2021年12月1日水曜日

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))

寛容の限度

寛容は無制限ではありえない。不寛容な少数派が、言論や出版で自らの思想を論ずるのは自由である。しかし仮に、民主制を否定するような政党が、たとえ民主的な方法であっても、多数派を占めるような状況になれば、我々は寛容である必要はない。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)不寛容な少数派が、合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである。
(b)ただし、寛容は相互性を基盤としてのみ存在し得ることを知らしめること。
(c)民主制の廃絶は、勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるので、民主制の廃絶を訴える政党が、仮に民主的手段によって多数派になるようなことがあれば、われわれは寛容である必要 はない。


 「なるほど、寛容の偉大な擁護者たちのうちの誰も――ロッテルダムのエラスムスも、ジョ ン・ロックも、ジョン・スチュアート・ミルも――こうしたとりわけ不愉快な状況の可能性を見 越してはいなかった。しかしながら、私に言わせれば、ロックとミル、そして彼らに連なる 人々の幾人かは寛容と民主性についての理論を展開して、「この新たな状況下で何がなされね ばならないか?」という問いに最適の答えを与えるまでに至っていた。というのも、彼らには 寛容が無制限ではありえないということがはっきり見えていたからである。  われわれの状況に適用するなら、その答えは――ごく実際的な言葉づかいで言って――こういう ものである。すなわち、「これら不寛容な少数派が合理的な提案として彼らの理論を論じたり 出版したりする限り、われわれは自由にそうさせておくべきである」。ただし、われわれは彼 らの注意を次の事実へと、すなわち、寛容は相互性を基盤としてのみ存在しうるのであり、そ して、当の少数派が暴力的に行動し始めるときには、そうした少数派を寛容に遇すべきである というわれわれの義務は終わるという事実へと、引きつけておかなければならない。そこで問 題となるのは、「どこで合理的な議論が終わり、暴力行動が始まるのか?」ということであ る。このことを決定することは容易ではないだろう――というのも、こういう終わりや始まりと は、暴力への煽動や民主的体制の転覆のための陰謀といったような行動から始まるものだから である。もちろん、煽動も陰謀も、比較的許容できる行動形態と容易に区別されうるものでは ない。このことは、しかしながら、そうした行動が法と関わる状況のほとんどに当てはまる。 たとえば、故殺と謀殺、あるいはまた、無能力と手抜きとを区別することはおそらく非常に困 難だろう。  道徳的及び理論的立場は、私に言わせれば、原理的にはつねに明白であった。にもかかわら ず、人々の多くは寛容に対してあまりに深く愛着を感じているために、その違いを見ようとは しない。たとえば、民主的な意味での政党――はずみで過半数を得るにせよ、民主制のルールに 制約されている政党――と、それとは反対に――おそらく部分的には公然と、またはまったく秘密 裏に――民主性を廃する陰謀をめぐらしている政党との間には違いがある。後者のような政党が このことをある程度民主的手段によって行なおうがそうでなかろうが、そのことはさほど問題 ではない。いずれにせよ民主制の廃絶は勝手気儘な行動へ、そして暴力へとつながるのであ る。そうした政党に対してわれわれは、仮にその政党が過半数を得てしまったとしても、屈服 してはならない。  そうした政党が寛容に遇されることを要求する権利をもつかどうかという問題に対しては、 民主制及び寛容についての理論がはっきりとした答えを与えているように思う。答えは「否」 である。不寛容ということがまだ危惧であるにすぎないとしても、われわれは寛容である必要 はない。また、その危惧が深刻化している場合には、断じて寛容であってはならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第12章 寛容について ――1981年,pp.252-253,ミネルヴァ書房(2014),松枝啓至(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏 郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)








 





個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会と国家

個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態が開かれた社会である。国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。全ての権力は誤用の危険を伴い、腐敗する傾向があるため、抑制と均衡のシステムである民主主義が必要となる。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)開かれた社会(目的)
 個々人の解放は、それ自体価値あるものであり、それを実現する社会形態である。自由や寛容や正義、市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような諸価値に支えられている。

(2)民主的統治形態(目的のための手段)
 (a)国家は、個人の自由と、人々の自由な社会生活のために存在する。
 (b)開かれた社会を、内的あるいは外的な侵害から守るためには、強力な国家、強力な政 府の保護を必要とする。
 (c)国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつもその誤用の危険がある。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。
 (d)必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りである。それは、抑制と均衡のシ ステムであり、「民主主 義」とも呼ばれる。

「この時点で、私は、《社会と国家の区別》を、そしてとくに、開かれた社会と、《民主国 家、すなわち民主的統治形態》との区別をはっきりとさせておきたい。  開かれた社会ということで、私は、ある形態の社会生活と、次のような諸価値を意味してい る。すなわち、自由や寛容や正義や市民による知識の自由な追求、知識を広める権利、そして 価値や信念の市民による自由な選択、市民による幸福の追求のような、伝統的にそうした社会 生活において大切にされている価値である。  他方、民主国家ということで、私は一組の制度を意味している。それは、憲法や市民法や刑 法、立法機関と執行機関のようなもの、そして、政府や政府が選ばれる規則のようなもの、そ して法廷、市民サービス、公衆衛生や防衛等々の機関などである。  社会と国家との間に私が設けている区別、あるいは、開かれた社会及びその伝統と、民主国 家(つまり「民主政体」)とその制度との間に私が設けている区別が、それほど鮮明なもので はないことは明らかである。そしてこのことが、おそらく、〔この区別を〕把握するのがそれ ほど容易ではない理由であろう。だが、この区別は、われわれ全員にとって、大変有益なもの であるし、重要なものである。その理由は、人間の自由、及び自由な個人からなる自由な社 会、そしてまた、個々人の解放は、すべてそれ自体価値あるものだと考えられているからであ る。おそらく、究極的な価値としてではないにせよ、とにかく、それ自体価値あるものと考え られているからである。しかし、民主国家――つまり、その憲法、統治制度、選挙制度など―― は、《目的への手段》として考えられるべきだと、私は考える。つまり、それらは、大変重要 な目的への大変重要な手段である。しかしそれでも、やはりそれらのいずれも、それ自体が目 的なのではない。  私は、ここで、次のようなテーゼを提案したい。それは、自由で開かれた社会という考え は、《国家というものが、人間個人のため――その自由な市民と、人々の自由な社会生活のため ――に存在すべきだ》という要求を含んでいるというテーゼである。つまり、国家は、自由な社 会のためにあるのであり、その逆ではないという要求を含んでいるのである。このことが含意 している要求は、国家の機能は、その市民の自由な社会に奉仕し、それを保護することだとわ れわれは定めるべきだという要求である。この機能は最も重要な機能である。そして、自由な 社会においては、国家が、いささかでも危険につながる仕方で、この機能の制限を超えていくことは決して許されてはならないのである。  自由な社会の成員と自由な国家の市民は、もちろん、その国家に忠実であるべき義務をもっ ている。なぜなら、国家の存在は、社会の存続にとって不可欠だからである。そして、市民は 必要が生じたときに、国家に奉仕するだろう。とはいえ、この忠誠心に、ある程度の警戒心 を、そしてときには、国家とその官吏についてのある程度の不信を結び付けることも、市民の 義務である。その国家が、その合法的な役割の限界を超えないことを、監視し、調べることも 彼の義務である。というのも、国家の諸制度は、強力であり、権力があるところには、いつも その誤用の危険――自由にとっての危険――があるからである。すべての権力は、拡大する傾向が あり、腐敗する傾向がある。そして、結局のところ――市民の側におけるほとんど嫉妬にも近い 用心深さの伝統を含んだ――《自由な社会の伝統》だけが、すべての自由がそれに依存している ところの、市民の点検と制御を提供することによって、国家権力の均衡をとることができるの である。  自由で開かれた社会という考えが、最も難しい政治問題を必然的に生み出すことを理解する ことは、大変に重要かつ必要なことだと私は思う。というのも、もし開かれた社会を、内的あ るいは外的な侵害に屈しないようにしたいなら、相当に強力な国家、あるいは相当に強力な政 府の保護を必要とするからである。他方、開かれた社会は、もしもその国家権力が、あまりに も強くなるならば、屈してしまうだろう。もしも国家権力があまりにも大きなものになれば、 そのとき、チャーチルがかつて言ったように、「われわれの公僕は、われわれの反公民的御主 人様になるだろう」。しかし、開かれた社会は、主人を受け入れてはならない。とくに、その 権力と権威の地歩を固めようとしがちなすべての主人を受け入れてはならない。  こうしてわれわれは、開かれた社会が、政治的には、いつも、そして必然的に、きわめて不 安定な地位にあることが分かる。というのも、それは、強力ではあるが、強力すぎない政府を 必要とするからである。それは、本来的に不安定な一種の政治的な均衡状態を必要としてい る。ほとんどの社会が、この扱いにくい問題の解決を果たさなかったことは、驚くべきことで はない。必要とされているものは、ある種の政治的な綱渡りであり、そして、その芸当をやっ てのけるように設計された政治的制度のシステムは、だから、かなり適切に《抑制と均衡のシ ステム》として描かれるのはかなり適切なのであり、そしてそのシステムがまた、「民主主 義」とも呼ばれるのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と 民主国家――1963年,pp.199-200,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監 訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)







2021年11月30日火曜日

悪に対する闘いは公的な事柄であり、緊急度の高いときは、積極的善の犠牲が必要な場合もある。これに対して、希望や夢、美的理想や宗教的理想などの価値は、私的価値であり、公的な介入はそれらを堕落させ破壊してしまう。(カール・ポパー(1902-1994))

悪に対する闘い

悪に対する闘いは公的な事柄であり、緊急度の高いときは、積極的善の犠牲が必要な場合もある。これに対して、希望や夢、美的理想や宗教的理想などの価値は、私的価値であり、公的な介入はそれらを堕落させ破壊してしまう。(カール・ポパー(1902-1994))



 「最も大きく最も具体的な悪と闘うことが最も緊急度の高い義務であり、より小さい悪に進 むにつれて緊急度は減少し、積極的善に進んだとき確実に緊急度は減少すると私は考える。最 高善が(「存在する」という言葉の何らかの興味のもてる意味において)存在するのか否か、 私は知らない。しかし存在するのなら、その実現は、私の観点からは、この世で最も緊急度が 低いだろう。私にとって、最高善は、他の比べれば、むしろ贅沢品という特徴を帯びていると いえる。そして、とりわけ、最大善の実現は大きな犠牲に値する、つまり大きな悪を我慢する に値するという考え方は、端的に有害だと思える。緊急度の高い具体的悪と闘うために必要と あらば、われわれは犠牲を、とくに積極的善を犠牲にするよう要求できる。しかし、遠くにあ る善のために、犠牲を要求したり、具体的な悪を我慢したりするという、代償を払うべきでは ない。  善の理論と呼べるものと、倫理学に関する私自身の見方を大雑把に比較すること以上に、こ のことについて話し続けられることはないと思う。そこで、この善の理論と私の見方の間の論 争とはまったく独立に私の提案を判断して頂くようお願いする。ただ、明らかにしておきたい が、私は積極的価値を重要でないと見なしているのではない。それどころか、希望や夢、美的 理想や宗教的理想以上に重要なものは、人生にまず存在しないのである。私の主張は、これら価値の世界は私的な世界、親しい友人と共有する世界であり、これらの価値を公的な世界に 強制しようとするなら、それらを堕落させ破壊してしまうのだというものである。積極的価値 は私的価値なのである。悪に対する闘いは公的な事柄である。もしある人が通りで転んで足を 骨折したら、その人を助けることは、疑いもなく、そこに居合わせた人すべての義務なのであ る。しかし、隣にいる人がビールを楽しめるよう保障してやることは私の義務ではないし、 ビールよりよいものがあると説得することも私の義務ではない。もちろん、その隣の人がとて も親しい友人だとすれば、まったく違ってくるかもしれないが。  積極的価値に結び付いた公共政策の唯一の責務は、われわれの選択の自由を見守ること、つ まり誰でも自分の意見を胸にしまい込むことを強制しないようにすることだと思われる。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第3部「開かれた社会」について,第5章 公 的価値と私的価値――1946年?,II,pp.134-135,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳),神 野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]




カール・ポパー
(1902-1994)







次の詭弁に注意せよ。利他主義へ向う道徳的衝動を使って個人主義を攻撃し、集団主義へとねじ曲げ、自らの集団利己主義的な目的のために個人を犠牲にする。真実は、個人主義に基づく共感と責任が、自集団を超える利他主義へと導く。(カール・ポパー(1902-1994))

個人主義的利他主義

次の詭弁に注意せよ。利他主義へ向う道徳的衝動を使って個人主義を攻撃し、集団主義へとねじ曲げ、自らの集団利己主義的な目的のために個人を犠牲にする。真実は、個人主義に基づく共感と責任が、自集団を超える利他主義へと導く。(カール・ポパー(1902-1994))


(i)個人主義、集団主義、利己主義、利他主義
 (a)個人主義  (a')集団主義
 (b)利己主義  (b')利他主義
(a)人間の人格は永遠の価値を持ち、目的そのものである。(個人主義)
(a')個人はつねに、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならない。(集団主義)
(b)自己や自集団の利益を最優先に考える。(利己主義)
(b')他者や他集団の利益を考える。(利他主義)

(ii)集団主義的利己主義の詭弁
 自己の利益を最優先にすること(利己主義)への道徳的な反発感情を使って、個人の人格に最高の価値を認める考え(個人主義)を攻撃し、個人は集団のためにあるという考え(集団主義)にすり替え、自集団のみの利益のために個人を犠牲にする。(集団主義的利己主義)
(iii)真実は個人主義的利他主義にある
 真実は、個人の人格に最高の価値を認める(個人主義)が故に、他者の喜びや悲しみに関心を持ち(利他主義)、政治や社会への関心は、他者に対する共感と責任感を基礎とする。


 「さて、4つの用語(a)、(a')、(b)、(b')は、ある態度・要求・道徳的決定・道徳律を記 述する。これらの用語は事例を挙げれば容易に説明できる。集団主義から始めよう。集団主義 が最もよく例示されるのは、個人はつねに集団全体や共同体、たとえば、都市・国家・部族・ あるいは他の集合体の利益に役立たねばならないというプラトンの要求である。「部分は全体 のために存在するが、全体は部分のためには存在しない......。あなた自身も全体のために創られ たのであり、あなたのために全体が創られたのではない」とプラトンは書いている。この引用 は、集団主義の例示というだけでなく、感情に強く訴えるものももっている。それは、たとえ ば、集団や部族への帰属願望といった様々な感情に訴えるのである。そして、このように訴え る要因の一つは、疑いもなく、利己主義や自分本位(b)に反対するという道徳的に訴える力で ある。プラトンが示唆し、後の集団主義者すべてがプラトンに従った点は、もし全体のために 自己利益を犠牲にできないのなら、その人は自己本位な人物であり、道徳的に堕落していると いうことである。  しかしながら、上述の小さな表を少し眺めれば分かるように、そうではないのである。集団 主義は利己主義と対立しないし、利他主義や自分本位でないことと同一でもないのである。集 団主義者は集団利己主義者でありうる。集団主義者は、他のすべての集団と対立して、自分自 身の集団の利益を自己本位に守るかもしれない。集合的利己主義ないし集団利己主義(たとえ ば、国家利己主義や階級利己主義)は非常にありふれたものだ。そのようなものの存在によっ て、集団主義が自分本位と対立しないことが申し分なく明確に示される。  他方、個人主義者たる反集団主義者は、同時に利他主義者でありうる。つまり他の個人を助 けるために進んで犠牲になれるのである。人は他人すなわち他の個人に、その人たちの喜びや 悲しみに、そしてその希望と涙に関心をもちうるのである。このように他の個人に直接関心を もつことは、共同体や集団への関心を必要としない。個人主義者だということが意味するの は、すべての人間個人のうちに見い出すのが、たとえば国家の利益といった、さらに別の利益 にとっての単なる手段でなく、目的そのものだということである。《個人主義者だということ は、自分自身の個人性を取り立てて深刻に考えることを意味しないし》、他人の利益より自分 自身の利益をより(あるいは同程度にですら)強調することも意味しないのである。  さて、われわれの小さな表をもう一度見ると、4つの立場の組み合わせのうち、2つが不可能 だと分かる。つまり、(a)と(a')の組み合わせと、(b)と(b')の組み合わせである。この組み 合わせが不可能なのは、個人主義を反集団主義として、集団主義を反個人主義として定義した からだ。そして、同じように、利己主義を自分本位として、利他主義を非自分本位として定義 できるだろう。《しかし、他の組み合わせはすべて成り立つのでる》。  つまり、(a)と(b)を結び付けて利己主義的な個人主義が作れ、あるいは、(a)と(b')を結 び付けて利他主義的な個人主義を作れるのである。そして、同じようにして、(a')と(b)を結 び付けて利己主義的な集団主義を作れ、さらに、(a')と(b')を結び付けて利己主義的な集団 主義を作れるのである。  ここに4つの立場があり、その一つを選ばねばならない、このことを理解するのが非常に重 要である。プラトン、そしてほとんどの集団主義者たちはプラトンと同じく、つねにこの事実 を曖昧なままにしておこうとした。つまり、個人主義と集団主義という二つの可能性しか存在 しないかのように語ったのである。しかも、(a)かつ(b')という立場を無視し、集団主義を唯 一の利他主義的態度、したがって唯一の道徳的態度だとして褒めたたえ、個人主義を利己主義 とつねに同一視したのである。しかし、集団主義について語るとき集団主義者たちが念頭にし ているのは、利他主義的集団主義(つまり、自分自身の共同体ではない他の共同体の権利の承 認)ではなく、利己主義的集団主義、つまり、自分たち自身の共同体の重視であった。このよ うにして、利他主義へ向う道徳的衝動は、集団主義へと向かう衝動へとねじ曲げられたのであ る。集団主義者はわれわれのもつ道徳的利他主義に訴えるのだが、それを自らの集団利己主義 的な目的のために使ったのである(そして同じことが、ファシストと共産主義者によってなさ れた)。  これまで話したことから明らかであろうが、私は個人的にはこれら4つの可能性のうち、(a) かつ(b')、つまり個人主義と利他主義の組合せを採用すべきだと、つまり、利他主義的個人主 義を採用すべきだと信じている。実際のところ、ソクラテスの時代よりこの方、この利他主義 的個人主義は多くの人の信条であった。思うに、これはまたキリスト教徒の態度でもあり、こ こで、キリスト教がもつ個人主義を例証する一節を、マーリン・デイヴィス卿の講演から引用 してもよかろう。マーリン・デイヴィス師はこう書いている。「まず第一に、神によって創られ、キリストによって贖われたのだから、人間の人格は永遠の価値をもつものだという確信を もって、キリスト教徒は政治に携わらなければならない」と。  このことが意味するのは、政治や社会へのわれわれの関心が、人間個々人に対するわれわれ の関心に、彼らを助けようと案じることに、そして彼らに対するわれわれの責任に、完全に基 づいていることである。これは、明確な個人主義――もちろん利他主義的個人主義――である。こ れは、(プラトンが、ファシストと同じく要求したように)《国家のために個人が存在すべ き》というのではなく、《国家は個人のために存在すべき》という要求につながるのであ る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第2部 ニュージーランドでの講義,第4章 道 徳的な人間と不道徳な社会――1940年,pp.118-120,ミネルヴァ書房(2014),吉川泰生(訳), 神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))

カール・ポパー社会と政治 「開かれた社会」以後 [ カルル・ライムント・ポッパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)







2021年11月28日日曜日

生命の秘密は、生命が利用している論理と情報の諸規則の中にある。生命は、情報を通した反応操作を使うことで「自然な」化学と熱力学の規制から抜け出し、自律性のある「不自然な」 反応を強行する。遺伝子コードを使ったソフトウェアによる操作を導入することによって、これを実現している。(ポール・デイヴィス(1946-))

 

論理と情報の諸規則

生命の秘密は、生命が利用している論理と情報の諸規則の中にある。生命は、情報を通した反応操作を使うことで「自然な」化学と熱力学の規制から抜け出し、自律性のある「不自然な」 反応を強行する。遺伝子コードを使ったソフトウェアによる操作を導入することによって、これを実現している。(ポール・デイヴィス(1946-))


「もちろん生物といっても、物理と化学の法則には従わなければならない。しかし、それらの諸法 則は生物学にとっては付随的なものでしかなく、法則の主な役割は、適切な論理的かつ情報的な体 系が形成されるその場を規定することにある。

 普通の化学反応と普通の熱力学で間に合う場合、生命は進んでそれを受け入れる。 しかし、化学 として「不自然な」ことでも、生命はその抜け道を見つける。 生命は必要な触媒を編み出して異例 の反応を強行し、エネルギーを付加された適切な分子をつくって、ときには化学を複雑に重ね合わ せ、熱力学の勾配に逆らって進む。

 そこで、生命の発生へと向かう道の主要な一歩は、分子がただ受動的に普通の化学の道に従って いた状態から、自分自身の通り道を自分でつくるようになった、という変容であろう。その巨大 な一歩は、遺伝子の暗号を使ったソフトウェアによる操作を導入することによって、この相反する 「自然な」反応と「不自然な」 反応の二つを結び合わせることを可能にしたのである。生命は、情 報を通した反応操作を使うことで、化学の規制から抜け出すことができ、ぎこちない原子の相互反 応を脱して、自律の能力をもつ新しい世界に舞い上がることが可能になったのである。

 この肝心なところを理解すると、生物起源の真の問題が明らかになる。 分子生物学が急速に進展して以来、研究者たちは生命の秘密について物理学と分子化学の方面に目を向けてきた。しかし、 うまく行かなかった。その理由は、彼らが従来の物理学と化学で、 生命を説明しようとしたからで ある。

 それは媒体と伝言を取り違える古典的な例だったということができる。生命の秘密は、その化 学的な基盤にあるのではなく、生命が利用している論理と情報の諸規則のなかに求めなければなら ない。生命は、化学の命令を「回避」することによって成功しているのである。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『5番目の奇跡』(日本語書籍名『生命の起源』),第10章 宇宙は生命を育むか,pp.374-375,明石書店,2014,木山英明)


生命の起源 地球と宇宙をめぐる最大の謎に迫る [ ポール・C.W.デーヴィス ]





2021年11月27日土曜日

いずれどんな実験も我々を先導できなくなると、よく言われるが、これは間違っている。素粒子の質量は、なぜその数値なのか。それは説明されるはずのものではないのか。多くの実験事実はすでに集められており、それらに対して納得のいく理論を作るだけの想像 力が欠けている。(リチャード・ファインマン(1918-1988))

質量の由来

いずれどんな実験も我々を先導できなくなると、よく言われるが、これは間違っている。素粒子の質量は、なぜその数値なのか。それは説明されるはずのものではないのか。多くの実験事実はすでに集められており、それらに対して納得のいく理論を作るだけの想像 力が欠けている。(リチャード・ファインマン(1918-1988))







「ついには、どんな実験もわれわれを先導できないというけれども、それは正しくない。 二十四かそこ いらの、正確な数値は知らないが、神秘の数値が質量に付随している。なぜミュー粒子の質量は電子の 正確に二〇六倍なのか、その数値は何でもいいが、なぜクォークなどさまざまな粒子の質量がそういっ た値をもつのか? これらの数値あるいはそれに類したものは、二ダースちょっとあるが、ストリング 理論ではその理由が説明されていない。まったく説明されない。現時点では私の聞く限りどんな数学的 構造によっても、これらの質量がなぜその値をとるのかについての鍵を与える一つの着想もない。

 つまり、多くの実験事実はすでに集められており、それらに対して納得のいく理論を作るだけの想像 力が欠けているのです。そこから私たちは研究を始めるべきなのだ。それが真の問題をかかえる場所で あり、実験的数値をチェックできるところなのだ。そのデーターを使えばどんな理論もたやすく排除で きる。現在までにはよい理論は一つもなかった。この数値を見る限り、それはまったくでたらめで無茶 苦茶だ。そこに何か一定の様式があるようには見えない。それが理論物理学の問題で、 ストリング理論 はそれに対して手も足も出ない。」

(ポール・デイヴィス(1946-),ジュリアン・ブラウン(編集),『スーパーストリング』,9  リチャード・ファインマン(1918-1988),p.241,紀伊國屋書店,1990,出口修至)




ストリング理論の美しさは、それが量子重力の局所的因果的理論であるという点にある。すなわち、ストリングは、有限な大きさにもかかわらず、相互作用は、ストリング全体ではなく、点でのみ起こり(局所性)、空間的に離れた事象は互いに影響しない(因果性)。 (アブダス・サラム(1926-1996))

量子重力の局所的因果的理論

ストリング理論の美しさは、それが量子重力の局所的因果的理論であるという点にある。すなわち、ストリングは、有限な大きさにもかかわらず、相互作用は、ストリング全体ではなく、点でのみ起こり(局所性)、空間的に離れた事象は互いに影響しない(因果性)。 (アブダス・サラム(1926-1996))







「サラム

 点状の粒子を有限な大きさをもつもので置きかえるのです。つまりおよそ10 -33センチの有限の大 きさを持つストリングを考える。

 ストリングの理論はボーアの好んだ10 -33センチの有限な基本的長さを提供するのです。これが有限な長 さであるにもかかわらず、理論はそれでも局所的なのです。これは信じられないことです。

———

どういう意味で局所的なのですか?

サラム 

因果律が保たれているという意味で局所的なのです。 空間的に離れたところにある事象は互い に影響しないのです。

ストリング理論の美しさは、広がったものを扱っているにもかかわらず、ストリングの相互作用は点でのみ起こる。 ストリング全体で起こるわけではないのです。 ストリングはその広がりの一点でだけ 分離したりくっついたりするし、ストリングが接触すると一点で接触するのです。 これがその局所性の 秘密なのです。

———

つまり、ストリングは単に物質粒子のモデルであるというだけでなく、これら粒子が互いに作用し合う その仕方に関するモデルでもあると考えるべきなのですね。

サラム 

そうです。この観点から見れば、ストリングが物理学のすべてを説明するかどうかは二次的問 題だといえる。 ストリングは十年以上にわたり研究されている。しかしその熱狂的推進者たちですら理 論のこの独特な長所、つまりそれが量子重力の局所的因果的理論であるという点を強調すらしない。」

(ポール・デイヴィス(1946-),ジュリアン・ブラウン(編集),『スーパーストリング』,7  アブダス・サラム(1926-1996),p.210,紀伊國屋書店,1990,出口修至)



もちろん、理論の正しさは様々な計算の結果と実験との比較による一致である。しかし、ストリング理論の不満は、その概念上の枠組が正しくつかまれていないように思われることだ。一般相対論が、幾つかの諸原理から不可避的に湧出するように、基礎的な概念上の枠組みから自然に理解される時、それが達成されると思う。(エドワード・ウィッテン(1951-))

 概念上の枠組みの理解

もちろん、理論の正しさは様々な計算の結果と実験との比較による一致である。しかし、ストリング理論の不満は、その概念上の枠組が正しくつかまれていないように思われることだ。一般相対論が、幾つかの諸原理から不可避的に湧出するように、基礎的な概念上の枠組みから自然に理解される時、それが達成されると思う。(エドワード・ウィッテン(1951-))








「現在の理論がかかえる主要な問題は何であると思いますか? 

ウィテン 

私が物理学者となった目的は、物事がいかに秩序だっているかを学びたかったのですが、さ らに世界がいかに働いているか、その原理を理解したかったからでもあります。 以前に述べたように物 理学の本質は概念を発見することなのです。 現在ストリングの理論を不満足なものにしている主要な原 因は、多くの著しい特徴があり多くの素晴らしい発見がなされてきたにもかかわらず、その概念上の枠 組が正しくつかまれていないことです。それは一般相対論の幾何学についても同様なことがいえます。 私たちが最も発展できそうに見えるのは、ストリングの理論が基づく論理的枠組を明らかにすることで す。その問題は、何年もの間、解かれないままになっています。

 一般相対論は、それが基づく原理から不可避的に湧出するものです。 重力の理論を幾何学に基づいて 作り上げることを認め、かつ、特殊相対論を理解し、いくつかの一般原理を物理学の用語を用いて図式 的に表現すると(たとえばアインシュタインの名高いエレベーター実験など)、その概念をつかむやい なや数式が導かれる。 数式はこれらの概念を完全に具体化したものです。それを改良するのは難しい。 私たちの期待するものはストリング理論の中にあります。私たちが何にもまして見つけようとしてい るものは、そのような概念上の枠組であって、それがあってこそストリングの理論は、相対性理論と同 じような自然さを備えるでありましょう。 世界が基づくべき概念を発見することが、物理学者となった 目的であるからこそ、ともかくこれを見つけたいのです。また、ストリング理論が何であるかを正しく理解することは、私たちがやってみたい計算をするには必須であるからこそ、正しい概念上の枠組を見 つけたいのです。ストリング理論を使って、素粒子の質量や作用常数、寿命、相互作用、あらゆる種類 の過程の起こる確率などを計算したい。そのような計算をし、実験と比較することによってのみ、理論 が正しいかどうかを知ることができるのです。

 しかし、理論は大まかにしか理解されておらず、その基礎が正しく理解されていないかもしれず、そ うだとすると、これらの計算を行なうことは難しい。論理的枠組を理解することは、知的にもおそらく 実際的にも十分見合うことだと思っています。 もし願いがかなうならば、物理学のこの問題こそ私が何 らかの進歩をさせたいと思っているものです。」

(ポール・デイヴィス(1946-),ジュリアン・ブラウン(編集),『スーパーストリング』,3 エドワード・ウィッテン(1951-),pp.120-121,紀伊國屋書店,1990,出口修至)




DNA上の塩基の配列(4種類の文字の3つ組)で表現されたアミノ酸の情報と、20種類のアミノ酸の形態(20種類の文字)の両方を知っているアミノアシルtRNA合成酵素の働きで、DNA上の情報を翻訳してたんぱく質の合成が可能となっている。(ポール・デイヴィス(1946-))

情報を情報足らしめる翻訳者の例

DNA上の塩基の配列(4種類の文字の3つ組)で表現されたアミノ酸の情報と、20種類のアミノ酸の形態(20種類の文字)の両方を知っているアミノアシルtRNA合成酵素の働きで、DNA上の情報を翻訳してたんぱく質の合成が可能となっている。(ポール・デイヴィス(1946-))


(a)たんぱく質⇔アミノ酸
たんぱく質:数百個のアミノ酸が鎖のようにつながってできている。
アミノ酸:数多くの種類があるが、我々の知っている生命はそのうちの20種類(場合によっては21種類) しか使っていない。

(b)DNA⇔塩基
塩基:A、C、G、T(アデニン、シトシン、グアニン、チミン)

(c)塩基でたんぱく質を表現する
コドン
 連続した三個の塩基をひとまとまりで使う。四つの文字の三つ組(ACT、CGAな ど)は64通り考えられる(これをコドンという)。アミノ酸の20種類よりも多いので、ある程度重複 していて、多くのアミノ酸が二通り以上のコドンに対応している。また何種類かのコドンは、句読点 (たとえば「終止コドン」)に使われている。

アミノ酸20種類⇔コドン
たんぱく質⇔コドンの配列

(d)たんぱく質の合成
(i)DNA→mRNA
  (コドン)
 まず対応するコドンの列を、DNAから、そ れに似たmRNA (メッセンジャーRNA)という分子に転写する。

(ii)mRNA→リボソーム→たんぱく質
 (コドン)   (アミノ酸)
 次に、たんぱく質を組み立てるり リボソームという小さな機械が、 mRNAからコドンの列を読み出し、アミノ酸を一個一個化学的に連結させていってタンパク質を合成する。

(iii)tRNA +アミノ酸
(アミノアシルtRNA合成酵素20種類)
   →tRNA +対応するアミノ酸
このたんぱく質の形状は、tRNAとそれに相当するアミノ酸の両方を知っている。
(iv)tRNAには、コードしているコ ドンに合致するアミノ酸がぶら下がっていて、いままさに延びつつあるアミノ酸の鎖につなぎ合わされ るのを待ち構えている。 リボソームがその鎖を完成させたとき、できあがったたんぱく質は正しく機能 するようになる。

「2 生命の基本的からくり
上のすべての生命にとっての基本情報が、普遍的な遺伝コードである。たんぱく質を作るのに必要な情報は、A、C、G、Tという「文字」からなる特定の列として、DNAのセグメントの中に保存 ている。これらの文字はそれぞれアデニン、シトシン、グアニン、チミンを表していて、まとめて 塩基と呼ばれており、DNA分子の上で任意の組み合わせで並ぶことができる。互いに異なる組み合わ せがそれぞれ異なるたんぱく質をコードしている。たんぱく質はアミノ酸という別のタイプの分子から 作られていて、典型的なたんぱく質は数百個のアミノ酸が鎖のようにつながってできている。アミノ酸 は数多くの種類があるが、我々の知っている生命はそのうちの20種類(場合によっては21種類) しか使っていない。たんぱく質の化学的性質は、アミノ酸の詳細な並び方で決まる。塩基は四種類しか ないがアミノ酸は20種類もあるので、DNAは一個の塩基で一種類のアミノ酸を特定することはでき ない。そこで、連続した三個の塩基をひとまとまりで使う。四つの文字の三つ組(ACT、CGAな ど)は64通り考えられる(これをコドンという)。アミノ酸の20種類よりも多いので、ある程度重複 していて、多くのアミノ酸が二通り以上のコドンに対応している。また何種類かのコドンは、句読点 (たとえば「終止コドン」)に使われている。

 指示書を「読み出して」特定のたんぱく質を作るには、まず対応するコドンの列を、DNAから、そ れに似たmRNA (メッセンジャーRNA)という分子に転写する。次に、たんぱく質を組み立てるり リボソームという小さな機械が、 mRNAからコドンの列を読み出し、アミノ酸を一個一個化学的に連結させていってタンパク質を合成する。このシステムがうまく機能するには、一つ一つのコドンに正しく対応したアミノ酸を使わなければならない。それを実現しているのが、別の種類のRNA (トランスフ アー [転移] RNA、略してtRNA) である。この短いRNA鎖は20種類あり、そのそれぞれが特 定のコドンを認識してそこに結合するようにできている。そしてそのRNAには、コードしているコ ドンに合致するアミノ酸がぶら下がっていて、いままさに延びつつあるアミノ酸の鎖につなぎ合わされ るのを待ち構えている。 リボソームがその鎖を完成させたとき、できあがったたんぱく質は正しく機能 するようになる。このからくりが機能するには、20種類のアミノ酸のそれぞれが正しく対応する tRNAに結合しなければならない。このステップの面倒を見る特別なたんぱく質は、アミノアシルtRNA合成酵素という難しい名前で呼ばれている。名前はどうでもいい。重要なのは、このたんぱく 質の形状がRNAとそれに相当するアミノ酸の両方に対応していて、各種類のtRNAにそれぞれ正 しいアミノ酸を結合させるようにできていることだ。アミノ酸が20種類あるので、アミノアシル tRNA合成酵素も20種類なければならない。アミノアシルtRNA合成酵素が情報の鎖をつなぐ重 要な役割を担っていることに注目してほしい。生物の情報はある種類の分子(DNA、四種類の文字の 三つ組を使う)に保存されているが、その情報はそれとまったく違う種類の分子(たんぱく質、二〇種 類の文字を使う)を表している。 この二種類の分子は、互いに違う言語を話しているのだ! しかし一 連のアミノアシルtRNA合成酵素はバイリンガルで、コドンと二〇種類のアミノ酸の両方を認識でき る。そのため、既知のあらゆる生命が使っている普遍的な遺伝機構にとって、この翻訳者役の分子は絶 対に欠かせないものとなっている。それゆえ大昔から変わっていないはずだし、きわめて有効に機能し なければならない。あらゆる生命に頼られているのだ! 実験によると、アミノアシルtRNA合成酵 素はきわめて信頼性が高く、エラー(いわば誤訳)は3000回中わずか一回ほどだという。このから くりの巧妙さと、それが何十億年ものあいだいっさい変化しなかったことには、驚きを感じざるを得ない。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『機械の中の悪魔』(日本語書籍名『生物の中の悪魔』),第1章 生命とは何か,pp.25-26,SBクリエイティブ,2019,水谷淳)

生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く [ ポール・デイヴィス ]




一枚の雪片が形成されるときでさえ、廃棄すべき熱が発生し、 宇宙のエントロピーを増やしていく。生物の進化において、新しくより複雑な有機体が登場するのは、物理的、 生物学的に、破壊をもたらす作用が起こったあとである。(ポール・デイヴィス(1946-))

系統だった複雑さと、エントロピー

一枚の雪片が形成されるときでさえ、廃棄すべき熱が発生し、 宇宙のエントロピーを増やしていく。生物の進化において、新しくより複雑な有機体が登場するのは、物理的、 生物学的に、破壊をもたらす作用が起こったあとである。(ポール・デイヴィス(1946-))


「私は著書『宇宙の青写真』の中で、宇宙では熱力学の第二法則と並んで、「複雑さを 増す法則」のようなものが働いているのではないかと提言している。これら二つの法則 は完全に両立する。つまり、物理系の系統的な複雑さが増せば、エントロピーも増大す る。たとえば、生物の進化において、新しくより複雑な有機体が登場するのは、物理的、 生物学的に、破壊をもたらす作用が起こったあとである (適応できなかった突然変異体 が早死にするように)。 一枚の雪片が形成されるときでさえ、廃棄すべき熱が発生し、 宇宙のエントロピーを増やしていく。だが、すでに説明したように、系統はエントロピ と対になるものではないから、相殺取引は直接行なわれるわけではない。

 多くの研究者が同様の結論に達しており、複雑さの「第二法則」を確立する試みがな されていることは、私にとって非常に心強い。 熱力学の第二法則と両立しうるとはいえ、 この複雑さの法則による宇宙の変化はまったく異なる様相を呈しており、宇宙は特徴の ない始まりから、より精緻で複雑な状態へ 「進んでいる」(これまで簡単に述べた研究を踏まえれば、これがある意味で厳密な言い方だ)と考える。 宇宙の終わりという文脈で考えると、複雑さを増していく法則の存在は大きな意味を もつ。 系統だった複雑さがエントロビーに対立するものでないなら、宇宙に蓄えられて 複雑さが進む のを推進している有限のエントロピーが、複雑さのレベルに制限を課する必要はない。 このことで支払われるエントロビーの代償は、純粋に二次的なものであり、ただ秩序だてた り情報を処理したりする場合のように根本的なものではない。われわれの子孫は、減り つづける資源を浪費することなく、系統だった複雑さを増大させることができる。処理 する情報量には制限があるかもしれないが、精神的、身体的な活動の豊かさや質には何 の制限もない。

 本章では、宇宙の姿を垣間見てきた。宇宙は衰退していくけれども、完全に停止する わけではない。SFに出てくる奇妙な生命体が、つねに不利になるようしくまれた状況 に逆らい、熱力学の第二法則の容赦ない論理に自らの頭脳で挑戦しつつ、長きにわたり 細々と営みをつづけていく様子も説明した。 彼らのせっぱつまった、しかしかならずし も無駄ではない戦いに、心をかきたてられる読者もいれば、落ちこむ読者もいるだろう。 私自身の感情はその二つが混ざりあっている。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『最後の3分間』,8 普通車線の生命,pp.178-179,草思社,1995,出口修至)


宇宙最後の3分間/ポール・デイヴィス/出口修至【1000円以上送料無料】






生命の進化の方向に、何か傾向が存在するのは否定し難い。それは何なのか。情報(秩序)を処理して、系統だった複雑さが獲得される。処理する情報が多ければ多いほど、支払うべきエントロピーの代償は高くなる。 ある場所の秩序は、どこか別の場所の無秩序に拍車をかけている。(ポール・デイヴィス(1946-))

系統だった複雑さ

生命の進化の方向に、何か傾向が存在するのは否定し難い。それは何なのか。情報(秩序)を処理して、系統だった複雑さが獲得される。処理する情報が多ければ多いほど、支払うべきエントロピーの代償は高くなる。 ある場所の秩序は、どこか別の場所の無秩序に拍車をかけている。(ポール・デイヴィス(1946-))


(a)宇宙の推進力は、原始秩序の崩壊によるエントロピーの増大である。
(b)しかし、生命 が地球上に現われてから、何かが多少なりとも同じ方向に進んでいったのは、否定し難い事実だ。正確には何が「進歩」していったのだろうか。
(c)宇宙 の歴史は、系統だった複雑さの拡大の歴史だと言うこともできる。一見すると、これはパラドックスのようだ。
(d)系統だった複雑さは、 単なる秩序と情報ではない。これが理解の鍵である。バクテリアと結晶の違いである。
(e)情報(秩序)を処理して、系統だった複雑さが獲得される。処理する情報が多ければ多いほど、支払うべきエントロピーの代償は高くなる。 ある場所の秩序は、どこか別の場所の無秩序に拍車をかけている。

「地球上の生物は、原始的な粘液のような状態で始まった。今日の生物圏は豊かで 複雑な生態系であり、巧みなネットワークがつくられ、多様化が進んだ有機体が巧妙な 相互作用を行なっている。生物学者は、おそらく神聖な目的と受け取られるのを恐れて のことだろうが、進化に体系的な進展があった証拠を徹底的に否定する。しかし、生命 が地球上に現われてから、何かが多少なりとも同じ方向に進んでいったのは、科学者に も一般人にも明らかな事実である。問題は、その動きをより具体的に特徴づけることだ。 正確には何が進歩していったのだろうか?

 生き残りをめぐるいままでの議論は、情報 (あるいは秩序)とエントロピーの戦いに 焦点をしぼったものだった――エントロピーはつねに増加する。だがわれわれが考慮す べき情報とは、それ自体の量なのだろうか? 考えられるすべての思考を体系的に考え ていくのは、まるで電話帳を読むように味気ないものだ。経験の質、より一般的に言 うなら、収集され、活用される情報の質が大事なのである。

 われわれにわかっているかぎりでは、宇宙は特徴のない状態で始まった。しかし、時 間がたつにつれて、現在あるような多くの種類の物理系が現われた。したがって、宇宙 の歴史は、系統だった複雑さの拡大の歴史だと言うこともできる。一見すると、これはパラドックスのようだ。 熱力学の第二法則によると、宇宙は死につつあり、エントロピ が小さかった当初の状態から、エントロピーが最大になり、見通しがゼロになる最終 段階に移行しているという。 私は最初にそのことを記したはずだ。では、物事は良くな っているのか、それとも悪くなっているのか?

 実際にはこれはパラドックスではない。 系統だった複雑さはエントロピーではないか らだ。エントロピーまたは無秩序は、情報または秩序の否定である。 処理する情報が多 くなればすなわち秩序が多くなれば、支払うべきエントロピーの代償は高くな る。 ある場所の秩序は、 どこか別の場所の無秩序に拍車をかけている。つまり第二法則 とはそういうことで、エントロピーがつねに勝利するのである。だが、系統と複雑さは、 単なる秩序と情報ではない。われわれは、バクテリアと結晶がまったくちがうことを知 っている。どちらも秩序だっているが、その方法がちがうのだ。結晶格子は厳しく統制 のとれた均一性を示している明確な美しさをもっているが、退屈なものだ。これと は対照的に、精巧な配列を見せるバクテリアの組織は、非常に興味深い。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『最後の3分間』,8 普通車線の生命,pp.176-177,草思社,1995,出口修至)

宇宙最後の3分間/ポール・デイヴィス/出口修至【1000円以上送料無料】





2021年11月26日金曜日

自らの情報処理能力を高め、統合情報を蓄積し自己組織化するような、情報に関する状態依存的法則を持ったシステムの研究が、生命の本質に迫るだろう。そこでは、高次の情報処理モジュールの自律的な組織化が、重要な役割を果たす可能性がある。(ポール・デイヴィス(1946-))

高次の情報処理モジュールの自律的な組織化

自らの情報処理能力を高め、統合情報を蓄積し自己組織化するような、情報に関する状態依存的法則を持ったシステムの研究が、生命の本質に迫るだろう。そこでは、高次の情報処理モジュールの自律的な組織化が、重要な役割を果たす可能性がある。(ポール・デイヴィス(1946-))

 「情報に関する状態依存的法則の候補を適切に導くことができれば、このようなシステム は、自らの 情報処理能力を高めるような、あるいは統合情報を「過度に」 蓄積するような形で自己組織化するのだといえるかもしれない。原因的パワーに関して「マクロがミクロに勝つ」ような状況 が最近いくつか発見されたことで、高次の情報処理モジュールが自律的に組織化する際に は、全般的傾向として複雑な系の形成が優先されるのではないかという可能性が出てき ている。化学的複雑さでなく情報の組織構造という観点から見れば、非生命から生命への道筋はずっと短いのかも しれない。もしそうであれば、第二の生命誕生を探す試みは大きく勢いを増すだろう。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『機械の中の悪魔』(日本語書籍名『生物の中の悪魔』),エピローグ,pp.284-285,SBクリエイティブ,2019,水谷淳)

生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く [ ポール・デイヴィス ]






生命の本質を理解するためには、既知の物理法則と矛盾しない、状態依存性とトップダウンの因果関係を含む情報の理論の研究が必要である。また、どのような初期条件のもとで、そのような物理系が出現するのか、その後どのように展開するのかも。(ポール・デイヴィス(1946-))

 状態依存性とトップダウンの因果関係

生命の本質を理解するためには、既知の物理法則と矛盾しない、状態依存性とトップダウンの因果関係を含む情報の理論の研究が必要である。また、どのような初期条件のもとで、そのような物理系が出現するのか、その後どのように展開するのかも。(ポール・デイヴィス(1946-))


(a)状態依存性とトップダウンの因果関係を含む情報の理論が存在するかどうか。
(b)もし存在するとしたら、 これと既知の物理法則との折り合いはどのように付ければいいのか。
 (c)それらの新たな法則は、形式的 に決定論的なのか、それとも量子力学のように偶然の要素を含んでいるのか。
(d) そもそも量子力学が 関係しているのか。
(e)そもそも、生命の情報パターンはどのようにして出現したの か。この宇宙では、新しいものはすべて、法則と初期条件が組み合わさることで出現する。 最初に生物の情報が出現する上で必要だった条件も分かっていない。
(f)出現したのちに、複雑系で作用する 情報の法則などの組織化原理に対して、自然選択がどれほど強い役割を果たしたのかも分かっていな い。


「本書ではここまで、急発展する新たな科学分野について紹介してきた。執筆中もほぼ毎日のように、情報の物理と生命のストーリーにおけるその役割に直接影響をおよぼすような論文 や、新たな実験結果の発表があった。この分野は生まれたばかりで、数多くの疑問がいまだ解決していない。 新たな物理法則、つまり、状態依存性とトップダウンの因果関係を含む情報の理論がもし存在するとしたら、 これと既知の物理法則との折り合いはどのように付ければいいのか? それらの新たな法則は形式的 に決定論的なのか、それとも量子力学のように偶然の要素を含んでいるのか? そもそも量子力学が 関係しているのか? 実際に生命にとって欠かせない役割を果たしているのか? 計り知れないこれ の疑問に加えて、起源の問題もある。そもそも、生命の情報パターンはどのようにして出現したの か? この宇宙では、新しいものはすべて、法則と初期条件が組み合わさることで出現する。 最初に生物の情報が出現する上で必要だった条件も分かっていないし、出現したのちに、複雑系で作用する 情報の法則などの組織化原理に対して、自然選択がどれほど強い役割を果たしたのかも分かっていな い。これらの疑問をすべて解明しなければならない。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『機械の中の悪魔』(日本語書籍名『生物の中の悪魔』),エピローグ,pp.285-286,SBクリエイティブ,2019,水谷淳)

生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く [ ポール・デイヴィス ]






物性理論では、系の時間発展を支配する法則と、系の状態とがはっきりと区別されている。しかし生物学の場合、法則は系の状態に依存する。(状態の関数としての法則、自己言及性)典型例がゲノムである。ゲノムはプログラム(法則)であり、データ(系の状態)でもある。(ナイジェル・ゴールデンフェルド(1957-))

自己言及性

物性理論では、系の時間発展を支配する法則と、系の状態とがはっきりと区別されている。しかし生物学の場合、法則は系の状態に依存する。(状態の関数としての法則、自己言及性)典型例がゲノムである。ゲノムはプログラム(法則)であり、データ(系の状態)でもある。(ナイジェル・ゴールデンフェルド(1957-))







「状態の関数として変化する法則は、「システムの振る舞いがシステムの状態に依存する」という自己言及の概念を一般化したものと言える。 第三章で述べたとおり、チューリングやフォン・ノイマンの研究によれば、万能コンピューティングと複製の両方において自己言及の概念はその中核をなして いる。法則は不変でなければならないという厳しい条件を緩めて、 自己言及の概念を考慮に入れるに は、科学と数学のまったく新たな分野が必要で、それはいまだほぼ未開拓である。この方法論の有望 さを認識している一握りの理論家の一人である、イリノイ大学の物理学者ナイジェル・ゴールデンフ エルドは、次のように書いている。 「自己言及は進化の適切な理解に欠かせない部分であるはずだが、 表立って考慮されることはめったにない」。ゴールデンフェルドは、生物学と相対するものとして、 物理学における物性理論などの一般的なテーマを挙げている。 「物性理論では、系の時間発展を支配 する法則と、系そのものの状態とがはっきりと区別されていて、 ······支配する方程式はその方程式自 体の解に依存しない。しかし生物学の場合、状況は違う。 系の時間発展を支配する法則は抽象的なも のにコード化されていて、そのもっともあからさまな例がゲノムそのものである。系が時間発展する とともにゲノム自体が変化し、それによって支配する法則自体も変化する。コンピュータ科学の観点 から見れば、物理世界はプログラムとデータという二つの相異なる要素によってモデル化されると考 えることができる。しかし生物の世界では、プログラムがデータで、 データがプログラムである」」

(ポール・デイヴィス(1946-),『機械の中の悪魔』(日本語書籍名『生物の中の悪魔』),エピローグ,pp.281-282,SBクリエイティブ,2019,水谷淳)

生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く [ ポール・デイヴィス ]





地球上の広大で複雑な生命の情報ネットワークは、細菌から人間 社会まで、あらゆるレベルの個体や集団どうしの情報交換によって編み上げられている。社会性昆虫は、その興味深い中間段階の一例である。(ポール・デイヴィス(1946-))

生命のネットワーク

地球上の広大で複雑な生命の情報ネットワークは、細菌から人間 社会まで、あらゆるレベルの個体や集団どうしの情報交換によって編み上げられている。社会性昆虫は、その興味深い中間段階の一例である。(ポール・デイヴィス(1946-))

「社会性昆虫は、生命の組織構造に関して興味深い中間段階に位置しており、その情報処理のしくみ は特別な関心が持たれている。しかし地球上の広大で複雑な生命のネットワークは、細菌から人間 社会まで、あらゆるレベルの個体や集団どうしの情報交換によって編み上げられている。ウイルスで さえ、世界中をうようよする移動可能な情報の束とみなすことができる。このように生態系全体を情報の流れと保存のネットワークとしてとらえると、いくつか重要な疑問が浮かんでくる。たとえば、 遺伝子制御ネットワークから深海の熱水噴出口の生態系、さらには熱帯雨林へと、複雑さ階層を上 がるにつれて、情報の流れの特徴は何らかのスケーリング則に従うのだろうか? 地球上の生命全 体が、何らかの明確な情報の特色やモチーフによって特徴付けられるのは、ほぼ間違いないだろう。 そして、もし地球上の生命に特別な点が何一つないとしたら、ほかの天体の生命も同じスケーリング 則に従って同じ性質を示すと予想でき、太陽系外惑星で生命の決定的な証拠を探す取り組みにとってそれは大きな助けになるだろう。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『機械の中の悪魔』(日本語書籍名『生物の中の悪魔』),第3章 生命のロジック,p.136,SBクリエイティブ,2019,水谷淳)


生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く [ ポール・デイヴィス ]





器官、細胞、細胞小器官、染色体、分子と細かく見ても、情報は見えない。知覚できるのは、情報を具現化している物質的構造と、情報が流れるネットワークと化学回路である。(ポール・デイヴィス(1946-))

情報は見えない

器官、細胞、細胞小器官、染色体、分子と細かく見ても、情報は見えない。知覚できるのは、情報を具現化している物質的構造と、情報が流れるネットワークと化学回路である。(ポール・デイヴィス(1946-))

「哲学者と科学者のあいだでは、「原理的に」 すべての生物現象を原子の振る舞いに還元できる のかどうかをめぐって論争が続いているが、実際問題としてはもっと高いレベルでの 説明を探すほう がずっと理にかなっているという点では、意見が一致している。 電子工学では、標準部品(トラ ンジスターやコンデンサー、トランスや電線など)から完璧なデバイスを設計して組立てる上で、 それぞれの部品の中で起こっている原子レベルの正確なプロセスを気にする必要はな い。部品がどの ようにして動作するかを知る必要はなく、どんな動作をするかさえ分かっていればいい。 この現実的 な方法論がとくに威力を発揮するのは、その電子回路が、信号の変換や訂正や増幅、 あるいはコンピュータの部品のように、何らかの形で情報を処理する場合である。こうすることで、 ハードウェアやモジュール自体、さらには分子レベルにさかのぼることなしに、情報の流れとソフト ウェアに基づく完全な説明を与えることができる。 それと同じように、可能な場面であれば、細胞内や細胞間のプロセスを、高いレベルのユニットが持つ情報的性質に基づいて説明してみるべきだと、 ナースは訴えている。

 生物を見ると、その物質的な身体が目に入る。体内を探ると、器官や細胞、 細胞小器官や染色体、 さらには途方もない装置を使えば) 分子自体が見えてくる。しかし情報は見えない。脳の回路の中 を渦巻く情報のパターンも見えない。 細胞の中にある悪魔のような情報エンジンの大集団や、シグナル分子の組織立った一連の絶え間ないダンスも見えない。 DNAにぎっしり詰め込て保存され ている情報も見えない。 見えるのは物質であってビットではない。これでは生命のストーリーは半分 しか語れない。「情報の目」で世界を見ることができれば、生命を特徴づける、 荒れながらきら めく情報のパターンが、奇妙なものとして突然はっきり見えてくる。 将来、情報に特化したAIが、 顔でなく頭の中の情報構造に基づいて人物を識別するというのも想像できる。まるで疑似科学のよう だが、一人一人がそれぞれ独自の識別パターンを持っているかもしれない。 重要な点として、生体内 の情報のパターンはランダムではない。 解剖学的構造や生理機能と同じく、進化によって 最適な状態に仕立てられているのだ。

 もちろん人間が情報を直接知覚することはできない。知覚できるのは、情報を具現化している物質 的構造と、情報が流れるネットワーク、そしてすべての情報をつなぐ化学回路だけだ。しかし、だか らといって情報の重要性が損なわれるわけではない。 コンピュータがどのように動作しているかを、 内部の電子回路だけを見て理解しようとしているとイメージしてみてほしい。 顕微鏡でマイクロチップを観察し、配線図に詳細に当たり、電源について調べる。だがそれだけでは、たとえば Windowsが魔法のような機能を発揮するしくみは見当もつかない。コンピュータ画面上に何 が現れるかを完全に理解するには、ソフトウエアエンジニアから話を聞くしかない。回路を駆けめぐ る情報のビットを統制してその機能性を生み出す、コンピュータコードを書いている人物だ。それと 同じように、生命のことを完全に説明するには、ハードウェアとソフトウエアの両方、つまり分子の 組織構成と情報の組織構成の両方を理解する必要がある。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『機械の中の悪魔』(日本語書籍名『生物の中の悪魔』),第3章 生命のロジック,pp.112-114,SBクリエイティブ,2019,水谷淳)

生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く [ ポール・デイヴィス ]





1ビットの情報を消去すると、kln2 (k:ボルツマン定数)だけ、エントロピーが増える。従って、最低でもkTln2 (T:絶対温度)だけの熱が発生する。(ロルフ・ランダウアー(1927-1999))

ランダウアーの限界

1ビットの情報を消去すると、kln2 (k:ボルツマン定数)だけ、エントロピーが増える。従って、最低でもkTln2 (T:絶対温度)だけの熱が発生する。(ロルフ・ランダウアー(1927-1999))







「情報を消去すると熱が発生する。 割り算の筆算の例でもそれはよく分かる。 鉛筆書きを消しゴムで すと、大量の摩擦、つまり熱が発生し、ひいてはエントロピーが増える。洗練されたマイクロチップでも、1や0を消去するときには熱が発生する。もしも、いっさい熱を発生させずに情報を処理 しきるコンピュータを設計できたとしたら? そのようなコンピュータは運転コストがゼロで、究極 のノートパソコンとなるのだ! そのような偉業を達成したメーカーは、コンピュータ産業をあっと いう間に牛耳ってしまうだろう。当然IBMも関心を示した。しかし残念ながら、そんな夢にラン ダウアーは冷や水を浴びせる。 コンピュータでの情報処理に論理的に不可逆な操作が関わっていると 。(先ほどの割り算の筆算のように)、 次の計算のためにシステムをリセットする際にどうしても熱が発 生してしまうと論じたのだ。 ランダウアーは、1ビットの情報を消去するのに必要なエントロピーの 最小量を算出し、その値はいまではランダウアーの限界と呼ばれている。ちなみに、室温で1ビット の情報を消去すると3×10 (-21)乗ジュールの熱が発生し、これは、やかんの水を沸騰させるのに必要な熱 エネルギーのおよそ一〇〇兆分の一のそのまた一兆分のに相当する。 わずかな熱だが、ある重要な 原理を物語っている。ランダウアーは、 論理演算と熱の発生との関係性を明らかにすることで、物理と情報との深い結びつきを発見したことになる。しかしその結びつきは、シラードの悪魔ような抽象的なものではなく、今日のコンピュータ業界でも理解できるようなきわめて具体的な金に関係 したものだったのだ。」

(ポール・デイヴィス(1946-),『機械の中の悪魔』(日本語書籍名『生物の中の悪魔』),第2章 悪魔の登場,p.60,SBクリエイティブ,2019,水谷淳)

生物の中の悪魔 「情報」で生命の謎を解く [ ポール・デイヴィス ]





人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2