存在することの目的
【生きることの他には、もはや目的を必要としない人、即ち満足している人は、現に存在することの目的を満たしている。このように、時間の中にではなく永遠の中に生きるというように、人が生きることは可能であろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】「一九一六年七月六日
そして幸福な人は現に存在することの目的を満たしている、とドストエフスキーが語る限り、彼は正しいのである。
あるいは、生(きること)のほかにはもはや目的を必要としない人、即ち満足している人は、現に存在することの目的を満たしている、と語ってもよいであろう。
生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。
しかし生が問題的であるのをやめるような具合に、即ち時間の中にではなく永遠の中に《生きる》、という具合に、人が生きることは可能であろうか。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月六日、全集1、pp.255-256、奥雅博)
(索引:存在することの目的)
(出典:wikipedia)
「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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