2022年1月5日水曜日

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(6.1.5)慣例主義による難解な事例への対応
 慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか。
 (a)裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。
 (b)裁判官は、自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない。
 (c)これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである。

「慣例主義の消極的主張はまた別の仕方においても、一般に支持された前記の理念に仕えるものと考えられる。しかし、これについては、慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか、という点に関し一連の主張を付加する必要がある。既に述べたよう に、慣例主義の見解によれば、マクローリン事件のような事例においては法は存在せず、従っ て裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。しかし、状況をこのように説明しても、更な る条件として次のように定める余地は充分に残されている。すなわち、裁判官は自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない、という 条件である。慣例主義が主張するように、裁判官がこのような状況において新しい法を創造す ることが明らかにされたからには、彼は、そのときに権限を有する立法府が選択するであろう と彼自身が信じるルールを選択すべきであり、これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである、と考えることは一応正当な ものと思われる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.197-198,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


慣例主義
(a)期待保護の理念
 過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使される機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が、公正な忠告を人々に与えているからである。
(b)法的な論証とは慣例による論証
 裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。
(c)先例と類似している事例
 慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならないということである。
(d)より公正、より賢明への消極主義
 当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によって、その決定の内容が確定したならば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合でさえ、当の決定を尊重しなければならない。


「慣例主義であれ純一性としての法であれ、あらゆる積極的な法観念の中核は、なぜ過去の 政治的決定が現在の権利を確定するのか、という問いに対する返答の中に存する。ある法観念 が法的権利と他の形態の権利との間に、そして法的論証と他の形態の論証との間に設ける区別 を見ることによって、我々は、政治的決定が国家の強制に対して提供すると当の観念が見なし ている正当化の性格と限界を理解することができる。慣例主義は、この問題に対して一つの明 らかに魅力ある回答を与えている。過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使さ れる機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が公正な忠告を人々に与えているからであり、それゆえ逆にこの ような場合にのみ、過去の政治的決定は強制を正当化することになる。これは、期待保護の理念である。慣例主義が解釈に引き続く段階で提示する二つの主張のうち、第一の主張が明らか にこの理念に仕えるものである。慣例により許可された集団がひとたび明瞭な決定を下し、更 に、当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によってその決定の内容が確定したなら ば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合で さえ、当の決定を尊重しなければならないと第一の主張は唱えるのである。  慣例主義の第二の消極的主張もまた期待保護の理念に仕えるか否かは、それほど明白ではな い。しかし、これを肯定するそれなりに正当な根拠を示すことができるだろう。消極的主張は 次のように唱える。すなわち、裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。というのも、過去の政治的決定は、慣例が指示する権利義務以外の権利義務を生み出しうる、という考え方をすれば、前記の理念は無効にされてし まうからである、と。例えば、マクローリン事件において訴訟当事者のどちらを勝たせるかに つき慣例が返答を指示していないことが明らかであると想定しよう。すなわち、慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならない、ということであるが、いま、事故の現場に居合わせなかった人の情緒的損害 に対し損害賠償が認められるべきか否かについていかなる過去の事例も判決を下していないと しよう。このとき、ある裁判官が「純一性としての法」のスタイルに従って、先例が損害賠償 への権利を確立していることを宣言し、このような仕方で先例を読むことが、振り返ってみて 当該先例を道徳的により適正なものにすることをその理由として挙げたとしよう。これは、広 汎に支持された上述の理念の見地からすると危険なことである。道徳的な原理のようなもの が、慣例を反映してはいない根拠によって、ただそれが道徳的にみて説得力があるという理由 だけで法の一部となりうることが一度受け容れられてしまうと、たとえある種の原理が慣例により是認されたことと矛盾する場合でも、当の原理はその道徳的な説得力のゆえに法の一部とされる、という一層脅威ある見解に門戸を開けてしまうことになるからである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.194-196,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義、プラグマティズム法学、純一性としての法

法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6)法の3つの観念
(6.1)慣例主義(conventionalism)
 過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が、予測可能性と、この拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きる。
(6.2)プラグマティズム法学(legal pragmatism)
 裁判官は過去との整合性それ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきである。
(6.3)純一性としての法(law as integrity)
 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していくことで、市民の間に一種の 平等が生み出されていく。そして、この平等は市民の共同体をより真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。


 「第一に、法と強制の間に想定された結合関係はそもそも正当化されうるだろうか。公権力 は過去の政治的決定「に由来する」権利や責任に合致したやり方でのみ行使されるべきだ、と 要求することに何か意味があるのだろうか。第二に、もしこのことに意味があるとすれば、そ れは何か。第三に、「に由来する」という言葉をどのように理解すれば――過去の決定との整合 性をどのように観念すれば――前記の「意味」に最も善く奉仕することになるのか。法観念がこ の第三の問いに対してどんな解答を与えるかによって、当の観念が承認する具体的な法的権利 や責任が確定する。  以下に続く数章で我々は相互に対立し合う三つの法観念を区別し、これら三つの観念を、前 記の一連の問題に対する解答として考察するだろう。これら三つの法観念は私が前記のモデル に従って慎重に構成したものであり、それぞれ我々の法実務についての三つの抽象的な解釈を 示している。ある意味でこれらの観念は新奇なものと言えるかもしれない。これらの観念は、 私が第1章で説明した法理学の様々な「学派」に正確に対応しているわけではない。むしろ、 最初に考察される二つの観念に関しては、そのいずれについても、私の説明と精確に一致する ようなかたちで当の観念を擁護するような法哲学者は一人もいないだろう。しかし各々の法観 念は、たとえこれらが意味論的な主張ではなく今や解釈的な主張として再構成されていても、 法哲学の文献に顕著にみられるテーマや理念を充分に捉えており、私が提示する三つの観念の 間の議論のほうが、法哲学の文献によくみられる陳腐な論争より一層啓発的である。私はこれ ら三つの観念を「慣例主義」(conventionalism)、「プラグマティズム法学」(legal pragmatism)、そして「純一性としての法」(law as integrity)と呼ぶことにした い。後で私は、これらの観念のうち最初のものは、当初は一般市民の法理解を表現しているよ うに見えても、最も説得力のない観念であること、そして、第二の観念のほうがより有力な観 念であり、この観念は我々の議論の舞台を政治哲学をも含めるような仕方で拡張することに よってのみ論駁されうること、そして更に、第三の観念が万事を考慮したうえで最善の解釈と 言えること、すなわち、法律家や法学教師や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを最善の 仕方で解釈しているのは第三の観念であることを論ずるだろう。  法に関する我々の「概念的」な記述が提起する第一の問いに対し、慣例主義は肯定的な解答 を与えている。慣例主義は、法と法的権利の理念を是認する。更に第二の問いに対する解答と して慣例主義は、法による強制の趣旨が――すなわち、過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が――予測可能性に尽きること、そしてまた、 予測可能性という拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きることを主張する。――もっとも、 我々が後に見るように、法とこれらの価値(予測可能性や手続上の公正)との間の正確な関係 については、慣例主義者の間でも見解の分かれるところであるが――。次に、第三の問いに対す る解答として慣例主義は、我々が要求すべき過去の決定との整合性がとる形態に関し、厳密に 限定された説明を与えている。すなわち、権利や責任が過去の決定に由来すると言えるのは、 これらが過去の決定の中に明瞭に含まれているか、法職にある人々の全体が慣例的に重要視して いる方法ないし技術によって明瞭なものとされうる場合に限られる。慣例主義によれば、政治 道徳は、過去に対してこれ以上の敬意を払うよう要求することはない。それゆえ、慣例の効力 が尽きた場合、裁判官は何らかの完全に前向きな判決の根拠を捜し出さなければならない。  法概念に関して私が示唆した観点からすると、プラグマティズム法学は懐疑的な法観念であ る。私が右で挙げた第一の問いに対して、それは否定的な解答を提示する。すなわち、裁 判官の判決は過去に下された他の政治的決定と合致したものでなければならず、訴訟当事者に はこの種の合致を要求する何らかの権利があると想定され、判決はこのような権利によって チェックされねばならない、といった要請を行うことによって共同体に何か真の利益が生まれ るという考え方をそれは否認する。プラグマティズム法学は、我々の法実務に関してこのよう な要請とは非常に異なった解釈を与えている。この立場によると、裁判官は過去との整合性―― これがいかなる形態の整合性であれ――をそれ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきなのである。従って厳密に言うとプラグマティストは、法概念に関する私 の説明で展開されているような法や法的権利の観念を拒絶していることになる。もっとも、 我々が後で見るように、人々があたかも何らかの法的権利を有している「かのように」裁判官 が時として行動すべきことを、戦略上の理由が要求するのであるが。  純一性としての法は、慣例主義と同様に、法および法的権利を心底から受け容れている。し かし、第二の問いに対してそれは慣例主義とは非常に異なった解答を与えている。純一性とし ての法が想定するところによれば、法の拘束は、単に予測可能性や手続上の公正をもたらした り、その他何らかの道具的な仕方で社会の利益になるのではなく、むしろ、市民の間に一種の 平等を生み出すことによって社会の利益になるのである。そして、この平等は市民の共同体を より真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。第三の問いに対して純一性の立場が与える解答も――すなわち、法が要求 する過去の政治的決定との整合性とはどのような性格の整合性か、という点に関する説明も―― 前記のことと呼応して、慣例主義が与える解答とは異なっている。その主張によれば、権利と 責任が過去の決定に由来し、したがって法的なものと見なされるのは、単にそれらが過去の決 定の中に存在する場合だけに限られない。当の明示的な決定を正当化する際に前提とされてい るような個人的及び政治的な道徳から権利や責任が導出される場合も、これらを過去の決定に 由来する法的権利ないし法的責任と見なすべきである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第3章 法理学再論,法概念と法観念, 未来社(1995),pp.160-163,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




2022年1月2日日曜日

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

完全なる法

内在的な法則に従って純粋化、深化していくかのように思われる法のモデルとして、完全なる法のモデルを提案する。それは、実定法に最良の正当化を与えるような、政治的倫理に関する一群の諸原理の体系である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(a)完全なる法
 このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体として実定法の最良の解釈を提供する。

(b)実定法の最良の解釈を与える諸原理
 一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  

完全なる法 → 解釈
(諸原理の体系)     ↓
実定法 → 実定法の最良の正当化


(c)解釈は解釈対象に適合していること
 解釈は、解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。
(d)最良の解釈であること
 競合する解釈のうち、より勝れた正当化を提 供する解釈であること。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。



「私の意図は、これから述べるような一般的性格をもつ裁判モデルの表現として上記の神秘 を把握すれば、神秘はそれほど神秘ではなくなり、リアリストの嘲笑的な攻撃にも耐えられる ものとなることを立証する点にある。このモデルは、実定法と「完全なる法(full law)」とを区別する。実定法とは書物に書 かれた法、すなわち制定法や過去の裁判所の判決において明確な形で宣言された法であるのに 対し、「完全なる法」とは政治的倫理に関する一群の諸原理を意味し、これらの諸原理は全体 として実定法の最良の解釈を提供する。またこのモデルは「解釈」という観念に関して特定の 理解を要求する。すなわち一群の原理は、実定法に示されている政治的決定に対しなされうる 正当化のうち最良の正当化をそれが提供するときに、当の実定法の最良の解釈を提供している ことになる。換言すれば、これらの原理は、可能なかぎり最良の光のもとで実定法を示すとき に、最良の解釈を提供するのである。  読者のうちのある人々は、解釈についてのこのような説明を奇妙なものと思うかもしれな い。というのもある人々によれば、解釈というものはその性質上、解釈されるテクストの歴史 上の著者が抱いていた「意図」を発見する過程と考えられるからである。それ故実定法とは、 様々な意図や目的により動かされた様々な時代の多くの公務担当者の残した産物であり、した がって、しばしば衝突しあうこれらの意図や目的を追体験することは、私がすぐ前に述べたよ うな企てとは全く異なるものである。しかし、解釈はまさにその性格上意図を再発見する過程 であるという想定は、解釈というものの性格が考察されうる異なる二つのレヴェルを混同して いる。」(中略)  「もし我々が解釈に関するこのようなより抽象的な説明を念頭に置き、解釈とは解釈対象か らその最良のものを引き出す試みであると考えるのであれば、その対象が何であれ、解釈は二 つの次元でテストされるべきことを我々は認めねばならない。第一に、解釈は解釈対象に適合 したものでなければならない。それ故、実定法の如何なる解釈も、過去において現実に下され た判決を総体として正当化しうるものでないかぎり、正しい解釈とは言えない。さもなければ その解釈は、《これらの》判決をその最良の光のもとで示していると主張することはできな い。」(中略)  「第二の要請は正当化の次元に属する。実定法の解釈は、それが当該の法の正当化を提供し ないかぎり適切な解釈とは言えない。そしてしばしば起こるように、二つの競合する解釈のい ずれもが適合性の第一の要請を十分に充足している場合、第二の要請はより勝れた正当化を提 供する解釈を優先させるが故に、二つの解釈の間に差別を設けることになる。もちろん法に関 して言えば、問題となる正当化は政治的倫理による正当化である。実定法を最良の光のもとに 示すことは、当の実定法を国家統治のための最良の方法として示すことを意味する。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,日本語版へのエピローグ,2,木鐸社 (2003),pp.329-330,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

目的と解釈

解釈は本質的に、ある目的の報告である。解釈というものは、解釈の対象を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「今や我々は、もっと重要な問題点に到達したのである。意図という観念の中には、芸術の 解釈と社会的実践の解釈を必然的に統合することになるような何ものかが存在するということ である。なぜならば、たとえ我々が創造的解釈とは歴史上現実に存在した何らかの意図を発見 しようと試みることであるというテーゼを拒絶したとしても、意図という概念があらゆる解釈 上の主張に当てはまる《形式的な》構造を提示していることに変わりはないからである。私が 言っているのは、解釈は本質的にある目的の報告である、ということである。すなわち、解釈 というものは解釈の対象――これが社会的実践や伝統であれ、文献とか絵画であれ――を眺める一 つの方法を提供することであるが、この場合、当の解釈の対象はある一組のテーマやヴィジョ ンや目的を――他ならぬある特定の「意味」や「趣旨」を――追求しようとする決断の産物である かのように眺められているのである。どのような解釈であろうと、このような構造をもつ必要 がある。解釈される対象が社会的実践である場合や、歴史上の作者が存在せず作者の歴史上の 精神を理解することがそもそも問題にならないような場合であっても、解釈にはこの形式が必 要なのである。我々の想像上の物語における礼儀の解釈は、たとえ意図が特定の人間に属する ことがありえず、人々一般にさえ属することがありえなくても、意図の理解という形式的な体 裁をとることになるだろう。このような構造上の要請は――これは、解釈というものを特定の作 者の意図と結びつける何らかの更なる要請とは別個の独立した要請と考えられる――、興味をそ そる一つの挑戦を我々につきつけることになるが、後で我々は主に第6章でこの問題と取り組 むつもりである。我々が文献や法制度を説明する方法に関して前記のような目的の形式的構造 を主張することには、ある歴史上の現実的な意図を回復するという目標とは別にどのような意味 があるのだろうか。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,芸術と意図の性 格,未来社(1995),pp.98-99,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会的慣行からルールによる解釈、原理による解釈へ

社会的慣行が、ある慣習的ルールを正当化するために援用されるだけでなく、ルールと共に別の行動様式を解釈するために用いられるとき、規範的ルールが存在している。やがて、何らかの利益や目的、原理によって行動様式が解釈されるようになると、制度に意味が付与され、これによって制度は理解され、拡張、修正、あるいは限定され、再構成されるようになる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


()社会的慣行からルールへの発展
 (1)社会的慣行
  農民は貴族に向かって帽子をとっている。
 (2)慣習的ルール
  農民は貴族に向かって帽子をとること。

慣習的ルール
 ↑ 正当化するために援用
社会的慣行
 皆んなが守っているからルールだ。

規範的ルール →解釈
         ↓
社会的慣行  →ルール通り
別の行動様式a→ルール違反
別の行動様式b→ルール通り

 (3)解釈的態度
  農民が貴族に向かって帽子をとることは、礼儀作法にかなっている。
  (a)利益、目的、原理 (意図)
   社会的慣行は、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるものである。
  (b)原理による社会的慣行の解釈
   原理が要求する行動やそれが正当化する判断は、当初の社会的慣行に限定されない。行動や判断は、原理によって付与された意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定され、限界づけられる。

原理(意図):礼儀作法 →解釈
農民が貴族に向かっ   ↓
て帽子をとること →礼儀正しい
帽子をとらない  →礼儀知らず
その他の行為a  →礼儀正しい
その他の行為b  →礼儀知らず



 (4)原理(意図、最善の光)によって制度に意味を付与し再構成を試みる
 ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に意味(meaning)を付与しようと、すなわち 制度をその最善の光のもとで捉えようと試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  

 (5)制度の変更
 (a)利益、目的、原理 (意図)と、(b)原理による社会的慣行の解釈は、相互に独立したものである。我々は、(a)の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができる。そして、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、制度の意味や趣旨へと訴えるのである。



「ある想像上の共同体で次のような歴史を思い描いてみよう。この共同体の成員たちは、一 定範囲の社会的状況において一組のルールに従っており、彼らはこのルールを「礼儀作法」と 呼んでいるとする。例えば、「農民が貴族に向かって帽子をとることを礼儀は要求している」 と彼らは述べ、この種の他の諸命題を主張し受け容れているとしよう。当分の間、この慣行は タブーとしての性格をもち続ける。ルールは、ただそこに存在するだけであり、疑問視される ことも修正されることもない。ところがこの後、おそらくはゆっくりとであろうが、これらの すべてが変化していく。各々の人間は礼儀作法に対して複雑な「解釈的」(interpretive) 態度をとりはじめる。そして、この態度は二つの要素を含んでいる。第一の要素は、礼儀の慣 行というものは単に存在するだけではなく価値を有し、何らかの利益や目的に仕え、あるいは 何らかの原理に実効性を与えるもの――要するに、何らかの趣旨とか意味をもつもの――であり、 これらの利益や目的ないし原理は、当の慣行を構成しているルールを単に記述することとは独 立に明示されうる、という想定である。次に、第二の要素である更なる想定によれば、礼儀作 法が要請すること――すなわち、それが要求する行動やそれが正当化する判断――は、必ずしも、 あるいはもっぱら、かくかくしかじかであると常に考えられてきたものに限られる必要さはな い。むしろそれは、慣行が存在する意味というものに敏感に反応するものであり、従って、厳 格なルールは慣行のこのような意味によって理解され、適用され、拡張、修正、あるいは限定 され、限界づけられねばならない。ひとたびこの解釈的な態度が人々の間で一般化すると、礼 儀の制度は機械的であることを停止する。最早それは古来より伝えられてきた秩序に対する無 反省的な盲従ではなくなる。今や人々は、この制度に《意味》(meaning)を付与しようと―― 制度をその最善の光のもとで捉えようと――試み、このような意味の光のもとで当の制度を再構 成しようと試みるようになるのである。  解釈的態度の二つの構成要素は、相互に独立したものである。我々は、この態度の第二の構 成要素は採用しないで、第一の要素だけを採用しながら、何らかの制度を解釈することができ る。例えば、ゲームとか競技を解釈するときに我々はこのようなやり方をとるだろう。つまり 我々は、これら実践的な活動のルールが現にどのようなものであるかについてではなく(非常 に限られた場合は別として)、これらがどのようにして変更されるべきかを議論する際に、当 の活動の意味や趣旨へと訴えるのである。というのもこの場合、ルールがどのようなものであ るかは歴史と慣例によって既に確定しているからである。それゆえ、ゲームや競技の場合に は、解釈は単に外的な役割を演ずるにすぎない。ところがこれに対して、礼儀作法に関する私 の説明にとっては、礼儀に従う市民たちが解釈的態度の第一の要素と同時に第二の要素をも採 用していることが、非常に重要なものとなる。彼らにとって解釈というものは、単に、礼儀作 法がなぜ存在するのかということだけでなく、適正に解釈したならばこの礼儀作法が現に何を 要求しているか、ということをも決定するのである。このとき、制度の価値と内容は分かち難 く絡み合うことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第2章 解釈的諸概念,想像上の事例, 未来社(1995),pp.82-84,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月31日金曜日

法には、内在的法則があるかのようであり、現存する法の同一性が深化し、純粋化していくように思われる。司法過程は、現存する法の深い真実の発見として理解することができる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法の内在的発展

法には、内在的法則があるかのようであり、現存する法の同一性が深化し、純粋化していくように思われる。司法過程は、現存する法の深い真実の発見として理解することができる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)法の内在的法則
 法 の変化は、法自らによって規律されているのであり、法にはある種の人格が宿り、法は自らの内 的なプログラムやデザインを生み出していく。
(b)純粋化の傾向
 規律された変化は、同時に法の改善でもあり、法は純粋になればなるほどより善 いものになる。
(c)現存する法の同一性の深化
 変化は実は変化で はなく、むしろ逆に、基底に横たわる同一性の発見であり、それ故新しいルールを告知する裁 判官は、本当は既に現存する法をより正確に記述しているにすぎない。  

(d)法の内在的発展を表現する言葉
「法はそれ自体で純粋に作用する」「実定法の内部に、しかもこれを超えたとこ ろに高次の法というものが実在し、実定法はこの高次の法へと向かって成長していく」「法に は、目的を自ら実現しようとする固有の意図が存在する」といった表現がそうである。  

(e)現存する法の深い同一性の発見としての司法過程
 訴訟の過程を通じて、裁判官が法を変更す ることは不正と思われるだろう。しかし、もしこの変更が実は法の自己実現であり、表面的に は変更とみえるものが深い同一性の発見にすぎないとすれば、このような非難は的はずれなも のとなる。



 

「感傷的な法律家は今でもある種の比喩的表現を好んで用いている。この表現は現在大半の 法理論家にとり時代遅れで愚かなものと思われているが、かつては非常によく用いられていた ものである。「法はそれ自体で純粋に作用する」「実定法の内部に、しかもこれを超えたとこ ろに高次の法というものが実在し、実定法はこの高次の法へと向かって成長していく」「法に は、目的を自ら実現しようとする固有の意図が存在する」といった表現がそうである。  これらの比喩的表現には三つの神秘が内在している。これらはすべて次の明白な事実を認め ている。つまり、ある意味において法は、明示的な立法行為や判決行為を通じて変化する、と いう事実である。たとえば、しばしば裁判官は従来まで人々が法と考えてきたものとは異なる ものを法として記述し、この新しい法がはじめて告知される当の事案を判断するために、彼ら の新しい法記述を用いることがある。第一の神秘は次のように述べる。つまり、このような法 の変化は法自らによって規律されているのであり、法にはある種の人格が宿り、法は自らの内 的なプログラムやデザインを生み出していく。第二の神秘は次のように付け加える。つまり、 このようにして規律された変化は同時に法の改善でもあり、法は純粋になればなるほどより善 いものになる。第三の神秘ははるかに神秘の度をます。つまり、このような変化は実は変化で はなく、むしろ逆に、基底に横たわる同一性の発見であり、それ故新しいルールを告知する裁 判官は、本当は既に現存する法をより正確に記述しているにすぎないことになる。  これら三つの神秘の各々には政治的主張が含まれている。しかし、中でも第三の神秘は、難 解な事案において裁判官が行なっていることを政治的に正当化する際に登場し、それ故この神 秘に含まれる実践的主張は特に明白なものと言える。訴訟の過程を通じて裁判官が法を変更す ることは不正と思われるだろう。しかし、もしこの変更が実は法の自己実現であり、表面的に は変更とみえるものが深い同一性の発見にすぎないとすれば、このような非難は的はずれなも のとなる。むしろ逆に、もし裁判官が表面に現われた変化を認めず、これを強制しないのであ れば、彼はこの非難が想定するような仕方で――合法性の理念に反する仕方で――不正に行動して いることになるだろう。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,日本語版へのエピローグ,1,木鐸社 (2003),pp.325-326,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法それ自体に従うということ

たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信があるからである。この理念と、批判的議論と論証を支える制度と基本的倫理の支えによって、法の発展と検証が追求されていく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(1)法それ自体に従うということ
 たとえ争いのある難しい問題においても、場合によっては法の権威に対抗せざるを得ないと考えるのは、自らが法それ自体に従っているという確信である。疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分に説明できない。

(2)法の発展と検証が目的である
 根本的な諸目的は、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証である。我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。

(3)制度を支える基本的倫理
 (a)何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて、社会の内部に 十分な一致がある。
 (b)したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったりしない。
 (c)自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもない。




「これらの慣行は、疑わしい争点に関して何が法であるかを判断することは無意味である、 あるいは、この判断は単に裁判所がなすであろうことの予測にすぎない、とする理論によって は十分表現されていない。このような理論を主張する人々も、現にこれらの慣行があるという 事実を否定することはできない。おそらくこれらの論者が言わんとすることは、そうした慣行 は脆弱な諸仮説に基づいているが故に、またその他何らかの理由により、合理的なものではな いということであろう。しかし、このことは彼らの異論を不可解なものにする。何となれば、 彼らは、自分達がこれらの慣行の根底にある諸目的をいかなるものと考えているのかを決して 明言していないからである。そして、これらの目標が明言されなければ、問題の慣行が合理的 なものかどうかを決定することはできないのである。私は、これらの根本的な諸目的とは、私 が前に記述したようなものであると理解している。すなわち、市民による実験及び対審過程を 通じての法の発展と検証がそれである。  我々の法制度は、市民が独力で、あるいは彼ら自身の弁護士を通じて法的な論証の強弱を決 定し、これらの判断に基づいて行動するよう彼らに勧めることによって、これらの目標を追求 している。もっとも、そうしたことが市民に許されるといっても、それは裁判所が同意しない 場合の危険負担を伴うものであるが。この戦略が成功するかどうかは、次の点にかかっている のである。すなわち、何が適切な論証で、何が不適切な論証とされるかについて社会の内部に 十分な一致があり、したがって、異なる人々が異なる判断に到達するにせよ、この相異のため に制度が役立たなくなったり、あるいは自己自身の見識によって行為する人々にとって危険な ものになったりするほど当の相違が甚大でも頻繁でもないかどうか、にかかっているのであ る。私は、論証の当否を判定する規準についてこうした陥穽を避けるのに十分な一致があると 信ずる。もっとも、法哲学の主要な任務の一つは、これらの規準を公然と提示し明確にするこ となのであるが。いずれにせよ、私が記述してきた慣行は未だ誤っていると証明されたことは ないのであり、それ故、他者が法と考えるものを破る人々に寛大であることが正当かつ公正で あるかどうかを決定するにあたっては、これらの慣行が考慮されなければならないのであ る。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.290-291,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



争点が基本的な個人的あるいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範囲内のこととして許される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法それ自体に従うこと

争点が基本的な個人的あるいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範囲内のこととして許される。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「かくして第三のモデルないしは何らかそれに近いものが我々の社会における人の社会的義 務の最も公正な陳述であるように思われる。市民は法それ自体に従うのであって、何が法であ るかに関するいかなる特定個人の見解にも従うわけではない。そこで彼が法の要求するものに 関する自己自身の熟慮された合理的な見解に基づいて進むかぎり、彼は不公正に行動するもの ではない。(きわめて重要なので)繰り返し言わせてもらえば、このことは、個人が裁判所の 述べたことを無視してよいと言うのと同じではない。先例の法理は我々の法制度のほとんど核 心部分を成しており、何人も判決によって法を変更する一般的な権限を裁判所に認めなけれ ば、法に従う合理的な努力を行うことはできないのである。しかし、争点が基本的な個人的あ るいは政治的諸権利に触れるものであって、かつ最高裁が誤りを犯したと論じうる場合には、 人が当該判決を終局的なものとして受け容れることを拒絶しても、それは彼の社会的権利の範 囲内のこととして許されるのである。  我々は、これらの所見を徴兵制に対する反抗の諸問題に直ちに適用することはできない。そ の前に検討されるべき大きな問題が一つ残されている。私は、法とは他の人々が法と考えるこ とや裁判所が法と判示したことではない、と信ずる者の立場について語ってきた。この記述 は、良心に基づいて徴兵法に服従しない人々の幾人かには適合するかもしれないが、彼らの大 部分には適合しないのである。反対意見者達の大部分は法律家や政治哲学者ではない。彼ら は、定立された法律が不道徳であり、自分達の国家の法理念に反すると信ずるが、また一方、 それらの法律が無効であるかどうかという問題は考慮したことがないのである。それでは、人 は法に関する自己自身の見解に従ってよいし、それが適切である、という命題は、彼らの立場 にとってどのような意味をもつであろうか。  この問いに答えるためには、私は以前に示唆した点に立ち戻らねばならないであろう。憲法 典は、デュー・プロセス条項、平等保護条項、第1修正及び私が言及したその他の諸条項を通 じて、ある法律が有効であるかどうかという争点にきわめて広範囲にわたる我々の政治道徳を 注ぎ込んでいるのである。それ故、徴兵制に反対の人々の大部分は法律が無効であることを意 識していないという陳述は、若干の注釈を必要とする。彼らは諸々の信念を保持しており、そ れらは、もし正しい信念であれば、法が彼らの側にあるという見方を強く支持するのである。 彼らが、当該法律は無効であるという一歩突っ込んだ結論に達しなかったとしても、それは、 少なくとも大抵の場合、彼らには法的な素養が欠けていたというだけのことである。もし我々 が、法律が疑わしい場合には人々は法に関する自己自身の判断に従ってよいし、それは適切な 行為である、と信ずるならば、この見解を前記の反対意見者達に押し及ぼさないことは誤って いるとみられるであろう。これらの人々の判断は結局他の反対意見者達のそれと異なるところ はないからである。私が第三のモデルのために行なった論証のいかなる部分によっても、彼ら をより有識な彼らの同胞市民から区別することは許されないであろう。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.287-288,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


2021年12月30日木曜日

(a)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従うべきか。(b)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従うべきか。(c)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従うべきか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法に従う義務

(a)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従うべきか。(b)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従うべきか。(c)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従うべきか。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



 (1)たとえ悪法でも、自己行為が違法かどうか不明でも、法に従う
 (a)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。
 (b)彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。
 (c)もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。  


 (2)自己行為が違法かどうか不明なら自分の判断に従うが、違法なら悪法でも従う
 (a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。
 (b)裁判所のごとき有権的な機関が、制度的決定を下せば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。

(3)自己行為が違法でも、悪法に対しては自分の判断に従う
 (a)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。
 (b)もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。


「私が問おうというのは、一市民として彼がとるべき適切な道は何か、換言すれば、我々が 「ルールを守ってきちんと行動し」ていると考えるのはどんなことかである。それは決定的な 問いである。何となれば、もし彼が自己の意見からみて、我々が彼はそうするべきだと考える ままに行動しているのだとすれば、彼を処罰しないことは不公正ではありえないからである。  大部分の市民がそれについて容易に一致するような明白な答えは存在しないし、そのこと自 体意味深長である。しかしながら、もし我々が自らの法的な諸制度及び慣行を探究すれば、我々は、若干の関連する根本的な原理及び政策を発見するであろう。私は上の問いに対して三 つのありうべき回答を提示し、次いでこれらのうちどれが我々の慣行及び期待に最も良く適合 するかを示すよう努めるつもりである。私が考慮したい三つの可能性は次の通りである。  (1)もし法律が疑わしく、それ故、その下で人が自己の欲することをなしうるかどうか明確 でないとすれば、彼は最悪の場合を想定し、法律が自己の行為を許容しないとの想定に立って 行為すべきである。彼は、たとえ執行部当局が誤っていると考えるとしても、その命令に従う べきである。そして、もしできるならば、法律を変えるために政治過程を利用すべきである。  (2)もし法律が疑わしいとすれば、彼は自己自身の判断に従ってよい。すなわち彼は、その 法律の下で自己の欲することをなしうるという根拠が、そうでないとする根拠よりも強力であ ると信ずるならば、自己の欲することをしてよいのである。しかし、彼が自己自身の判断に 従ってよいのは、裁判所のごとき有権的な機関が、彼または他の誰かに関わる事案において彼と違った決定を下さない限りにおいてのみである。ひとたび制度的決定が下されたならば、彼 は、たとえその決定が誤っていると考えるとしても、それに従わなければならない。(理論上 は、この第二の可能性については更に多くの場合分けができる。我々は、事案が控訴されない 場合には、司法制度内の最下級審を含む、いかなる裁判所の反対の決定によっても個人の選択 が封じられることになるということができよう。あるいは、我々は、何らか特別の裁判所ない し機関の決定を要求することができよう。私は、その最もリベラルな形態におけるこの第二の 可能性、すなわち個人は、当該争点に関して判断する権限をもった最上級審、徴兵制の事案で あれば合衆国最高裁の反対の決定があるまでは、適切に自己の判断に従いうる、ということに ついてのちに論じるつもりである。)  (3)もし法律が疑わしいとすれば、彼は最上級の権限ある裁判所による反対の決定の後で も、自己自身の判断に従ってよい。もちろん、彼は法が何を要求するかについての自己の判断に際しては、いかなる裁判所の反対の決定をも考慮に入れなければならない。さもなければ、 その判断は誠実な、あるいは合理的なものとはいえないであろう。何となれば、我々の法制度 の確固とした一部である先例の法理は、裁判所の判決が法を「変更する」ことを許容する効果 をもつからである。たとえば、一定の形態の所得に関しては納税義務はないと信ずる一納税者 がいるとしよう。もし最高裁が反対の決定をするとすれば、彼は、租税に関する問題につき最 高裁判決に大きなウエイトを与える慣行を考慮に入れ、最高裁の判決はそれ自体状況を決定づ けたのであり、法は今や彼に税の支払いを要求している、と結論すべきである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第7章 市民的不服従,木鐸社 (2003),pp.281-282,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

権利と人間の尊敬、政治的平等

基本的権利の主張が有意味な主張となるのは、人間の尊厳と政治的平等の目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)人間の尊厳
 人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反する。
(b)政治的平等
 政治社会の弱者も、その社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を、公権力から受ける資格がある。その結果、ある者が決定の自由を有している場合には、公益に対する影響がどうであれ、すべての者に同じ自由が認められねばならない。
(c)例として、表現の自由
 表現の自由が基本的権利であると主張される場合、これが有意味な主張となるのは、人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格などの人格的価値を保護する目的のために、当の権利が必要であると主張される場合である。すなわち権利の侵害は、人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。


「権利を深刻に受けとめるべきであると公言し、権利が尊重されていることを理由としてア メリカの統治機構を称賛する者は、その重要な目的が何であるかについてある種の感覚を有し ていなければならない。彼は、少なくとも二つの重要な理念のいずれか一方、または両者を受 け容れなければならない。第一の理念は、人間の尊厳という漠然としてはいるが力強い理念で あり、これはカントを連想させるが、異なった学派の哲学者達によって擁護されている。この 理念によれば、人間社会の完全な成員として認めることと矛盾するような人間の扱い方が存在 すると想定され、かかる扱い方は著しく正義に反するものとされる。  第二の理念は、政治的平等という人口に膾炙した理念である。これは政治社会の弱者も、そ の社会の強者が自らのために獲得したのと同じ配慮と尊重を公権力から受ける資格があること を前提とし、その結果ある者が、公益に対する影響がどうであれ、決定の自由を有している場 合には、すべての者に同じ自由が認められねばならないとされる。私は、これらの理念をここ で擁護したり、詳細に論じるつもりはないが、市民が権利を有していると主張する者は、これ らの理念にきわめて近い考え方を受け容れなければならない、という点だけを主張しておきた い。  人は表現の自由のように強い意味での基本的権利を公権力に対し有する、と主張される場 合、これが有意味な主張となるのは人間の尊厳、配慮や尊重を平等に受ける資格その他同様の 重みをもつ人格的価値を保護するために当の権利が必要である場合であり、そうでない場合に は権利を有するという主張は意味のないものとなる。  そこで、もし権利が意味あるものであるならば、比較的重要な権利の侵害はきわめて重大な ことになるにちがいない。それは人間を人間以下のもの、または他の人々よりも配慮に値しな いものとして扱うことを意味する。権利の制度は、このような扱いが重大な不正義であり、そ れを防止するためには社会政策ないし効率上更に増加コストが必要であるにしても、このよう なコストを支払う価値があるという確信に基づいている。しかしこの場合、権利を拡張するこ とが権利を侵害することと同じ程度に重大である、と考えることは誤りであろう。公権力が個 人に有利な形で誤りを犯す場合には、社会的効率のために本来支払うべきものより若干多くの ものを支払うだけのことである。すなわち公権力としては支出すべきことが既に決定されてい た当の金額に若干プラスしたものを支払うだけのことである。しかし、もし公権力が個人に不 利な形で誤りを犯す場合には、個人に対し侮辱を与えることになり、したがって公権力はそれ を回避するために自らの計算に基づいて多額の経費を費やす必要があるのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,3 議論の余地ある権 利,木鐸社(2003),pp.264-265,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月29日水曜日

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政府に対抗する権利

政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるような権利でなければならない。それに競合可能な権利は、他者個人の権利のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(a)政府に対抗する権利
 政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。
(b)競合可能な権利は他者個人の権利のみ
 社会の一般的利益は、政府に対抗する権利に対抗できない。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。



「政府に対抗する権利が認められていても、もし政府が自らの意思を実現しようとする民主 主義的多数派の権利を引き合いにだして、前者の権利を否定しうることになれば、この権利は 危険にさらされることになるだろう。政府に対抗する権利は、たとえ多数派がある行為を不正 と考え、それが為されると多数派の状態が悪化する場合でさえ、当の行為を個人が行いうるよ うな権利でなければならない。もしこの場合、社会は一般的利益を生みだすものであればいかなることをも行なう権利があり、また社会の多数派がそのような生活を望むのであれば、いか なる生活環境をも維持する権利があると我々が考え、しかもこの権利を正当事由にして、これと衝突する個々人の政府に対抗する権利を無視しうると考えるのであれば、これは我々が後者 の権利を撤廃したことを意味するのである。これらの権利を救うためには、我々は社会の他の成員が個人として有する権利のみを競合的 権利として認めねばならない。つまり社会の多数派自体の権利と多数派に属する各成員の個人 的権利を区別すべきであり、前者は個人の権利を否定する正当事由とはなりえない。この際、 使用されるべき規準は次のようになる。すなわち、ある行為に対する個人の権利と比較衡量さ れ、この行為からの保護を要求するような競合的権利を他者が有しうるのは、次のような場 合、つまり当の他者が個人として有する一定の権限に基づいて政府の保護を要求することがで き、しかも同胞市民の大多数がこの要求に参加するか否かに関係なく彼がこの保護を要求しう る場合である。  この規準によれば、国家に存在するあらゆる法の強制を要求する権利を誰もが有している、 と考えるのは正しくない。たとえば、ある種の刑法規定が未だ制定されていなかったとき、特 定の個人がこの規定の制定を要求する権利を有していたのであれば、彼にはこの種の刑法規定 の強制のみを要求する権利が認められることになる。人身攻撃を禁止する法規定などは、この タイプの規定に属するだろう。身体の弱い社会の成員――暴力行為に対して警察の保護を必 要とする人々――が単なる少数派であっても、彼らに当該保護を受ける権利を認めることは依然 として可能と思われる。しかしこれに対して、公共の場所で一定の静けさを要求する法規や国 外での戦争を是認し財政援助を与える法規は、個人の権利に基づくものとは考えられない。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第6章 権利の尊重,2 諸権利と法に違反 する権利,木鐸社(2003),pp.258-258,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月28日火曜日

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

各道徳・正義理論の違い

個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較すると、各道徳・正義理論の違いが明確になる。権利に基礎を置く理論は、個人の信念や選択それ自体の価値を認め、義務に基礎をおく理論とは異なり、規範は他者の権利を守るための単なる手段と考える。また特定の社会状態なり、福祉の総量なり、個人の卓越性なりの目標は、恣意的なものであり、諸価値の源泉はただ諸個人のみである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(3.5.3)目標に基礎をおく理論
(3.5.3.1)全体主義的理論
 (a)特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。
 (b)同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。

(3.5.3.2)功利主義的理論
 (a)政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考える。
(3.5.3.3)完成主義的(perfectionist)理論(アリストテレス)
 個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請におく。


(3.5.4)義務に基礎を置く理論
 (a)個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。
 (b)社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいは、もし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。
 (c)たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。

(3.5.5)権利に基礎 を置く理論
 (a)個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。
 (b)他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。








「これらのタイプの各々に属する諸理論は、ごく一般的な特定の性格を共有することにな る。これらのタイプ間の相違を明確にするには、たとえば各々のタイプが個人の選択や行為に 対して表明する態度を比較するとよい。目標に基礎を置く理論は、特定個人の福祉に関心を払 うが、これは個人の福祉が何らかの事態の形成に寄与するかぎりにおいて認められるにすぎ ず、この事態それ自体は、個人による当該事態の選択とは全く独立に善なるものと予め定めら れている。これはファシズムのようにある政治組織の利益を基本的なものとみなし、特定の目 標に基礎を置く全体主義的理論について明らかにあてはまるであろう。またこれは様々な形態 の功利主義についてもあてはまる。というのも功利主義は、政治的決定が個々人の福祉に対して及ぼす効果を考慮し、この意味で個人の福祉に関心を払うが、この効果を全体的な福祉の総 量ないし平均量へと融合し、これらの総量ないし平均量の増大を個々人の決定とは全く独立に それ自体で好ましいものと考えるからである。更にこれは、アリストテレスにみられるような完成主義的(perfectionist)理論、つまり個人に卓越性の理念を課し、政治の目標をこのような卓越性の要請に置く理論についてもあてはまる。  他方、権利や義務に基礎を置く理論は、個人を中心に据え、個人の決定や行為を根本的なも のと考える。しかし、これら二つのタイプの理論は、個人を異なった視点から捉えている。義務に基礎を置く理論は、個人が一定の行為規準に適合しないことをそれ自体で悪と考えるが故 に、個人の行為の倫理的性格に関心を向ける。たとえばカントは、嘘言から生ずる結果がどれ ほど有益であれ嘘言を悪と考え、しかもこれは嘘言を禁止する慣行が何らかの目標の実現を促 進するからではなく、端的に嘘言が悪しき行為だからである。これとは対照的に、権利に基礎 を置く理論は個人の行為が何らかの規範に合致することではなく、むしろその自立性に関心を 払い、個人の信念や選択それ自体の価値を前提として認め、これらを擁護しようとする。両者 のタイプの理論はともに、私的利益の考慮なしに個々人が個別的状況において従うべき道徳的 ルールや行為規範の観念を使用する点では同じである。しかし義務に基礎を置く理論は、社会 が個人に課する規範であれ個人が自らに課す規範であれ、この種の行為規準を本質的なものと みなし、この理論がその中核に据える人間は、このような規範に従うべき人間、あるいはもし この規範に従わなければ罰せられるか、堕落した存在として扱われなければならない人間であ る。他方、権利に基礎を置く理論は、他者の権利の擁護のために行為規範をおそらく必要とす るであろうが、この規範をそれ自体としては本質的価値をもたない単なる手段として扱い、そ れ故その中核に据えられた人間は、規範に従いつつ有徳な生活を営む人間ではなく、他人の規 範順守から利益を得る人間とされる。  それ故我々は、異なったタイプの理論はそれぞれ異なった形而上学的ないし政治的な気質と 結合しており、更にある種の国民経済においては、これらのタイプの理論のうちどれかが支配 的となる、と予想していいだろう。たとえば目標に基礎を置く理論は同質的な社会あるいは自 己防衛や経済成長のような緊急に必要とされる支配的目標により少なくも一時的に統合された 社会などに特に適合した理論と考えられる。」

 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,B 契約,木鐸社 (2003),pp.226-228,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))


権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳・正義の構成的モデル

特殊的判断を整合的な行為計画に統合する人間の創造物が、道徳・正義の理論であると考える構成的モデルは、道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象と考える。道徳と正義は、経験と理性による議論の対象であり、矛盾を排除した首尾一貫性が正義観念の本質に属する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (d)矛盾した直感を超える原理の探究
 矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。
 (e)経験と理性、議論を超えたもの
 倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (c)道徳と正義の理論は、経験と理性による議論の対象である
 正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。
 (d)道徳的直感も誤ることがあり、社会状況と歴史による理解対象
 このモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。すなわち、直感も常に正しいわけではなく、社会状況と歴史によって理解されるべき対象である。
 (e)正義の本質は首尾一貫性
 このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。
 (f)矛盾する見解の放棄
 このモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これは更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。
 (g)信念ではなく原理
 我々が、信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求する。

「公務担当者がこのような状況に置かれたとき、二つのモデルは彼に対し異なった指示を与 える。  まず自然的モデルは、矛盾した厄介な直感をそのまま認めながら、この厄介な直感を調和さ せるような一層洗練された一群の原理が、未だ発見されていなくとも現実に実在するという信 念の下に、表面的な矛盾をできるだけなくしていくような方法を支持する。このモデルによる と、上記の公務担当者の立場は、明確な観察データを得たものの、たとえば太陽系の起源を整 合的に説明するようなかたちでこれらのデータを未だ調和させることのできない天文学者に似 ている。この天文学者はデータを調和させるような説明が未だかつて発見されておらず、また 将来発見される見込みが全くなくとも、このような説明が必ず実在するという信念の下に観察 データを受け容れ利用し続けるのである。  自然的モデルがこのような方法を支持するのは、道徳的直感を観察データに類似のものとみ なすことを勧めるような一定の哲学的立場を当のモデル自体が前提としているからである。こ の前提に立てば、倫理的能力の行使によって得られた直接的観察が観察者の説明能力を超え出 たものであるとの想定も十分に意味をもちうるし、また正しい説明原理に到達できなくても、 これが道徳原理のかたちで必ず実在している、と想定することも意味をもつ。もし直感的な観 察が正しい観察であれば、倫理的世界に実在する事態が現に観察されたごとき事態である理由 を我々は必ず説明しうるはずであり、これは、物理的世界に実在する事態が現に観察されたご とき事態である理由を我々が説明しうるはずであるのと同様である。  しかし、これに対して構成的モデルは、調和原理が必ず実在するという信念の下に表面的な 矛盾を解決していこうとする態度を認めない。逆にこのモデルは次のことを要求する。すなわ ち、正義の名の下になされた諸決定は、これらの決定を正義理論のなかで説明する公務担当者 の能力を超え出たものではないこと、そして、たとえこの種の理論が彼の直感の幾つかと抵触 する場合でさえ、上記の決定が彼の説明能力を超え出たものと考えるべきでないことを要求す る。このモデルは、我々が信念ではなく原理にそって行動すべきことを要求するのである。す なわちこのモデルの動力因はある種の責任理論、すなわち人々に対し彼らの諸直感の統合を要 求し、必要とあればこの統合化のために、ある特定の直感を軽視することをも要求するような 理論である。このモデルの前提にあるのは、明確化された首尾一貫性の観念、つまり公けに提 示され、しかも変更されるまで遵守されうる一定のプログラムに従って決定を下すことが、あ らゆる正義観念の本質に属する、という考え方である。上記のような状況に置かれた公務担当 者がこのモデルを指針とする場合、彼は明白に矛盾する自己の見解を放棄せねばならず、これ は更なる反省により当初の信念をすべて原則的に有効なものと認めるようなより正しい原理を いつか発見できると彼が期待する場合も、同様である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.212-214,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

自然的モデルと構成的モデル

道徳的直感は、確実で明白な真理であるように思われるため、直感は真理を直接的に把握できるし、道徳・正義の理論は何らかの実在の記述であると考える自然的モデルがある。一方、構成的モデルでは、特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試みが道徳・正義の理論であり、人間の創造物であると考える。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(3.5) 憲法、制定法、あらゆる先例を整合的に正当化し得る原理の体系の類型
(a)確実と思われる道徳的直感
 我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。
(b)道徳的直感は真理か主観的な好みか
 いかに確実と思われても、真実かどうかは、わからないのではないか。二つの考え方がある。
 (i)直感は真理である
 様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接的知覚である。
 (ii)直感は主観的な好みである
 信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。

(3.5.1)道徳・正義の自然的モデル
 (a)理論は何らかの実在の記述である
 正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。
 (b)道徳的直感は真理をつかむ
 これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。
 (c)倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続である。

(3.5.2)道徳・正義の構成的モデル
 (a)理論は人間の創造物である
 構成的モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。
 (b)道徳理論は特殊的判断を整合的な行為計画に統合する試み
 人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、と考える。


「我々はすべて正義につき一定の信念を抱いているが、その理由は、これらの信念が端的に 正しいと思われるからであり、他の信念からこれらを演繹したり推論したからではない。たと えばこのような仕方で我々は奴隷制を不正と信じ、あるいは通常の訴訟形態を公正なものと考 えるのである。  ある哲学者によれば、これら様々な信念は、自立的かつ客観的なある種の倫理的事実の直接 的知覚とされ、他の哲学者の見解ではこの信念は通常の嗜好とそれほど異ならない単なる主観 的な好みの問題であり、ただそれらが我々にとって重要と思われることを示すために正義言語 の衣をまとうにすぎない。しかしいずれにせよ、正義につき自問し他者と議論するとき、我々 はロールズの均衡化の技術が示唆するのとほぼ同様の仕方で――我々が「直感」とか「確信」とか呼ぶ――これら我々になじみ深い信念を使用するのである。つまり我々は正義に関する一般理 論を我々自身の直感と照合することにより検討し、我々と意見を異にする相手方に対しては、 彼らの直感自体が彼ら自身の理論を紛糾させていることを示し、相手の立場を論駁しようと試 みるのである。  さて、道徳理論と道徳的直感の関連について一定の哲学的見解を提示することにより、上記 の過程を我々が正当化しようとする場合を想定しよう。均衡化の技術は、道徳の「整合」理論 とでも呼びうるものを前提としている。しかし整合性を定義し、整合性が要請される理由を説 明しうるモデルとしては二つの一般的なモデルが存在し、我々はこれら二つのどちらかを選択 しなければならない。そして、どちらを選択するかは我々の道徳哲学にとり結果的に重要な意 義をもつことになる。そこでまず、私は二つのモデルを述べ、その後で均衡化の技術が一方の モデルでは意味をもつが、他のモデルでは無意味であることを論証したいと思う。  第一のモデルを「自然的」モデルと呼ぶことにしよう。このモデルは、一定の哲学的立場を 前提としており、これは次のように要約しうる。すなわちロールズの二つの原理に示されてい るような正義理論は、客観的な道徳的実在の記述であり、これらは人間や社会により創造され るのではなく、物理法則と同様に発見されるべきものである。これを発見するための主たる手 段は、少なくともある人間が有している道徳的能力であり、たとえば奴隷制を不正と感ずる直 感のように、特定の状況で政治的倫理に関し具体的な直感を生みだす道徳的能力である。物理 学的な観察が基本的物理法則の存在や性格の手懸りとなるように、これらの直感はより抽象的 で基本的な道徳原理の性格や存在への手懸りとなる。倫理的推論や道徳哲学は、具体的判断を 正しい秩序で組み立てることにより基本的原理を再構成する手続なのであり、これはちょう ど、自然史家が発見された骨の諸断片から、動物全体の骨組を再構成するのと同様である。  第二のモデルはこれとは全く異なる。このモデルは、正義の直感を独立した諸原理の存在の 手懸りとみるのではなく、むしろ、たまたま同時に見つかった骨の集塊にぴったり合う動物を 彫刻家が彫刻しようとする場合のように、直感を構成されるべき一般理論の規約に基づく特徴 とみなすのである。この「構成的」モデルは自然的モデルとは異なり、正義の原理を固定した 何らかの客観的な実在とは考えず、したがって、これらの原理の記述は通常の意味で真ないし 偽でなければならない、とは考えない。このモデルは、骨に適合するように構成された動物 が、現実に存在するとは考えない。しかし、このモデルにはこれとは別の、ある意味ではより 複雑な前提が含まれている。すなわち人々が特殊的判断に基づいて行為する場合、彼らはこれ ら特殊的判断を一つの整合的な行為計画へと適合させるべき責任を有し、あるいは、少なくと も公務にあたって他者に対し権力を行使する者はこの種の責任を負う、という前提である。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第5章 正義と権利,2,A 均衡,木鐸社 (2003),pp.210-211,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2021年12月27日月曜日

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

国家に対抗する諸権利

国家に対抗する諸権利の主張の中枢は、個人には社会全体の利益を犠牲にしても、多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



「バーク及び彼の現代における追従者達が論じているように、おそらく社会というものは、 決して急進的な改革によってではなく、漸進的な変化によってのみそれに最適の諸制度をうみ 出すであろう。しかし国家に対抗する諸権利は、もしそれらが承認されるならば、そう具合よ く社会に適合しないかもしれない諸制度を甘んじて受け容れるよう社会に要求する主張なので ある。権利の主張の中枢は、私が用いている非神話化された権利分析に基づいてさえ、個人に は社会全体の利益を犠牲にしても多数派に対して保護を受ける資格があるということである。 もちろん多数派が快適であるためには少数派に若干の便宜を図ることが必要となろう。しか し、それは秩序維持に必要な範囲においてのみである。したがって、それは便宜といっても通 常は少数派の諸権利の承認には及ばないものである。  実際、権利が原理に対する訴えによってではなく歴史の一過程によって立証されうると示唆 することは、権利とは何かについて混乱に陥っているか、あるいはそのことについて何ら現実 的な関心を抱いていないかのいずれかであることを示すものである。権利の主張は道徳的論証 を前提とするのであり、他のいかなる方法によっても確証されえない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.191,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

多数派に対抗する諸権利に関する決定

いかなる争点も、少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正である。これは、事実だろうか。多数派に対抗する諸権利に関する決定は、公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「私は、立法府及び他の民主的機関が、よりよい決定をなしうる能力をもつかどうかは別に して、憲法的決定を行う何らか特別の資格を有する、という第二の論証から検討を始めよう。 いかなる争点も少数派より多数派に決定を委ねることが常により公正であるから、このような 資格の性質は明白である、と言う者がいるかもしれない。しかし、しばしば指摘されてきた通 り、そのように言うことは、多数派に対抗する諸権利に関する決定は公正上多数派に委ねられ るべき争点ではない、という事実を無視している。立憲主義――個人的諸権利を保護するために 多数派が制約されなければならないという理論――は、すぐれた政治理論かもしれないし、そう でないかもしれない。しかし、合衆国はその理論を採択したのであり、多数派にそれ自身の利 益に関する事項の判断を委ねることは、首尾一貫せず不当だと思われる。したがって公正の諸 原理は、民主制からの論証を擁護するのではなく、それに反対することになると思われる。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,4,木鐸社 (2003),p.185,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の懐疑主義的理論

司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.3.2.2)道徳的懐疑主義による司法的自制
 ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味である。
 例としてラーニド・ハンド裁判官の主張
 (i)道徳的諸権利に関する主張が、話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。
 (ii)もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、道徳的諸権利によって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。
 (iii)何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。 


(5.3.2.3)功利主義的懐疑による司法的自制
 我々がある行為を正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼすインパクトである。
(5.3.2.4)全体主義的懐疑による司法的自制
 この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。


「この種の国家に対する権利の可能性そのものに反論したいと思う懐疑主義者にとって、そ の論証は困難なものとなるであろう。私の考えでは、彼は次の三つの一般的立場の一つに依拠 しなければならない。  (a)彼は、ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味であると主張 する、より徹底した道徳的懐疑主義を表明することができよう。もしいかなる行為も道徳的に 誤りでないとすれば、ノース・キャロライナ州政府は、学童に白黒共学のためのバス通学をさ せることを拒んでも誤っているはずがないのである。  (b)彼は、ある断固たる形態の功利主義をとることもできよう。それは、我々がある行為を 正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼす インパクトであると考える。この理論の下では、たとえ強制バス通学が社会を全体として益す ることはないにせよ、それは道徳的に要求されうる、と言うことは首尾一貫しないことになる であろう。  (c)彼は、何らかの形態の全体主義理論を受け容れることもできよう。この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。  これら三つの根拠のいずれであれ、これを受け容れることのできる政治家はアメリカにはほ とんどいないであろう。」(中略)  「しかしながら、私は、何人もの実際上懐疑主義の根拠に基づいて司法的自制を支持する論 証を行わないであろう、と示唆したのではない。それどころか、最もよく知られた自制論者の 幾人かは、彼らの論証を全面的に懐疑主義的根拠の上に打ちたててきたのである。たとえば 1957年には、偉大な裁判官であるラーニド・ハンドがハーヴァード大学においてオリヴァ・ ウェンデル・ホウムズ講義を行なった。ハンドはサンタヤナに学び、ホウムズに師事した。そ して道徳における懐疑主義は彼の唯一の宗教であった。彼は司法的自制論を説き、最高裁が 「ブラウン」事件において公立学校の人種隔離を違法と宣言したのは不当であると述べた。彼 の語ったところによれば、道徳的諸権利に関する主張が話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、このような主張をなすことによって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。  民主制に対するこの単純な訴えは、もし懐疑主義的前提が受け容れられれば、成功を収め る。もちろん、もし人々が多数派に対していかなる権利も有しないとすれば、またもし政治的 決定が単に、誰の選好が優先すべきかという問題だとすれば、まさに民主制は、その決定を裁 判所より民主的な諸機関に委ねる――たとえこれらの諸機関が裁判官達自身の嫌悪する選択を行 う場合でもそうする――十分な理由を提供することになるでああろう。しかし、もし司法的自制 が懐疑主義ではなく敬譲に基づくのであれば、司法的自制を支持するためには、非常に異なっ た――はるかにより脆弱な――民主制からの論証が必要とされるのである。次に私はこの点を明ら かにしようと思う。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.181-182,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の理論

仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.2.1)司法的自制の政治的懐疑主義の理論
 (a)司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利を有することを前提としている。
 (b)何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。
 (c)ところが、個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  

(5.3.2.2)司法的自制の司法的敬譲理論
 (a)実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有する。
 (b)しかし道徳的諸権利の性格と強さには議論の余地が ある。
 (c)従って、裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う。


「もしニクスンが法理論をもつとすれば、それは決定的に何らかの司法的自制の理論に依拠 すると思われるかもしれない。しかしながら、ここで我々は、二つの形態の司法的自制の間の 区別に注意しなければならない。というのは、司法的自制の政策には二つの相異なる、そして 実際上両立しがたい根拠が存在するからである。  第一は、政治的「懐疑主義」の理論であって、それは次のように記述することができよう。 司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利――たとえば、公教育の平等性や警察による公正な取り扱いに対 する道徳的権利――を有することを前提としている。何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。懐疑主義的理論は、積極主義をその根元において攻撃する。それ は、実際上個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない、と論ずる。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  自制の綱領のいま一つの根拠は、司法的「敬譲」の理論である。懐疑主義的理論と違ってこ の理論は、実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有することを前提とする。しかしそれは、これらの権利の性格と強さには議論の余地が あることを指摘し、かつ裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う、と論ずる。  これは一つの重要な区別である。たとえ憲法の文献が何ら明確にそのような区別をしていな いとしても、そうである。懐疑主義的理論と敬譲の理論は、それらが前提する正当化の種類 において、また、それらを奉ずると公言する人々が抱くより一般的な道徳理論に対してそれら の理論が有する含蓄において、劇的に異なる。これらの理論は非常に異なっており、したがっ て大多数のアメリカの政治家達が一貫して受け容れることができるのは、第一の懐疑主義的理 論ではなく、第二の敬譲の理論である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.179-180,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法積極主義と司法的自制

議論の余地ある憲法上の争点を、裁判所はいかに決定すべきかに関して、2つの異なる主張がある。道徳的洞察によって必要な諸原理を修正または創造して問題を判断する(司法積極主義)主張と、広汎な憲法原則によって要求される諸原理に関して不整合があるような場合であっても、統治機構の決定の存続をする許容するべきだ(司法的自制)とする主張である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.1)司法積極主義 (judicial activism)の綱領
 裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ、 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。
(5.3.2)司法的自制(judicial restraint)の綱領
 たとえ他の統治部門の諸決定が、広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ。ただし、決定があまりにも 政治道徳に反しており、どのような解釈に基づいても憲法条項に違背するような場合は別である。

「更に、ひとたび問題がこの観点から語られるならば、我々は、「厳格解釈」の通念から生 じる混乱に陥ることなく、これらの競合する政策的主張を評価することができる。これらの目 的のために、私はいまや難解な、あるいは議論の余地ある憲法上の争点を裁判所はいかに決定 すべきかという問題に関する二つの非常に一般的な哲学を比較対照したいと思う。私はこれら 二つの哲学を、法学上の文献においてそれらに与えられている名前――「司法積極主義」 (judicial activism)と「司法的自制」(judicial restraint)の綱領――で呼ぶつも りである。もっとも、これらの名前が幾つかの点で誤解を招きやすいものであることは、やが て明らかになるであろうが。  司法積極主義の綱領は、私が言及した類いの競合する諸理由の存在にもかかわらず、裁判所 は、いわゆる漠然とした憲法条項の指示を、私が記述した精神において受け容れるべきだ、と 主張する。裁判所は、合法性、平等、その他の諸原理を作り出し、これらの諸原理を時に応じ 裁判所にとって斬新な道徳的洞察と思われるものに照らして修正し、それに従って連邦議会、 各州、及び大統領の諸行為を判断すべきである。(これは、司法積極主義の綱領をその最も強 い形態において表現するものである。実際にはこの綱領の支持者達は一般的に、若干の点にお いてその綱領を弱めているが、さしあたり私はこれらの点を無視しようと思う。)  これに反して司法的自制の綱領は、たとえ他の統治部門の諸決定が広汎な憲法原則によって 要求される諸原理に関する裁判官自身の感覚に反する場合であっても、裁判所はそれらの決定 がそのまま存続することを許容するべきだ、と主張する。ただし、これらの決定があまりにも 政治道徳に反しており、したがっていかなるもっともらしい解釈に基づいても当該条項に違背 するといわざるをえない場合、あるいは、ことによると反対の趣旨の判決が明瞭な先例によっ て要求されている場合は別である。(これもまた、司法的自制の綱領を純然たる形態において 表現したものである。この政策を信奉する者は、種々の点においてそれを緩和している。)」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.178-178,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
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