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2020年4月21日火曜日

9.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.4)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないとする説。
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
   (ii)情念は「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 (2.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えないとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
   (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
   (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
   (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)理性による判断

 「この学説が個人に適用された場合、そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない。

みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。

わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。

わたくしは法則に従う。けれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。

自由は服従である。しかし、これは「われわれがわれわれ自身に命ずる法則に対する服従」であって、なんぴとも自分自身を奴隷とするというわけにはゆかない。

他律とは外部的要因への依存であり、自分では完全に支配しえないところの、また《それだけ》protanto わたくしを支配し「隷従させる」ところの外的世界のなぐさみものとなることを免れることである。

自分ではどうすることもできない力の下にある、いかなるものによってもわたくしが「束縛」されていない程度においてのみ、わたくしは自由である。

わたくしは自然の法則を支配することはできない。したがって、《その仮定からして》ex hypothesi わたくしの自由な活動は経験的な因果の世界の上に超越させられなければならぬことになる。

いまここでは、この古来有名な学説の真偽を議論しているわけにはゆかない。

ただ、実現不可能な欲望への抵抗(ないしそれからの逃避)としての自由、因果性の領域からの独立としての自由というこの観念は、倫理学におけると同様、政治学においても中心的な役割を演じてきたものなのだということだけは注意しておきたいと思う。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.33-34,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却,積極的自由,欲望,情念,社会的な諸価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年11月25日月曜日

8.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由の歪曲

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

 (2.2)追加。
 (2.3)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求 「低次」なのか?
   (ii)情念 「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系 「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動 「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動 「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得る。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「ひとが自分自身の主人であることに存する自由と、わたくしが自分のする選択を他人から妨げられないことに存する自由とは、文字面では相互にたいした論理的なちがいのない概念であるように見え、ただ同じことを消極的にいっているか積極的にいっているかのいいあらわし方の相違があるにすぎないと思われるかもしれない。

けれども、この自由の「積極的」観念と「消極的」観念とはそれぞれ異なる方向に展開され、最後には両者が直接に衝突するところまでゆく。

 このことをはっきりさせるひとつの方法は、自己支配 selfmastery という暗喩が要求する自律的な力を見てみることにある。

「わたくしはわたくし自身の主人である」。「わたくしはいかなるひとの奴隷でもない」。

だがわたくしは(たとえばT・H・グリーンがいつもいっているように)自然の奴隷ではないのであろうか。あるいはまた、わたくし自身の「制御できない」情念の奴隷ではなかろうか。これらはいずれも「奴隷」という同一の類のなかのいくつかの種――あるものは政治的ないし法律的、他のものは道徳的ないし精神的な――であるのではないだろうか。

ひとは精神的隷従あるいは自然への隷従から解放されたという経験をもったことがないであろうか、またその過程において、一方では支配する自我、他方では服従させられるなにものかを自分のうちに自覚することがないであろうか。

ところでこの支配する自我は、理性とか「より高次の本性」とか、また結局は自我を満足させるであろうところのものを目ざし計算する自我とか、「真実」の、「理想的」の、「自律的」な自我、さらには「最善」の自我とかいったものとさまざまに同一化されてくる。

そしてこの支配する自我は、非合理的な衝動や制御できない欲望、わたくしの「低次」の本性、直接的な快楽の追求、と対置される。

この「経験的」あるいは「他律的」な自我は、激発するすべての欲望や情念にさらわれてしまうものであり、その「真実」の本性の高みにまで引き上げられるためには厳しい訓練を必要とするものである。

やがてこの二つの自我はさらに大きなギャップによってへだてられたものとして説明されることになる。

真の自我は個人的な自我(普通に理解される意味で)よりももっと広大なもの、個人がそれの一要素あるいは一局面であるようなひとつの社会的「全体」――種族、民族、教会、国家、また生者・死者およびいまだ生まれきたらざる者をも含む大き社会――として考えられる。

こうなるとその全体は、集団的ないし「有機体的」な唯一の意志を反抗するその「成員」に強いることによって、それ自身の、したがってまたその成員たちの、「より高い」レヴェルの自由にまで高めるために、あるひとびとによって加えられる強制を正当化するのに有機体的な暗喩を用いることの危険性は、これまでにもしばしば指摘されてきたことだ。

けれども、この種の議論にひじょうなもっともらしさを与えるゆえんのものは、ある目標(正義といい公共の健康という)の名においてひとを強制することが可能であり、時としては正当化もされるということをわれわれが認めているところにある。

その目標は、もしもかれらがさらに啓発されたならば、当然みずから進んで追求するはずの目標であり、現にいまかられが追求していないのは、かれらが盲目、無知で、堕落しているからなのだといわれる。

これによってわたくしは、他のひとびとをかれらのために、わたくしのではなくかれらの利益のために、強制していると容易に考えることができるようになる。

わたくしは、かれらが真の必要としているものをかれら以上によく知っていると主張しているわけだ。

せいぜいのところ、ここから引き出されてくるものは、かられが理性的で、わたくしと同じくらいに賢明であり、わたくしと同じようにかれらの利害を理解するならば、かれらは決してわたくしに反抗しはしないであろうということである。

しかしながら、さらにこれ以上の主張をするところまで進むこともできる。

かれらは、その無知状態にあってかれらが意識的には抵抗しているものを、実際には目ざしているのだ。なぜなら、かれらのうちにはひとつの隠れた実体――潜在的な理性的意志あるいは「真」の目的――があるからである。

そしてこの実体は、かられが公然と感じたり、したり、いったりしていることすべてによって裏切られているけれども、実はかられの「真実」の自我なのである。

時間・空間のなかにある貧弱な経験的自我はこの「真実」の自我についてはなにも、あるいはほとんど知ることはできない。この内面的な精神こそ、それの願望を斟酌するに値する唯一の自我であるというわけだ。

いったんこのような見地をとったならば、わたくしはひとびとなり社会なりの現実の願望を無視し、かられの「真実」の自我の名において、かられの「真実」の自我のために、かれらを嚇し、抑圧し、拷問にかけることができるようになる。

人間の真の目標がなんであれ(幸福、義務の遂行、知恵、正義の社会、自己完成)、それは人間の自由――たとえいまは底に潜んでいてはっきり見えないにしてもその「真」の自我の自由な選択――と同一でなければならぬことは確実なのであるから。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),2 「積極的」自由の概念,pp.26-29,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由,積極的自由の歪曲)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

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2019年11月23日土曜日

7.干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

積極的自由

【干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.1)追記。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。


 「自由という言葉の「積極的」な意味は、自分自身の主人公でありたいという個人の側の願望からくるものである。

わたくしは自分の生活やさまざまの決定をいかなる外的な力にでもなく、わたくし自身に依拠させたいと願う。わたくしは他人のではなく、自分自身の意志行為の道具でありたいと願う。

わたくしは客体ではなく、主体でありたいと願い、いわば外部からわたくしに働きかけてくる原因によってではなく、自分自身のものである理由によって、自覚的な目的によって動かされるものであることを願う。

わたくしはなにもの somebody かであろうとし、なにものでもないもの nobody ではありたくない。

決定されるのではなくて、みずから決定を下し、自分で方向を与える行為者でありたいと願いのであって、外的な自然あるいは他人によって、まるで自分がものや動物や奴隷――自分自身の目標や方策を考えてそれを実現するという人間としての役割を演ずることができない――であるかのように働きかけられることを欲しない。

少なくともこれが、わたくしが理性的であるといい、わたくしを世界の他のものから人間として区別するものはわたくしの理性であるというときに、意味していることがらである。

なかんずくわたくしは、自分が考え、意志し、行為する存在、自分の選択には責任をとり、それを自分の観念なり目的なりに関連づけて説明できる存在でありたいと願う。

わたくしはこのことが真実であると信ずる程度において自由であると感じ、それが真実でないと自覚させられる程度において隷従させられていると感じるのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),2 「積極的」自由の概念,pp.25-26,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年11月21日木曜日

6.干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性,(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

開かれている可能性の程度

【干渉や妨害から自由でも,開かれている可能性の程度は様々である.(a)可能性の種類,多様性,(b)可能性が意志と行為で変えられるか否か,(c)各個人にとっての実現の難易度,(d)価値・重要性,(e)社会にとっての価値・重要性。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1.3)追記。

(1)消極的自由
  消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
 (1.3)開かれている可能性の程度
  (a)可能性の種類、多様性
   どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)
  (b)可能性が意志と行為で変えられるか否か
   人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか。
  (c)各個人にとっての実現の難易度
   これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか。
  (d)各個人にとっての価値・重要度
   性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか。
  (e)社会にとっての価値・重要度
   行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。
 (1.4)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
  (a)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由は、すべての個人が持つ権利である。
  (b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならない。
 (1.5)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
   (a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができない。
  (b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
   自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念
  (c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
   (i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変化に富んだ豊かなものを生み出す。
   (ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。あるいはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
  (d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なことである。
   仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えても、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すことになる。

 「わたくしの自由の程度は次のような諸点によって定められると考えられる。

 (a)どれほど多くの可能性が自分に開かれているか(この可能性を数える方法は印象主義的な方法以上のものではありえないが。行動の可能性は、あますことなく枚挙することのできるリンゴのような個々の実在ではない。)、

 (b)これらの可能性のそれぞれを現実化することがどれほど容易であるか、困難であるか、

 (c)性格や環境を所与のものとするわたくしの人生設計において、これらの可能性が、相互に比較されたとき、どれほど重要な意義をもつか、

 (d)人間の行為によってこれらの可能性がどれほど閉じられたり、開かれたりするか、

 (e)行為者だけでなく、かれの生活している社会の一般感情が、そのさまざまな可能性にどのような価値をおくか。

 以上すべての諸点が「統合」されなければならぬ。したがって、その統合の過程から引き出されてくる結論は必然的に正確なもの、異論のないものではありえない。

おそらく数えきれないほどに多数の自由の段階があり、いかに頭をひねってもこれをひとつの尺度で測ることはできないであろう。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,p.24,註**,みすず書房(1966),生松敬三(訳))

(索引:可能性の程度,可能性の種類・多様性,可能性の意志依存性,実現の難易度,可能性の価値・重要性)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年11月20日水曜日

5.(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由の基礎づけ

【(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1.3)追加。
(1.4)追加。

(1)消極的自由
  消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
 (1.3)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
  (a)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由は、すべての個人が持つ権利である。
  (b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならない。
 (1.4)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
  (a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができない。
  (b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
   自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念
  (c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
   (i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変化に富んだ豊かなものを生み出す。
   (ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。あるいはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
  (d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なことである。
   仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えても、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すことになる。


 「われわれは絶対的に自由であることなどできぬ。

自由のうちのあるものを護るために他を放棄しなければならない。けれども、全面的な自己放棄は自滅である。

ではいったい、その最小限とはなんでなければならないか。それは、これを放棄すれば人間本性の本質にそむくことになるものである。

その本質とはなにか。それがもたらす規準とはなんであるか。これは果てしのない論争のたねであったし、おそらくいつまでもそうであるだろう。

しかし、干渉を蒙らない範囲を定めるところの原理がなんであれ、それが自然法の原理であれ自然権の原理であれ、あるいはまた功利の原理であれ定言命法の宣告であれ、社会契約の神聖であれ、その他ひとびとが自分の確信を明確化し正当化しようとしてきた概念であれ、この意味における自由は《から》の自由 liberty from のことである。

移動はするけれどもつねに認識はできる境界線をこえて干渉を受けないということだ。

「自由の名に値する唯一の自由は、われわれ自身の仕方でわれわれ自身の善を追求することである」と、もっとも有名な自由主義のチャンピョンはいっている。

もしそうであるならば、はたして強制は正当化されるであろうか。ミルはそれが正当化されることになんの疑問も抱かなかった。

すべての個人が最小限の自由をもつ権利があるとは正義の要求するところであるから、だれかからその自由を奪いとることは必然的に他のすべての個人に禁じられなければならない、必要があれば力をもってしても禁じられなければならないというのである。

実際、法律の全機能はまさにそのような衝突を防止することにあった。国家は、ラッサールが侮蔑的に名づけた夜警あるいは交通巡査の機能にまで縮小されてしまったのだ。

 個人の自由の保護ということをミルにとってかくも神聖なものたらしめたものは、なんであったか。

かの有名なエッセイでかれはこう述べている――そもそも人間が「ただ自分だけに関わりのある道を通って」欲するがままの生き方ができるのでなければ、文明は進歩することができない。

観念〔思想〕の自由市場がなければ、真理はあらわれてはこないだろう。そして自発性、独創性、天才の、精神的エネルギーの、道徳的勇気の、はけ口がなくなってしまうだろう。

社会は「集団的凡庸」 collective mediocrity の重みのためにおしつぶされてしまうであろう。変化に富んだ豊かなものはすべて、慣習の重圧、画一性への不断の傾向性によってうちくだかれてしまい、慣習や画一性は「衰弱した凡才」、「痩せこけて偏屈な」、「締めつけられゆがめられた」人間しか産み出さないであろう。

「異教的な自己主張は、キリスト教的自己否定と同じく価値のあるものだ」。

「忠告とか警告とかにさからってひとが犯しがちなあらゆる過ちは、他人が善しと考えたものに自分を束縛することを容認する悪よりは、はるかにまさっている」。

自由の擁護とは、干渉を防ぐという「消極的」な目標に存する。

自分で目的を選択する余地のない生活を甘受しないからといって迫害をもってひとを脅かすこと、そのひとのまえの他のすべての扉を閉ざしてしまってただひとつの扉だけを開けておくこと、それは、その開いている扉のさし示す前途がいかに立派なものであり、またそのようにしつらえたひとびとの動機がいかに親切なものであったにしても、かれが人間である、自分自身で生きるべき生活をもった存在であるという真実に対して罪を犯すことである。

このような自由が、エラスムス(オッカムというひともあるかもしれない)の時代から今日にいたる近代世界において自由主義者たちの考えてきた自由なのだ。

市民的自由とか個人の権利のためのあらゆる抗弁、搾取や屈辱に対する、公的権威の侵害に対する、あるいはまた慣習ないし組織的な宣伝による大量催眠に対するすべての抗議は、みなこの議論の多い個人主義的な人間観から発したものなのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.17-19,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:消極的自由,個人の自発性,独創性,道徳的勇気,目標の選択)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年11月19日火曜日

4.消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由

【消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)消極的自由
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。


 「自由という言葉(わたしは freedom も liberty も同じ意味で用いる)の政治的な意味の第一は――わたくしはこれを「消極的」negative な意味と名づけるのだが――、次のような問いに対する答えのなかに含まれているものである。

その問いとはつまり、「主体――一個人あるいは個人の集団――が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか」。

第二の意味――これをわたくしは「積極的」positive な意味と名づける――は、次のような問い、つまり「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。

この二つの問いは、それへの解答は重複することがあるにしても、それぞれ明らかに区別されるちがった問いなのである。

 「消極的」自由の観念

 ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だといわれる。

この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。

もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができる。

しかしながら、強制とは、することのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。

強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。

あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。

このことは、「経済的自由」とか、その反対の「経済的隷従」とかいう最近の用語法からも引き出せる。

もしあるひとがたいへん貧乏であって、法律的になんら禁じられていないもの――たとえば一塊のパンとか世界旅行とか法廷への依頼とか――を手に入れたり、やったりできないときには、そのひとはそれがかれに法律によって禁じられているときと同じように、それを手に入れたりやったりする自由がないのだ、とまことにもっともらしく主張されている。

もしもわたくしの貧乏が一種の病気のようなもので、これによってわたくしが、ちょうど跛で走れないというのと同じく、パンを買ったり世界旅行の費用を支払ったり、あるいは訴訟を審理させたりすることができないというのであるならば、このできない状態は決して自由の欠如と呼ばれない、ましてや政治的自由の欠如とは呼ばれないのはもちろんのことであろう。

自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ、自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられるからなのである。

いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。

手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているという(たんに貧乏のことをいうのではなくて)のは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。

さらにいえば、自分が不正ないし不公平と考えている特定の社会のしくみによって窮乏状態におかれているのだと信ずる場合に、この経済的隷従とか抑圧とかが口にされるわけである。

「事物の自然はわれわれを怒らせたり狂乱させはしない。ただ悪意のみがそうさせるのだ」と、ルソーはいっている。

抑圧であるかどうかの規準は、わたくしの願望をうちくだくのに直接・間接に他の人間によって演じられると考えられるその役割にある。

この意味において自由であるとは、他人によって干渉されないということだ。

 干渉を受けない範囲が広くなるにつれて、わたくしの自由も拡大されるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.9-12,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由,消極的自由,故意の干渉や妨害,放任,物理的制約,身体的制約,病気や障害)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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