2020年5月26日火曜日

法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

実定法と自然法

【法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

 (4.4)在る法と在るべき法の区別
  それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
   仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (4.4.1)在る法
   ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
  (4.4.2)道徳的な原則
   法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。
 「ベンサムは、自然権の観念を二つの主要な仕方で攻撃したのである。第一に、彼は以下のように主張した。実定法により創造されない権利の観念は「冷たい熱」とか「輝く闇」のような用語矛盾である。つまり、権利とは、彼の主張によれば、すべて実定法の産物にすぎないし、また、人為法に先立ちそれから独立した権利が存在するという主張は、人びとが誤解して自然法を自然権の淵源だと語ってきたから、明らかに不条理だとして即座に摘発されるのを免れたにすぎない。しかし、これら(自然法と自然権)はともに、次のような事実に示されているように、実在しないものであった。すなわち、ある人が何らかの法的権利を有しているかどうか、その範囲はどのくらいか、ということに関して論争があるとすれば、これは確証可能な客観的事実に関する問題であって、関連する実定法の文言を引証することによって、あるいは、それがない場合には法廷に委ねることによって合理的に解決できる、という事実である。〔しかし〕このような合理的な解決や客観的な判決手続は、ある人が非実定法的な自然権たとえば言論や集会の自由への権利を持っているかどうかという問題を解決するのに、まったく役立たない。自然権の存否を立証するこれと同種の承認されたテストは存在しないし、それを知りうるための確定された法も存在しないのである。それゆえ、ベンサムは、「《法》の観念を問題にしなければ、《権利》という言葉で言われるものは反駁されるべきものとなる」と述べたのである。法に先行する権利も法に反する権利も存在しない。そのために、自然権の教義は話し手の感情、欲求、偏見を表出するかもしれないが、法が正当に行なったり要求したりすることに対する、合理的に識別し論議しうる客観的な制限として、それは功利主義のようには役立ちえないのである。人びとが彼ら自身の自然権について語るのは、思い通りにしたい理由を示さずにそうしたいときである、とベンサムは述べた。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利主義と自然権,pp.213-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))
(索引:実定法,自然法,自然権)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年5月25日月曜日

23.時間の2つの起源:(a)量子的な相互作用(測定)の結果が測定の順序に依存し(変数の非可換性),部分的に自然な順序づけを持つ.(b)私たちには識別できないマクロ状態に含まれるミクロ状態の数の増加という順序.(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

時間の2つの起源

【時間の2つの起源:(a)量子的な相互作用(測定)の結果が測定の順序に依存し(変数の非可換性),部分的に自然な順序づけを持つ.(b)私たちには識別できないマクロ状態に含まれるミクロ状態の数の増加という順序.(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

 「フランスの偉大な数学者アラン・コンヌは、時間の源において量子の相互作用が果たす深い役割を指摘した。

 ある相互作用によって粒子の位置が具体化すると、粒子の状態が変わる。また、速度が具体化する場合も、粒子の状態が変わる。しかも、速度が具体化してから位置が具体化したときの状態の変化は、その逆の順序で具体化したときの状態の変化とは異なる。つまり順序が問題で、電子の位置を測ってから速度を測ると、速度を測ってから位置を測ったときとは違う状態に変化するのだ。

 これを、量子変数の「非可換性」という。なぜなら位置と速度の順序は「交換できない」からで、順序を換えると、ただではすまなくなる。

この非可換性は、量子力学の特徴となる現象の一つであり、それによって二つの物理変数が確定する際の順序が決まり、その結果、時間の芽が生まれる。

物理的な変数の確定は孤立した行為ではなく相互作用であって、これらの相互作用の結果はその順序によって定まる。そしてその順序が、時間的な順序の原始形態なのである。

 おそらく相互作用の結果がその順序に左右されるという事実こそが、この世界における時間の順序の一つの根っこなのだろう。コンヌが提唱するこの魅力的な着想によると、基本的な量子遷移における時間の最初の萌芽は、これらの相互作用が(部分的に)自然に順序づけられているという事実のなかに潜んでいる。

 コンヌはこの着想を、優美な数学として提示した。物理的な変数の非可換性によって、暗黙のうちにある種の時間的な流れが定義されることを示したのだ。

この非可換性のゆえに、系に含まれる物理変数全体が「非可換フォン・ノイマン環」という数学的な構造を定義する。そしてコンヌは、これらの構造自体のなかに内在的に定義された流れが存在することを示した。

 驚いたことに、コンヌが定義した量子系に付随する流れとわたしが論じてきた熱時間には、きわめて密接な関係がある。

というのもコンヌが示したのは、ある量子系において異なるマクロ状態によって定まる熱流が、いくつかの内部対称性の自由度を別にして等価であり、まさしくコンヌ・フローを形成するという事実だったからだ。

もっと簡単な言葉でいうと、マクロな状態によって定められる時間と、量子の非可換性によって定められる時間は、同じ現象の別の側面なのだ。

 思うにこの熱的にして量子的な時間こそが、この現実の宇宙――根本的なレベルでは時間変数が存在しない宇宙――でわたしたちが「時間」と呼ぶ変数なのだ。

 量子の世界に固有の事物の不確定性は、ぼやけを生む。そしてボルツマンのぼやけゆえに、この世界は古典力学が指し示していそうなこととはまったく逆に、たとえ測定可能なものをすべて測定できたとしても、予測不能になる。

 時間の核には、この二つのぼやけの起源――物理系がおびただしい数の粒子からなっているという事実と、量子的な不確定性――がある。時間の存在は、ぼやけと深く結びついているのだ。

そしてそのようなぼやけが生じるのは、わたしたちがこの世界のミクロな詳細を知らないからだ。物理学における「時間」はけっきょくのところ、わたしたちがこの世界について無知であることの表われなのである。時とは無知なり。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第3部 時間の源へ,第9章 時とは無知なり,pp.137-139,NHK出版(2019),冨永星(訳))
(索引:)

時間は存在しない


カルロ・ロヴェッリ(1956-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
カルロ・ロヴェッリ(1956-)
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22.「Aから見て本当に存在するB、Bから見て本当に存在するCは、Aから見ても本当に存在する」という命題は、存在するものに関する素朴な直感にすぎず、正しいとは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))

4次元時空で本当に存在するものとは?

【「Aから見て本当に存在するB、Bから見て本当に存在するCは、Aから見ても本当に存在する」という命題は、存在するものに関する素朴な直感にすぎず、正しいとは限らない。(カルロ・ロヴェッリ(1956-))】

(a)「現在」と同時刻の時空領域
 出来事Aから見て同時刻の出来事Bについて(これをA->Bと表す)、Bから見てAは同時刻とは限らない。従って、 A->B でも、B->A とは限らない。時刻によって共通の「現在」を定めることはできない。
(b)因果的な影響が及び得ない時空領域
 (i)出来事Aから見て因果的な影響が及び得ない出来事Bについて(これをA~Bと表す)、Bから見てAは因果的な影響が及び得ない。従って、A~B ならば B~A も成り立つ。
 (ii)互いに因果的な影響が及び得ない出来事A、B(A~B)、Bと互いに因果的な影響が及び得ない出来事C(B~C)を考える。A~B かつ B~C から、必ずしも A~C が結論できない。従って、仮に、因果的な影響が及び得ない領域を「現在」と定めても、ある出来事の「現在」が、別の出来事の過去や未来の領域でもあり得る。
(c)「本当に存在する」ものは何か
 「現在」に影響を与え得た領域を過去、「現在」が影響を与え得る領域を未来とする。過去と未来は、「本当には存在しない」とする。世界に何かが「本当に存在する」のなら、残りは、互いに因果的な影響が及び得ない領域である。そこで、これが「本当に存在する」としてみる。
 互いに因果的な影響が及び得ない出来事A、B(A~B)、Bと互いに因果的な影響が及び得ない出来事C(B~C)を考える。「現在」Aにおいて、「本当に存在する」Bから見て「本当に存在する」Cは、Aにとっても「本当に存在する」。これは、どこが間違っているだろうか。
(d)「Aから見て本当に存在するB、Bから見て本当に存在するCは、Aから見ても本当に存在する」という命題は、存在するものに関する素朴な直感にすぎず、正しいとは限らない。実際、存在するということを、時空内において互いに因果的な影響を与え得ない関係と定義しており、この関係には推移律は成立しない。

 「ブロック宇宙を擁護する古典的な議論は、1967年にヒラリー・パトナムの有名な論文で示された。H.Putnam,'Time and Physical Geometry(時間と物理的幾何学)',Journal of Philosophy 64,pp.240-47,

パトナムが用いたのはアインシュタインの同時性の定義である。第3章の注7で見たように、もしも地球とプロキシマ・ケンタウリbが遠ざかっているとすると、地球における出来事Aは(地球の人にとっては)プロキシマ上の出来事Bと同時になるが、その出来事は(プロキシマの上にいる人にとって)地球上の出来事Cと同時になり、しかもこの出来事CはAの未来に存在する。

パトナムは「同時である」ということが「本物の今である」と仮定して、演繹により(Cのような)未来の出来事が本物の「今」であるという結論に達した。

この論の間違いは、アインシュタインの同時性の定義に存在論的な価値があると仮定したところにある。

アインシュタインの定義は、じつは便宜上の定義でしかない。近似によって相対論的でないものに還元されるであろう相対論的な概念を確認するためのものなのだ。

ところが、相対論的でない同時性が再帰的推移的な概念であるのに対して、アインシュタインの概念は再帰的推移的ではない。したがって、この二つが近似以外の場合にも存在論的に同じ意味を持つと考えるのはナンセンスなのだ。」

(カルロ・ロヴェッリ(1956-),『時間の順序』,日本語書籍名『時間は存在しない』,第2部 時間のない世界,第7章 語法がうまく合っていない,註4,pp.228-229,NHK出版(2019),冨永星(訳))

2020年5月24日日曜日

任意の時刻において,それより大きい部分系の状態とは量子力学的な相関を持たないという意味で自己充足的な最小の部分系における,特別な状態の選択が,あるものが意識化される本質であるように思われる.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識とは?

【任意の時刻において,それより大きい部分系の状態とは量子力学的な相関を持たないという意味で自己充足的な最小の部分系における,特別な状態の選択が,あるものが意識化される本質であるように思われる.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))】

 「この時点で、私がここで擁護しようとしている立場を簡単に要約しておくと役にたつだろう。非相対論的に考えると、宇宙はシュレーディンガー方程式にしたがってなめらかに決定論的に発展していく継目のない全体であると考えられる。この発展系は、無数のさまざまな仕方で部分系に分けることができる。部分系のあいだに相関があるかぎり、どんな部分系も、ある時刻になんらかの決定的な量子状態にあると考えることはできない。しかしながら、もし、特定の部分系を選んで、その系のある可能な状態を選ぶならば――くり返すが、「本当に」その状態にあるわけではない、というのは、相関があるとそのような状態は存在しないからである――そのときには、ほかの部分系に決まった量子状態、もとの部分系の選ばれた状態に呼応した状態を割り当てることができる。意識をもった主体にとって、意識的である任意の時刻において、それはいつも決まって、特別の部分系の特別の状態が選ばれた《かのように》みえる。つまり、主体の脳の内部にあるどんな物理系の状態も、じかに主体の意識の流れをささえているのである。私は、この状態を意識によって《指示された》状態と呼ぶ。関与している脳系のどんな状態も指示されるのにふさわしいというのではなく、ただ、関与している脳系のオブザーバブルのうちの特別な集合の共有された固有状態だけが選ばれるに値するのである。任意の時刻において、意識をもった主体は、宇宙ののこり全体をはじめとして他のどんな部分系をも、この指示された状態に呼応する決まった量子状態をもつものと考える資格をもっているのである。ひとがふつう、ある時刻の、なにものかの状態と考えるものは、本当はその人自身のある指示された状態に単に呼応した状態と考えるべきである。そして、これは、全体としての宇宙の状態についても通用するのである。
 私は、脳オブザーバブルのつくる優先集合の共有された固有状態だけが、指示されるに値すると言った。もう少しだけはっきりさせたい。全宇宙の状態が複数の状態の重ね合わせとしてあらわされていると仮定しよう。状態のおのおのは、部分系の状態のテンソル積であり、適切に分割された部分系のもと、その表現は適切に選ばれているとしよう。私は、《全》宇宙と言っている。しかし、実際は、関与している脳系を部分系としてふくんでいる宇宙の部分系のうち、その状態が宇宙の他の部分系(全部であれ一部であれ、すでにふくまれているものは別として)の状態と、量子力学的な意味で相関していないという意味で《自己充足的》であるような、最小のものを考えれば十分である。というのも、そうした条件を満たす部分系は――関与している脳系はそうではないだろうが――決定論的で意味のある客観的な量子状態をもっているはずだからである。(この最小の自己充足的な部分系は、残りと決して相互作用しない部分系が宇宙にないとすると(そんなことはありそうにないが)全宇宙と一致する。)
 さらに、私の意識をささえている脳部分系はその部分系のひとつで、選ばれた表現は、いま論じている脳オブザーバブルのつくる特別な集合によって定義されているとしよう。すると、任意の時刻で、オブザーバブルのつくる特別な集合の特別な共有されている固有状態が指示される必要条件は、宇宙の重ね合わせにあらわれるテンソル積のひとつにふくまれていることである。あるいは、もっと正確に言うと、ゼロでない係数をもった重ね合わせの要素のなかにあらわれていることである。これを、関与している脳系の状態が指示されるための必要条件と言おう。しかし、それは《十分条件》でもある。この条件を満たすすべての状態は、同時に指示することができ、したがって、すべておなじように私のものである並列現象的パースペクティブを生成している。それが、観測という文脈において、「精神」あるいは分離した観測者について語ることにあたえるべき文字どおりの意味である。」
(マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力学』)第13章 量子力学と意識的観測者、pp.326-328、産業図書(1992)、奥田栄(訳))
(索引:意識)

心身問題と量子力学


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意識は仮像,現象であり,実在は科学的方法によって捉えられるという考えは,外的対象については正しい. しかし,意識そのものを対象にした場合,意識に現われるものは実在そのもの,少なくとも実在の一面である.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))

意識とは何か

【意識は仮像,現象であり,実在は科学的方法によって捉えられるという考えは,外的対象については正しい. しかし,意識そのものを対象にした場合,意識に現われるものは実在そのもの,少なくとも実在の一面である.(マイケル・ロックウッド(1933-2018))】

 「要するに、私は、内省的な心理学が基本的な物理学に貢献するかもしれないということを遠まわしに言っているのである。もし心的状態が脳の状態であるならば、内省はすでに、脳物質には、物理学者の哲学のなかで現在容れられている以上のものが存在することを教えているように私には思えるのである。
 おなじくらい重要な、第二の点は、ラッセルのもともとの観点からは何か逸脱したものを述べているかも知れない。しかし、もしそうだとしても、それは、ラッセルの観点よりもっともらしくすると同時に、物理学内部におけるとともに哲学内部における現在の思考の線にそれをもっと密着させるものである。私は、意識にあきらかになるものに還元できないような《視角による》特性があることを認めなければならないと思う。なお、われわれは、意識をある脳状態の固有の性質をつたえるものと考えるべきなのである、と私は提案する。しかし、その知識は、ある観点に逃れようもなくむすびついているものである。われわれがここで抵抗しなければならないのは、ある観点から何かを知るということは、ともかく、それによってとらえられるものの客観性と相反するというあやまった考えなのである。現象的性質を感知するときにわれわれの感知しているものは、《実在にそのように埋めこまれたものとして意識にのぼるような》脳状態の属性であるけれども、見かけと実在のあいだにギャップは存在しない、ということを私は示唆している。意識にあらわれるものは実在《である》、少なくとも、実在の一部あるいは一面なのである。」
(マイケル・ロックウッド(1933-2018)『心、脳、量子』(日本語名『心身問題と量子力学』)第11章 状態とオブザーバブル、p.257、産業図書(1992)、奥田栄(訳))
(索引:)

心身問題と量子力学

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2020年5月22日金曜日

他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

他人へ間接的に及ぼす影響

【他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(2.3.4)追記。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
    (b.1)自分の財産の浪費自体は、非難や処罰の対象ではない。
    (b.2)その結果、人に打撃を与えたこと自体は、非難や処罰の対象になり得る。これは、浪費が悪い目的のためか、良い目的のためかには拠らない。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
   (e)本人を社会が保護すべきではないのか?
    直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。
   (f)明らかに社会にとって不都合と思われること
    賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。
   (a)本人の行為と、その結果を分けて考えること
    直接には他の人々に影響がない行為は、本人の自由の領域である。しかし、間接的に他の人々に損害を与えるなら、その結果に対しては道徳や法の問題となる。これは、原則的には分けて考える必要がある。特に、他人に直接影響がないとされる行為が、良い行為だと見なされている場合も、結果の責任については、分けて考える必要がある。
   (b)間接的な影響とはいえ、損害を及ぼす明らかな危険がある場合
    他人や社会へ損害を与える危険が明らかにあった場合には、それを配慮しないことは、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になる。
   (c)自己の緊急の義務あるいは自由が許容される特別な事情
    他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がない限り、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。

 「以上のような主張に対して、わたしはこう答える。ある人の行動によって本人が深刻な打撃を受けたとき、同情心と利害とによって周囲の人たちも深刻な影響を受ける場合があるし、社会全体もある程度の影響を受ける場合があることは十分に認める。この種の行動の結果、その人が他人に対する明確で具体的な義務を怠った場合、その事例は個人のみに関係する問題ではなくなり、言葉の本来の意味での道徳の問題、つまり社会道徳の問題になり、道徳に基づく非難の対象になる。たとえば、酒におぼれるか浪費にふけったために借金を返せなくなるか、家族に対する責任があるのに、家族を養い教育することができなくなれば、その人は非難を受けて当然であり、さらに、処罰を受けて当然だという場合もあるだろう。だが、非難や処罰は家族や貸し手に対する義務を怠ったことに対するものであって、浪費に対するものではない。家族や貸し手への義務を果たすために使うべきだった資金を、とりわけ賢明な投資に流用したとしても、道徳に反する行動であることには変わりはない。ジョージ・リローの戯曲『ロンドンの商人』で、主人公のジョージ・バーンウェルは愛人のための金が欲しくて叔父を殺したが、事業をはじめる資金が欲しかったのだとしても、やはり絞首刑になったはずだ。悪習に夢中になって家族が苦しむというのはよくあることだが、この場合にも非難されるべきは家族を大切にせず、親の恩を忘れている点である。そして、夢中になっているのがとくに悪い習慣ではなくても、そのために生活している家族や、個人的につながりがあってその人に頼って生活している人が苦しむのであれば、やはり非難されるべきである。他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がないかぎり、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。だが、配慮を怠る原因となった点や、本人のみに関係する誤りで、配慮を怠る遠因になった可能性があるにすぎない点は、非難の対象にはならない。同様に、純粋に個人のみに関係する行動のために、社会に対して負っている具体的な義務を果たせなくなった場合、その人物は社会に対して罪をおかしたことになる。酔っぱらったというだけの理由では、誰も処罰されるべきではない。だが、兵士か警官が勤務中に酔っぱらったのであれば、処罰されるべきである。要するに、他人か社会に明らかな損害を与えたか、損害を与える危険が明らかにあった場合には、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.178-180,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:他人へ間接的に及ぼす影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2020年5月21日木曜日

社会の陰謀理論は,現象の科学的解明を阻害する. 陰謀理論はそれが喚起する恐怖を介し戦争の原因でもあった. また,人の意見が利害関心の表明だという理論は,真理のための合理的な討論を無力化してしまう.(カール・ポパー(1902-1994))

人々を真理から遠ざけてしまう典型的な理論

【社会の陰謀理論は,現象の科学的解明を阻害する. 陰謀理論はそれが喚起する恐怖を介し戦争の原因でもあった. また,人の意見が利害関心の表明だという理論は,真理のための合理的な討論を無力化してしまう.(カール・ポパー(1902-1994))】

人々を真理から遠ざけてしまう典型的な理論  (1)社会の陰謀理論
  戦争や貧困や失業は、悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、次の点で注意が必要である。
  (a)社会現象の科学的な解明を阻害する
   社会現象を説明するにあたって、われわれの行動の意図されなかった帰結を説明することが、理論的社会科学の課題である。ところが、陰謀理論はこのような解明の前に止まってしまい、科学的な解明を妨げてしまう。
  (b)陰謀家の陰謀を呼び込んでしまう効果
   過去、すべての陰謀家は、無批判に社会の陰謀理論を信じた。すなわち、社会が陰謀によって動かせるという理論は、現実の陰謀を勇気づけてしまうという効果がある。
  (c)例として、陰謀理論によって喚起された恐怖が戦争の原因
   例として、近代のたいていの戦争は、陰謀に対する恐怖から起きたイデオロギー的な戦争であったか、あるいは、だれも望んでいなかったにもかかわらず、ある特定の状況下でそのような恐怖の結果としてただ単純に勃発した戦争であったか、であった。
 (2)人の意見は利害関心に規定されるとする理論
  人の意見は常にその利害関心によって規定されるという先入見は、次の点で注意が必要である。
  (a)何が真理かという問いが、君の利害関心は何かに置き換わる
  「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。
  (b)寛大さが失われる
   しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受けとることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。
  (c)異なる意見から学ぶことがなくなる
  こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、ものごとの真理に対するわれわれの興味関心が萎縮してしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見をもつ人びとから学ぶことができなくなる。

 「戦争や貧困や失業は悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、常識の一部であるが、批判的ではない。わたくしは、常識の一部となっているこの批判的でない理論を、社会の陰謀理論〔社会は陰謀によって動かせるという理論〕と名づけた。(より一般的に、宇宙の陰謀理論も考えることができる。電光を投げつけるゼウスを考えてみよ。)この理論は、広く行きわたっている。それは、罪をあがなう子羊を探し求めて、迫害と恐ろしい苦悩を引き起こした。
 社会の陰謀理論の重大な特性は、それが現実の陰謀を勇気づけてしまうという点にある。しかしながら批判的に調べてみると、陰謀はほとんどその目的を達成していないことがわかる。陰謀理論を主張したレーニンは、陰謀家であった。ムッソリーニやヒトラーもそうであった。しかしムッソリーニやヒトラーの目的がイタリアやドイツで達成されなかったように、レーニンの目的もロシアでは達成されなかった。
 彼らすべてが陰謀家になったのは、無批判に社会の陰謀理論を信じたからである。
 社会の陰謀理論の欠点を明らかにすることは、哲学に対して、控えめではあるが、おそらく決して些細ではない貢献をおこなうことになる。そればかりでなく、その貢献は、人間の行動の意図されなかった帰結が社会に対してもつ大きな意味の発見につながるであろうし、社会現象を説明するにあたって、われわれの行動の意図されなかった帰結を説明することが理論的社会科学の課題であるとする見解を促進することになろう。
 戦争の問題を取り上げてみよう。バートランド・ラッセルほどの批判的な哲学者でさえ、戦争は心理的な動機――人間の攻撃性――によって説明されなければならないと信じていた。攻撃性が存在することは否定しないが、ラッセルが、近代のたいていの戦争は、攻撃性そのものによってよりもむしろ、《攻撃に対する恐れ》によって勃発したという点を見過ごしていたことには驚きを覚える。それは、陰謀に対する恐怖から起きたイデオロギー的な戦争であったか、あるいは、だれも望んでいなかったにもかかわらず、ある特定の状況下でそのような恐怖の結果としてただ単純に勃発した戦争であったか、なのである。」(中略)
 「哲学的な先入見のもうひとつの例は、人の意見は常にその利害関心(Interesse)によって規定されるという先入見である。この理論は(理性は情念の奴隷であり、またそうであるべきであるというヒュームの学説の退化した形態であると診断することができるだろうが)、原則として自分自身には適応されないのである(われわれの理性にかんして謙虚さと懐疑を教えたヒュームは、彼自身の理性を含めてこれを適用したのだが)。むしろそれは、ふつうはほかの人に、とくにわれわれと意見を異にする人たちに対してのみ適用される。しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受けとることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。
 しかし、こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、ものごとの真理に対するわれわれの興味関心(Interesse)が萎縮してしまう。「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見をもつ人びとから学ぶことができなくなる。われわれの共通の合理性にもとづく、国家を超えた人間理性の統一が壊れてしまうのである。
 これと似たような哲学的先入見に、現代では異常に影響力の強いテーゼがある。この有害な理論によれば、根本〔前提〕についての合理的かつ批判的な議論は不可能であるとされる。ここから、以前に論評された理論と同じように、望ましくないニヒリスティックな帰結が生じてこよう。この理論は、多くの人によって主張されている。それを批判することは、多くの職業的哲学者にとっての主要な領域のひとつとなっている、認識論という哲学の領域に属する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから――これやあれ、さまざまなものから摘みとられた,第13章 わたくしは哲学をどのように見ているか(フリッツ・ヴァイスマンと最初の月旅行者からとられた,pp.284-286,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:陰謀理論,戦争,貧困,失業,利害関心)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年5月19日火曜日

17.言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言葉の使用

【言葉の使用は,意味の揺らぎを観察しながら,それを固定することである.その言葉を合成している非常に多くの互いに類似しているゲームの中から,自分の目的のために,ある一定の規則を構成し,その言葉に適用する.(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「三六 ひとつの語が実際にどう使われているかを観察すると、ゆらぎが見られる。
 われわれはこのゆらいでいるものに対し、それを観察しながら、より固定したものを設定する。ちょうど、像としてそれ自身は絶えず変化している風景について、静止した写像を描くように。
 われわれは言語を、明確な規則にしたがったゲームという《観点から》考察する。われわれは言語をそのようなゲームとくらべ、それと照合する。
 自分なりの目的のために、ある語の使用を一定の規則のもとにおこうとすることは、ゆらぎのあるその語の使い方に対し、それの一つの特徴的な様相を規則にまとめて、一つの別の使い方を並べて立てることなのである。
 そこで例えば、(倫理的な意味における)「よい」という語の使い方は、非常に多くの、たがいに同類関係のあるゲームから合成されている、と言ってよかろう。

それらはそれぞれこの語の使用の、いわば切り子面のようなものである。そしてここで《一つの》概念をなりたたせているものは、まさにそれら切り子面のあいだの連関、それらの同類関係にほかならない。

 しかしその際、物理学において副次的な影響を無視することによって自然現象の記述が単純化されるような、そうしたことが行なわれているわけではない。論理学は理想化された現実を描出するとか、厳密にはただ理想的言語にとってのみ妥当する、などと言ってはいけない。

なぜといって、この理想なるものの概念をわれわれはどこから手に入れるというのか。せいぜいのところ、いわゆる日常言語との対比において「理想的言語を《構成する》」とは言ってよかろう。

しかし、理想的言語についてのみ妥当するような何かを、われわれは《言う》のではない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』三六、全集3、pp.96-97、山本信)
(索引:言葉の使用)

ウィトゲンシュタイン全集 3 哲学的文法 1


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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12.幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

関係への努力という根源的欲求

【幼児は,関係への努力という根源的欲求を持っている.それは万象を身体との関係事象,生きて働きかけてくる向かい合う汝として引き入れようとする衝動であり,ときに,自らの充溢によって触れ合う相手を夢想する。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

 「関係への努力という根源的欲求は、もっと幼い、もっともおぼろげな生成段階においてもすでにあらわれる。

まだ個別のものが知覚され得る以前に、幼児の視力に乏しいまなざしは、模糊たる空間のなかへ注がれ、ある定かならぬものに向けられる。そして乳を欲しがっていないようなときには、やわらかな両手を、見たところはあてもなく空中にさし出し、ある定かならぬものをさがし求め、つかみ取ろうとする。

これを動物的と言いたければ、そう言うがよい、しかし、それでは何も理解したことにならない。

なぜなら、まさに幼児のこのまなざしは、長い練習のあげくに、ひとたびじっと赤い絨毯のアラベスクのうえにとどまると、赤という色の魂がそのまなざしの前にすがたをひらくまでは、もうそこからそらされないだろうからだ。

また、幼児のこの手の動きは、毛のふさふさとした玩具の熊に触れることによって、自己の感覚形式を明確に獲得し、ひとつの完全な体をそなえたものをいとおしく、忘れがたく感知するようになるだろうからだ。

これらはいずれも対象物の経験というようなことではなくて、ひとつの――むろんただ《夢想》のうちにおいてだが――生きてはたらきかけてくる相手との触れあいなのである。

(ここで《夢想》というのはしかし、決して《万物霊有化》(Allbeseelung)ではなく、万象を自己の《汝》としようとする衝動、万象との関係をもとめる衝動であり、この衝動は、実際に生きてはたらきかけてくる相手が面前にはなく、ただその模写や象徴物しかない場合には、みずからの充溢によって、その生きたはたらきかけの欠如を補ってしまうのだ。)

いまはまだ、ちいさな、不明瞭な声が、意味をなさぬままに、根気よく無のなかへと響いている。だが、まさにその声がいつの日か、ふいに対話へと変わっていることであろう。いったい何との? 恐らくはぐらぐらと沸きたっている湯わかしとの。だが、やはりその声は対話となっているのだ。

反射行為といわれている数かずの運動は、実は人格という世界が構築されるときの、しっかりとした漆喰鏝なのである。

幼児は決して、最初にある対象を知覚し、それから自己をその対象と関係させたりするのではない。最初にあるのは、関係への努力だ、向かいあう存在がそのなかへ引きいれられる、あのふっくらとした手だ。

そして第二に起こるのが、向かいあう存在との関係、《汝を言うこと》(Dusagen)の言葉なき前形態なのだ。

《汝》が《もの》となることなどは、しかし、もっと後になってからの所産で、――《我》の成立にしてもそうであるように――根源的関係体験の分裂、つまり、結合しあっていた相手との分離から生ずるのである。

はじめには関係があるのだ。存在のカテゴリーとして、準備として、把握の形式として、魂の鋳型として。はじめには関係のアプリオリが、《生得の汝》(das eingeborene Du)があるのだ。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.37-39、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:関係への努力)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

マルティン・ブーバー(1878-1965)
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23.自分の諸衝動を悪,病気,歪めるもの,恥ずべきもの,恐怖すべきものと考えるのは誤りである.飛んで行きたいところへ躊躇なく飛び立つこと,そこは常に自由と陽光に包まれている.これが人間の高貴性の徴である.(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

人間の高貴性の徴

【自分の諸衝動を悪,病気,歪めるもの,恥ずべきもの,恐怖すべきものと考えるのは誤りである.飛んで行きたいところへ躊躇なく飛び立つこと,そこは常に自由と陽光に包まれている.これが人間の高貴性の徴である.(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】


 「《自然を誹謗する者に抗して》。
―――すべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、

―――人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ! 

自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は「悪いもの」だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!

 《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ。

高貴性というものの徴となるのは、つねに、自分に些かの恐怖をも抱かないこと、自分から恥ずべき何ものをも期待しないこと、われわれが―――生まれながらに自由の鳥であるわれわれが飛んでゆきたいところへはどこへなりと躊躇なく飛び立つこと、であろう! 

われわれがどこへむかって飛んでゆこうとも、われわれをつつむものはつねに自由と陽光である、ということであろう。」

(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第四書、二九四、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.309-310、[信太正三・1994])
(索引:衝動、自然的傾向、人間の高貴性の徴)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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君は単純に,自由に,より善きものを選び取り,これを固守せよ.善きものとは有利なもの? 人類にとって? 理性的存在としての自己にとって? 動物的存在としての? それを明確に表明して,思い上がることなく享受せよ.(マルクス・アウレーリウス(121-180))

君は単純に、自由に、より善きものを選び取れ

【君は単純に,自由に,より善きものを選び取り,これを固守せよ.善きものとは有利なもの? 人類にとって? 理性的存在としての自己にとって? 動物的存在としての? それを明確に表明して,思い上がることなく享受せよ.(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「もし君が人生においてつぎのものよりも善いことを見出すならば、―――すなわち正義、真理、節制、雄々しさ、要するに君の心が君にまっすぐな理性にかなったことをさせてくれるごとに自分自身にたいしておぼえる満足や、自ら選ぶことなしに割りあてられた事柄について運命に満足していることなど―――さよう、もし以上のことよりも何か善いものが発見できるならば、全心をもってそれに向かい、君の見つけた最善のものを享受するがよい。
 しかしもし君の内に座を占めているダイモーンよりも善いものはないように思われるならば、―――そのダイモーンは個人的な衝動をすべて自分の配下におき、もろもろの思念を検討し、ソークラテースのいったように、感覚的な誘惑をのがれて、神々の支配の下に身をおき、人類のためにつくすものであるが―――もし他のあらゆるものはダイモーンよりも小さく価値のないものに思われるならば、それ以外の何ものにも余地を与えるな。」(中略)
 「だから私はいうのだ、君は単純に、自由に、より善きものをえらび取り、これをしっかり守れ。『しかしより善いものとは有利なもののことだ。』もしそれが理性的存在としての自己に有利ならば、それを守るがよい。しかしもしそれが動物的存在としての自己に有利ならば、それをはっきりと表明して、思いあがることなく自分の判断を固守せよ。但しこの検討をあやまりなくおこなう注意が肝要である。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第三巻、六、pp.40-42、[神谷美恵子・2007])
(索引:理性、ダイモーン)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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2020年5月18日月曜日

幼児は自分の不快に対してのみならず,他者の不快に対しても苦悩の身振りを示す。苦痛で顔をしかめたり泣いたりする家族に,幼児はその苦悩を経験するだけでなく,怪我の場所に手を当てたり撫でたりする(生後14ヵ月)(スコット・M・ジェイムズ(19xx-))

他者の不快への反応

【幼児は自分の不快に対してのみならず,他者の不快に対しても苦悩の身振りを示す。苦痛で顔をしかめたり泣いたりする家族に,幼児はその苦悩を経験するだけでなく,怪我の場所に手を当てたり撫でたりする(生後14ヵ月)(スコット・M・ジェイムズ(19xx-))】

 「道徳心への道のりは、いわば苦悩(distress)から始まる。幼児は人生最初の数時間のうちにすでに一連の感情を経験するようだが、ある一つの感情がとくに際立っている。それは苦悩の感情である。幼児は自分自身の不快に対してのみならず、他者の不快に対しても苦悩の身振りを示す。幼児は、周りの人の苦悩を反映するよう傾向づけられているように思われる。泣くときには、世界(周りの新生児たち)と一緒に泣くのである。心理学者のナンシー・アイゼンバーグはこの感受性を「原初的な形態の感情移入」(Eisenberg and Mussen 1989:789)として解釈している。あなたや私が他者に感情移入するとき、我々は単に他者の苦悩の状態について信念を抱くようになるというだけでなく(これは共感とも呼ばれる)、その状態の「薄れたコピー」を実際に経験する。我々は他者の痛みを《感じる》のだ。幼児は、おそらく隣人の感情についての信念をもっていないにもかかわらず、他者が感じていることに《共鳴する》ようだ。この苦悩テストが道徳の出発点となる。なぜなら、他者の痛みを感じることはただちに我々を行動へと駆り立てるからだ。我々は苦痛を止めたいと願う。(これを道徳的感情と呼ぶのはおそらく時期尚早である、なぜなら苦痛を止めたいと願うのには利己的な理由がありうるからである。)
 魅力的な一連の研究の中で、心理学者キャロライン・ザーン=ワクスラーら(Zahn-Waxler et al.1991)はこの反応が驚くほど幼い時期から始まることを示した。ザーン=ワクスラーらが発見したのは、生後一四か月の子どもが、他人の苦悩に反応して苦悩を経験するだけでなく、苦悩している人を楽にしようと、誰かに促されることなく動くということだった。ザーン=ワクスラーは子どもの家族に苦痛で顔をしかめたり泣いたりするふりをさせた。それに反応して子どもは、何らかの本能によってであるかのように、家族に手を当てたり、けがの場所を撫でたりしたのである。子どもがすでに反応の仕方を《教えられていた》か、適切な仕方で反応する他者を観察していたという事実によって説明されるならば、このような発見はそれほど驚くことではないだろう。しかし実際のところ、生後一四か月の子どもが言語を習得していることはありえない。そして、子どもたちを主に世話をしている人々が苦悩している姿を一度も見せたことがないにもかかわらず、彼らは同情的な反応を示したのである。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第5章 美徳と悪徳の科学、pp.126-127、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:他者の不快への反応,苦悩)

進化倫理学入門


(出典:UNC Wilmington
スコット・M・ジェイムズの命題集(Propositions of great philosophers)  「道徳的生物を道徳的たらしめるものには、いくつかのことが関係していると考えられる。以下のものが道徳判断の形成についての概念的真理を表すと思われる。
(1)道徳的生物は禁止というものを理解する。
(2)道徳的禁止は我々の欲求に依存しないように思われ、
(3)法律のような人間の取り決めに依存するようにも思われない。むしろ、それらは主観的ではなく客観的なもののように思われる。
(4)道徳判断は動機と密接に結びついている。ある行為は間違っていると心から判断することは、少なくともその行為をするのを《差し控えたい》という欲求を含意しているようである。
(5)道徳判断は功罪の観念を含意する。道徳的に禁止されていると知っていることをすることは、処罰が正当化されうるということを含意する。
(6)我々のような道徳的生物は、自身の悪事に対して、ある特有の《感情的》反応を示し、そしてこの反応はしばしば我々を、その悪事の償いをするよう駆り立てる。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第3章 穴居人の良心、p.81、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:)

スコット・M・ジェイムズ(19xx-)
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当該犯罪者と類似する潜在的犯罪を抑止するという前方視的な処罰理論と、応報または公正な報いのための後方視的な処罰理論に対して、人々は双方に理解を示すが、特定の事例では後者の理論に突き動かされる傾向がある。(スコット・M・ジェイムズ(19xx-))

応報または公正な報いか、抑止か

【当該犯罪者と類似する潜在的犯罪を抑止するという前方視的な処罰理論と、応報または公正な報いのための後方視的な処罰理論に対して、人々は双方に理解を示すが、特定の事例では後者の理論に突き動かされる傾向がある。(スコット・M・ジェイムズ(19xx-))】
 「しかしながら、処罰に関するこれらの研究のすべては、《なぜ罰するのか》という、より深遠な質問には答えていない。我々が他人を罰するとき、何が我々を突き動かしているのか。悪事を働く人に償わせることを、我々はいかにして(たとえば、自分自身に対して)正当化するのか。これらの疑問は、我々の道徳感覚における処罰の役割をより真剣に考えるように我々を促し、また我々の道徳感覚はやはり適応であったという考えを支持する一つの独立した論拠を提供するかもしれない。処罰の心理学は研究の非常に新しい領域であるが、いくつかの知見は示唆的である。
 心理学者のケビン・カールスミス、ジョン・ダーレイ、ポール・ロビンソン(2002)は、次の実験によって、我々の「処罰に対する素朴な真理」の本質を掴もうとした。そのテストは処罰の決定にあたって、道徳規範の侵犯がもつどの特徴が、我々に最も影響を与えるかを見るものであった。もっと正確に言えば、このテストは処罰についての競合する哲学理論のうちのいずれを人々が一般に支持しているのかを明らかにするようにデザインされていた。一つの処罰の哲学は、《抑止》モデルであって、「前方視的(forward-looking)」である。すなわち、我々は今後生じるよい結果のために罰する。それは《この》犯罪者のみならず、潜在的な犯罪者が将来似たような違法行為をすることを抑止するものである。もう一つの処罰の哲学は《応報または公正な報い》モデルであって、「後方視的(backward-looking)」である。すなわち、不正が犯されたがゆえに、また悪事を働いた者は罰せられるに値するがゆえに、我々は罰する。罰は罪と釣り合っている。なぜなら、狙いは「不正を正す」ことだからである。興味深いことに、被験者がこれら二つの処罰のモデルを与えられたときに、被験者は概して「両方に肯定的な態度」を持ち、「他方を犠牲にして一方を好む傾向をそれほど示さなかった」(Carlsmith et al.2002:294)しかしながら、被験者が、特定の悪事の行為への応答として、実際に処罰(全然厳しくないものから非常に厳しいものまで、あるいは無罪から終身刑まで)を与える機会が与えられると、被験者は「主として公正な報いという動機から」行動した(2002:289)。つまり、被験者はほぼ排他的に公正な報いモデルによって特徴づけられる点(たとえば、罪の深刻さと情状酌量の欠如)に反応しており、抑止モデルによって特徴づけられる点(たとえば、〔犯罪の〕発覚の可能性と〔事件の〕知名度)を無視しているように見えた。結論は次のとおりである。人々は異なる処罰の正当化に対して一般的な支持を表明するかもしれないが、特定の事例を扱うときには、ほとんど常に「処罰に値する罪を犯したかどうかに限定した立場」によって突き動かされている(2002:295)。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第4章 公正な報い、pp.104-105、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:応報または公正な報い,処罰の抑止モデル,道徳規範)

進化倫理学入門


(出典:UNC Wilmington
スコット・M・ジェイムズの命題集(Propositions of great philosophers)  「道徳的生物を道徳的たらしめるものには、いくつかのことが関係していると考えられる。以下のものが道徳判断の形成についての概念的真理を表すと思われる。
(1)道徳的生物は禁止というものを理解する。
(2)道徳的禁止は我々の欲求に依存しないように思われ、
(3)法律のような人間の取り決めに依存するようにも思われない。むしろ、それらは主観的ではなく客観的なもののように思われる。
(4)道徳判断は動機と密接に結びついている。ある行為は間違っていると心から判断することは、少なくともその行為をするのを《差し控えたい》という欲求を含意しているようである。
(5)道徳判断は功罪の観念を含意する。道徳的に禁止されていると知っていることをすることは、処罰が正当化されうるということを含意する。
(6)我々のような道徳的生物は、自身の悪事に対して、ある特有の《感情的》反応を示し、そしてこの反応はしばしば我々を、その悪事の償いをするよう駆り立てる。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第3章 穴居人の良心、p.81、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:)

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