義務の何たるかが問題とされるようなものとして、まさに自らの判決を受けとめるであろう。裁判官にとり判決とは、当該事案に関連すると思われる様々な問題を考慮に入れ、何が彼に対し要求されているかを反省することにより判断すべき問題と考えられているのである。もしそうであれば、裁判官は第三の意味での裁量はもたないことになる。しかし司法的義務が専らある単一の窮極的な社会的ルールや一群の社会的ルールにより規定されていることを実証主義者が論証しようとするならば、この第三の意味での裁量を裁判官が現実に有していることを実証主義者は立証しなければならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,4 裁判官は裁量を行使する必要があるか,木鐸社(2003),pp.80-81,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:裁量)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年11月9日金曜日

法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の総体を正当化すべく要請された法理論

【法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論を内包し、制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理を超える、ほぼ全ての社会的、政治的倫理的原理から構成される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 ある法理論を、他の法理論より優先して選択すべき、いかなる基礎が存在するかが問題である。
(1)法の総体を正当化すべく要請された法理論は、規範的政治理論や道徳理論へと深く入り込まざるを得ないであろう。
(2)ある法律家の法理論においては、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理は、ほぼ全て何らかの意義と役割を持つであろう。
(3)ただし、憲法上の配慮により排除される原理は別とする。
(4)制度的な支えを持つ諸原理や、制度的に確立した慣行を支える諸原理だけでは、政治理論や道徳理論の構成には不十分である。
 参照: 原理を擁護する諸慣行:(a)原理が関与する法準則、先例、制定法の序文、立法関連文書、(b)制度的責任、法令解釈の技術、各種判例の特定理論等の慣行、(c)(b)が依拠する一般的諸原理、(d)一般市民の道徳的慣行。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「私は他の法理論に優先してある理論を選択すべきいかなる基礎も見出されない、と主張しているのではない。逆に次節で検討される裁量論を私が拒否することからもわかるように、ある理論を他より勝れたものとして区別する説得力ある論証を示し《うる》と私は考えている。しかしこれらの論証は、たとえば社会における平等義務の本質は何か、といった規範的政治理論の諸問題の論証を含み、この種の論証は、法とは何かを決定する際に考慮さるべき問題には一定の限界がある、という実証主義的な観念では捉えることのできない論証である。制度的支えというテストは、ある法理論を最良の理論として特定化する機械的ないし歴史的基礎や倫理的に中立的な基礎を我々に与えてはくれない。それどころかこのテストは、ある一人の法律家が一連の法的原理を他のより広範な倫理的ないし政治的原理から区別することさえ可能にしないのである。通常、法律家の法理論には彼が受容するほぼすべての政治的倫理的原理の総体が含まれるだろう。確かに、憲法上の配慮により排除される原理を別とすれば、社会で一般的に通用し彼も個人的に受容する社会的ないし政治的倫理的原理でありながら、法の総体を正当化すべく要請された詳細な正当化図式の内部には属さず、この図式において何の意義ももたないような原理を一つでも考えだすことは困難である。それ故実証主義者が制度的に確立した慣行を法の窮極的テストの役割を演ずるべきものとして採用しても、これはただ彼の台本の残りの部分をその犠牲として放棄することによってのみ可能なのである。
 しかしもしそうであれば、法理論にとり由々しい結果が生ずることになる。法理論は「法とは何か」という問いを立て、大半の法哲学者は法的権利義務の立証過程において適切な仕方で登場する「規準」を特定化することにより、この問いに答えようとしてきた。しかし、このような規準の網羅的なリストが作成されえないとすれば、法的権利義務を他のタイプの権利義務から区別する別の方法が発見されねばならない。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,3「制度的支え」は承認のルールを構成するか,木鐸社(2003),pp.79-80,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法理論,政治理論,道徳理論,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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